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月桜
人里離れたこんな山奥にも、春になれば沢山の人が桃色の櫻を愛でにやって来る。
だけど僕のところへやってくる人はあまりいない。
どうしたら、僕の傍へ人が来てくれるのだろう。
人と人が語り合う姿、人が僕に語りかけてくれる優しさ。
そうしたものを、僕はとても見てみたい。
一人は寂しいから、誰か来て。僕を呼んで。
見たい夢を見せてあげるよ。
そうだ、飛ばそう飛ばそう。風に乗せて。
僕の幹(からだ)に咲く花びらを、遠く遠く、沢山の人たちのもとへ飛ばそう。
生まれた時から身に宿るこの黄色い櫻の花びらを、皆への招待状にしよう。
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人通りの少ない夜道を、春日・イツルは風に煽られながらのんびりと歩いていた。
花の盛りを迎え暖かな時期になったが、やはり深夜ともなればまだ冷え込みは激しくなる。特に今日は、芯の冷たい強風が絶えず身体を吹き抜けていく。雲行きは怪しく、見上げる空に月はない。
仕事の帰り道だった。遅い時間に撮影を終え、ショルダーバッグを肩にかけた時、「タクシーを呼びましょうか」「車でお送りしますよ」と現場のスタッフ達が気を遣ってくれたのだが、イツルは丁寧に断りを入れ、歩いて帰宅することを選んだ。
花の命は短い。伎・神楽として、また諸々の仕事で日々に忙殺されていては、ゆっくりと桜を眺める時間もとれない。雨が降れば桜は全て散ってしまうだろうと思い、このひと時ばかりは桜を愛でるため、自然体の「俺」として過ごそうとイツルは決めたのだった。
帰宅途中にある、満開の桜のトンネルの中に一歩足を踏み入れる。アップライトに照らされ、薄闇に舞う無数の桃色の花びらは昼間とはまた違った顔を人に見せてくれる。
夜桜を堪能しながら快調に歩みを進めていると、ふと、風に乗って自在に遊んでいる花びらとはあからさまに動きの違う、自分の意志で彷徨っているようななにかがイツルの目に飛び込んできた。立ち止まり掌を広げてみる。それは回転しながら、柔らかな感触を伴ってイツルの手の上に舞い降りてきた。
「黄色い花びら……?」
違う花が紛れ込んだのかと思い、桜の木々を見あげた。幹が一斉に左右に大きく揺れ動き、ざわつき始めた。桜同士が会話をしているような雰囲気だ。
視線を手の中に戻し、花びらを見る。桃色の桜の花びらと全く同じ形をしていた。鈍い光が放たれている。
「おまえ、どこから舞ってきた?」
声を掛けてみる。応えるように光が強くなった。不思議な魅力に、イツルの好奇心がくすぐられる。色の違う桜があるのならば、見てみたい。この近くに、木々の生い茂った公園があったはずだ。まずはそこへ行こうと思い立ち、桜のトンネルを抜けて、公園へと足を運んだ。
空気の浄化された公園の中を、葉擦れの音が響き渡る。響きはイツルになにかを囁いているようだった。
――この子、人の寄り付かない可哀相な桜だよ。
――遠くから遠くから、貴方のもとへ来たんだね。
精霊達がそう言っている気がした。先ほど桃色の桜達がざわついていたのは、そのせいだったのかと思う。どこからかやって来たこの異種の桜の噂でもしていたのだろうか。
「あっ、待っ……」
突然、手の中の黄色い花びらが風に吹かれ、空高く舞い上がった。イツルは追いかけ、公園の中を走る。
黄色い花びらはふわふわと不安定に揺れながら、イツルの数歩前を浮遊している。追いかけているうちに、花びらの動きが意図的なものに思えてきた。
俺は、呼ばれてる?
そう思った。この桜はイツルをどこかへ連れて行こうとしている。
花びらを追うのに夢中で、足元に注意を払っていなかった。なんともいえない奇妙な声を出して、イツルは転んでしまった。
小鳥のさえずりが耳に聞こえる。心地良い風が、頬を撫でる。
「どうされたのです。こんなところで眠っていたら、具合を悪くしてしまいますよ」
目を覚ますと、淡い光が顔に当たっていた。数回瞬きをして、声の主に目をやる。心配そうに自分の顔を覗き込んでいる少女の姿があった。
「巫女……」
そんな言葉が、口をついて出る。
「我は、眠っていたのか……?」
上半身を起こし問いかけてみると、巫女は口を両手で覆い、くすくすと笑う。
「頬に草がついていますよ。鬼の長ともあろう方が、そのような姿では笑われてしまいます」
「あ、ああ」
鬼――。頬についた草を払い、両手を広げてみる。大きく、ごつごつとしていた。今までは全く違う世界に住んでいた、全く違う己でいたような気がするのだが、夢でも見ていたのだろうか。
「我はどうしてこんなところにいるのか……」
辺りを見回すと人の気配のない、茂みの多い草むらにいた。ここへやって来たことは全く覚えていない。
巫女は微笑み、優しく言った。
「まだ半分眠っていらっしゃるようですね。貴方と約束をしたのですよ。今日はここで待ち合わせをしようと。ご覧下さい」
巫女は茂みの向こうをすっと指差した。茂みからなだらかな坂を下ったところに、満開の桜が軒を連ねていた。その土手の下には小川が流れている。
「季節は巡り巡って、また春になりました。今日は良い日和です。貴方に会えた日が、このような陽気で幸せです」
歩きましょう、一緒に。巫女は言って、白い手を差し伸べてくる。
吸い寄せられるようにその手を掴むと、胸の奥から愛おしさが込み上げてきた。憚る感情もなく手をつないだまま、ゆっくりと坂を下る。
誰に見られるとも限らないのに、不思議と心は穏やかだった。
否――。自分の住む里に、こんな場所などあっただろうか。
どこまでも続く桃色の桜の木々。澄んだ小川のせせらぎ。心に染み渡るような、温かな風の感触。桜の花びらが風に吹かれては水面に落ち、川面を桃色に埋め尽くして下流へと流れていく。桜の小川は太陽の光に反射し、きらきらと輝いていた。空は蒼く、高い。
「世界は、こんなにも美しいものであったか……」
彩り溢れる世界に、呟きが漏れる。
「ええ。この世も捨てたものではありません」
巫女は舞い落ちてくる花びらを、片手で掬いあげている。
平和な空気に、これまで絶えず人の気配に神経を磨耗させていたのが嘘のようだった。愛する者のためにずっと、底のない、暗い暗い心の迷路を歩んできたと思っていたのに、太陽の眩しさが、色彩豊かな自然が、己の心に一筋の光を当て、鬼としての自覚を吹き飛ばしてくれる。
巫女の真似をして、桜の花びらを掬いあげた。なんとなくそうしたい気持ちに駆られた。
巫女はその様子を見て楽しそうに笑う。
「今日の貴方は、とても不思議です」
「不思議……? どこがだ?」
「居眠りをしていたり、桜を掬ったり。いつもなら絶対しないことをしていらっしゃいます。もしかしたらそれが、貴方の本当の姿なのかもしれません」
巫女の言葉が、妙に胸に引っ掛かった。本当の姿――自然体の己であろうと、いつか、どこかで決めたような気がする。どこであっただろうか。記憶を探ってみるが、思い出せない。
巫女が手をぎゅっと握り締めてきた。
「私の前では、もっと自然な姿を見せてください。鬼の長ではない、本当の貴方の姿を」
巫女の言葉に、心が和らいでいく。時には本当の自分というものをさらけ出すことも必要なのかもしれない。
「……そなたにだけは、見せてもいいのかもしれぬな」
言うと、巫女は「はい」と頷いて一つの桜の木の下に腰を下ろした。
貴方もお座りくださいと、巫女は隣の茂みを指差す。言われるままに腰を下ろし、木の幹に寄りかかった。
夢と現の見境がつかなくなるような、幸せなひと時だった。土手を歩く者は、誰もいない。ただ自然の息吹だけが静かに聞こえてくる。
「気持ちが良いな」
呟く言葉に、返事はなかった。巫女を見遣る。巫女は口元に笑みをたたえ、瞼を閉じていた。
「巫女――? 眠ってしまったのか」
答えはない。肩を触れると、巫女はふわりと膝の上に倒れこんできた。寝息を立てている。
「そなたも、疲れているのだろう」
巫女の頬を撫でようとした時、一陣の風が吹き抜けていった。桜吹雪が沸き起こり、空を見上げる。
沢山の花びらが青空の下を舞っていた。桃色に染めあがった空気はあまりにも幻想的で、思わず太陽の光を手で遮り目を細めた。
「……少しばかりこの光景に酔ってしまったようだ」
巫女の手をしっかりと握り、幹に深くもたれる。
目を閉じる瞬間、黄色い桜の花びらが一枚、眼前に舞い落ちて来るのが見えた。
再び目を開けると、無限に続く闇が広がっていた。
数秒前までは穏やかな光の中にいたはずだった。光の中から一転して闇の中へいることに戸惑い、咄嗟に自分の隣を手で探る。愛する者の姿はない。
そこで初めて、自分は鬼ではなく春日イツルという一人の人間であることに気がついた。
「夢……」
理解すると、脱力感が襲ってきた。疲労も相まって、動ける自信がない。もう少しこのままでいようと目を閉じかけた時、光を放った花びらが数枚、イツルの目の前を落ちていった。
木々は轟々と唸り声をあげている。我に返り、イツルは降り注いでくる花びらを辿る。
その瞬間、イツルは感嘆の溜息を漏らした。
幾重にも折り重なった太い枝から黄金に輝く黄色い桜の花びらが揺れていた。伸びた枝と枝の隙間からは闇夜が見える。
立ち上がり、自分が座っていた場所を眺める。樹齢数百年を思わせる、太い木の幹がそこにあった。
いつの間に、こんな場所に来たのか。
辺りを見回しても、闇に覆われている木々の黒い輪郭が見えるだけだ。イツルのいる場所だけが淡く照らされている。
数秒して光が止み、真っ暗になる。また数秒後に、桜は光を放ち始める。
仄かな点滅は度々繰り返された。黄金の桜はイツルになにかを訴えているようだった。
すっとイツルの頭の中に、見ていた夢の断片が入り込んできた。せせらぎの音がかすかに耳に蘇り、夢がゆっくりと再生され始める。心の片隅で望んでいた夢に、胸の中が幸福な気持ちで満たされていく。
「もしかして、おまえがこの夢を見せてくれたのか?」
桜は枝を揺らした。肯定しているように思えた。
「ありがとう……」
笑みを零し、イツルは小さく呟いた。呼ばれた気がしたのは、夢を見るため、そしてこの黄色い桜のもとへ来るためだった。桜を見上げ、幹に片手をあてる。イツルが来たことを喜んでいるような、でもどこか寂しがっているような空気が伝わってくる。
「ずっと一人で、ここにいたんだな。寂しかったんだろう」
枝が揺れる。風に構わず、自分の意志で。
夢を見せてくれたお礼に、この桜を慰めようと思った。俺に出来ることはなんだろうと考える。
――天岩戸より俳優をして、相ともにうたひたまふ。これはみな神楽の起なり。
闇の中に、そんな言葉が浮かぶ。演じて誰かを、なにかを喜ばせること。それが自分の使命のような気がした。「神楽」の名にかけて、神楽舞を舞おうと思った。
イツルはそっと、持っていたショルダーバッグから白い舞装束と彩物を取り出した。慣れた手つきで素早く着替え、姿勢を伸ばすと、目を閉じ全身を集中させる。次第に俳優としての「伎・神楽」の顔になっていく。
目を開けた瞬間、広げた扇を空気に翻した。風の吹雪く中を、ただ一人の観客のために舞う。時に激しく、時に優しく。静かな時間を、舞に費やす。
黄色い桜は、嬉しそうに体を揺らしていた。
どのくらい舞っていただろう。
いつの間にか風はやみ、空には月が顔を覗かせていた。
月がイツルの真上に昇ったとき、黄色い桜は一層輝きを増した。月の力を受けてか、自らの力でそうなったのかはわからない。その気配にただならぬものを感じて、イツルは舞うのをやめ、桜を見つめた。
花びらから放たれる光は徐々に枝に渡り、幹に広がっていく。桜全体が光に包まれたかと思うと、次の瞬間、枝に繋がっていた全ての花びらが弾かれるように一気に散った。降り注ぐ数多の光の洪水に、イツルの視界が滲む。
――僕のもとへ来てくれて、ありがとう。僕の精一杯のお礼、君に伝わるかな。
どこからか、そんな声が聞こえてきた。
「こんなところで眠っていたら風邪をひいてしまいますよ」
聞き覚えのある言葉に、はっとする。
人のよさそうなおばさんの顔が目に飛び込んできた。愛する者の面影を重ねていたが、即座に崩れ落ちた。似ても似つかない。リードに繋がれた犬が、イツルの顔を舐めてくる。
「やめろ、くすぐったい」
思わず言って飛び起きた。周囲を見ると、イツルは木々の生い茂る公園の出口にいた。空は既に白んでいる。
「あれ? 俺は今まで……」
なにが起きているのかよくわからず、イツルは額に手をあてた。今までの出来事を整理しようとしたが、目覚めの時のように頭が鈍く、働かない。
「うなされていましたよ」
黄色い桜を追いかけて――いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
よっぽど疲れていたんだな、と首を回し立ち上がると、おばさんが「まあ」と声をあげた。
「黄色い花びらが体についているわ」
はらはらと、イツルの服についていた黄色い花びらが地面に落ちていく。
「この時期はどこも桃色に染まっているのに、真新しくて奇麗だわ」
一枚頂いていくわね、と通りすがりのおばさんは地面に落ちた黄色い花びらを拾い、犬を連れて去っていった。
夢なのか現なのか、定かではなかった。イツルも黄色い花びらを拾い上げ、見つめてみるが、光はもう放たれてはいなかった。その代わり、体を迸る愛おしさと目に焼きついた光の洪水に、胸の中から熱いものが込み上げてくる。
あの桜は今も人里離れたどこかに身を置いているのだろうか。数多の桃色の桜の中、黄色い花びらを身に宿して。たった一人で狂おしいばかりの寂しさを抱えて。
「お礼は……伝わっているみたいだ」
無意識に言葉を漏らし、花びらをポケットにしまう。いつか探しに行くから。また会おう。心の中で桜に呟く。イツルの思いが届けばいいと、白む空を見上げた。
そういえば荒れ模様だった天気は、いつの間にか治まっていたようだ。気分を切り替え、伸びをした。
「さぁて、今日も仕事だ。頑張ろう」
欠伸が出たが、不思議と疲れは取れていた。
目覚ましにコーヒーでも飲もうと思い公園を出たとき、東雲の光が強く大地を照らした。
<了>
━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【2554/春日・イツル/男性/年齢18歳/俳優 原作者 魔狩人】
ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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春日・イツル様
お初にお目にかかります。青木ゆずと申します。
今回は「櫻ノ夢」にご参加頂き有難うございました。
全体的にしっとり&シンプル系でまとめてみましたがいかがでしたでしょうか。
桜の下でのイツル様の前世と巫女の夢のシーンは、私自身も書いてるときのんびりと幸せな気持ちになっておりました。
またの機会があればどうぞ宜しくお願い致します。
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