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漣
まただ。またあれが囁いている。
燎はソファの上で目を覚ますとすぐに周りを睨み据えるような眼光で検め、そこに自分より他に人影の無いのを確認してから、深々と息を吐いた。
――いや、元より、燎の他には誰ひとりとして影を落としているはずもないのだ。ここは燎の自室なのだから。
煌々と点したままの光源。いつぞや、電気代の無駄になるからと咎められた事もあるが、燎は暗所に身を置くのが得意ではないのだ。――特に眠りを貪る時などには。
子供じみていると笑われるかもしれないが、こればかりはどうしようもない。癖のようなものだと自分を慰め通すしかないのだ。
暗所に身を置くと、自分の総てまでもが闇に取り込まれていきそうな感覚を得る。それは決して感覚だけのものではなく、事実、闇は燎の周りに渦巻き、顎門をぱくりと開いてひっそりと待ち構えているのだ。
背の後ろに鈍痛を覚えて顔を歪め、ソファに沈めたままでいた身体をゆっくりと起こして痛みの場所を片手で探る。指先を濡らしたものの在り処を確めて眉をしかめ、傷の具合を確認する事もせずにシャワールームへと向かった。
横目に時計を見てみれば、デジタル数字は深夜の二時を過ぎていた。
「……丑三つ時ってやつか」
自嘲気味に言い捨てて、ブラインドを下ろし忘れたままの窓から外界に視線を向ける。
外界に揺らぐ木立ちは、まるで自らの意思を得ているかのようだ。風になぶられてうねる様は、あたかも海底に潜む得体の知れない生物のようにすら見える。
銀色に瞬く双眸に怒気を浮かべて小さな舌打ちをする。
――闇が囁いている。
自分の身に染み付いた呪が嗤いさざめいている。
高峯の長子は総じて短命に生まれつく。例外はただのひとつとして存在しない。
身に染みた呪。高峯の開祖が斃した魔性の遺した怨嗟が脈々と息衝いているのだとされているが、果たしてその魔性が開祖に向けてどのような呪を吐いたものであるのかを知る者は、高峯の誇る千数百年の歴史に於いて皆無に等しい。
――開祖は恋情故にひとつの里を侵したのだ。藤の咲く隠れ里。精霊達の住まう彼の地の宝珠であった女を攫い逃げたのだ。それ故に里は朽ちて失せ、精霊達は怨霊と落ちて開祖を祟った。
その真実を知るのは、今、燎ただひとりきりしか存在しない。否、燎の他には知るはずも無いのだ。
燎こそが、高峯の開祖。その魂魄が生まれ変じた者なのだから。
◇
「今日も出掛けるのか、燎」
不意に声をかけられて足を止め、燎はわずかばかり振り向いて声の主を確かめる。
「……コロ助」
応えて眼光を細め、眼前に立つ弟を真っ直ぐに睨み据えた。
弧呂丸は私立高校のブレザー服を身につけたまま、身丈の違う双子の兄を仰ぎ見て毅然と口を結んでいる。
「学校帰りか。ご苦労なこったな」
「おまえはどうなんだ。学校へは行っているのか?」
「俺がおベンキョウなんかするように見えんのか? 行ってねえよ。あいつらもさっさと除籍でも何でもすりゃあいいのに、親父が金でも積んでんのか知らねえが」
鼻先で笑って視線を逸らし、廊下を塞ぐようにして立っている弧呂丸の横をすり抜けようと身をよじる。
「そうじゃない、おまえが心配なんだ。親父たちも先生も、みんなおまえを心配してる。おまえが遊び回るのは勝手だが、少しは周りの気持ちも考えたらどうなんだ!? 私だって、」
「心配? 心配なのはてめえらの面目だけだろう。家に泥を塗らないか、学校に泥をぶちまけたりしないかどうか。そればっかりだろうが」
言って弟の横をすり抜ける。
強い眩暈が頭を襲い、陰々と響く声のようなものが耳を撫でた。
「燎?」
歩みを止めて頭を抱えた兄を気遣う弧呂丸の声がする。
燎は忌々しげな眼差しで弟をねめつけ、差し出された手を手酷く払い除けた。
「……俺に近付いてんじゃねえ」
言い捨てて、未だよろめく足を懸命に進めて廊下を歩く。
左手に続くガラス扉の向こうには色濃くなった夕闇が広がっている。――もうすぐ夜の闇が来る。
ガラス扉をひたひたと叩く夕刻の風に背筋を粟立たせ、その場を逃げるようにして高峯の家を出た。
身を包む暗色がじっとりと覆い被さるように、燎の周りに付き纏う。まるでぬめった生温い水の中を歩んでいるかのようだ。
漆黒で塗られてゆく夜の空を睨み上げ、燎は、ともすれば折れそうになる己の気持ちを奮い立たせて小走りに街へと向かった。
高峯の長子に纏わりついている呪は死への呪縛だ。
死を迎えないものなどいない。それは誰にも平等に訪れるものなのだ。
――否。それは決して平等などでは有り得ない。老いて死すのと、生れ落ちてから直ちに死すのとがそれぞれに持つ意味を異なるように、それは決して誰の上にも平等であるものではないのだ。
高峯の長子は呪を受けている。
幼少の頃より、その小さな身体を少しづつ蝕む死への序曲。意識あるままに骨の髄から啄ばまれていくような激痛を体感し、昼となく夜となく怨嗟の唄を聴かされる。眠れば夢の底で呪の種が口蓋を開けて待ち兼ねている。――救いの時など有りはしない。
むろん、これまで幾人となくその呪を退けようと試みた者もいた。高峯は呪に対抗し得るだけの異能を携えた血脈なのだ。それを試みるに至るのは至極当然の流れであっただろう。
だが、事実、その呪は未だ続いている。立ち消えるどころか、それを払い除けようとした先人達はことごとくに闇の恐ろしさを味わって来たのだ。
呪の――妖を退けようとする試みは、妖の逆鱗に触れるものとなる。そうなれば呪は長子だけに留まらず、その周辺へと伝染るのだ。必定、多くの人間が呪を受けて命を落としていった。何れも筆舌に尽くしがたい、凄惨な終幕であったという。
以来、呪に打ち克とうなどという試みを持つ行為は禁じられた。一族最大の禁忌となったのだ。
呪を受けた長子はそれを我が運命として受け入れ、ただひとり、生けるままに地獄を知り、死してなお地獄の底へと引き摺りこまれるものとなった。
その理不尽さに気を病む者も、むろん幾人となく現れた。死と苦痛の恐怖に気を病んだ者は一族にとって最大の禁忌を犯す。――故に一族では密やかながらも憎悪に満ちた諍いが絶えず生じ続けてもきた。
だが、燎は。燎だけはただひとり、この呪に幕引く術を知っている。それは恐らく燎こそが高峯の開祖、その魂魄が転じ再び生を受けた者だからだろう。
燎の生誕を嬉々として迎えた妖は、その身に憑く際、燎の魂魄にその術を吹聴し続けてきたのだ。そうして、その声が形と成って燎の耳に触れるようになったのは、果たしていつ頃からだったか。
闇は燎に蜜のような声音をもって耳打つ。
――弟を殺めよ、と。
弟が得た弧呂丸という名は高峯の開祖であった男のものだ。
開祖の名を継ぐという事実は、即ち、弟がそれに相応しい力や条件を備えているという事実をも指し示す。長子である燎がそれを継がなかったのは、幾重にも重なる理由があればこそであったのだろう。
開祖の名を継いだ弟は周囲からの期待を裏切る事なく成長している。かたや、どこの誰とも知れぬ友人達と徒党を組んでは夜な夜な出歩くような長子は、高峯の名を汚すばかりの存在なのだ。まして、長子は忌まわしい呪をも受けている。周囲の目が弟に向いていくのは必然であるともいえよう。
そんな弟を疎ましく思うわけではない。
闇に捕食され沈み往きそうになるたび、それを食い止めてくれていたのは弧呂丸だ。弧呂丸自身は恐らく意識などしてはいなかっただろうが、燎が闇に沈みそうになるたび、その安穏とした笑みで現実に引き留めてくれていたのは紛れも無く弟だった。
――なぜ弟を手にかける事で呪が立ち消えるのか。
その理由をも、妖は嘲笑混じりに明かすのだ。――言わずとも知れよう、と。
初めの内こそその理由を解する事が出来ずにいた燎だったが、しかしその謎は年負うごとに必然的に解けていった。
双子として生を受けながらも、燎と弧呂丸とは面立ちも体格もまるで違う。屈強な体躯とそれに見合った貌をもった燎に対し、弧呂丸は華奢で端整な面立ちをしている。たおやかで、どこか朧な印象をもったその様は、一見女性に思えなくもない。事実、弧呂丸は度々女性と勘繰られ、それをしきりに迷惑がっているほどだ。つまり、燎と弧呂丸は内外共に対極な位置にある双子なのだ。
東京という街には、陽が落ちた後も変わらず喧騒が満ちて広がっている。光源は煌々と灯されて闇の侵食を阻んでいる。行き交う人間達は昼とは異なる面を浮かべ、漆黒で塗り込められた天には渦巻く数多の欲望が広がってある。
纏わり憑いて離れようとしない怨嗟の闇に眉を顰めて舌打ちをつき、あらゆるもので塗られた空の暗礁を睨みつけた。
頬を撫でる夜風には冬の名残りなどもはや微塵にも残されてはいない。むしろ暖かくさえ感じられるその空気を覚えながら、じきに訪れるであろう初夏に気を馳せる。
今はまだやわらかな若草色を浮かべている緑野も、日をおうごとに見る間に青々とした色へと変じていくのだ。桜は葉桜へと移り変わる。沈丁花は芳香を失って細かな葉ばかりを残す。そうして、やがて再び藤が咲く。
仰ぎ見る夜空には月の欠片そらも見当たらない。雲が隠してあるのか、あるいはそもそも新月の晩であったのか。
仲間を捜して街中を徘徊し、そこに彼らの姿が見えないのに苛立つ。――否、記憶をかすめる藤の花が心を乱すのだ。
燎が、己こそが開祖弧呂丸の魂魄を継ぐ者であるというのを自覚したのは十歳の時分の事だ。夜毎訪れる夢の風景と、闇が放つ怨嗟の声。身を襲うあらゆる苦痛が持つ意味。千数百の時を経てもなお立ち消えぬ恋情と、己が高峯に課す事となった永代続く赦されぬ罪科。
人の気配の薄い裏通りへと渡り、閉店の看板の揺れるビルの壁に背をもたれかける。途端に全身に激痛がほとばしって、燎は思わず顔を歪めて小さく呻いた。
次いで、再び闇が嘲った。耳元にあらゆる声が流れる。その何れもが同じ言を吐くのだ。
――弟ヲ殺メヨ、サスレバ仇怨ハ解カレヨウ
――ソナタノ弟、アレハ我等ガ主タル藤姫ニヨウ似テオル。姿ヲ写シタヨウジャノウ
――オオ、オオ、アレガ姫ノ魂魄ヲモ移シテオレバ尚モ愉シメタデアロウモノヲ
――開祖ヨ、ソナタ、己ノ命ガ惜シカロウ
――――弟ヲ殺セ
――――ソノ命デ呪ガ終ワルノダト弟ニモ知ラシメヨ
――――弟ヲ贄ニ寄越セ
全身が痛みに悲鳴を上げる。
「うるせえ、黙れッ!!」
口を突いて吐き出された怒気と共に、後ろ手に壁を殴りつける。
骨が軋みを上げた。が、構わずに壁を殴り続ける。
「テメエらなんざにくれてやるはずがねエだろう、クソが!!」
闇に向けて吼えた言に、過ぎていく風が密やかな嘲笑を続けていた。
――弟ヲ殺セ サスレバソナタハ救ワレヨウ
そうして、高峯の血脈もまた呪から解放されよう。声はそう嗤って闇に融けていった。
◇
かたり
小さな音が鳴ったのを聞いて、燎はつとソファを立った。
煌々と灯したままの光源を横目に見、それが室内に洩れて入らないようにと気遣いながら音の鳴った部屋のドアを押し開ける。
そこは燎が寝室として使っている部屋だ。が、今日はそこを弟の弧呂丸が使っている。
弧呂丸は週に何度か兄の部屋を訪れ、掃除やら洗濯やら、あるいは食事はきちんと摂っているのかなどと口うるさく騒ぐのだ。
寝息を立てている弧呂丸の横には藤色の和服がたたみ置かれている。枕元には高峯の至宝、紫の宝珠が置かれていた。
宝珠に目をやった燎に気付いてか、宝珠がさらりと静かに光を帯びる。瞬間、その場の空気が一息に清廉としていくのが分かった。
身を包む闇が窓の向こうに押しやられ、燎はひとときの安堵を吐く。
「……ホント、……おまえはよく似ている」
小さな苦笑を頬に浮かべて呟きを落とした。
闇が囁くのは事実だ。弧呂丸の外貌は年おうごとに藤の姫の姿を写したように変じていく。それは他の誰に言われずとも、開祖の記憶を持つ燎には明瞭たるものだ。
闇は弟を殺せと嗤う。それはつまり、開祖が愛した女の首を縊れと言っているのと同じ意味を持つ。闇は弟を贄に寄越せと嗤う。それはつまり、かつては自分達の主であった女を贄に捧げよと言っているのと同じ意味を持つのだ。
己の命を――高峯の呪を解放するにはその術しかない。そして恐らく、それを知れば、弧呂丸は自らその選択を選ぶのだろう。それを知るからこそ、闇は囁くのだ。
「……それは、ありえねえけどな」
続けて呟く。
弟は兄の視線には気付く事もなく眠り続けている。
寝息を乱さないようにと気を配り、開けたドアを再び静かに閉じた。
閉じる刹那――それは錯覚であったのかもしれないが、宝珠が懐かしい声音で空気を振るわせたような気がして、
燎は静かに頬を緩めてうなずいた。
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
2007 April 10
MR
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