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赫い花、皎く
甘く、甘く、甜く。
いっそ噎せ返りそうになりそうなほどの予兆を漂わせ、ふっくらと綻びはじめる春の化身。
桜色、薄紅色と評されるその色は実に様々で、年により、時により、場所により。感嘆の溜息を道連れに人の目を魅了して止まない。
「あれれ、こんなとこで出会うなんて奇遇だね」
漆黒の衣装に身を包み夜闇に紛れていた男は、不意に現れた来訪者に相好を崩した。
彼が佇んでいたのは、一本の大木の根元。
紫の双眸が見上げていた先には、今にも開き出しそうな無数の櫻の蕾たち。
「知ってるかな? 桜は人の血を吸って赤く染まるんだって」
誰に問われたわけでもないのに、青年は確かな命の脈動を宿す幹に手を寄せ、淡々とした口調で事の突端を開く。
見渡せば、一帯には点々と櫻の木々。終点の見えない世界で、数え切れないそれらは薄明かりに照らし出されたように、ぼんやりと存在を浮かび上がらせていた。
どれもこれも見事な蕾を腕に抱き、目覚めの時を静かに待っている。
「これはね、根も葉もない噂話じゃないんだよ。櫻は人の血を吸って色付くんだ。決して目には見えない、悲しみや憎しみ、嫉妬や羨望、怒りに憂い、苦しみ――そう人一人の心では到底抱えきることができない『負の感情』という名の心が流す血を吸って」
だから、人は桜を見上げた時に純粋に美しいと思えるのだ。
その花に、心の病んだ部分を癒し救われているから。
「でもね……この櫻は、もう限界なんだ」
男は、つっと手を伸ばす。
その指が触れるか触れないかの位置にある蕾の先は、おおよそ桜らしからぬ赫い色に濡れている。
「長い年月、人の陰の部分ばかりを吸い続ければ、やがて崩壊の刻は必ず訪れる。永久の無限などどこにもありはしないのだから」
言うと、男は可憐な小さき命を掌中に握りこんだ。
あ――と、制止する間もなく僅かに力を込められた指先から、粉々に砕け散った冠になり損ねた花弁は、チラチラと星屑のごとく赤い光を纏って闇に四散する。
「赤は命の色であると共に禍の色。もしこの花が咲いてしまったら、風に乗って多くの災厄が世に広がるだろう」
そうして人は嘆くのだ。
全ての源は自分が救われた事への代償だという事を知らずに。
何故、どうして。自分だけが――と。その叫びが更なる火種を生み出すことになるとは夢にも思わず。
「世の中、ギブアンドテイクなんだよね。別に僕はそれでも全然かまわないんだけど……でも、君はきっとそれを望まないだろう?」
何一つ――そう微塵さえ――残らぬ手の平を、ひらひらと揺らしつつ、男は悪戯っ子のような笑顔を浮かべ笑った。
「要はこの櫻を浄化してあげればいい、それだけだよ。凝ってしまった憎しみを、悲しみを。様々な負の感情を取り去ればいいんだ。そしたらこの櫻は、皎(しろ)になる」
難しい事なんて何一つない。
ただ、この櫻に触れ向き合うだけでいいのだ。
「必要なのは負の心に対する君の強い気持ちだけだよ。この櫻がこれまでに吸い上げてきた人々の『妄執』とも言える心の欠片と対峙する強さを」
簡単だろう?
口の端を上げて笑みを模ったままの男の瞳からは、いつの間にか人を揶揄するような色が消えていた。そう、彼の発する言葉とは裏腹に。
「負の感情を抱いたことがない人なんて、僕はいないと思うけど。そんなキレイさ、僕は信じちゃいないけどさ」
この木を浄化したいのならば、自分の中の負を知っていなければ駄目だと男は言う。
「自分の中にある醜さを知らずして、どうして他人の闇にまで踏み込めると思う? 大事なのは、まずは自分の中にあるものを見返し認めることだ。そこから、だからどうありたい、どう向かえばいいのか示せばいい」
半端な覚悟で挑めば、己の心が砕け散るだけだよ。そう、さっきの蕾のように。
くくくっと喉の奥で笑い、男は櫻への道を譲るように身を翻す。
「首尾よく浄化できたら、今年の桜は格別なものになるかもしれないね。大切な人と見上げたら、きっと幸せを約束してくれるに違いない――命果てるまでの、だけどね」
甜く、甜く、甘く。
ねっとりと絡みつくような血の甜さから、花の蜜のような甘さへ。
赫く染まった櫻の命運は――人の心の残香は、あなたの手の中へ。
「三者三様ってのは、まさにこのことかしら?」
足を一歩踏み出すごとに、ポワリと淡い光がそのつま先を彩る。
引き寄せられるように歩いてきた道を、帰りに迷子にならぬための標のように。
だがしかし、これは夢の世界。
いずれは覚めて終わるもの。その時がくれば、否応無しに現実へと立ち戻らされるはずだ――ここでで起こった全ての事の結果如何に関わらず。
「夢は脳が理性という制限を取り外して奔放に紡いだ物語だと聞いたことがありますが……それにしても、これは誰の夢なのでしょうね?」
リィンっと。
幾重もの輪を描き広がる波紋のように、そして高くもなく低くもない鈴の音の響きを纏い、人の声が一帯に染み入っていく。
けれど、それも束の間のこと。
摩擦ゼロで永遠にどこまでも繋がっていくように思われた音の連鎖は、木々の間にいつの間にか消えうせる。その境がどこであるのか、気取られぬことなく。
「………二人は……知り合い、か?」
まだ少女の域を完全には脱しきれていない容貌の少女が、どこか親しげな雰囲気を醸し出す大人二人を前に、ポツリと呟く。
人は夢を見ているとき、それが夢であるとはなかなか気づかないものである。移り変わる場面の全てを『現実』として受け止め、やがて目覚めた時に己の身に起こった様々な架空の出来事に時に笑い、時に胸を裂かれる。
けれど、彼女――千獣はこれが夢であることを速やかに理解していた。
それは身の内に眠る種種の獣の能力というよりも、相対する人物の身なりや雰囲気から。
千獣の住まう世界には、それこそ数え切れないほどの種族がいれば、多種多様な文化や文明が存在する。決してその全てを彼女が記憶に留めているわけではないけれど、それでも彼と彼女の住まう世界が根本から異なることは分かった。
だのに、その存在感は明確な個を主張するに余りある――つまり、ただの『夢の中の登場人物』で終わらせられない命の光。
「そうね。私たちにとっての現実世界でとても馴染みのある友人ってところかしら。初めまして、私はシュライン・エマよ」
「友人というより、戦友という言葉の方がしっくり来るような感じがするのは――あぁ、せっかくの夢の中での逢瀬なのですから、怪奇事件のことは棚に上げることにしましょうか」
シュラインと顔を見合わせ笑ったセレスティ・カーニンガムが少女に向かって手を差し伸べる。
ふわりと揺れる澄んだ水を思わせるセレスティの銀髪が揺れる様を眺めながら、千獣はは無言でしばらくその手に視線を落とした。
「……私は……千獣だ」
「私はセレスティです。よろしく、千獣さん」
白く美しい、まるで陶磁器で作り上げられた脆く壊れやすそうなそれに触れて良いのか暫し考えた後、千獣は己の呪符を織り込んだ包帯が巻かれた腕をおずおずと差し出す。
外見の年齢には似つかわしくない、どこか幼い仕草。野に生きる獣が、初めて出会った人間に、好奇心と警戒心の狭間で鼻先を寄せるような。
「どうやらここは夢の交差点ってところかしらね。せっかくだもの、短い間かもしれないけど、仲良くしましょう」
千獣とセレスティの手が重なるのを柔らかい笑みで見守っていたシュラインが、花々の間を縫う春風のように颯爽と姿勢をただし、頭上に枝を広げる櫻を見上げた。
現実味を伴わない不思議怪奇はシュラインもセレスティもお手の物だ。
だからこそ、迷うことなくここが現(うつつ)ではなく、けれどまどろみの合間に落ちるただの夢の世界でないことも即座に理解しえた。
「まったく、やっかいな習慣が身についちゃったもんだわ」
言うほどの嫌悪は感じさせず、むしろどこか楽しむような色を添えて、シュラインは無言のまま自分たちを眺めて立つ漆黒の男にむかって言葉を投げる。
「……じゃ、そろそろ始めようか」
相変わらず、人を食ったような雰囲気を崩さぬまま、男はさらに一歩後に引く。そして作ったことが見え見えなうやうやしさで、三人の背中を押すように右手を動かした。
さぁ、どうぞ。
その仕草の意図することに、シュライン、千獣、そしてセレスティはゆっくりと歩を進める。
そして何かに願うように、両の手をごつごつとした感触の幹の表面に押し当てた。
巻き起こったのは、渦巻く風――嵐が訪れる予兆。
ドゥっと視界に広がったのは無数の赤。
否、無数と表現するのは間違っている――何故なら、そこは一面塗り潰された世界だったから。
ねっとりと、その赤を頭から浴びてしまったような錯覚に、千獣はどこか感慨深げに自分の掌を眺める。
櫻の表皮に触れている感覚は続いている――けれど、赤い視線の下にある紅に染まる両手もまた生々しいまでのリアルさを持つ。
どこからどこまでが『今』の『本当』なのか、徐々に霞がかかってくるように分からなくなる。
心を支配していくのは、ただ赫。
今にも花開きそうな蕾の色――そして、千獣もよく知る色。
「……そう、この色。よく……知っている」
強風に舞い踊る漆黒の髪が、千獣の頬を叩く。それを五月蝿げに首を振ってかわした瞬間、千獣の鼓動が跳ねた。
そう、覚えている。
幻覚ではなく、心に描いただけの空想でもなく。
彼女は確かにこの色に、頭から染まったことがある。
どろりとした、未だ生温かい血に。自分が流したものではない、他の生物の体から溢れ出した――それが人だったのか、獣だったのか、はたまたその両方なのかは、余りにも数が多すぎていちいち記憶には留めていないけれど――生命の証に。
自分の手で、牙で、穿った傷からとめどなく湧いて零れたソレ。
いつからそうしていたのかは定かではない。
世界に誕生の産声を上げた瞬間の記憶など持ち合わせていないから。ただ、物心というものが芽生えるずっと前から、『人』としてこの世に生まれ落ちたはずの千獣は、魔性が住む深い深い森の中にいた。
「………怖かった………」
出会うもの全てが敵。小さなたった一つ分の命さえ奪おうとする、弱肉強食の食物連鎖。
殺さねば、殺される。
喰わなければ、喰われる。
初めにあったのは『恐怖』――しかしそれは『憎悪』へと移り変わっていく。
幾億分の一の幸運か、永らえることに成功した命は、やがて同族と出会うことになる――いや、同族であったものと言うべきか。
人と言うにはあまりにかけ離れた能力を得てしまった――それが彼女が生命を留める唯一の方法であったにも関わらず――千獣を、二本の足で歩き、細やかな動きのできる手で様々なものを作り上げる生き物は『化け物』と呼んでは、愛らしい赤子には満面の笑顔を向けることの出来る顔を汚らわしいものを見るように歪めた。
ツキリと胸の奥が痛む。
戦いで負うそれとは比べ物にならないほど小さな痛みなのに。でも、その痛みから全身を真っ二つに引き裂かれるような気がして。
千獣は固く瞳を伏せた。
誰も、誰も。誰も教えてはくれなかった。
だから覚えたのだ。牙には牙で返すことを。
貫かれそうになるならば、貫き返すことを。
奪われそうならば、奪ってしまうことを――そう覚えるしかなかったのに。それが悪い事だなんて、それ以外の方法があるなんて。誰も誰も誰も誰一人も、千獣には教えてくれなかったのに。
「あ……あ……あ゛………あ……っ!」
言葉さえ覚束ないのは、それを知って間がないから。
ドクドクと早鐘を打ち出した鼓動に、胸の内側から溢れ出す赫に染まった想いを途切れ途切れの叫びに変え、千獣は天を振り仰いだ。
瞳に飛び込んできたのは、先程よりも綻んだように見える蕾たち。
枝の姿はどこにもなく、ただ彼女の視界の全てを、まるで血で出来た染みのように点々と埋め尽くす。
「………だ……だめ……だめ、だっ」
ふっつりと切れてしまいそうな意識の糸を必死に手繰り寄せ、千獣は唇を強く噛み締める。
どこまでもどこまでも凪いでいた。
掌には櫻の感触が残っているのに、けれどセレスティが立つのは波紋一つ立たない水の上。
見渡す限りの静かな水面は、セレスティとは反対側――つまり己の内側に無数の蕾を抱いている。
これは夢の世界だ。
日頃彼を制約するものは、この世界では瓦解する――はずなのに。永い時間をそうやって過ごしてきたからか、セレスティの青い瞳に繋がる視神経が今の状況を精緻に脳に伝達することはない。
「ようは意識の持ち方、なのでしょうけどね」
誰に聞かせるわけでなく、どこか自嘲的に笑みながら、セレスティはゆるりとその場にしゃがみこんだ。
近くなる、鏡のような水面。
おそらくは自分の表情を間近に捉えているであろう、けれどそれがはっきりとした輪郭を得ることはない。
「……そう、負の感情など普段は意識さえしないのですが」
手を伸ばす。
指先に伝わる感覚は、ひんやりと冷たく、そして柔らかい。だが、そこから何かが生まれた気配は微塵もありはしない。
何もかもが揺らぐ事さえ捨ててしまった世界。
感動も、喜びも、何もない。
あるのは無。
触れているのに、触れることのない――最初から何もないのだと声高に叫ぶ無。
「……自分を見たくない、それが理由かもしれません」
言葉だけが零れる。
まるで頬を伝う涙のように。自身では流していることさえ気付かぬ、堪えきれない感情の発露の結晶。
いまさら己の体の不自由を呪ったり嘆いたりすることはない。
何故なら彼の本性は人ではないのだから。人としての性の方が、セレスティの生誕より後についてきたものなのだから。
研ぎ澄まされた感覚は、光を辛うじて感じる程度の視覚を補ってあまりある。杖がないと歩行が困難な足だって、慣れてさえしまえば苦など感じない。
そう思っているのに。
だからこそ、衝撃にチラとさえ揺れることのないこの水面のように凪いでいられるのだと――負の感情などとは無縁だと信じていられるのに。
ギリっとした肺の奥から湧き上がるような鈍痛に、セレスティは軽く拳を握った。そして押さえきれない衝動に駆られたように、その手を水面へと叩きつける。
それでも水面からは何も返らない。
最初から何もなかったように。
優雅な笑みが刻まれる事の多い表情から、全てが抜け落ち、虚ろが瞳に忍び込む。
「……なぜ、なぜ」
短く繰り返し、一度、二度と握った手を振り翳す。
苛立ちを形にしたような仕草なのに、セレスティの発する気からはその感情は微塵も感じられない。
強く、彼が自分自身を律する証――逆にそれが酷く切なく悲しくて。
この世界に今、セレスティ以外の生ける存在があったならば、たまらず寄り添いたくなるほどの細く長い苦しみの糸。じっと目を凝らし、息をとめて見守らねば容易に見逃してしまいそうな。
「……違う」
不意に動きを止め、セレスティは幽鬼のようにふらりと立ち上がる。
「気付かないフリではなく……」
愛しい者の顔を見たいと、願ったことはなかったか。
隣にあるのに、確かな温もりを感じられるほど近くにあるのに、感覚でしか捉えられないことを嘆いたことはなかったか。
動かぬ体で、負担になっていはしないかと不安になったことはなかったか。
口に出すのは憚られ――そうしてしまい、肯定されるのが怖かったから――我知らず追い詰められた精神は、体調を崩すという形で表に出たことはなかったか。
「……自分の中の負の感情を知り尽くしていない……だけ?」
知らないでいれば、脅かされることもない。
いつの間にか戒められていたのだろうか、自分の心は。いや、そうやって永い時を生きるが故の負荷から、守ろうとしてきたのか――声無き悲鳴をあげながら。
幼い赤子が母の腕を求めるように、セレスティは導かれるように両手を空へと掲げた。
流れる清水のような髪が、肩から背へとするりと零れる。
その時、何の予告もなく轟音と共に幾つもの水柱があがった。
巻き上げられる水中の花は、うっそりと笑むように綻びはじめ、まるで血の涙のように白磁の頬に降り注ぐ。
「そうね……厄介ごとに巻き込まれるのは本当に日常茶飯事だわ」
不安定なリズムで、近くなり遠くなり、そしてまた近くなるざわめき。
規則性など皆無なようで、だがしかし、人の心に要らぬ荒波を植えつけることにだけは特化した、日々の中から漏れ出る音。
会話する者など誰もいないのに。
ただ無言ですれ違いを繰り返しているだけなのに、どうしてだかそこには心の平穏を乱す響きが生まれる。
流れ行く顔のない人々。
残像のようにシュラインの周りを、ただ滑るように過ぎ去っていく。
なのに、肌を刺激するのは人の存在感。完全な無関心であるはずなのに、じっとりと汗ばむように全身に絡みつく。
「意識の坩堝……かしら?」
一点に集中しようとする気持ちを逸らすように呟いて、逆にシュラインは口内がカラカラに乾いてしまうほど、自分が緊張していることを気付かされた。
心を落ち着かせるように、言葉を紡いでみる。
謎を解明する時と同じく、一つ一つを最初から紐解いてみるつもりで。
しかしそれが功を奏さなかったのは、額にかかった前髪を払おうとして、自分の手の平が汗腺から染み出した塩分を含む体液に湿っていることで白日の下に晒された。
どこか遥か高みから見下ろしているように、冷静な目で判断している自分も存在している。それは両手から伝わり続ける、櫻の幹の感覚で知る事ができた。
おそらくここは。
櫻が見せる、己の心の中の負の感情の顕れ。
つまりは自身の奥底に眠るものであり、そしてまた櫻が吸い上げてきたものの片鱗。
「私の中であり、外でもある。外でありながら……でもきっと、この中に私の心の中にあったものもある」
ザワリ、と。奇怪な虫が蠢くようなざわめきが、一段と大きくなる。
見渡す限り、人、人、人、人―――さながら先ほど見上げた赤い蕾のように。彼女の周囲を、物言わぬプレッシャーで押し潰してしまいそうなほどの。
「……そうよ、怖いわ」
口にして、認める。
そう、人は疎ましく怖いもの。
今、この瞬間に全てに背中を向けて駆け出したいほどに。
「信用なんて――出来はしない」
がくりと肩を垂らし、シュラインは足元に視線を落とす。
広がるのはぽっかりと空いた深淵の口。どこまでも続く暗く黒い闇色の世界は、おいでおいでと手招きをしながら甘美な声で歌う。
一歩、足を踏み出せば。
この深い世界に身を投じれば、約束されるだろう一人きりの場所。誰に煩わされることもなく、偏見や悪意、奇異の視線などからは無縁で過ごせるだろう。
癒えたつもりでいる、幼い頃に受けた心の傷。
大人になった今ならば、一蹴に付し終わってしまえたであろうこと。でも、そう出来なかったから。そしてそれは、今も確かにシュラインの中に根付いている。磊落に笑うその下で、小さな炎がチラチラと燻り続け、完全に鎮火することなどありえない。
「……そう、信じられないの」
微笑は仮面。
身を守る術。
自分の内側に踏み込ませないために張り巡らせた有刺鉄線。手を伸ばすものを拒絶し、そしてまた羽ばたこうとする自らの翼さえ傷つける。
ジンっと目頭が熱を訴えた。
泣き出したいのは、何故。
怖いのか、この雑踏が。見ず知らずの人々の中にあることが恐怖なのか。無関心が、忌避に摩り替わることへ慄いているのか。
「……違うわ」
否、違わない。
小さな呟きを否定する胸の内に、シュラインはギリっと歯を食いしばった。じわりと広がる赤い鉄の味。力を入れすぎて、どこかを切ったのかもしれない。
だが、今は。その痛みが、冷たい魔手のように忍び寄る負の感情から、シュラインを奮い立たせる。
逃げるな。
前を向け。
視線を天へと上げろ!
いつも隣にいる誰かの声が、耳の奥でこだまする。
それに応じるように、シュラインは足を踏ん張り、胸を張って濁った都心の空の色のような重い鉛色の天を睨みつけた。
湧き上がる思い。
「そうよ、怖わ。いつだって怯えてるわ――でも、それさえも全て一人では始められないことだから。負の感情、それもまた偽り無い人の一面。だからこそ、交わりは生まれる」
叫ぶ。
同時に、金属が破損するような甲高い音がして、人の波が砂塵に変わった。
足元を掬われる――細かい粒子に。
一つ一つに宿る、かつては誰かの断片だった心の欠片。
今日イヤな事があったの。
電話が繋がらない、何をしているか不安。
なぜ、どうして。誰もわかってくれないんだ。
自分はあの人にはなれないのに。
学校いきたくないなぁ……
一回ぶん殴ってやんないと気がおさまらない。
明日、どうしよう。
あの時、右を選んどきゃ今頃万々歳だったのにな。
……いなければいいのに。
いらないんなら、とっとと捨てれば。
来るなって言ってるのに、ワケわかんないヤツ。
ウザイ。
また怒られる。
なんにもなくなっちゃえばいいのに。
どうせ頑張ったって意味ないし。
些細な事ばかり。
小さな花で抱えられるのは、人の手の平にすっぽり納まってなお、掌中に余裕が残るほどのもの。
けれどほん瑣末な事も、心に根を下ろしてしまっては、やがてそこから大きな歪を生み出す。
「……大丈夫……?」
目を開けていることも辛い砂嵐の中、千獣はセレスティの姿をみつけて手を差し伸べた。
どこをどう歩いてきたかは知らない。もしくは移動なんてしていないのかもしれない。
ただ体には長い長い距離を移動してきたような疲労感が残っているから。だから、自分より繊細に見えたセレスティの体を慮った――ごくごく自然に。
「えぇ、大丈夫です。あなたこそ、痛くはありませんか?」
半ば砂の中に埋もれてしまった足を、千獣に引きずられるように動かしながら、セレスティは千獣の口の端に浮かぶ鮮血の気配を案ずる。
案じられても、案じることを止めることはできない。気負いが生まれたとしても、それでも自分の中にある誰かを労わる気持ちは本物で。
「よかった……二人とも無事みたいね」
いつの間に駆けつけたのか、シュラインが二人の肩に手を添える。
彼等は他人だ。しかしそれが何だと言うのだ。この世界にいるのは殆どが他人、血縁者とてそれに近いことが多い。
「怖がってちゃ、何も始まらないのよ」
綺麗でも、どす黒くても関係ない。
それを垣間見ることで、人は安堵を覚える。対する存在が、また感情を有するのだと。そうすればまた一歩、歩み寄れる。
「……共に……生きれるんだ……」
手をとってくれた人がいる。牙ではなく、安らぎを与える為に差し伸べられたものがある。赫に沈んでいたにも関わらず、優しく、温かく。
「認めるのは怖いこと……です。指摘されるのは辛い――でも、だからこそ真実が見える。愛されている事を知ることができるのでしょう」
ひた隠しにして、そして周りからもオブラートで包まれるように扱われたとして。いったいそこにどんな関係を構築できるというのだろう。それこそ砂上の楼閣に過ぎないのではないか。
寄り添った三人は、互いに輪を描くように手を取り合う。
輪は、和に。
それは繋がりの形。
負の感情は、決して優しいものではない。受けとめようとすれば、血を流さずにはいられないだろう。
「でも、それってサインなのよね。何を欲しているのか、期待してるのか。誰かに対して抱くのよ――一人じゃ決して抱けないもの。誰かがいるから抱ける、一人じゃないことの証みたいなもの。心を映す鏡」
視界を埋め尽くさんばかりの砂は、いつの間にか真紅の花弁にかわっていた。
それを半ば意地になりながら視界に納め、シュラインは徐々に自分が笑い出したくなっていることに気付いた。
悲痛な叫び、胸に突き刺さる刃のようだけれど。
結局、それがあるから目を向けられる。人の心だけでなく、自分の心の中にも。
「本当は切り捨てる必要などないのでしょうね。だって、それも確かに自分なのですから」
自分の言葉に、セレスティも淡く笑む。
目を背ける必要などないのだ。正面から対すれば、すんなりと染み入ってくる優しいものに生まれ変わるかもしれないのだから。そう、誰かと共に在れば。互いに真実を共有できる相手ならば。
「今でも……あの赤に沈みそうに……なることは……あるけど。でも……あるから。胸の中……なくせない、ぬくもりが……」
理不尽だとは思わない。
自分一人しかいない世界なら、負の感情も正の感情も生まれてこないのだろうけれど。何かに一喜一憂することなど、最初から起こりえないのだろうけれど。
けれど人は他者と交わるからこそ、生きていける。そこで生まれる産物は、何もかもが糧になるから。
「もう、色々ぐるぐる考えるのは面倒くさいから。全部まとめてババっと来ちゃいなさい!」
「シュラインさん……それはちょっと乱暴ですよ」
痺れを切らしたように、シュラインが仁王立ちにも似た姿勢で花弁たちを睨みつける。そんな乱暴な、と笑いながらもセレスティも友人の後に続く。
人から櫻へ移ったものだ。ならば移し返してもらうのが礼儀かもしれない。身の内に凝ってしまったとしても、日々の生活の中にはそれを浄化できる、喜びや笑いといった正の感情がある。
「……おいで。今度は……私たちの番……だよ」
千獣も、顔を上げた。
優しい瞳で、慈しむように赫い花弁をみつめて蕩けるように柔らかく微笑む。
ずっと、ずっと。
永い間、一人で抱えてきてくれて――ありがとう。
心の中に浮かんだのは、謝辞。
その刹那、どこからともなく溢れ出した奔流のような光の連なりに、全てが皎い光に染まった。
そこはまるで一面の銀世界。
雪を形容するに相応しい言葉を用いたくなるほどの、白、白、白、白、皎に一帯は埋め尽くされていた。
まさに零れんばかりに今が盛りと、咲き誇る可憐な花たち。あまりの見事さに、それを抱えた枝が申し訳な気に頭を垂れる。
はらはらと、肌に感じぬ風に踊る花弁。それはまさに、天から降り注ぐ清浄の使者に似て。
時間は、おそらく瞬きするほどしか経過していないのだろう。
じわじわと戻ってきた現実感――夢の中で抱くには不思議な感覚だが――に、三人はどこか疑うような心地で、広がる皎を見上げた。
幹に触れていたはずの手は、互いのそれを握り繋がっている。そして和の中心に、温かみの増した気がする櫻の木。
ほんの少し前までは、今にも綻びそうな赫い蕾をつけていたのに。今は眩しいほどの皎に染まり、まるで天使の翼のように空へと広がる。
「やぁやぁ、見事に真っ白になったもんだね」
俄かには信じがたい光景ゆえに訪れた沈黙を、この場には不似合いな相変わらずの黒一色の男の飄々とした声が破った。
「上手く行って、ちょうど桜色くらいかな〜って思ってたんだけど」
「まったくもう。勝手に人の仕事をとらないでください」
一つ、新たな声が混ざる。
外見的には千獣と同じような、ふわりとした風になびくような美しい衣装に身を包んだ少女。
彼女の歩に合わせ、闇に支配されていた空間が、優しい春色に変わっていく――あぁ、彼女の名は初音。この世界を最初に認識した瞬間に出会った、櫻の巫女。
なぜ今まで忘れていたのか分からない。
そんな風に三人は互いの顔を見合わせながら、クスリと小さく笑いあう。そうだ、この櫻の浄化の作業は、初音の仕事だったはずなのに。
「たまにいらっしゃるんですよ。私の力に干渉して、いらした方の意識を操作しちゃうような悪戯好きの方が」
でも、悪い気配じゃなかったから見守っていたんですよ。
ふふふ、と笑む初音の表情も、彼女の衣装によく似て軽やかで明るい。まるで咲いたばかりの初々しい桜の花のように。
「でもおかげで、一つ楽をさせてもらいました。私一人だったら、ここまで皎くすることは出来なかったでしょう」
言いながら、初音は三人に深々と頭を下げ、それから満面の微笑と共に皎い櫻を見上げた。
「感情というものは、人と交わることで生まれるものですから。それに……」
「交わってなくても生まれてしまうのは、その存在を意識しているから――よね?」
シュラインに言葉を引き継がれ、初音は嬉しそうに頷く。
「そうです。何もかもが交わってうまれるもの。だから、一人でなんとかしようとするよりも、和でもって対するのが効き目があるに決まってるんです」
つまりは、この結論は互いに誰かを思い、そして思い遣る心を三人が持ち合わせた結果だと初音は言う。
「ちえー。適当に自己主張喧嘩でもしてくれれば面白いことになったのにー……って、冗談に決まってるよ、そりゃもう、ホントに」
底意地悪く嘯いた黒尽くめの男は、自分以外の8つの瞳に冷たい視線を向けられて、慌てて空回るように額をかいた。
「………でも、よかった……」
千獣の頬に一枚、皎い花弁が落ちる。
それを眺め、セレスティも相好を崩した。
「よい春が来そうですね――今年も」
最後まで櫻の元に残ったシュラインは、一帯から全ての気配が消えたのを感じてから、無数の花弁の向こうに見える空を見上げた。
自然と落ちる肩。
ストンと力が抜けた感覚に、存外自分が緊張していたことを知る。別段、警戒心を抱かねばならないような人物と共にあったわけではないはずなのだが。
それでも胸の奥の忸怩たる何かが疼き出してしまうくらい、負の感情と改まって直面するということは緊張を伴ってしまうらしい。
「それは、まぁ。当然と言えば当然のことだと思うけどね」
こつり、と。
櫻の肌に額を寄せた。
皎く染まった櫻から感じる波動は、どこまでもどこまでも果てしなく優しい。あまりに深い慈愛に、全てを吸い込まれそうな感覚に襲われそうな怖さがある。
「また、これから……」
赫に染まり行くのだろう。
過去、そして現在の『痛み』をこの櫻が引き取ってくれたように。誰に気付かれることなく、現在から未来にかけて。
その中には、これから自分が零すものもあるかもしれない――いや、おそらくあるだろう。人として、人の中で生きて行く限り、決して切り離せないのが感情だから。
「ありがとう……そして、これからもよろしくね」
幹に頬を寄せ、シュラインは静かに祈る。
助けてくれてありがとう。
そしてこれからも、助けてもらうことがあるかもしれないけれど。
でも、またどうしようもなくなったら助けに来るから。
それは無限に繋がる和。
そして揺ぎ無い真実の形。
━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
■東京怪談■
0086 / シュライン・エマ / 女 / 26歳 /
翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725歳 /
財閥総帥・占い師・水霊使い
□聖獣界ソーン□
3087 / 千獣 / 女 / 17歳 / 異界職
ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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こんにちは、それから「初めまして」も。
この度は、がっつり個人的趣味モードで爆走してみましたライターの観空ハツキです。
当初の予定では、早めの納品! だったのですが……気がついたら納期ぎりぎりになってしまい、申し訳ございませんでした(汗)
上でもちょろりと触れましたが。今回はいつも以上に趣味に走っておりましたので――まずはご参加頂きましてありがとうございました!
どうしてもついてまわる「負の感情」について言及するのはかなり好きでして。この度は皆さまの中に眠っているそういう感情に触れさせて頂き、またそれを乗り越える過程を書かせて頂き、とても楽しかったです。
侵食されそうになる心に在る、一条の光。櫻の儚い中に潜む強い美しさと併せて、そんな風に感じて頂ける部分が少しでもあればいいな……そう願っております。
誤字脱字等には注意はしておりますが、お目汚しの部分残っておりましたら申し訳ございません。
ご意見、ご要望などございましたらテラコンなどからお気軽にお送り頂けますと幸いです。
それでは今回はご参加頂きありがとうございました。
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