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<東京怪談・PCゲームノベル>


CallingV sideU―Veronica―



 遠逆家は浅葱漣が想像していたよりも陰湿で、腹の立つ場所だった。だが日無子の命を握られている以上、漣は抵抗する気もなかったし、ここから出て行こうとは思わない。何日、何ヶ月、何年かかるかわからないこの家の生活に疲れた、なんて言えるはずもない。言うつもりもない。
 ここに来て今日で三日目……。漣は自分の背後で着替えている日無子の衣擦れの音を聞きながら、思う。
 こうして一緒に居られるなら、どんな場所でも構わない。
「えと、どうかな?」
 日無子のためらいがちな声に漣は振り向く。黒い皮製の長いコート……に似た衣服に身を包んでいる彼女ははっきり言って美人だ。黒という色のせいで細身が余計に引き締まってみえるし、赤茶の髪が際立つ。
「うひゃ〜……すごい久々に訓練着を着たなぁ」
 苦笑いのような微妙な表情を浮かべる日無子の訓練着は、丈の長いコートに似ている。だが足の付け根辺りで衣服のボタンは途切れている。そのため彼女のニーソックスをはいた長い脚が丸見えだった。
 漣は渋い顔をする。
「脚をもっと隠せないのか?」
「そんなことしたら動かし難いよ。これは機動性を重視したデザインなんだから。昨日は漣にここを案内して終わっちゃったから、今日は訓練に出ないと」
「俺もついて行っていいかな」
 日無子と一緒ならある程度は自由に動き回れるし……この間のように自分の知らないうちに、自分のいない時に彼女が瀕死になっていたらと思うと――。
「え、ええーっ! やめようよ危ないし」
「離れたところで見てるだけだから」
 唖然とする日無子は漣の顔をまじましと見つめる。
「……ここに来て、なんか漣って強引になったよね。一緒にお風呂入るのも恥ずかしがらなかったし」
 内心平気ではなかったが、あれだけ広い風呂だと少し距離を保てば彼女の姿は湯気でぼんやりとしか見えない。それに一緒に入れと指示をされたのだ。時間の節約のためか、それとも作為的かは知らないが。
「やっぱりここって漣の肌に合わないのかなぁ……。ねぇ漣」
「帰らないぞ」
「うっ」
 先回りして答えると日無子がのけぞる。そしてしょんぼりと肩を落とした。
「だって心配してる家族とかいるんじゃないの? あたしは……家族なんていないから、そういうのわかんないけど……。あたしみたいなのと一緒に居たら、普通の親は怒るだろうし」
 人間としてかなり欠けてるから、と日無子は小さな声で言う。漣は座ったままで日無子を叱るように見た。
「俺は、日無子がいいんだ」
「……うぅー。そんな真っ直ぐ見ないでよ」
 恥ずかしがるように日無子が顔を背けた。不覚にも漣は「可愛い」と思ってしまう。だが、彼女の様子が変わった。朝食でも運ばれてきたのかと思ったが、そうではないようだ。
 日無子は真剣な顔で頷く。
「……すぐ行きます」
「どうした?」
 血相を変えた日無子がすぐさま部屋を出て行こうとする。その手を掴んで漣は止める。彼女がこちらを振り向いた。
「長が呼んでる。侵入者がいるみたい。護衛につけって」
「っ」
 頭に血がのぼった。あいつの護衛をしろって!?
「ふざけるな! あいつのせいでおまえがどれだけ苦しめられてるか……! ナメてるのか!」
「…………」
 ふ、と日無子が笑った。
「ありがと。怒れないあたしの代わりに、漣は怒ってくれた。それで充分だよ。
 そうだね。こういう理不尽では怒らなきゃいけないね。……でもあたし、そういうの本当に『わからない』んだよ」
「日無子……」
 彼女は切なそうに続ける。
「あたし自身のことだと、怒れないんだよね。肉体損傷は別としてね。『欠落』してるんだよ、ほんとに」
 だからね、と彼女は膝をついて漣と目線を合わせた。
「あたしが好きになったのが、あたしのことで怒ってくれる漣で良かった。漣と一緒に居るとあたしは『人間』でいられる。
 待ってて。すぐに片付けて戻ってくるから」
 そう言って彼女は障子を開けて外に出て行ってしまった。残された漣は閉められた障子を見つめる。こんな殺風景な部屋で、彼女は……自分の知らない、自分と出会っていない時代の彼女は何をしていたのだろう。
 あの訓練着に身を包み、それほど死に物狂いで……いや、従順に退魔士として様々なものを『詰め込まれた』のだ。そこに人間の感情はない。戦う武器にそんなものは必要ない。
「ダメだ……」
 漣は立ち上がる。障子に手を伸ばした。
 彼女を失いたくない。半年前だって、彼女が心臓停止に陥った瞬間、気が狂うかと思ったんだ! 彼女のためなら、彼女を護るためなら!
「俺の命を懸けてもいい!」
 だが障子に伸ばした手は弾かれた。結界が、彼の行く手を阻んだのだった。



 部屋の中で待機する日無子はすぐ傍の老人の姿に思う。酷いことをされているのはわかっている。だがそれに対して怒りがわかない。ただ、漣を傷つけるならばこの老人を殺すつもりだ。
 侵入者はすぐにこの部屋の中に突入してきた。日無子は驚く。自分が殺したと思っていた女だ。やはり生きていたのか。一体どういうトリックを使ったのだろう?
 侵入者が長の前に来ようとした直前、日無子がざっと跳び出して着地した。
「長には手出しさせない」
 長を守ることが今の自分の任務だ。
 侵入者の女はどこか苦い表情で構える。武器をサイに変え、女は攻撃の体勢をとった。
 日無子はその様子をじっくり眺めた。実際はほんの一瞬しかかかっていないが、人間観察をするのは日無子の癖のようなものだ。
(この間の傷はないか)
「日無子、わかっておるな。必ず殺せ。殺せないやもしれんが、致命傷は負わせろ。例えおまえの身体が破壊されても、わしを守れ。おまえの愛しい男、殺されたくはないだろう?」
 背後の老人の言葉に日無子は反応しない。漣の命がかかっているのは元より承知だ。
(今度こそ殺してやる……!)
 日無子もまた、刀を薙刀の形に変えた。迎え撃つ!



 部屋に残された漣は室内から出られないことに焦っていた。
(結界……この屋敷に張られているものと同質のものか……)
 血族のみが通り抜けられる結界だ。だから漣は通り抜けられない。
 障子を強く叩いた。自分の拳のほうが痛そうな音がする。
(日無子……日無子が)
 侵入者の撃退だと? なぜ彼女がそんなことをしなければならないんだ! どうしていつも日無子ばかり!
「……やめろ」
 滲み出すように漣は声を洩らす。
「やめてくれ……! 俺から日無子を奪おうとしないでくれ!」
 日無子が呼び出されたということは日無子と同等か、それ以上の相手ということではないのか。 
 これ以上俺から彼女を奪わないでくれ。俺という人質を利用して、彼女を踏み躙るのはやめてくれ!
 人の気配が近づいてくるのに気づき、漣は息を殺した。この部屋に入ってくるならそれもいいだろう。代わりにそいつを利用してここから出てやる。俺は彼女の恋人だ。互いに若いが、互いを必要とし、互いを愛している。
 何もこの家から出て行こうというのではない。なんでも言うことをきいてやる。彼女との子供が必要なら、それでもいいだろう。
 ただ、彼女を守らせてくれ。傷つけないでくれ。俺の拠り所でもあり、この世で一番大切なひとなんだ。
 障子の前まで駆けて来た相手は立ち止まり、声をかけてくる。
「外に避難してください。ここは戦場になります。せめて結界の外まで避難を」
「その声は遠逆、えっと、ツキノさん!?」
 たった一度だけだが会ったことのある少女だ。漣がもっとも嫌う男の傍らにいた、大和撫子と称してもおかしくない美人の……。
 相手もすぐに察したのか「アサギさん、でしたか」と声をかけてくる。
「どうしてここにいらっしゃるんですか。ここは『遠逆家』ですよ?」
「日無子は、日無子は避難してるのか!?」
「……日無子さんは見かけませんでしたが」
 血の気が引いた。
 漣は障子を叩いた。
「ここから俺を出してくれ! 日無子を助けに行かなきゃ……! 殺されちまう!」
「やめなさい。先ほども言ったようにここは戦場になります。ある人が、とんでもないことをしようとしているんです」
「とんでもないこと?」
「…………この場に蓄積されたエネルギーを使い、呪縛を破壊する気なんです」
 月乃の言葉は漣にはわからないし、今は理解する余裕もない。
「下手をすれば屋敷全てが木っ端微塵になるかもしれません。だから外に避難するんです。日無子さんは私が見つけますから」
「嫌だ!」
 子供のように漣は叫んだ。
「ダメなんだ! あいつは、あいつは俺じゃなきゃ、ダメなんだ……! 悪いけど、月乃さんの話なんて聞かない! あいつは俺の言葉じゃないと『止まらない』んだ!」
 月乃が日無子を止めるにはそれこそ力ずくになる。なぜなら、日無子はおそらく侵入者と戦っているのだ、今、まさに今この時!
 障子が開く。相変わらず月乃は綺麗な少女だった。
「わかりました。彼女を探しましょう。そして止めてください」
「あ……あり、がとぅ」
「いいんですよ。そんな泣きそうな顔をしないでください」
 微笑む月乃の言葉に漣はハッとする。自分はそんな表情をしていたのか……なんだか恥ずかしい。

「日無子さんはおそらく長のいる部屋で戦闘中です」
「あの、謁見する広い部屋か?」
「そうです」
 月乃は庭に降りてしまう。漣もそれに続いた。靴を履いている余裕はない。
「もうここを除いて避難は完了しています。それでもいないということは、そこにしかいないということになりますから」
「護衛につくと言っていた……。だがなぜ日無子を護衛にするんだ!?」
「それはおそらく……彼女が『強い』からでしょう」
 庭を一直線に走る月乃を追う。この濃い霧の中ではか細い背中を追うのも大変だ。
「確かに日無子は強いが……」
「『そういう意味』じゃないんです。目的を貫く意志の強固さ、目的を達成する技術の高さ、目的を果たすためなら手段を選ばない卑劣さ……。そういう『強さ』です。おそらく、勝つまで彼女はどれだけ傷ついても倒れません」
 知っている、と言いそうになった。
 忘れていたわけではない。けれどこの半年、日無子はそういう面を見せなかった。見せることがなかった。彼女は普通の少女でいたのだ、漣の前では。
 月乃は肩越しにこちらを見てきた。白い瞳が、冷たく見てくる。
「――止められますか」
「止める!」
 漣は即答した。



 部屋は散々たる様子だ。敷き詰められていた畳はかろうじて原型を留めている状態にある。
「っはぁ……は、あ……!」
 肩で息をする日無子は顔に流れる血を拭った。この距離ならば血を拭うくらいは大丈夫だ。相手に攻撃されても対応できる距離だから。
(ちくしょう……!)
 卑怯だ、とは思わない。対峙している娘は斬り落とされた腕を踏み潰す。途端、彼女に新しい左腕が『生えた』。
(再生じゃない……あれは『復元』能力だ……。厄介な)
 再生も回復も、限界点というものが存在する。本人の治癒能力を、限界以上に引き上げて治癒するのがほとんどだからだ。
 人間の肉体なんてものは、脆くできている。何度もおこなわれる再生に耐えられる回数は限られているはずだ。それが、ない。復元は、『元の状態に戻す』のだ。明らかに本人の治癒に働きかけているのではなく、外部から別のエネルギーを吸収しておこなわれているものだった。
 日無子が皮肉に笑う。
(一ヶ月前はこの女を殺すのに人質をとったってのに……今度は逆か。因果応報ってやつかも、な!)
 右足に力を込めて飛び出す。復元させる時間を与えていてはこちらの不利だ。
 勝たなければならない。漣の為にも。自分の為にも。彼に不自由を強いているのだから、その分守りたい。自分にできることなんて、たかが知れている。戦うしか能のないこんな出来損ないを彼は愛してくれた。一人の女の子としてみてくれた。
 だから。
(おまえを殺して、あたしは漣のところへ帰る!)
 極度の緊張と、互角以上の戦闘能力を持つ相手では、日無子のスタミナが普段より早く切れるのも時間の問題だった。いや、その片鱗は見えていた。
 早く片付けなければ。焦る日無子は足を滑らせた。ぎょっとして目を剥く。着地に失敗した!
(踏ん張れ! 足を一本失う気で避けろ――!)
 身体を無理に捻る。相手の武器が喉元を狙っていたのを、かろうじて避けた。足首が妙な音をたてる。捻る、なんて言葉通りの……雑巾を絞ったような状態に足首が成っていた。軸足なので余計に悪い。けれどもここで諦めてなるものか。
 自分が負ければ漣は殺されてしまう。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! それだけは、死んでも御免だ!
 斬られた額からの血が瞳にかかる。ちくしょう。邪魔をするな。視えないじゃないか!
「あなたの負けよ」
 娘が小さく呟いた。
 ふざけるな。誰が負けるか。おまえがどれほど重い宿命を背負っていようと、そんなこと知ったことじゃない。あたしは、漣と一緒にいられる未来を……守るだけだ!
 日無子は歯を食いしばる。――――燃やし尽くせ、
「陽光燃火、発動――――ッ!」
 黄の瞳が全身の力を収束し、日無子が見つめる相手を攻撃した。一閃のような、鋭い攻撃だ。
 目の前で武器を振り上げた体勢のまま、敵は一瞬で燃え上がった。
 がくんと日無子が膝を折る。思った以上に能力に歯止めが効かなかった。これでは次の攻撃に移るまであと数秒かか……。
「日無子!」
 突然割り込んだ声に日無子は驚愕した。

 部屋に飛び込んできた漣は一直線に日無子に向けて走った。
 膝を屈している日無子は、かろうじて床に突き刺した武器によって座り込まないで済んでいる。そう見えた。
 彼女の目前では燃え上がる人間の姿。そんなものに目もくれず、漣は日無子を目指した。
 ああ、血まみれじゃないか。足首が変な形になってるじゃないか。服が切り刻まれてるじゃないか。――まだ生きていてくれたじゃないか。
「れ、ん……こ、ないで……」
 掠れた声で制止する日無子は立ち上がろうとする。もういい。もうやめろ。そんな身体で無理をしなくていい。
 月乃に言われたことを思い出す。
「長は自分一人ではあの場から動けないんです。体重が重すぎて動けない人と同じ……。だから」
 漣は老人に一瞥もくれず、動けない日無子を連れ去るように抱えてそのまま部屋の外に飛び出した。破壊された部屋はあちこちから脱出する出口があるのだ。
 腕の中の日無子の顔は見えない。漣は重い袋を両腕で抱えているような姿勢なのだ。彼女の体は漣と向き合う形で、顔は遠くなる建物のほうを向いている。
「にげ、ちゃ……だ、め…………」
「うるさいっ!」
 漣が一喝すると日無子は口を閉じる。声が滲んでいたことに気づいたのだろう。
 彼女を抱える手に力を込めた。
「黙って……俺に抱かれてろ」
 鼻をすすりそうになった。彼女をこんな酷い状態に追い込んだあの老人が憎い。
 日無子はややあってから、小さく笑った。肩に手を回して抱きしめ返してきた。だが、弱々しい力だ。
「……なんか発言がヤラしぃ」
 耳元で、楽しそうに、嬉しそうに囁いた日無子の声に漣もつられて小さく笑った。

 脱出は簡単だった。正門から日無子を抱えた状態で外に避難する。
 屋敷をぐるりと囲む壁の外には、これほど居たのかというほどの人数が避難していた。
 その時だ。
 竜巻が発生した。屋敷の中で。
 渦巻く破壊は建物を呑み込んで天へと吸い込まれていく。その一部始終を漣と日無子は黙って見上げていた。
 何が起こったのかはわからない。ただ、竜巻が消えて三時間ほどしてから漣は事情を知った。
 あの広い部屋を収納していた建物が丸々竜巻に呑まれたこと。そこに居た長が行方不明だということ。
 日無子が応急手当を受けている間、漣のところに月乃がそっとやって来た。どうやら事情を……少なくともここに居る誰よりも把握しているのは彼女だけらしい。
 彼女は微笑んで言う。
「東京に帰っても構いませんよ。彼女と一緒に」
「え? で、でも」
 呪いは? 彼女はまだ。
 漣の言いたい事がわかっていたのか、それとも最初から言うつもりだったのか。
「彼女の心臓にかけられていた呪縛はもう消失しているはずです。先ほどの竜巻が『全て』呑み込んだはずですから」
 だから。
「身体そのものの強化はそのままですが、長が仕掛けていた術は全て消えているはずです」
 彼女は少しだけ頭を下げて「それでは」と去っていく。残された漣は慌しい遠逆の者達を眺めた。建物が丸々一つなくなったのだから、騒動にもなるだろう。
(……この騒ぎの中、さっさと消えたほうが身のためか)
 その日の晩、漣は荷物を持った日無子を背負って山を降り、東京へと戻ったのだった――――。



***



 春。桜の花びらがはらはらと舞う季節……。あの事件からもう一ヶ月半以上経過していた。
 春休みはもうすぐ終わり、高校生の自分はもうすぐ新学期だ。
「ただいまー」
 漣はドアを開けて中に入る。手には買い物用のカバン。買い物に出かける漣は律儀に買い物用のカバンを持って行き、それに野菜や卵を入れて戻ってくる。
 今日はシューマイを作ろうと決めていたのだが、漣はハッとする。
「おかえりー」
 からし色のジャージ姿で漣を出迎えた日無子の姿に彼は顔を強張らせ、それからこめかみに青筋を浮かべた。
「……日無子、何した? 言ってみろ。怒らないから」
「んん? なんのこと?」
 にこーっと笑顔で応える日無子。
 漣はすぐさま部屋にあがって日無子に詰め寄った。
「さっきまで着てた普段着はどうした?」
「えー。窮屈だから着替えただけだよ」
「…………」
「………………お茶をこぼしました」
 じっと見つめられ、日無子は降参して白状する。だが漣は彼女の手を掴んで引っ張り、そしてそのまま座らせた。彼女の両肩を掴んで向こうを向かせる。
「上を脱げ」
 そのセリフに日無子はきょとんとするが、すぐさまわざとらしく反応した。
「やだ! 昼間から何する気なの。漣のエッチ!」
「背中しか見ない!」
 若干頬が赤くなってしまったが、漣ははっきりと言い放つ。日無子は渋々ジャージのファスナーを降ろした。既視感だ。そういえば昔、彼女がこうやって俺は……。
 かぁ、と顔が火照った。
(背中を流してもらって、全身を見られたんだったな……)
 嫌な思い出だ。だがもう今さらだろう。羞恥心がないわけではないが、彼女の裸も見慣れたわけではないが……今さらだ。漣の裸は彼女に散々見られている。
 ぎょっとしたのは次の瞬間だった。上着を脱いだ彼女は下に何も身に付けていなかったのである。
「バカ! なんで何も着てないんだよ!」
「着替えようとしたら漣がちょうど帰ってきたから」
 まったく……と思いつつ漣は彼女の背中を見る。そしてすぐさま怒鳴った。
「痣になってるじゃないか!」
 『陽光燃火』の発動で体力がかなり落ちた日無子の回復は思った以上にかかり、今日まで長引いている。ほとんど傷はなくなってはいるが、まだ足首が完治とは言い難い。この状態で歩こうとするので転んでしまう。学校が始まるまでぎりぎり間に合うかどうかという状態なので無理をするなと普段からあれだけ言い聞かせていたのに!
 彼女はお茶を飲もうとしてバランスを崩して転び、どこかに背中をぶつけたのだ。そしてこの痣を作った。そう考えるのがしっくりくる。
「無理して歩くなって言っただろ!」
「違うってば。それは漣のキスマークだよ」
「…………俺がつけたのは、ここと、ここと、ここだ」
 そう応えると彼女は項垂れた。
「漣がヤラしいこと言うなんて……」
「逃げようとするからだろ」
 手当てをしようとする漣から逃げる為、わざと日無子はこういう言い方をする。少しは免疫がついたので最近は漣もやり返すのだ。
「薬つけるから動くなよ。まったく、室内なら俺が運んでやるって言ってるのに」
「え〜、だ、だってぇ……あたしを運ぶ時、漣てばお姫さまだっこするじゃん。ちょ、ちょっと恥ずかしいよ」
 頬を赤らめて日無子が文句を言う。こちらからでは顔が見えないが、声に力がないのでどんな表情をしているか想像できた。
 漣は日無子と共に、暮らしていたアパートに戻っていた。テレビから流れる雑談がいつもの日常を思わせる。
「身体の調子はどうだ?」
「んっとね、足首はまだ痛いけど、大丈夫。魂と肉体はもう離れないみたいだよ」
「そうか」
 良かったと安心する漣は「はい終了」と言って日無子の背中から手を遠ざける。上着を羽織らずに日無子が顔だけ向けてきた。
「残念だったね漣。大義名分ないとやり辛いでしょ」
「何が大義名分だ! そんなのなくてもおまえのことは好きなんだから、そ、そういう行為に及ぶのは当然だろ!」
 頬がじんわりと熱くなっているのは自覚していた。
 日無子は瞬きし、それから嬉しそうに「えへへ」と微笑んだ。うぐ、可愛い。
「愛されてるね、あたし。照れちゃうよ」
「いいから早く上のジャージを着ろ。春でもまだ少し寒いんだぞ。風邪ひくと困るだろ」
「うん。あ、そうそう。あのね、なんか胸が少しおっきくなったかもしれない。ほんとに少しなんだけど」
「そ、それを俺に報告して意味があるのか――!?」
「漣が育ててくれたようなもんだし、育ての親には報告するのが筋ってもんでしょ」
「そんなのいるかっ!」
「ねえ漣」
「わーっ! こっちに体を向けるな!」
 慌てる漣の制止もむなしく、日無子がこちらに体を向けて振り向いた。そのまま抱きついてくる。
(ひっ!)
 胸の感触がダイレクトに伝わってきて漣は硬直した。昼間から誘惑されてはたまらない。
「ありがとう、ほんとに」
「日無子?」
 深い感謝の声を出す日無子は抱きついたまま見上げてくる。少しだ。少しこちらが頭をさげればキスできる距離――。
「漣はあたしをいつも守ってくれてるんだって、あの時ほんとに実感したの。あたしは勝手に漣を守ってるつもりになってたから……余計に」
「……日無子を守るのは当然のことだ」
 嘘偽りなく。
「あの家で、俺は日無子さえ居れば何もいらないと思ってた。今もその気持ちは一緒だ。
 日無子と一緒にいられるなら何も問題はない。あの家で生涯を過ごすことになっても構わなかった――」
 二人の顔が近くなる。日無子が笑った。
「なんかプロポーズしてるみたいに聞こえるよ」
「そ、そうか?」
 あと1センチというところで日無子が苦笑いする。
「そういえば漣て、キスすごく巧くなったよね」
「先生がいいからだろ」
 その答えに日無子が吹き出しそうになった。漣は日無子の唇を自分のそれで塞ぎ、そのままゆっくりと床に押し倒した。
 遠逆の家が無関係になったとは思えない。けれども日無子はもう、あの家に縛り付けられるようなことはないだろう。やっとここから彼女は本当の新しい人生を歩めるのだ。
 願わくば。
(日無子の隣に俺がずっと居られますように――――)





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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PC
【5658/浅葱・漣(あさぎ・れん)/男/17/高校生・守護術師】

NPC
【遠逆・日無子(とおさか・ひなこ)/女/17/退魔士】

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■         ライター通信          ■
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 最終話までお付き合いくださり、どうもありがとうございました浅葱様。
 Vを日無子の側面から見たこのお話を少しでも楽しんで読んでいただければ幸いです。
 最後まで書かせていただき、大感謝です。
 浅葱様と日無子のこれからの未来が、二人の望むものであることを祈って……!