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桜の樹の下で
煌々と光る月の下に広がる桜の園。薄紅色、白、紅色の花が咲いている満開の林。
そこはしんと静まりかえり、冷たい月の光だけが足下にはっきりとした影を映し出していた。
いつどうやってこんな所に迷い込んだのだろう。それを不審に思いつつ、満開の桜の下を歩きながら、足は奥へ奥へと進んでいく。
「………」
しばらく歩いていると、一本の樹の下で一人の男が立ちつくし、じっと天を仰いでいるのが見えた。長身で、長い髪を後ろでくくっているが、影になって顔がよく見えない。
だがその視線の先にあるのは、奇妙な桜だった。
緑の桜。
満開なのに花弁が緑のせいか、何となく慎ましやかな雰囲気を感じさせる。静かに、ひっそりと桜の園の中で、佇むその姿。
その不思議な光景に立ちつくしていると、不意に男が自分の方に顔を向ける。
「そんなところにいると、月と桜に惑わされる。良かったらここで少し花見でもしていかないか?この、緑の桜…『御衣黄(ぎょいこう)』の下で……」
「こんばんは、花守さん」
桜の下で佇みながら自分を見ている男に、シュライン・エマはそっと微笑みかけた。
ここは異界の林……そこで花守をしている松田 麗虎(まつだ・れいこ)のことを、シュラインはよく知っている。初めてここに迷い込んだときには、桜の季節が終わっていたせいで花を見ることが出来なかったが、今はどの桜も満開だ。
「初めて来たときには咲いていなかったけど、やっと桜が見られたわ」
「そうか。でもこの時期の桜は月と一緒になって人を惑わすから、こっちに来るといい。俺の側にいれば悪戯も出来ないからな」
シュラインが今日ここに来たのは草間興信所からの帰り道で、通りに咲く満開の夜桜を眺めながら、丁度異界の林とこの桜……御衣黄の事を考えていた時だった。もしかしたらその思いに反応して、桜が自分を呼んでくれたのかも知れない。
月明かりに自分の影が映る。
御衣黄の下にはござが敷かれており、そこには酒宴の用意がされていた。
「お言葉に甘えてお邪魔しちゃうわね」
「いらっしゃい。一人で飲んでてもつまらんから、誰か一緒の方が良い」
そう言いながら麗虎はシュラインに杯を渡した。それは黒の漆器で、中に螺鈿で桜が一輪だけ描かれている。酒を満たすとその一輪だけが月明かりの下に浮かび上がった。
「器の中に桜が一輪だけってのも素敵ね」
「だろう?ちょっと待っててくれないか」
器を見ているシュラインをよそに、麗虎はすっと立ち上がると御衣黄の花に手を伸ばす。
「……一枚もらうぞ」
一枚の花びらがシュラインの杯に入った。
古来、花見は散った花びらを杯に浮かべそれを飲み干すことで、散っては咲く桜のようにその精を取り込むものだという。杯の中に浮かび上がる白と、緑。それにシュラインが目を細める。
「風流ね」
「折角ここまでやって来たんだから、これを飲んで無病息災を願うといい。乾杯しよう」
呼ばれたのに手酌をさせるのも何なので、シュラインは盆に乗せられた屠蘇器に手を伸ばした。もしかしたら自分のペースで飲むのが楽なのかも知れないが、せめて最初の一杯ぐらいは注がねば。
「私のお酌より、自分で注ぐ方が良いかも知れないけれど」
「美人のお酌を断る男はいないよ」
「お上手ね。褒めても何も出ないわよ」
二人で顔を見合わせてくすっと頬笑む。そしてそっと杯を持ち上げ乾杯した。ほんのりと漂う桜の香りと、少し甘めの日本酒。染め付けの小皿には春の山菜料理や魚などが並べられ、口に運ぶとほろ苦さと共に春の香りを運んでくる。
「春の山菜は、このほろ苦さがいいわよね」
「冬の間土の中で力を溜め、雪解けと共に顔を出すからな。眠っていた目を覚ますのに丁度いい苦さだ」
麗虎がそう言うと、今まで静まりかえっていた林がさわっ……と鳴った。少し遠くで白い花びらが散るのが見える。
ひらひら。ひらひら……。
月明かりに照らされた花びらが散るのは、なんだか雪のようだ。辺りの音を吸い込むような静寂と、凛とした潔さ。だがふと顔を上げると、シュラインの頭の上では薄緑の花びらが静かに佇んでいた。
「今は本当に緑なのね……柔らかな色で幻想的だわ」
それを聞いた麗虎は、嬉しそうに目を細め御衣黄を見上げた。
「そうだな。こいつは多分他の林にあれば、咲き始めは若葉と区別が付かないかも知れない。他の桜もいいが、この奥ゆかしさについ構ってやりたくなる」
何だか女性に言っている言葉のようだ。
でも麗虎の言う通り他の林にあれば、これが桜と気付かずに通り過ぎてしまうかも知れない。今は紅や白の中にあるから目立っているが、本当はそっと慎ましく、気付かれなくてもひっそりと咲く花。
すると風もないのに林が揺れた。
「……ヤキモチを焼くな。どれが一番って話をした訳じゃないだろう」
困ったように溜息をつき、麗虎は杯に入っていた酒を飲み干した。ここにある桜たちは、皆花守のことが好きなのだろう。凛と咲き花びらを散らす白。花魁の帯のように静かに揺れる枝垂れ桜の紅。皆この季節に競うように咲いている。
そんな様子にシュラインはくすっと頬笑む。
「ふふっ、人気者なのね。御衣黄は八重桜になるのかしら?」
「ああ、そうだな。鬱金(うこん)も同じ緑の桜だが、こっちの方が緑が濃い。花びらは鬱金のほうが多いが……説明するより、見てみるとよく分かるか」
音もなくすっと立ち上がった麗虎は、近くにある緑の桜に近づいた。そこから花を取る様子は、女性から花を受け取るようにも見える。そしてまた御衣黄の下でそっと手を伸ばす。
「ありがとう。一輪もらうぞ……シュライン、これをどうぞ」
手を差し出すと、二輪の桜が乗せられた。同じ緑の桜でも、鬱金は花びらの外と中心がほのかに赤く、花びらの数も多い。御衣黄の方は緑が濃く、並べてみると違いがよく分かった。
「結構大振りの花なのね。これから緑からピンクへと変わっていくんですっけ」
「そうだな。御衣黄にはよく見ると花びらに気孔がある。色は鬱金の方が顕著に変わるが、御衣黄もだんだん緑が抜けて、薄紅に染まって最後には花ごと落ちる……八重咲きの花の、物寂しいところだ」
緑から少しずつピンクに変わり、最後には花ごと散る。そう言われると、何だか急にいとおしくなり、シュラインは手渡された花を手帳に挟んだ。上手く押し花になるかは分からないが、せめてここに来たという証に持っておきたい。
天を仰ぎ花を見ている麗虎に、シュラインも立ち上がった。座ってみているのも良いが、やはり少しでも近くで御衣黄を見たい。
「ねえ、もし、色が変わり始めてる部分があったら、教えてくれるかしら。自分の目で見て来たいの……って、ええと、何だか静かに見てるのに、騒がしくしちゃってごめんなさい」
つい好奇心が出てしまった。
おずおずというシュラインを見て、麗虎は笑って歩き出す。
「いや、桜たちも充分騒がしいから気にするな。今の時期は少し賑やかなぐらいが丁度いいんだ……春が来たって感じがするからな」
「そう?だったら良かったわ。御衣黄の話を聞いてから、一年ほど咲くの心待ちにしてたから、何だか嬉しくて浮かれちゃって」
「待ってくれたなら、桜たちも喜ぶさ。ほら、こっちの御衣黄は、緑が抜けて白から薄紅に染まりかけている」
こっちに来いというように、麗虎がシュラインを呼ぶ。
よく見ると鬱金や御衣黄は林に一本だけというわけではなく、早く咲いた物は少しずつ薄紅に染まっていた。花びらの付け根が一番紅が濃い。
見上げていると、何だか気持ちが穏やかになってくる色合いだ。二人でそれを見上げながら、シュラインは何気なくこんな事を聞く。
「前に来た時の花達の様に、桜にも意識があるのかしら」
異界の花畑にある花たちは、全て人の心に咲く花だという。シュラインが来たときには、花たちに問いかけられたり、一緒に話をしたりもした。
御衣黄にも意識があるのなら、今は何を思っているのだろう。
煌々と光る月。
目を細めながら花を見ている花守。
もしかしたら最後に御衣黄がピンクに染まるのは、自分がここに咲いているという、ひっそりとした自己主張なのかも知れない。それとも、花守に見つめられて頬を染めているのか……。
うふっ……。
何処かで誰かが笑ったような声がした。それにシュラインが振り返ると、隣にいた麗虎が息をついて首を押さえる。
「意識があるから、ここの桜たちは月と一緒になって人を惑わすんだ。だからこの時期は休む暇がない」
ふふっ……うふふふ……。
はにかむような笑い声。
麗虎はぼやいてはいるが、桜を見る視線はとても優しい。ここの桜は月と一緒に人を惑わすのかも知れないが、それを麗虎はちゃんと見張っている。
元の世界に帰れなくならないように。
桜たちが人を取り込んでしまわないように。
それは、きっと……。
「でも、桜が好きなんでしょう?」
「………」
薄闇の中なのに、何故か麗虎が少し赤くなったような気がした。それをごまかすように顔を押さえ、元の場所へとゆっくり歩き始める。
「悪いこと聞いちゃったかしら」
「いや、シュラインの言う通りだ。桜が咲く頃になれば心がざわめくし、今年は花が早いかとか、咲き具合がどうかとか気になるのは、俺も桜が好きだからだな。もしかしたら、俺が桜の園で毎晩こうしているのも、悪戯を止めるというよりは、他の誰かに惹かれるのにヤキモチを焼いているのかも……」
ざわっ……。
その言葉に林が揺れた。花を散らせる訳ではなく、静かに揺れる花びら。
『人を惑わせるのは、春だけよ……』
『月と桜が一緒になったときに、力を分けてもらう事で出来る悪戯』
『そうでもしなきゃ、花守は私達を見てくれないもの』
「……月がなくても桜は毎年咲くのに、見に来ないわけないだろう。俺がいつも放っておいてるみたいな言い方をするな」
「それだけ桜も貴方が好きなのよ。ね?」
返事の代わりに、林がさわさわと鳴る。
何だか複雑そうな表情をした麗虎は、大げさに溜息をつきながらござに座り、自分の杯に酒を注いだ。
「……それを言われると、俺も返す言葉がないな。そもそも嫌いなら、こんな仕事は引き受けないし」
「でしょ。そうじゃなきゃ、こんなに見事に咲かないわ。桜もちゃんと世話をしないと、大きな木にならないもの」
微かな笑い声が聞こえる。
踏みしめられないように根を守り、接ぎ木をして木を増やし寿命を延ばす。この林はそうやって守られているものだ。だから皆、花守の麗虎が好きなのだろう。
シュラインは少し笑って、御衣黄の幹に手を伸ばした。
「触ってもいいかしら?」
『ええ、どうぞ』
そう言われ、少しごつごつとした幹を撫でる。桜も皆同じように見えるが、人と同じように幹の感触も違う。それをそっと撫で、シュラインは幹に耳を当てた。
「何か聞こえるのか?」
少し笑いながら麗虎が聞く。
「ええ。樹木の、水の通る音ってとても好きなの。それぞれに微妙に音が違ってて……」
山歩きの会などでは、聴診器を幹に当てて音を聞いたりするという。
シュラインの耳に聞こえるのは、木が水を吸い上げる音……それはごーっと言う水の流れのようでもあり、体を流れる血潮の音のようでもあり。
目を閉じて聞いていると、妙に安心する。自分の耳を手のひらで塞いだときに聞こえるのと、よく似た音。それは、木が生きている証拠。
「幹の上と下だと音も違うし、生きてるって気がするの。水が循環してるって」
「そうか。ならしばらく存分に楽しむといい……こんな風に愛おしんでくれる人を、桜たちも惑わすことは出来ないだろ。たとえ月が出ててもな」
「ありがとう。もう少し聞かせてちょうだいね」
月明かりが優しく桜の影を映し出す。
「私もあなたも、ちゃんと生きてるのね……」
異界の桜も、現実の桜も変わらないけれど、それぞれ一本ずつ違う音。
シュラインは目を閉じ幹を抱きしめて、水が流れる音を聞く。
それは自分の体に血が流れる音と、桜を流れる水の音の共鳴……。
fin
ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆登場人物(この物語に登場した人物の一覧)◆
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
◆ライター通信◆
ご参加ありがとうございます、水月小織です。
今回は、緑の桜「御衣黄」の下での花見ということで、指定がない限りはそれぞれ個別で話を書かせて頂いています。
緑の桜を目で見て、幹に流れる音を聞いて……と、桜を堪能して頂きました。桜はやはり、人の心に強く訴える何かがあるような気がします。シュラインさんに御衣黄の話をしたのは、初夏ぐらいだったのでやっと花をお見せすることが出来ました。
リテイク、ご意見は遠慮なく言って下さい。
イベントご参加ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。
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