 |
奇妙な浮気
１．
「主人の浮気相手を調査していただきたいんです」
それをされている妻にありがちな神経質な雰囲気を漂わせながら依頼人はそう言ったが、草間は内心でほっと息を吐いていた。
浮気調査といえば興信所では極普通の依頼だ。
依頼人は４０歳半ば辺りの、何処か高圧的な女性だった。
こういう妻を持った夫となれば、おおかた尻に敷かれている日々に嫌気がさして若い女のところへでも走ってしまったということなのだろう。
陳腐でありふれた依頼だが、普段草間を悩ませているような怪異絡みの依頼よりはずっとマシだ。
「わかりました。ご主人の身辺を調査して、相手を突き止めれば良いんですね」
「いいえ」
久し振りのまともな依頼にそう当たり前のことを口にすると、それをきっぱりとそう否定されてしまい、草間は首を傾げた。
「どういうことでしょう」
「あの人の浮気相手はわかっています。その正体を突き止めて欲しいんです」
まだ意味を把握できていない草間に向かって女は口を開いた。
「主人の浮気相手は、鏡の中にいるんです」
「……鏡の中、ですか？」
またぞろ、何か覚えのある流れになってきたぞと思いながらも草間はそう尋ねた。
「別の興信所でそれは突き止めました。主人は私が家にいないときに何処からか鏡を持ち出してきてはそこに映っている女と話しているんだそうです」
突き止めるのは別の興信所で済まされていることに少々むっとしたこともあって草間はやや礼に欠ける問いを口にした。
「それは、失礼ですがご主人が幻覚を見ているのでは？」
「いいえ！」
途端、ややヒステリックに依頼人が叫んだ。
「相手がたとえ幻覚でも人でないものでも、別のもののところへ走るということは立派な浮気です！ だから正体をどうしても突き止めて主人と別れさせなければ気がすみません！」
依頼人の迫力に草間はやや気圧されながら、「わかりました」と口を開いた。
というより、開かされた。
２．
「それで、どうして私が呼び出されなければならないんだ？」
草間に呼びつけられた翠は面倒臭いという雰囲気を隠しもせずにそう尋ねた。
「依頼人が言うには、浮気だかなんだか知らないがとにかくその相手は鏡の中にいるらしい。もしかすると鏡自体がその女の正体ということもありえるだろう」
「それで、そういうことには陰陽師がうってつけですと言ったわけか？」
浮気などというものはどちらが悪いと決め付けられるようなものでもないことが多い。
場合にもよるが、今回の件に関して草間の話を聞く限り、翠にはどちらも悪いという気がしており、それが余計に面倒さを感じさせていたのだ。
しかし、翠の指摘が図星だったらしい草間は反論してこなかったが、無駄な反論をしない代わり頼むから引き受けて暮れの一点張りに転じた。
その様子に呆れたように溜息を吐きはしたが、折れたのは翠のほうだ。
「面倒だが、呼ばれたのだから見てやらんこともない。依頼人は何処にいる」
「いまは家に帰ってるはずだ」
聞けば、調べてくれるよう念を押してすぐに帰ってしまったらしい。
なんとも自分勝手なものだとは思うものの、浮気をされていたりそれを疑うような人間はえてしてそういうタイプが多い。
ふむ、と少し考えてから翠は口を開いた。
「その鏡とやらは、部屋から持ち出すことが可能なのか？」
「その辺りは詳しくは聞いていないな。しかし持ち出せないとも聞いていない」
「では、こちらから出向いたほうが確実か」
言いながら、翠は椅子から立ち上がり、出口のほうへと向かっていたが、くるりと草間のほうを向いた。
「お前も来い。私だけが行って、件の細君が入れてくれなければ話にならん」
「どうするんだ」
「鏡を見なければ話にならん。なに、細君が言えばすんなり夫君は鏡を差し出すだろうよ」
「それは、視えたのか？」
草間の問いに、翠は肩を竦めて答えた。
「鏡に現を抜かすような男が細君の言うことに逆らえるわけがなかろう。自明の理だ」
３．
依頼人の家へ訪れ、チャイムを押すと扉を開いたのは気弱そうな男だった。
おそらくは、これが夫なのだろう。
「何か御用でしょうか」
「失礼ですが奥様はご在宅でしょうか」
「はあ、おりますが……」
草間の問いに夫は少々警戒した雰囲気を漂わせてはいたが、強く言えばすんなり中へ入れてくれることはわかった。
と、そこでいきなり翠が口を開いた。
「あなた、鏡を持っていますね」
途端、夫の顔がこわばった。
「は、はあ……一応、男でも身だしなみをと思い……」
「ほう、しかし、その鏡、ただ見るにはあまり適さないと思いますが」
その言葉にますます夫の顔がこわばっていく。
「あ、あんた、何を言って……」
「あなた、お客様なの？」
そこに依頼人である夫人が現れ、草間の姿を認めた途端少し慌てたように「どうしてここへ」と聞いてきた。
まさか正面から調査員がやってくるなど思ってもみなかったのだろう。
「奥様、部屋の中へ入れていただけますか？ そして、件の鏡を見せていただきたいと思いましてね」
「ちょっと待ってくれ、あれはわたしの……」
「わかりました。持ってきます」
狼狽している夫を無視して、夫人はそう答えると夫にそれを持ってくるように言った。
「わたし、とっくに知ってたんですよ」
嫌味そうにそう言われた夫は汗をぬぐいながら慌てて鏡を取りに行った。
「えらく機嫌が悪そうだが、どうした？」
そんなやり取りを見ながら草間が翠にしか聞こえない声でそう尋ねるが、翠は答えない。
「こんな立ち話をしているところご近所に見られては困ります、中へどうぞ」
その間に夫人はふたりを家の中へと招きいれ、リビングらしき部屋にはすでに夫が鏡を持って崩れるように座り込んでいた。
見れば、それは古い手鏡だった。
途端、つかつかと翠はその鏡を掴み、一瞬睨むような目を向けたかと思うと夫婦ふたりに向かって口を開いた。
「おふたりは、しばらく別の部屋にいていただけますか？ いまから行うことは少々危険が伴います。素人のおふたりがいては危ないので」
有無を言わせぬ口調に流石の夫人のほうも口答えをすることもできず、勿論夫は何も言わず部屋を出て行った。
「おい、危険って何だ？」
状況が掴めていない草間の問いにも答えず、翠は手にした手鏡に向かってにっこりと微笑んだ。
普段の翠からは想像ができないほどの笑顔だが、それが却って恐ろしさを増している。
つまり、笑顔とは裏腹に、翠の機嫌はかなり悪かった──この家に近づきある気配に気付いてから。
「久し振りだな、御爺」
『……や、これは翠か…久し振りじゃのう』
途端、草間の耳にも鏡から聞こえてきた声が届いた。
慌てて鏡を覗き込めば、そこには依頼人が言っていた通り女の姿がある。
しかし、その女の声は老人のそれという奇怪な状態だった。
おそらく、普段は声も女のものにしているのだろうが、翠の姿に驚き騙すことも無理だと思ったので地を出しているようだ。
「なんだ？ こいつは」
「雲外鏡。簡単に説明すれば妖怪だ。根は悪ではないが性格は少々悪くてな、いまのように人をからかって楽しむ悪い癖を持っている。そして──」
相変わらず普段からはありえないほどの笑みを浮かべたまま翠は口を開いた。
「江戸の半ば頃からの旧知の仲だ。なぁ、御爺？」
鏡の中にいる女の姿をしたものはその声に慌てるように手を振ってその場をごまかそうとしている。
『いや、ちょっとした遊び心じゃったんじゃよ。まさかお前さんの迷惑になるとは知らなんだ』
「そうだな。御爺は昔から少々いたずら心がありすぎる。まぁ、悪意がないからいままで祓いもせずに付き合いがあるわけだがな」
と、そこで翠はにやりと笑ってみせたが、それは不機嫌なわけではなくからかいの笑みだった。
どうやらいままでの不機嫌さは全て雲外鏡へのからかいだったらしい。
「御爺、どういう経緯かは知らんがこの家でまたぞろ人をからかっていたようだが、ここに長居する気はあるまい？」
『そうじゃな、実は、ほとほと参っておるのだよ』
ふむ、と翠はその事情を聞き取ってから草間のほうを向き、夫婦を連れてくるようにと頼んだ。
４．
呼ばれた夫婦のほうは、相変わらず夫は何処か気弱なまま口元でもごもごと何かいいわけがましいことを言っているが依頼人は聞く耳を持たない様子だった。
「それで、その鏡の正体はなんなんですか」
威圧的にそう依頼人が言っても、翠はすぐには答えず「困りましたね」と呟いた。
「何がです」
「この鏡には、悪い妖が憑いているようです。私の力で祓えるようなものではありません。この鏡に映っている女の姿をしたモノですが、とても強い力を持っています。その力の源というのは人の魂であり、これに惹かれた者への妬みの心などです。つまり、知らず知らずのうちにおふたりとも鏡の餌食になっていたわけですね」
無論、これは口からのでまかせだが、夫婦は妖という言葉の上に翠の脅しによって完全に顔を青褪めさせていた。
「この手の類は人の弱さに漬け込むモノ。いまのおふたりがまさにそうであるように。それさえ取り除けば鏡としても害は与えることはできません。そういう原因を作ったということを努々お忘れなきよう」
脅すような翠の言葉に、夫婦は揃って何度も首を縦に振った。
「さて、ではこの鏡は然るべきところへ持っていき祓ってもらうことにしましょう。御主人、異存はないですね？」
「は、はい。それは勿論……」
「奥様も、無闇と妬む前にするべきことがないか考えてみるとよろしいかと」
あれほど高圧的だった依頼人もその言葉に素直に頷いたのは、余程翠の脅しが効いたのだろう。
では、と挨拶をすると草間と共に夫婦の家を出た。
『なんとも、酷い言われようじゃのう。儂は魂なぞ食らわんぞ』
「そうだな、御爺は酒のほうが余程良いだろう」
『酒か、あの家に行ってから飲めておらぬわ』
そう言いながら興信所へ着いた翠は草間に鏡を一枚持ってくるように頼んだ。
「鏡？」
「御爺は鏡自体の妖ではなく、鏡から鏡へ移動するんだ。この手鏡では不便だろう。立てて使えるやつがないか」
言われるまま草間が持って来たのは顔が映る程度の鏡だったが、雲外鏡は『いままでのものよりは良いわぇ』と言ってすぐにそちらに移った。
『いや、まったく。えらい目に逢うたわい。からかうつもりで女を写したは良いが、あの男なにが気に入ったのかしらんが儂を手元から離してくれんでな。しかし口を開けば妻女への愚痴ばかりでほとほと困っておったのだよ』
「今度からは相手をもう少し慎重に選ぶことだな。さて、御爺。よい酒があるのだ。気晴らしも兼ねてここの変わり者達も交えて少し飲まないか？」
「おい、変わり者ってのは誰のことだ？」
「ここには私と御爺以外にはお前しかいまい？」
からかうようにそう言われた草間だが、今日はもう客は来ないと諦めたのか肩を竦めて立ち上がった。
「グラスか紙コップでも持ってくる」
「すまんな」
『申し訳ないのう、こんな爺の酒飲みにつき合わせて』
からからと鏡の中からの笑い声を背に草間は酒宴の準備をしていた。
その夜の興信所は、ささやかではあるが少々奇妙な酒盛りが一晩中続いた。
了
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
6118 / 陸玖・翠 / 女性 / 23歳 / 面倒くさがり屋の陰陽師
NPC / 草間・武彦
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
陸玖・翠様
この度は、当依頼にご参加いただき誠にありがとうございます。
鏡の正体が妖怪、そして人は悪いが悪ではないということでしたので精一杯ユーモラスな感じにさせていただきました。
そして、夫婦への脅し文句をこちらで少々増やさせていただきましたがお気に召していただけましたでしょうか。
またご縁がありましたらよろしくお願いいたします。
蒼井敬 拝
|
|
 |
