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赤い瞳のうさぎ姫 〜うさぎと青い空〜
ずっとずっと、しがらみに縛り付けられているような毎日だった。
両親の元に居た時は、不自由という名の小屋に。
宗平と出会った後は、好きだという想いの小屋に。
見上げるとそこに屋根があるのは日常だったから、何の疑問を感じる事なく受け容れていた。
だけど、這い出た外には、高く遠く青い空が広がっていて。
振り返って小屋を眺めて見ると、どれだけ小さな空間に自分がおさまっていたのか、実感出来た。
「もうお前さんは自由だな」
サングラス越しにニヒルな笑みを寄こす草間武彦は、両手いっぱいに腕を伸ばす事が出来るウサギ(私)にそう言った。
──私は、自由。
ぴょん、と飛び跳ねてみる。風を感じ、土を感じてみる。
何をやってもいいという自由は少し怖かったけれど、小屋に戻る気にはなれなかった。
●ウサギと詐欺師
相変わらず何故か居る國井・和正の視線を感じるのは、どうやら草間武彦の視線からも真実らしい。
「どうする?」
軽く腕を組み、興信所の所長は私──深沢・美香の言葉を待っている。
ぎゅっ、と握った指は白くなり、冷たくなっていた。それを同行して貰ってもあまり意味がない和正が、じっと見ている。
「会い──ます」
化粧も髪型も変えた。何人もの男に抱かれた。その自分が会うには、あまりにも覚悟の要る相手だったが。
もう逃げないと、誓ったのだ。
「そうか。‥‥奴がこのマンションから出て来るのはそろそろだ」
このまま待っていれば会える、そういう事なのだろう。
武彦は呼び出してからずっと強張った顔つきの美香を見、そして彼女をじっと見ている和正を見、最後に手にしている写真を見た。
──このままいくと修羅場になりそうな三角関係だな。
探偵ではなく、男の勘が告げる。
くしゃり、と髪に指を突っ込み、毎度毎度ややっこしい依頼しか来ない自分を恨む。
──結婚詐欺師と騙された女とそれに入れ込む常連客だァ? メロドラマじゃねぇんだぞ。
悲壮な顔をしている彼女は気付いてもいないのだろう。露骨に迷惑に感じている和正が、自分に恋心を抱いているなど。
しかも彼女が想いを断ち切れずにいる相手は嗜虐でしか女を見れない最悪な男ときた。下手すると二人に乱暴されかねない。
──どうやったら自由になれるんだ?
元々女と男では体格も持久力も違う。襲われればひとたまりもない。
「あっ‥‥!」
美香がマンションの出入口から出て来る男を見て、目を見開いた。こくん、と喉を鳴らす背後で、和正が苛立ちをぶつけるように美香を睨んでいる。
やれやれ、と武彦は彼女を守る体勢を取る。向かう相手は、舘・宗平。美香に膨大な額の借金を残して消え去った結婚詐欺師。
──とりあえずサラ金にしょっぴくか。
喜色満面、とはこの事を言うのだろうと美香は背に流れる冷たいものを感じながら思った。
かつてのときめきはない。けれどどこか手足が思うように動けなくなるのを感じた。
「おやおや? 随分久し振りだけど美香さんじゃないかー」
何故この人は笑えるのだろう?
それは分からない。けれどこの人は笑顔で私にこう言った。『丁度最近キミの顔を見たかったんだよね』と。
「へぇ、また髪型変えたんだ? この前雑誌に載ってたのと違うから、一瞬同じ人だと思わなかったよ」
「え‥‥?」
言ってる意味が分からず、パチパチと瞬く美香にニッコリ微笑んだ。
「週刊恋桃♪」
「‥‥え?」
──チッ、下種な風俗雑誌か。
理解出来ず眉を顰める美香の背後で、武彦が胸糞悪い、とその不気味な笑顔を睨んだ。
「やっぱり‥‥ご学友にはバレたくなかった?」
学校、一流大学だもんね?
くすりと目を細める宗平は、震える唇をうっとりと眺める。
「それとも‥‥ご両親かなぁ?」
とっても潔癖な人達だもんね?
「‥‥っ」
自分の一言一句に青ざめ、震え、言葉を継げなくなる美香は最高のオモチャだった。やっぱり遊ぶなら、新鮮味のある方がいい。
する、と優しく取られた髪の毛が、宗平の指に絡め取られる。まるで未だに自分のものだ、と言いたげに。
「また遊ぼうよ?」
「っ!!」
心臓が、壊れる。
軋んで悲鳴を上げる心臓に、がくがくと足が震えた。何も出来なくなる美香と宗平の間に、正義の鉄拳が割って入った。
●恋の終わり
──この人と会ったら、自分はどうなるのだろうと思っていた。
強引に連れて来られた宗平の真向かいに座り、頬をさする様子をじっと見つめた。
ソープでの生活は自分の中の何かを変えたのだろうか? かつて胸ときめかせたその笑みに、薄ら寒いものを感じて美香は困惑していた。
好きだったのは事実。彼に甘い言葉を囁かれ、借金を残して逃げた時かされた時も、全然現実味が湧かなかった。今日の今日まで、再び会った日にはまたあのときめきが甦るのではないかと──そう、思っていたのに。
「酷いなァ美香さん。こんな腕の立つ男を雇って俺を殴らせるなんて」
口元が笑いを模るように引きつったが、薄ら寒いだけだった。
「借金を、そうへ‥‥あなたに返してもらうために、草間さんにお願いしたんです」
「あなただなんて、まるで他人のような言い方だね」
美香さんと俺は恋人同士だったろう?
面白そうに言う宗平の気持ちが全く分からない。恋人に借金を被せソープに売り飛ばした事を知っているのかと言いたくなる愉しげな顔だった。
──ま、そういう野郎だな、コイツは。
ソファで向かい合う二人の邪魔をせず、自分専用の机にもたれ、武彦は見守る。
宗平の本性に徐々に気付き始めている美香はまるで世間知らずで、生まれたての小鹿のように頼りなかった。
──だが、邪魔は出来ない。
何故なら、彼女自身が自分で自由になると誓ったからだ。
「私は貴方の肩代わりをする気はもうありません」
かつて、好きだった人。
私を本当の意味で受け容れてくれたと一時でも安心した相手だった。
けれど。
「それじゃあ俺に借金押し付けるわけ? どうせソープで体汚れきったくせに?」
「っ!」
ズキン、と胸が痛む。武彦が静かな瞳を宗平に向けた事も、和正が不愉快そうに睨みつけた事も、気付かなかった。
「いい加減」
「それでも!」
和正の言葉を押しのけ、言い切った。目に見えない圧力が自分達の間にはあるようで、それが美香を圧迫している。
「それでもっ‥‥、私が選んだ事なんです!」
会話が繋がってるかどうかなんて考えられなかった。自分の頭を押し付けるような宗平の嘲笑──そうだ、これは嘲笑だったんだ──に負けじと目を上げた。
「‥‥つまんないね」
笑顔が消え、ソファに偉そうにももたれる。自分を睥睨する目だ、と感じた。
「じゃあ俺が美香さんの両親に色々教えてあげるよ」
もちろん、ご学友にもね。
冷たい笑顔に、今度は本当に──凍りついた。
ガッ!
「てめェ、いい加減にしやがれッ!!」
(何故か)激昂した和正がテーブルに飛び乗り、胸倉を掴んでいた。
真っ赤な顔になって怒鳴る和正にポカンとなった美香だが、すかさず喧嘩慣れした動きで宗平が動じる事なく和正の動きを封じた。
「いッ‥‥!」
「馬鹿だね、和正くん。力に任せて動いたところで、負かせられるのは子供くらいなものだよ?」
「ちくしょっ」
和正の動きは一応磨き上げられた武術家(主に喧嘩での実践だろうが)のものだ。それを易々と退けた宗平が、ニコリと美香に微笑む。
「美香さんはちょっとおいたしたけどね、俺はそのくらいで怒るような男じゃないから」
ボキッ! と関節を派手に外し、床で呻く和正を放置してにじり寄った。
「‥‥や」
「随分久し振りだからね、じっくり可愛がってあげるよ?」
「‥‥嫌」
「さぁ、こっちへおいで──」
「い、」
「美香──」
「嫌ーーーーーっっっ!!!!!」
がこっ! どさっ!
──へ?
「あーあ、マジだりぃな」
は? へ?
「どこのサラ金だっけか? 調査書調査書‥‥あーあー、あの悪名高いあそこな。十・一って聞くもんな、コイツ内臓売られるかもなぁ」
「あ、あの‥‥」
「おい、軽く灰皿投げただけで意識飛ばすなよ、連れて行くのに面倒じゃねぇか」
「‥‥‥‥‥‥」
伸びた宗平の魔の手から美香を守ったのは、ここ草間探偵所の所長、武彦だった。えらく面倒そうに白目を剥いた宗平を引っぱたいている。
「‥‥‥‥」
ちら、と床に転がった灰皿を見ると、血に赤く染まっていた。少なくともアルミやスチールを投げたくらいで『がこっ』などと重量のある打撲音が聞こえてくる筈がない。
そっと手を伸ばすと
「重っ」
持ち上がらなかった。
この何の変哲もない灰皿、一体何で出来ているんですか、草間さん。
「ハッ! あ、あんたっ」
「おー、起きたか良かった。これからアンタが金借りたサラ金連れてくからな」
「なっ、何をっ」
「小学生じゃねぇんだから自分の責任は自分で取ろうな〜? 良かったな、きっと喜んで迎えてくれるぞ」
「いっ、いいわけが」
「ここなぁ、借金返せない時はい〜いお医者さん紹介してくれるらしいぞ〜?」
「医者!?」
「外科医」
「いっ、嫌だああああああ!!!!!!」
百年の恋もいっぺんに冷めるうろたえ振りであった。
ほう、と吐息を吐いた時、嫌な汗をかきながら和正が起き上がった。
「ちくしょ‥‥あの野郎っ」
ぎりりっ、と下唇を噛んだ和正は一方的にやられ、機嫌が悪そうだ。
嫌な予感がしたが、自分の為にここに連れてきてくれた以上放置しておけない美香は、退室するわけにもいかず固まった。
「美香、手ェ貸せ!」
「は、は、はいっ!」
相変わらず店でもないのに命令する和正の体を支え、ブランとした片腕を支える。どうやら本当に関節を外されただけで、骨折もしていないらしい。
「でもこれで晴れてお前は自由なわけだ」
痛みの汗をかきつつも何故か朗らかに宣言する和正。美香は首を傾げた。
「借金もなくなったし、ソープなんざもうやる必要ねぇだろ。お前は俺だけに抱かれればいい」
「‥‥は?」
目が点になる。何故そうなるのか?
「良かったな、今日からお前は俺の女だ」
満足そうな言葉。満足そうな笑顔。でも。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
──それは。
「嫌です」
もんのすごく。
●そしてウサギは
「美紀ちゃーん、お客さん来たワよー!」
「はい!」
武彦の手によって借金から逃れた美香は、まだここにいる。
借金返済の必要性がなくなったとはいえ、生活の目処が立たないうちは身動きは出来ない。家にも帰るつもりはなかったから。
それを選択したのは私自身。後押ししてくれたのは、草間興信所の草間武彦さんだった。
──今度は、自分のための小屋を作るの。
自分がいつでも帰る事が出来て、いつでも飛び出していける小屋を。
「いらっしゃいませ、お客様。美紀がお部屋までご案内致しま‥‥す‥‥」
そこに居たのは、客は客でも最近専らの常連客、美紀しか指名しないお得意様化したかつての同級生。
國井・和正。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥何だよ、早く部屋に案内しろよッ!」
ぱかーん、と口を開けた美香に逆ギレする和正は、やっぱり和正であった。
「ご、ご案内します‥‥」
──小屋を出ても、青空が広がるばかりではない事を知った瞬間だった。
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