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『あなたのそでぐち』
01.
「ねえ、ジェフ。どこかおかしいところはない?」
制服の裾をつまんで、マリアはジェフに問いかけた。
「おかしくないよ。よく似合ってる」
ジェフはため息混じりにそう返す。ため息の理由は、これが朝から何度も繰り返されたやり取りだからだ。
実はマリアは、ジェフの準備が出来るまで玄関の姿見で念入りにチェックを繰り返していた。だから、おかしいところがないのはマリアも自分でよくわかっている。ちなみに、ジェフの用意がマリアより遅くなったのは、朝食の後片づけをしていたせいで決して彼がゆっくりしていたわけではない。
それでも、初めて袖を通した制服がどう見えるのか、マリアは気になってしまう。女の子は色々複雑なのだ。それに――。
ジェフのせいでもあるんだからね。
そう心の中で愚痴って、そっと隣を歩くジェフの姿を見た。
マリアと同じように明桐学園の制服に初めて袖を通したジェフの姿は、いつもより大人っぽく見えとても新鮮だった。だから、どうしてもマリアは自分の制服姿を気にせずにはいられない。
そんなことを考えながら歩いていたら、いつの間にか香楓院の楓林を抜けていた。
林の外は既に公道で、他の明桐学園の生徒の姿もちらほら見える。
「……男の子、沢山いるね」
今更ながら、ジェフと同じ制服を身につけた男子生徒の姿を見つけて、マリアは驚きと戸惑いを隠せない。今までは女子校通いだったので、マリアの記憶の登校風景に男子の姿はいなかった。
「大丈夫だよ。それと同じくらい女子もいるだろ」
安心させるような声音でジェフがそう言ってくれる。
確かにジェフの言う通りだ。男子生徒よりも女子の方が数人ずつまとまって登校しているグループが多い分、より目立っているような気もする。というよりも――
(何だか、みんなジェフの方を見てない?)
ジェフの制服姿は確かによく似合っていて、大人っぽく見えシックな色合いも彼の精悍な部分を引き立てていて、マリアにとっては目新しいものだったが、明桐学園に前から通っている人達にとって、この制服は見慣れたもののはずだ。それなのに、どうして。
実際には、ジェフとマリアの存在自体が、明桐学園の生徒達にとっては初めて見る姿で新鮮なのだ。まして、その二人が絵に描いたような美男美女で、仲良く並んで歩いていたら――。しかし、そういう考えはマリアには浮かばない。転校初日で緊張しているせいもあるが、基本的にマリアはお嬢様育ちで、今まで転校生の噂話に興じるというようなこととは無縁だったのだ。
だから、車道を挟んで反対側を歩いている男子生徒二人組がこちらを見て何かを話していることも、マリアにとっては自分とは無関係なのだ。「レベル高いなー」「スタイルもすごくね?」などという言葉が耳に入っても、何の事かしらと小首を傾げるばかりである。
「ジェフ? どうしたの?」
何故か突然ジェフは不機嫌になってしまった。荒々しい足取りで、歩幅も大きくなる。マリアはそんな彼に追いつこうと、必死で早足で歩いた。
「ああ、いや……ほら、今日は授業の前に先生方から色々説明を受けることになっていただろ。だから、さ」
ジェフの言うことは確かにその通りだったが、まだそんなに急がなくてはいけない時間とも思えない。
「少し急ごう」
しかし、彼は荒々しい足取りのまま、ずんずん先へ歩いていってしまう。
「もう、ジェフったら。待ってよ」
初めての場所。見慣れない人々。そして、何故だか不機嫌なジェフ。
マリアを大きな不安が襲う。私、今日からここで上手くやっていけるのかしら、と。
不安な時、怖い時、そんなときに隣にジェフがいると、マリアはジェフの左の袖口をつまむという癖があった。もういつからそうしているのか思い出せないくらい幼い頃からの癖だ。
だから、今もその癖のまま、ジェフの袖口を掴もうとした。
するり。
しかし、ジェフの袖口はマリアの指先をすり抜けて先に行ってしまう。
マリアの不安は、ますます大きく広がった。
02.
「マリア・リュウです」
教壇に立ってマリアは自己紹介をしていた。
「日本のことはまだまだわからないことだらけですが、これからがんばって覚えていこうと思います」
教室中の視線が自分に集まっているのを感じて、とても緊張する。がんばって微笑んでいるのだが、引きつってはいないだろうか。
「皆さん、どうぞよろしくお願いします」
少し早口でそう言って、ぺこりと頭を下げた。
お辞儀を終えて前に向き直ると、やっぱりみんなの視線を感じる。恥ずかしくて、マリアははにかむようにうつむいてしまった。
その途端、わーともうぉーともつかないどよめきが教室全体から上がった。その意味がわからず、思わずマリアはきょとんとしてしまう。
歓声はマリアの初々しさと可愛らしさに対して主に男子生徒達が上げたものなのだが、例によってマリアはそれがわからない。そんな男子に媚びることもなく戸惑っているマリアの様子に、女子生徒達も総じて彼女へ好意的な視線を向けた。中には「よろしくー」と手を振ってくれている娘もいる。
良かった。女の子達は前の学校とそんなに変わらないみたい。
小さく手を振り替えして、マリアは少しだけほっとした。その安心が早くも放課後には崩れ去ってしまうことを、マリアはまだ知らない。
そして放課後。
帰り支度をはじめたマリアの周りには黒山の人だかりができていた。机のすぐ周りを陣取っているのは、積極的な男子生徒達である。
「リュウさんって日本語上手だよね」
「ねえねえ、マリアちゃんって呼んでもいい?」
「部活する気はない? うちの部、今丁度マネージャー募集中なんだ」
たたみかけるような男子達の質問攻勢に、マリアは軽くパニックを起こしてしまう。
「えっと、私……その、だから……」
赤面してしどろもどろになるマリアに、頭上から救いの声がかけられた。
「こら! そんなに一度に聞かれてもリュウさんだって困るでしょ! 大体あんた達、馴れ馴れしすぎるのよ」
腰に手を当てて男子達の間に割って入ってきたのは、クラス委員長の女子生徒だった。「困ったことがあったら彼女に相談しなさい」と担任の先生に紹介されている。彼女の他、数人の女子生徒が団子になっていた男子を散らしてくれて、少し悪いかな、と思いながらもマリアはほっとした。
安心したところで、ようやく質問にも答える余裕が出てきた。最初の質問から順番に、聞かれたことはそう難しいことではないのだから。
「日本語はね、国にいた頃から一所懸命に勉強したの。おかしくなくて良かったわ。名前は……うん、リュウよりもマリアって呼んでくれると嬉しいかな」
そう言ってようやく笑顔になる。実際留学する前の友達とはみんな名前の方で呼び合っていた。「リュウさん」なんて言われても、何となく自分のことを呼ばれている気がしない。
「部活って……どんなことをするのかしら?」
そして、逆にわからないことを自分から質問し返したりして、少しずつこの場の雰囲気にも馴染んでくる。委員長の女子が、部活について説明してくれた。
「ああ、クラブ活動ね」
「そうそう。沢山あるから、やりたいことが決まってるんじゃなきゃゆっくり選べばいいわよ。必ず入らなきゃいけないっていうわけでもないし」
くれぐれも、と彼女は遠巻きにしている男子達を睨みつける。
「こいつらの甘言に乗せられて、早まっちゃダメだからね」
ギロリと周りを見回した後、彼女はにっこり笑ってウインクして見せた。そんな頼もしくてお茶目な様子の委員長に、マリアも好感を持つ。
「ありがとう。よく考えてみるわ」
そうやって笑い合う女子二人(というより主に委員長)に対して、職権乱用だの横暴だのというヤジが飛ぶ。はあ、とため息をついてから委員長は騒々しい一団に向かって一喝した。
「うるさい! そうやって集団でわめくから、リュウさん……っとマリアも困っちゃうんじゃないの。言いたいことがあるなら、一人ずつ、簡潔に!」
びしり、と指をさした彼女のもっともな言い分にギャラリー達は一瞬静かになる。その後互いを牽制し合うように顔を見合わせて、やがて一人の男子がおずおずと手を挙げた。
「じゃあさ、ひとつだけ。マリアちゃんって、誰かつきあっている人とかいるの?」
「えっ?!」
マリアにとってはあまりにも予想外の質問で思わず一瞬固まってしまう。しかし、実はこの質問こそみんなが一番聞きたかったことで、男子のみならず女子も興味津々といった体でマリアを見つめている。
「つきあってって、えっと、それってつまり、恋人とかそう言う……」
再びしどろもどろな上、最後の方は消え入りそうな小声になってしまった。前の学校は割とお嬢様の多い女子校で、この手の話題をオープンに話すことはなかったし、そもそもそんな相手がいる人の方が珍しかった。
「ああもう。またそうやって困らせるんだから……」
はあと委員長はため息をついた。そのまま周囲をぐるりと見回す。見えたのは期待に満ちた無駄にキラキラ輝かしい瞳達。
「こりゃダメだ。ごめん、マリア。これは答えないと収まりそうにないわ。いるかいないかだけでも教えてやってくれる?」
そう言って彼女は手を合わせてマリアに拝み込んだ。頭を下げたついでにマリアにそっと近付いて「デタラメでも大丈夫。どうせみんなにはわかんないって」と小声で言ってくれた。驚いて彼女を見ると、悪戯っぽくまたウインクしてくれる。そんな彼女の親切に感謝しつつ、ようやく落ち着いたマリアはその質問に答えた。
「いないよ」
簡潔に、そして正直に。
何故だか歓声が沸き起こった。男子の中には「やったー!」とガッツポーズをしている人までいる。女子の方は「やっぱりね」と苦笑いしている人と「意外ー」と驚いている人と、大体半々の反応だ。渦中のマリアだけが、自己紹介した時と同じようにどうしてそんな反応なのかがわからずにきょとんとしている。
意外そうな顔をしていた女の子が一人、じゃあ、と聞いてきた。
「朝一緒にいた人は? 並んで歩いてたよね? あ、お兄さんとか?」
ジェフのことだ。トクンと心臓が跳ね上がった。その理由はマリアにもわからない。
「ジェフとは本当の兄妹じゃないけど、でも恋人とかそんな人でもないもの」
ええーと残念そうな声が、今度は女子の集団から上がる。
「ジェフはね、お祖父様のお弟子さんなの。それで小さい頃から一緒に育って……」
「ああ、幼馴染みか」
助け船を出してくれたのはまたも委員長だった。
「そう、幼馴染み!」
ジェフは幼馴染み。
どうしてだろう。さっきから本当のことしか言っていないのに、胸がチクチクする。
「ふーん、幼馴染みかぁ」
と女の子達はうなずきあっている。
「いいなあ、あんな格好いい幼馴染みがいて」
質問したのとは違う女子がそう言ってきた。ちなみに、男子は未だ遠巻きに「よしっ」だの「だからって抜け駆けは無しだぞ」だのと牽制しあっていた。もちろんその光景の意味はマリアにはわからない。
「格好いい……かしら?」
小首を傾げながらまた胸が痛んだ。どうしてジェフの話題になると、自分はこんなに動揺してしまうんだろう。
「格好いいよう。背も高かったし、何だか頭も良さそうだったし」
恐るべきは女の子の審美眼。朝の登校風景の中だけでそれだけチェックしていたとは。
「今度紹介してちょうだいね」
その言葉に、女子全員が身を乗り出してマリアをじっと見つめた。その真剣さに気圧されながらも、それくらい簡単なことだと思ってマリアは肯いた。
「わかったわ。そのうちこの教室に連れてくるね」
その言葉に今度はキャーと言う高い歓声が上がった。
それを聞いて、マリアの胸の痛みはますます酷くなる。相変わらず、理由はわからないままだったが。
◆◇◆
その後も色々質問やおしゃべりをして、ようやく解放されたマリアは疲れ切っていた。これは転校初日の儀式のようなもので、明日からは普通に学校生活が送れるといいんだけれど。そんなことを考えながら、ジェフの教室へ向かう。もちろん一緒に帰るためだ。
クラスプレートを確認して、特に何も考えずその教室のドアを開けた。
「ジェ……フ?」
普段通りジェフを呼ぼうと思った声は、誰にも届かなかった。
マリアの視線の先には、さっきまでのマリアと同じような状況のジェフがいる。クラス中の生徒に取り囲まれたジェフが。机の周りを女子が占領していることまで、マリアと一緒だった。
「え?」
また、胸がズキンとする。
だってあんなジェフ、知らない。あんな風に自分以外の女の子と楽しそうに話しているジェフなんて、知らない。
ジェフもまた、国では男子校に通っていたので彼の友達といえば男の子ばかりだった。今までジェフの近くにいた同世代の女の子はマリアだけだったと言ってもいい。
だから、女子に囲まれて色々話しているジェフの姿は、マリアにとって衝撃的だった。
(落ち着け、マリア。私だってさっきまでクラスで色々おしゃべりしてきたじゃない。男の子は苦手だけど質問に答えたりもしたし、それに大体ジェフが他の人と話していたってどうって事――)
なのに、声が出て来ない。「ジェフ」といつものように呼びかけて「一緒に帰ろう」と言えばそれで済むはずなのに、足がこの場所から動かない。
マリアはその場に立ちすくんだままうつむいた。何故だか涙が出てきそうだった。
「マリア!」
聞き慣れた声に顔を上げると、ジェフがこっちを向いて手を振っていた。その表情にはどこかほっとしたようなものがある。彼は周りに何かを言って手早く帰り支度を終え、マリアの元までやってきた。
「帰るんだろ? 俺の方が迎えに行こうと思ってたのに、早かったな」
そう言ってポンポンとマリアの頭を撫でる。それだけで、マリアの胸の痛みはすうっと消えていく。
驚いてマリアはジェフを見上げた。そこにあるのは、いつも通りのジェフの笑顔。だから、マリアもようやく笑うことができた。
「うん。一緒に帰ろ?」
その二人の姿に、ジェフのクラスメート達から冷やかすようなヤジが飛ぶ。ジェフは何だか慌てたように、
「だから、マリアはさっき言った通り……」
と弁解していた。
「さっき?」
ジェフの言葉が引っかかってマリアは小首を傾げる。
「な、何でもない! じゃあ、行こうか」
そう言ってジェフはさっさと教室から出て行ってしまう。彼のクラスメートに小さく会釈をしてから、マリアは慌ててジェフの後を追いかける。その背中で、ひときわ大きな歓声が上がったが、マリアの耳には届いていなかった。
03.
「さっきは助かったよ」
ほっとしたようにジェフが言った。
朝とは逆方向に歩く通学路。しかし、朝のような不安は今のマリアにはない。隣にちゃんとジェフがいてくれるから。
「さっき?」
同じ問いを発したばかりのような気がするなと思いながら、マリアはジェフに聞く。
「俺のクラスに来てくれて、さ。ほら、国では男子校だったろ。だからどうしても、女の子と話すのって苦手で……」
なんだ。ジェフも同じなんだ。
そう思ったら途端におかしくなって、マリアはクスリと笑った。
「なんだよ?」
「だって、女の子も男の子と同じくらいいるって、朝私に言ったのはジェフよ」
「そうだけどさ。頭でわかってるのと実際に目の当たりにするのは違うから」
そう言ってジェフはぽりぽりと頬をかいた。そんな彼の様子に、クスクスとマリアは笑いが止まらない。
「そう言えばね……」
クラスの子達とした約束を思い出し、今度自分のクラスに来てちょうだいとお願いしようとして、マリアは口ごもった。女の子と話すのは苦手だと、たった今ジェフ自身が言ったばかりではないか。それに、約束だって今すぐ、というわけではない。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
もうしばらくジェフを独り占めしていても、構わないわよね。
マリアは笑って空を仰いだ。
「あーあ。今日は疲れちゃった」
「俺もだよ」
「私、今日のご飯、ハンバーグがいいな」
少し甘えた声でおねだりしてみる。
「これからハンバーグ? あれ、結構手間がかかるんだぞ」
「じゃあ、いいわ。私が自分で作るから」
「わかったわかった。今日の晩飯はハンバーグな」
慌ててジェフがマリアの言うことを受け入れる。天井まで届く火柱で野菜炒めを作り、火災警報機を作動させて以来、マリアはコンロ前に立つことを禁じられている。
「やったぁ。甘いニンジンもちゃんとつけてね」
「はいはい。ったく、しょうがないなあ」
そう言いながらもジェフの表情は柔らかい。
明日からもずっと、こんな風に学校から帰ることができればいい。そうマリアが思った時、ぐいっとジェフに腕を引っ張られた。道端の方に無理矢理引き寄せられて何事かとジェフを見ると、彼は険しい顔で辺りを見回していた。
「誰だ……どこにいる?」
「ジェフ……? どうしたの?」
修行の最中にも見せないような険しい顔でジェフは辺りを見回している。マリアの声も、まるで耳に入っていないようだ。
「ジェフ……ジェフってば!」
大声で彼を呼ぶマリアの声にようやく我に返ったように、ジェフは彼女を見た。
「あ……マリア?」
「もう。どうしちゃったのよ」
「いや、誰かに見られているような気がして……マリアは感じなかったか?」
逆にジェフに問われて、マリアは首を横に振った。
「ううん、私は何も……」
ジェフに比べてマリアの方が勘が劣るということはない。むしろ法術を得意とする分、マリアの方が感性が鋭いのではないかとさえジェフは思っている。
「マリアがそう言うなら、俺の勘違いかな」
そうでなければ俺にだけ向けられた気配だったか、だ。そう口の中で呟いた声はマリアには聞こえなかった。
「びっくりさせてごめん。じゃ、帰ろうか」
ジェフはそうやってマリアに笑いかけたが、マリアはその笑顔の中の強ばりを見逃さなかった。不安なのだ、多分。それも、自分の身ではなく、ジェフはマリアの心配をしている。昔からそうだった。どんなときでもジェフはマリアのことを一番大切にしてくれているのだ。
それがわかっているから、マリアは何も言わない。言わない代わりにジェフの袖口にそっと指先を伸ばした。
朝はすり抜けてしまったそれは、今度は簡単に捕まった。指先できゅっとつまんでも、小さい頃からの癖だからジェフは何も言わない。
大丈夫。私はここにいるから。あなたの隣に。あなたが隣にいてくれるなら私はなんだって平気。
だから、いつか話してね。あなたの不安を。私があなたの助けになれるように。
つまんだ袖口から想いが伝わりますように。そう願いながら、マリアはジェフと並んで帰り道を歩き出した。
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