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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


花腐しの宵に





 雨が降っていた。
 夜に降る雨は実に陰気だ。まして、今は春。咲き揃った桜の花を悪戯に散り落としてゆくばかりの雨は、それだけでも随分と無粋なものであるように思える。
 
 伊葉勇輔は、やみそうにもない雨を凌ぐため、新宿の繁華街、その裏路地に建つ店の屋根の下にいた。
 暗澹と広がっている雨雲を睨むように仰ぎ、次いで革ジャンのポケットを探ってタバコを一本抜き取る。勇輔は未だ喫煙が認められてはいない年齢にあるが、だからといってそれを咎めに来る者もいない。そもそも人が通る事など滅多にない裏路地には、表立って取り引きする事の出来ない品物を取り扱うような人間しか寄りつかないのだ。
 否、もしも仮に未成年の喫煙を咎めようと思い立った人間がいたところで、それも勇輔が何者であるのかを知れば言葉を飲み込んですごすごと退散しただろう。
 ――伊葉勇輔は、新宿と言わず、東京と言う街中の至るところで名を馳せている男だ。むろん善い意味で高名を馳せているわけでは、決してない。
 ついうっかりとでも喧嘩を売ってしまおうものならば、勇輔はきっと必ず何倍もの礼をもって買ってくれるだろう。格闘術の段を所有している者も、あるいは物騒な得物を持っている者であっても、勇輔と対峙したならば、迎える結末に大差は無い。
 中には、目が合っただけで殴られただのと証言する者も少なくない。正否はともかくとして、彼がそれだけの噂を広く知らしめるだけの存在であるという事は、紛れも無く事実なのだ。
 ゆえに、勇輔を咎める者などありはしない。警察だとて、場合によっては勇輔を見逃してしまう。――もっとも、勇輔が主に根城にしている裏通りには、警察が介入する事などもごく稀な事ではあるのだが。
 ともかくも、勇輔は立ちのぼる紫煙の行方を目で追いながら小さく深い息を落とした。 
 研ぎ澄まされた名刀の切先を彷彿とさせる眼光の向かう先には、立ち並ぶ高層ビルの群がある。
 雨雲は鬱々とした黒を夜空に隙間なく広げていた。
 アスファルトを叩く雨音は止む気配すら持たず、それどころか分刻みに音高く変じてそこかしこに大小の水たまりを造り出している。
 小さな舌打ちをひとつついて、勇輔は吸い終えたタバコの吸殻を足元の小さな水たまりの中に投じた。小さな火はたちどころこに消失する。
 二本目のタバコに火を点ける。
 幾らか離れた場所に、点滅を繰り返している古びた街灯が建っている。が、それ以外には夜を照らす明かりなどろくにありもしない場所だ。
 タバコの先端で揺れる小さな火種が心もとなげに闇に浮かぶ。
 目を細め、いったんはタバコに落としていた視線を再び上へ持ち上げ、ビルの群を確かめる。
 何があるでもない。いつもと少しも変わらない、見慣れた新宿の街が広がってあるばかりの風景だ。
 だが、その中に、わずかばかりの異変が生じているのを、勇輔は視線の端で捉えたような気がした。
 ――否、それは言わば本能の端で感じ取ったものであったのかもしれない。
 確かに、その夜、東京の街には常ならざるモノが息吹を落としていたのだから。


 すとんと伸びた黒髪は雨を含んでしっとりとした重みをもっている。
 夕方過ぎから降り始めた雨は、夜半に入り、その勢いを一層強いものへと変じていった。
 眼下に広がっている世界に、色とりどりの花が咲いている。花は多様な傘だ。雨を避けるための傘が、足早に歩く人の速度に合わせてすいすいと夜を流れていく。
 いっそ、雨が降ってくれた事に感謝しなくてはならない。――少女は立ち並ぶ高層ビルのひとつの屋上に立ち、深々とした息を吐いた。
 少女の華奢な体躯を護っているのは、大した特徴を持たないセーラー服。胸元に縫い付けられたネームプレートには『赤羽根円』という名が掘り込まれてある。
 円という名前の少女は、身を叩く雨を避けるための道具も持たず、代わりに身を紅蓮の焔で包んでいる。
 紅蓮の焔は、まるで少女の背を飾る光背のように見えなくもない。が、それは確かに全身を囲い、甲冑のような役目を担って円を保護しているのだ。
 円が身に纏っているのは、四神の一、朱雀の名を冠するものだ。
 円が担うのは東京の守護。朱雀の加護を受けているのは、彼女が朱雀の力を具現し得るだけの異能を持った存在だからに他ならない。
 朱雀の焔をもって東京を害悪から守護せし者。それが赤羽根円という少女が持って生まれた宿命なのだ。
 
 円が東京を彷徨う害悪の気配を察したのは、学校が終業のベルを鳴らし終えた、その瞬間だった。
 朝には清々しい碧空が頭上高く広がっていたが、その雲行きが怪しくなったのは昼食を終えた頃の事。午後の授業が終わる頃には小さな水滴が窓を叩くようになり、ホームルームが終わる頃には碧空は見る影もない曇空へと変じていた。
 暗澹たる色を滲ませていく雲の隙間に、一点の黒い染みのようなものが生じたのを、円は確かに見て捉えた。
 染みは初めこそ定まらぬ煙のようなものであったが、雲が暗転していくのと同じくして徐々に姿形の明瞭なモノへと姿を変えた。
 魚のようだと、円はぼうやりと思う。
 雨雲や、それによって薄暗く沈んでゆく空気の中を、それはさも身軽そうに跳梁しているのだ。
 魚のようなそれは、しかし、円が校門を出てそれを睨み据えた瞬間、ひときわ大きく飛び跳ねて、次の時には行き交う人の何れかの内にするりと潜り込んでしまったのだった。
 ――中々に賢い異形だと、妙な感心をすら抱いた。
 異形は人の内に混ざりこむ事で、その気配を薄らぼうやりとしたものへと変えたのだ。
 まして、もしも仮にそれを見つけ出せたところで、人の皮の内にある限り安全の確約はなされる。ついでに、人の内にある様々な陰たる気を吸い込んで、より強大な力を身に宿す事も可能となるのだから。
 下校の途についた生徒達を懸命に目で追いながら、円は知らず毒づいた。
 異形の気配は、見渡す限り、もうどこにも見出す事が出来なくなっていたのだ。


 ふと、勇輔の視界に奇妙な人影がひとつ映りこんだ。
 人影、だろう。傘も差さず、濡れそぼった身を重たげに引きずりながら、酩酊した者であるように、ふらふらと定まらない足取りで闇の中を横切っていく。
 あるいは薬に手を出してしまった中毒者かもしれない。そう思いながら眉をしかめ、勇輔は、次いでその人間の背に伸びる得体の知れない触手のようなものに目を向けた。
 蛭のような――それともミミズのようなもの。ともかく、それが次々と背から生えてくるのだ。その人間の背は、たちまち無数の触手で埋め尽くされた。それが羽のようなものであるのだと知れたのは、突然にその人影が宙に浮きだったからだ。
 ――人ではない、……それどころか、おそらくはこの世のモノでは有り得ない。
 そう感じ取って、刹那背筋を粟立たせた、その時だ。
 
 闇の中に大きな焔が立ったのだ。
 空から振り落とされた雷のように、炎は大きな柱を伴って眼前に降り立ち、周囲は瞬時にして眩い光源に照らされた。
 視界が光源に慣れるのを待つ間、勇輔は目を細ませながらも光源の主を真っ直ぐに見つめる。
 焔の真ん中にあるのは勇輔と同じ年頃を思しき少女の姿だった。日本人形のような黒髪と、細身の体を包む黒々としたセーラー服。
 焔の柱は程無くして消失し、代わりに甲冑のようなものへと姿を変えて少女の身を包み込んでいる。
 目が慣れて、やがて少女の面立ちをも明瞭に捉える事が出来るようになったのと同時に、勇輔は自身の意思とはまるで無関係に、雨を凌いでいた軒下を飛び出して駆けていた。

 異形は思いもよらずに力を貯えていた。
 円がそれを見出したのは、おそらく、異形がもう人の内に身を潜めておく必要がなくなったからであったのだろう。あるいはその力が大きく膨らみ、ゆえに朱雀がその臭いを嗅ぎ取ったためであったかもしれない。
 異形は老いた男の身の内にいた。
 男は公園の一郭に住まいを構え、古びた木製の椅子の上で屍体のように横たわっていた。
 手には血がこびりついた鎌が握り締められていて、椅子の裏、やわらかな芝生の上には数体の若者が無残な有様で転がっていた。
 戯れに浮浪者を狩りに来た者――おそらく、それも異形が憑いた人間であったのかもしれない。それが老人の元に寄り、そうして逆に殺されてしまったのだろう。異形は若者から老人へと棲家を移した。それだけの事であったのかもしれないのだが。
 血のこびりついた鎌を抱え持ち、安寧と眠る老人を見つけ、円はたちどころにそれが異形の苗床であるのを知った。
 元来、確固とした器を持ち得ぬはずの異形が、今は確かな形をもって老人の身から漏れ出ている。
 老人の体は異形によって貪られていた。
 老人は安寧の眠りの内に、生きたままでその身を殺がれていたのだ。
 雨が叩くその身を焔で包み込み、もはや生き延びる事の出来ぬであろう老人の内から異形のみを焼き滅そうとした矢先、しかし、異形は既に他の人間へと跳梁し終えていた。
 屍だとばかり思っていた若者の内のひとり、――いや、それは確かに屍となっていた――それが眼前で大きく跳ねあがり、そうして闇の中へと姿を消したのだ。
 それを追って新宿へと入り、以降、宙を跳梁する魚のごとくな異形を捜して高層ビルの頂上にいた円だが、ついにそれを追い詰めたのだった。
 人気のない裏路地に異形を追いやり、ようやくそれを滅する事が出来る、と。――そう思ったのも束の間。
 円の視界に、年頃の変わらぬ見目の少年が映りこんだのだ。
 革ジャンにジーンズ、足にはいかにも頑強なブーツを履いている。
 目許を覆う長い前髪が、少年の表情を巧妙に隠していた。それが足早に円に向けて走り寄って来るのだ。
 円は、内外共に舌打ちをした。
 異形は、もはや腐り朽ちていくばかりの屍の内に宿っている。対して、視界に映る少年は見目にも屈強な、猛々しい若さと力とを備えているのだ。
 異形は間違いなく少年の内に宿を移すだろう。そうなればまた厄介な事になる。――面倒事がこの後もまだ続くのだろうかと、鋭利な眼光に怒気を籠めて少年を睨みつけた。

「おい、おまえ」
 少年――勇輔は少女と異形との間に幾分かの距離を置いて足を止めた。
「それ、……バケモンか」
 異形を真っ直ぐに睨み据え、勇輔は低く言を落とす。
 円は勇輔の言葉に応える代わり、勇輔を睨み据えていた眼差しを持ち上げて異形の面をねめつけた。
 勇輔は応えの無いのに気分を害したが、次の言を述べるより先に、円の身を包む焔の柱が一層烈しい炎を宿したのだった。
「それ以上近付くな」
 告げられた円の声は全面において勇輔の存在を拒絶するような色をも漂わせている。
「さっさと消えて」
 勇輔には一瞥をすら向けず、円は降る雨よりも冷ややかな声音でそう続けた。
「いや、」
 勇輔が応えようとした、その時。
 異形が大きな跳梁を見せ、夜の曇天めがけて高く浮揚した。それを追って円の身もまた跳梁する。
 自身の目を疑う勇輔の眼前、少女と異形とが空中に浮揚し、その位置で空気を踏みつけているかのように留まった。円の身は闇を焦がす紅蓮で覆われている。降る雨がその紅蓮に触れ、たちどころに気化していくのが見えた。
 円の手に炎の一片が集約された。集約された炎は一本の薙刀を模した形となって、その先を異形に向けて閃く。
 目を瞬く事をすら忘れ、勇輔は自分の頭上で起きている非日常的な風景に見入った。
「……尻尾巻いて逃げるわけにもいかねえだろうがよ」
 呟くも、どう対処していいものかも知れない。
 人間ならば、例え銃器を持って来られたとしても、およそ負ける気はしない。いつものようにことごとくに急所を狙い、相手が意識を手放すまで延々と殴り続けるだけなのだから。
 だが、今目の前にいるのは、人間とはかけ離れた存在だ。少女は人間であるのだろうが、明らかに常ならぬ力を行使している。
 ――逃げ帰るのはプライドが許さない。だが、果たして自分に何が出来るというのだろうか。

 惑い続ける勇輔の頭上では、円が朱雀の力をもって創り出した薙刀を使役して異形を退けていた。
 異形は、確かに強大な力を身につけていた。苦戦を強いられている事に変わりはないが、だからといって今さら負ける気もしない。
 薙刀を大きく振るって異形を圧倒する。
 異形は薙刀の威力によって地面に叩きつけられ、わずかながら呻いた。呻き、その眼孔を勇輔へと向ける。
「ちょ、逃げなさいって言ったのに……っ!」
 円が異形を追って地に降り立った。
 異形は既に勇輔を目掛けて突進を始めていた。次いで大きく跳梁する。――異形は新たな体を得るための準備を整えたのだ。
 だが、勇輔は眼前に迫る異形を見つめながら、その口許に緩やかな笑みを浮かべていた。
 つい先ほど、背筋を粟立たせた未知なる感覚。今、あれはもうすっかりと消え失せている。
 少女が何事かを叫んでいる。おそらく、逃げろとでも言っているのだろう。が、勇輔は構わずにその場に踏みとどまる。
 死臭を放つそれが目と鼻の先にまで迫った時、勇輔はいつものように拳を握りしめ、それを真っ直ぐに異形へと向けた。
 腐った肉を殴りつけたような感触。そのすぐ後、弾かれたように異形が飛んだ。
 吹っ飛ばされた異形が転がった先には円が待ち構えていた。円は薙刀の切先で異形の急所を突いて地面へと縫い止め、異形の咆哮が闇に残響したが、やがてそれも消えていった。

 雨は未だ続いている。
 セーラー服の少女の身を護っていた焔は、今はもう消失していた。
「で、さっきのあれは何なんだ? おまえは何者なんだよ」
 一瞬の隙も見せずに歩み去ろうとする円を掴まえて、勇輔は浮かぶ限りの疑問を少女に向ける。
「私に構うな」
 少女は、やはり勇輔を一瞥しようともしない。
 整った顔立ちを横から眺め、勇輔は引く事を知らずに疑問をぶつける。
「俺も少しは役に立っただろ? なあ、手伝ったんだし、普通はお礼っつうか、なんかそんぐらいしてもいいんじゃねえの?」
 早足で歩く少女の傍らに立ち続けながら勇輔は頬を緩めた。
 と、少女の足が動きを止める。
「――なるほど、お礼。……そうよね、お礼ぐらいしなくちゃね」
 言って、円はくるりと勇輔に向き直る。
「そうそうそう。だからさ、とりあえずその辺で茶でもしていかねえ?」
「お茶」
「そうそうそう」
 いい店を知ってんだと続けようとした勇輔を、次の瞬間、円の拳が見事に捉えていた。
 華奢な円が仰ぎ見なくてはならないほどの体格差をもった勇輔は、しかし、円の拳によって文字通り後ろに吹っ飛んでいた。
「な、」
 殴られた頬を押さえながら円を見上げる勇輔に、円は冷ややかな一瞥を向けて言い捨てる。
「私に関わるな」
 
 吐き捨てるようにそう述べて、少女は早足で夜の中へと姿を消した。
 勇輔は少女の後姿をぼうやりと見送り、やがて思い出したようにその背中を追ってみたが、そこにはもう円の姿を見つける事は出来なかった。
 殴られた痛みの残る頬を片手で撫でやりながら、勇輔はふと頬に笑みを浮かべる。
 向き合った瞬間に確認していたネームプレート。そこに書かれた名前を小さく繰り返した。
「赤羽根……円か」
 円、と。再びそう呟いて、未だ晴れない夜の空を仰ぐ。
「また会おうぜ、円」


 果たしてその言葉は後に現実のものとなるのだが、それはまだもう少し先の話。  




 
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.

2007 April 16
MR