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Hedgehog's Dilemma
傍に寄れない。そう知ったのは、一体何時からだろうか。
寄ろうとすればするほど傷ついて。
離れれば離れるほど、また何かが傷ついて。
そのジレンマが、今日も心を苛んでいく。
怖かった。
近づくことが。
離れることが。
そしてその度に嫌になる。丁度いい距離などというものに縋れない自分のことが。
どうしたらいい?
このどうしようもない気持ちは、一体どうすれば?
「……」
何故だろうか。目から溢れる熱いものが止まってくれない。
誰か、誰か…この傷つけてやまない身体をぎゅっと抱きしめて。
○2:22 AM
鳴り響くのは剣戟の歌声。
聞こえたのは耳障りな笑い声。
あぁ、彼女にとってははた迷惑な日常が、今日もまた繰り広げられている。
「ギャハハハッ!!」
静まり返った闇夜、その中で聞こえてくるのはもはや聞きなれてしまった笑い声。
「いい加減に…しなさいよ!」
女は苛立ち混じりに符を投げつける。炎を纏い舞うはずのそれは、しかしその前に笑い声の主に握りつぶされた。
「ギャハハッ、やぁだよぉ!」
笑い声の動きはただただ素早く、女の細い腕を掴む。自由を奪うその行為は、女に更なる怒りを呼んだ。
「あぁもう…あんたは何なのよ!」
退魔士という仕事上、女の動きには一切の無駄がない。的確に急所だけを狙う至近距離での膝蹴りは、しかしやはりあっさりと避けられてしまう。
一度距離をとって、笑い声がまた上がる。いつも思うが、彼女は一体何がそんなに楽しいのだろうか。それが理解できない。
「全く何時も何時も…なんであたしばっかり襲うわけ」
多分、聞くまでもないことだろう。しかし女は聞いてしまう。
「だぁってぇ…翔子さんのことぉ大好きぃだしぃ?」
当然のように返ってくるそんな言葉。思わず頭を抱えながら、また走ってきた女を迎え撃つ。
「だからぁ…俺が勝ったらぁデートぉ!」
しかし。その言葉で、勝負は一瞬で決していた。
動きの止まった彼女の身体を、何かワイヤーのようなものが巻きついていた。
経験上よく分かる。これが動いてはいけない類のものであるということは。
そして違和感に気付く。何時もとは違い、怪我をしないようにと手加減されていることに。
「とぉ言うわけでぇ、明日はぁデートぉ♪」
「…………」
上機嫌に笑うブラッディ・ドッグ。そして、それを不機嫌そうに睨み返す火宮翔子。
そんな二人の夜は、いつもどおりに明けていった。
○7:05 AM
既に夜は明け、太陽も空高く存在を誇示している。そんな中、例の二人は一つのホテルの前でごねていた。
「い、や、絶対嫌!」
「だってぇ、デートぉ…」
「こんなところに入ってデートも糞もないでしょうがー!」
往来には仕事へと向かう人々が屯している。そんな中で叫んでいるものだから、二人はこれでもかというほど注目されていた。女二人でホテルの前に、というのだから尚更である。
「連れ込んで何かされるくらいなら、舌を噛んで死んだ方がマシよ…!」
翔子の口から、その美貌からは程遠いドスの効いた声が響く。それは確実に周囲の空気を冷たくして、注目していた人々を散らしてしまうほどの迫力だ。
さすがにここまで嫌がられてはどうしようもない。何より彼女は本気でそれをやりかねないし、そうなっては何も意味がないのだ。
「ん〜ん〜…じゃあ遊園地ぃでいいやぁ…」
諦めたような、幾分かトーンの落ちた声。ブラッディに尻尾と耳があったなら、きっとぺたんとなっていたに違いない。
○10:00 AM
火宮翔子はただただ不満だった。
何時もどおりいきなり襲ってきたかと思えば、勝てばデートさせろとのたまい。
そして負けたらいきなりホテルに連れ込もうとしたり、それが駄目だと分かったら今度は遊園地だ。
何なんだ一体。それなりの付き合いになるが、いまだに彼女のことが全く分からない。
何よりなんで自分が遊園地にこなければならないのか。
不満だ。
甚だ不満だ。
「翔子さぁん、今度ぉはあれぇ!」
隣で馬鹿みたいにはしゃぐ彼女を見ていると、不思議と。
二人は小さな遊園地に来ていた。
どこぞにある巨大テーマパークのように豪奢な設備もなく、休日でないということを差し引いても客は明らかに少ない。いかにも寂れてた遊園地といったそこで、しかしブラッディは一人大はしゃぎだった。
ちょっと小くてボロいジェットコースターも、響く歓声だけで彼女にとっては楽しいものであったし、他に誰もいないコーヒーカップも二人きりになると思えば何ともなかった。
「翔子さぁん、翔子さぁん!」
「あーはいはい、今度は何?」
まるで子犬のようにはしゃぎ回るブラッディの指差す方を見てみれば、そこにはあのボロいジェットコースター。どうやらそこに客はいないようだった。
「あれぇ乗ろう♪」
「えっ、ちょっ…」
今更ジェットコースターに乗って喜べる年でもない。
そんな風に翔子が返事する暇もなく、その身体は問答無用で引っ張られていた。
他に客のいないジェットコースターは、まさに特等席のようなもの。
それもあってか、ブラッディのはしゃぎ様は尋常ではなくなっている。
もっとも、何時ものように物騒なはしゃぎ方ではないので、その辺りには安心できていいのだが。
(しかし、何がそんなに楽しいのかしら)
翔子には今一その辺りが理解できない。
見た目だけでいえば、二人はそれほど変わらない。それなのに、ブラッディはあのはしゃぎ様。
(ホント、よく分からないわ…)
小さくついた溜息が、ブラッディに届くことはない。
カタカタカタ…独特の音を上げながら、ジェットコースターは頂点へと近づいていく。程なくして、重力の誘うままにその巨体は滑り落ちていくだろう。
(へぇ…)
そんな中で、翔子は一つの発見をしていた。
(…たまにはいいかも)
そこから見える風景は、いつも眺めている地面とは全然違う。
地面全てを見下ろせるようなその風景は、短いながらもしっかりとその網膜に焼きつく。
何時もとは違う風景。何時もとは違う空気。それが、ここならば体験できるのだ。
(あぁ…なるほど)
ほんの少しではあるが、翔子はブラッディのはしゃぐ気持ちが分かったような気がした。
そう思ったのも束の間。強い風と身体に強くかかる重力がそれを忘れさせた。
「ギャハハハハッ!!」
隣からは、何時もと変わらない笑い声。しかしよほど気分がいいのか、その声はどこか高く楽しげで。
(…そんなに楽しいものかしら)
また素に戻った翔子は、そんなことを考える。
その仕事上高所が怖いなどということはないし、そんなことで一々悲鳴を上げてなどいられない。そういった感覚は大分前に麻痺してしまっている。
しかし、それとはまた別の感情があるのもまた事実だった。
「…ホント楽しそうよね」
ボソッと。小さく呟きが漏れる。あまりに楽しそうなブラッディを見ていて、思わず小さな笑みがこぼれる。
「翔子さぁん、翔子さぁん! はやぁいよぉ♪」
「あーはいはい、そうね」
何時までも不機嫌でいるのが馬鹿らしくなる。苦笑混じりに、そんなことを翔子は思うのだった。
○12:50 PM
「ふー…なんだか食べ過ぎちゃったわ」
色々とあってお腹がすいていたのだろう。明らかに普段より多い昼食を終えて、二人は腹ごなしもかねて遊園地の中を歩き回っていた。
最初は嫌がっていたはずが、今では腕を組むことも許している。きっと、この特有の空気とブラッディの無邪気な笑顔が彼女の何かを変えていったのだろう。
と、そんな時、
「……」
「? どうしたの?」
ブラッディが、ただ無言で翔子の腕を引っ張っていた。
明らかに怯え切ったその様子に、翔子は何事かと目を見開く。
そして程なくして、その理由にたどり着くのだった。
「…もしかして、これ?」
二人の前には、おどろおどろしい装飾の施された建物。安物のペンキで描かれた血が、らしいといえばらしいだろうか。
分かりやすすぎる、よくあるお化け屋敷。今時客も入らないんじゃないのかと思えるような、過去の遺物と化した雰囲気が漂っていた。
しかし、ブラッディから返事はない。彼女はただ俯いて、震えるように翔子の腕を掴んでいた。
明らかに演技には見えないその様子。それを見て、翔子の中にむくむくとある感情が首を擡げてきた。
(何時もの恨みを晴らすチャーンス…!)
彼女の中にハンマーが出てきたとかなんとか、などという話は置いておいて。
「じゃあ、入りましょうか♪」
今まで聞いた事のないような明るい声が翔子の口から飛び出した。それはそれは楽しそうに。
「!?」
ブラッディは無言でただ嫌々と首を横に振る。そんな様子が、どこかに隠れていたサドっ気に火をつける。
「遠慮しなくていいわ、きっと楽しいわよ♪」
「いーーーーーーーやーーーーーーーーーだーーーーーーーーーー!!」
悲鳴を引き摺りながら、二人の姿は薄暗い建物の中へと消えていった。
「あぁぅぅ…」
ビクビクとその身体が腕の中で震える。
「あぁ、この先に行けばいいのね」
翔子は実に上機嫌だった。何時も負けているブラッディに、この時ばかりは勝っている。実にいい気分でお化け屋敷を進んでいく。
「し、翔子sギャアァァァァァッ!?」
「ただの仕掛け、叫びすぎよ」
横から飛び出してきた火の玉に似せた光球に、この世の終わりかと言わんばかりの悲鳴が木霊する。
必死に笑いをこらえながらその手を引いてやれば、ブラッディは子犬のように素直に傍を歩き始める。
「うぅぅぅお化けえぇぇぇぇ!?」
次の瞬間には、すぐさま叫び声をあげていたが。
(これ、楽しいかも…♪)
少しいけない感覚に目覚めてしまったのかもしれない。翔子の顔からは笑みが絶えなかった。
しかし、ブラッディの怖がり様は一種異様とも言えた。さすがにそれがずっと続くと、翔子とておかしく思うのは仕方がない。
「…ねぇ、なんでそんなに怖いの?
あなた、もっと怖いものだって色々見てるでしょうに…」
そう、たとえば生の死体とか。もっとも、やりすぎで感覚が麻痺しているのかもしれないが、それならこれはまたおかしな話になる。
「うぅぅ…小さぁい頃にぃ…」
「小さい頃に?」
「…親とぉ一緒に入ったお化けぇ屋敷でぇ…はぐれちゃってぇ…それ以来苦手なぁの…」
「…あぁ、そうなんだ…」
なるほど、子供の頃に味わった恐怖というのは何よりも強く印象に残る。一種のトラウマのようなものなのだろう。
(うーん…さすがに今回ばかりは悪いことをしたかな…)
「だかぁらぁ…早くでいぎゃああああぁぁぁぁぁぁ!?」
「はいはい、早く出ましょう」
バツの悪そうな顔を浮かべながら、今度こそ泣き出しそうなブラッディの手を掴んで翔子は出口へ歩き始めた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
こんなにも傍にいるのに。
毎日毎日、ずっとずっと傍にいるはずなのに。
近づけない。離れられない。
傷ついていく。どうしようもなく。
近づけば近づくほど、その想いが胸を裂く。
離れれば離れるほど、その想いが胸を締め付ける。
嫌になる。こんな風にしかなれない自分が。
怖くなる。離れられたらどうなってしまうのか。
きっとこの心は、棘を纏う誰にも拾われないハリネズミ。
拾ってもらっても、きっと傷つけて離してしまう。
そして捨てられて、また誰かを求めるために棘を立てる。
ねぇ、誰か教えて。
こんな想い、どうすればいいの?
そんな簡単な問題ですら、この心には難しすぎる。
○17:25 PM
「へぇ…ボロい遊園地だと思っていたけど、これはいいわね…」
翔子の声はあくまで穏やかだった。
散々遊園地を遊びつくした二人は、最後の最後で中央に位置する観覧車へとやってきていた。
途中からなぜか口数の減ったブラッディに少しおかしなものを感じながらも、それでも観覧車というものにはどこか期待を抱いてしまうらしい。翔子は疑うことなくその中へと乗り込んでいった。
どれほど外見が古く見えても、観覧車から見る眺めには関係もなく。夕暮れに褪せていく町並みは、ただただ美しかった。
今日のどの時よりも穏やかな時間。そんな中で、翔子はふと気付く。
「たまにはいいものねぇ…随分リフレッシュできたわ」
背伸びを一つして笑う。
恐らく普段の仕事から、常に気を張っているのだろう。思えば、こんなにも想いっきり何かを楽しんだのは一体何時振りだろうか。
だから、
「あなたには一応感謝しとかないとね」
心の底からの笑顔で、でも照れくさいからか外を眺めながら、そんなことを言っていた。
しかし、言われたブラッディはただ俯いていた。あの笑い声も聞こえない。
返事がないことにどうかしたのだろうかと、そう思った瞬間。
「翔子さぁん…」
「ん?」
続きの言葉は、出なかった。
「なっ、何するのよ…!」
「翔子さぁん…!!」
いきなり、ブラッディが翔子へと飛び掛ったのだ。
狭い部屋の中、力の劣る翔子がブラッディに勝てる道理もない。組み伏せられ、シートに二人もたれかかる形で身動きを封じられる。
「…ッ…」
容赦ない力で、押さえつけられた腕が締め付けられていく。
苦痛で顔を歪ませながら、翔子はブラッディの顔を睨みつける。
「油断した…あたしが馬鹿だったわ…あんたはそういうやつだって忘れてた…!」
「…………」
しかし、何時もならそこで聞こえてくるはずの笑い声が、ない。
少しずれたサングラスの向こう。ブラッディの瞳が揺れていた。
それはどこか必死そうで。そして、泣き出しそうな。そんな、子供のような瞳。
「なぁんで…」
搾り出されるように出てきた言葉は、やはり何時もとは違うもの。
「何で俺の事好きになってくれないのぉ!!」
声が揺れていた。その心をそのまま表すかのように。
――好きだった。
きっと誰よりも、何よりも。
なのに、振り向いてくれない。
こんなにも傍にいるのに。必死になって傍にいるのに。その瞳は自分のことを見てくれない。
それならいっそ、壊してしまえば。
そうすれば、自分だけを見てくれるのではないか。
そうだ。だから。
この手で、彼女を汚してしまおう。
そうすれば、きっと彼女は自分のものになる。だから――
「っっ!」
押さえつけていた腕が不意に緩む。次の瞬間、その手は翔子のブラウスへとかかっていた。
――そうだ、だから――
「いやぁぁっ!!」
しかし、その手がブラウスを引き裂くことは終ぞなかった。
ブラッディは見てしまった。彼女の、拒絶の顔を。
その瞬間手が止まる。呼吸すら止まりそうなほどに、その顔しか見つめられなかった。
分かっていた。分かっていたはずだ。
そんなことをすれば、そうなってしまうことくらい。
なのに、また自分は…。
ふらふらと立ち上がり、ブラッディは椅子へと腰掛ける。
そのまま言葉はなく、無言のときが続いた。
「……」
翔子も何も言えず、立ち上がって服の乱れを直す。
その際に覗き見たブラッディの表情は、泣き出しそうな少女のそれだった。
観覧車が地面に近づき、二人はやはり言葉もなくそこから降り立った。
係員は何かあったことなど知る由もなく何時もどおりの笑みを向けたが、二人に表情が戻ることはなかった。
二人の足は自然と遊園地の出口へと向かっていた。もう遊んでいない場所はないし、何よりもこの時間を早く終わらせたかったのかもしれない。
そして、エントランス。
「あの」
「ごめん」
一応別れのことを…と思い振り向いた翔子の耳に残ったのはそんな言葉。そして、振り向いたそこに、もうブラッディの姿はなかった。
「……何なのよ、ホントに…」
思わず溜息が漏れた。そして思い出される、今日一日に浮かべていたブラッディの表情。
笑い、泣き、そして…。
そのどれが、本当の彼女なのだろうか。
「訳分かんないわよ…馬鹿…」
そして何よりも。彼女の気持ちが。
そんな呟きは、落ちてしまった太陽と一緒に消えていった。
走っていた。ただ只管、空気を求めて肺が悲鳴をあげてもただただずっと。
何故だろうか。目が熱い。今はもう、サングラスですら邪魔に思えて仕方がない。
それを投げ捨て、ブラッディはただ叫んだ。
自分の想いに。
自分の願いに。
何かが、何かがブラッディの中で確かに変わっていく。
その叫び声は、どこか物悲しい子犬のように闇へと消えていった。
近づきたい、近づけない。
分からないから、己の棘を立てて近づけない。
分かりたいのに、己の棘が立っていて近づけない
そんなハリネズミのジレンマ。
二人の距離は。まだ遠い。
<END>
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