コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【ホテル・ラビリンス】黒のオーダーメイド

 回転ドアの向こうからあらわれたのは、仕立てのよいスーツを着た、長身の男であった。
 重そうなキャリーバッグをひきずっていたが、キャスターの音は、磨き上げられた革靴の足音とともに絨毯に吸い込まれ、ロビーは静かなままだった。
 男はフロントに歩みよる。
 穏やかな微笑を浮かべた美貌のボーイと、なまめかしいほどに咲き誇るデンドロビウムの花が彼を出迎える。
「糸永だが」
 男がフロントの上に置いたのは、ショップカードのようだ。
 黒地に銀色の活字が『tailor CROCOS』という名を綴っている。
「お待ちしておりました。糸永大騎様ですね」
 ボーイは言った。

「ようこそ。ホテル・ラビリンスへ――」

   † † †

「うーん、出ないなぁ」
 八島真は嘆息まじりに、受話器を置く。
「どうかしました?」
「いえね……『tailor CROCOS』とずっと連絡が取れないんですよね」
「テーラー……、服でも仕立てられたのでありますか」
 職員の問いに応えた八島の言葉に、弓成が意外そうな視線を向けてくる。
「そうじゃないから問題なんですよ」
 そう言って八島が持ち上げてみせた一枚の紙。
「納品書……?」
「頼んだ覚えもないのにね。早急に品物を引き取りに来てくれとあるのですが」
「何かの間違いでは? ……いや、しかしこれは――」
 確かに宛名が八島になっているばかりでなく……、弓成は八島の言わんとしていることに気づいて、眉根を寄せた。
「そう。それ……『ホテル・ラビリンス』の便箋なんですよね。あのホテルが絡んでいるとなると……なにか、あやしげな気配がしますよね」
「氏はあのホテルにいるのでしょうか」
 八島は肩をすくめる。

 同じ頃。
 東京には他にも、同様の連絡を受取ったものたちがいた。
 かれらは皆一様に首を傾げながらも、幾人かは、その場所に足を運ぶことになったのである。すなわち、異界の狭間に建つホテル……『ホテル・ラビリンス』へと。


■仕立て人は人を集める

「糸永さんから納品書……。私、なにかつくったの?」
 羽柴遊那は面白がるように言って、その書類を淡いローズピンクの爪でつまみあげた。
「あら、これって……ちぃ姫たちが言ってた――」
 それから数分後、遊那はいそいそとキャリーバッグに荷物を積め、出かけていく。行き先はもちろん、謎めいた、その場所――。
 どこをどうやって、その門燈までたどりついたのか、記すことにあまり意味はない。
 『ホテル・ラビリンス』は、そのとき、そこに訪れるべきひとの前に姿をあらわすのだから。
 ゆえに、彼女がロビーに足を踏み入れれば、その来訪を知っていたかのように、ボーイが出迎える。遊那もまた当然のように彼に荷物を預ける。
「ロミオさん、よろしくね。……聞いてたとおり素敵なホテル」
「お気に召したのでしたら光栄です」
「ここって、撮影はOK?」
「ご自由に。ときに、写らないこともあるようですが」
 さらりと気がかりなことを告げてから、遊那を案内しようとするが、彼女はふと立ち止まった。ロビーのソファーに、知己をみとめたからである。
「カメラマンの方まで呼ばれたということは、やはり、糸永さんはファッションショーでも開かれるおつもりなのでは?」
「糸永さんの腕前はみとめるけど、ショーっていう柄じゃないわね。厳密にいえば、ファッションデザイナーとテイラーはまったく違うものなのだし」
「冗談ですよ、もちろん」
 にこりと笑って、紅茶のカップを優雅に運ぶセレスティ・カーニンガム。対面にかけたシュライン・エマは、遊那に向かって声をかけた。
「遊那さんなら、本当に注文してても不思議じゃないわね。……『tailor CROCOS』から書類を受け取ったんでしょ?」
「あたり。……でもシュラインさんだって、別に服を仕立てておかしいことなんてないと思うけど?」
「興信所のお給料がもっとましだったらね。……最初、弁天さんのつけでも間違って回ってきたのかと思ったわ。確かに私あてだなんて。草間さんあてにこないところが何とも、というところだけど」
「タバコ代にも事欠く草間さんがオーダーメイドだなんて、不自然きわまりないですからね」
 セレスティの言葉にやれやれと息をつくシュライン。
「とにかく、いい機会だから休暇がてら来てみたの。……念のため、出掛けに糸永さんの最近の仕事のこと、調べてみたけど……、大口の注文が入って、それで出かけたらしいわ」
「どこへです?」
 セレスティが訊ねた。
「だから、ここ」
「ホテルに? ではつまり、お客の誰かが仕立て人をわざわざ呼び寄せた、と。……まあ、私もそういうことをしたことがないわけでもありませんけど……。一体、どんな方なのでしょうね」
「女の人じゃないでぇすか?」
 ふいに聞こえた声は、シュラインの肩のうしろから。あっと思う間もなく、それはぴょこんと彼女の肩の上に飛び上がる。10センチほどのちいさな身体に黒衣をまとい、金の懐中時計を下げた小人の姿があった。
「八重ちゃんも、糸永さんに会いに来たの?」
「500円玉貯金も貯まってないのに注文なんかできるわけないのでぇすよ。なのに納品書を送ってくるなんて、きっと他のお客さんと間違えているのでぇすね。仕方のない人なのでぇす」
 露樹八重は、おおげさに肩をすくめ、ため息をついてみせた。
「……」
 遊那はちょっと考え込むような顔つきで言った。
「……いくらなんでも、こんな間違え方するかしら……」
「しないでしょうね」
 と、セレスティ。
「糸永さんの本来のお客さんが誰かわかれば、謎は解けると思いますよ。……どうして女の人だと?」
 最後の問いは八重に向けられたものだ。
 ちいさな妖精は、フロントのほうを指し示した。すなわち、デスクの上のデンドロビウムを。
「お花さんが何か知ってるなのー?」
 今度はセレスティの背後から、声。
 ソファーの背から顔を見せ、にこっと笑ったのは藤井蘭だった。
「おやおや。今日はにぎやかですね」
「久しぶりのお出かけでうれしいのー」
 くまさんリュックを背負った少年は、瞳をきらきらさせて言った。
「あ。……ちゃんと糸永さんも探すの。……持ち主さんが事情聞いてきてほしいって」
 そういって、ポケットから小さく折りたたんだ書類をひっぱりだしてみせる。他のものたちが受け取ったのと同様のものだろう。
「とにかく、糸永さんにお会いしないといけませんね」
 セレスティの意見は、正論だった。

 そんなロビーの様子を、そっと物陰が見つめる視線がある。
「……客、多い……な……珍しい……」
 銀色の長い髪のあいだから、同じ色の瞳がうっそりと、ロビーのほうをうかがう。
 それから、視線を窓の外に投げた。空を見上げて、どこか不安そうな表情をつくる。
「なにか……起こる、か……」
 その名を、レグゼキアス。ゆえあって、もはや半月ほどの逗留になる。
 男は、手にした容器から角砂糖をつまみだすと、そのまま口に放り込み。
 物憂げな足取りで、もときた廊下へ帰っていくのだった。

   † † †

 ノックの音に、糸永大騎は顔を上げる。
 彼のおもては、精彩を欠き、不精髭にまみれていた。
「なんだ」
 ドアを細く開けると、ボーイの、微笑の仮面めいた顔があった。
「糸永様にお客様がお見えですが」
「……。ちょっと待ってくれ」
 ドアをいったん、閉じた。
「……客らしい。すぐに戻るが――」
「貴方の客はあたくしでしょう?」
 声は有無をいわさぬ調子で、糸永の言葉を遮る。
「それはそうなんだが、しかし……」
「もうだいぶ遅れているじゃないの。はやくあたくしの服を仕立てて頂戴」
「……」
 無言で、机に戻った。
 しばらくして、再び、ノックの音。
「糸永様?」
 ボーイの声にも応えない。
「……頼む」
 小さく、糸永の唇が呟いた。


■デンドロビウムの花言葉

 わがままな美人。


■客たちは謎をもてあそぶ

「ここって、お代は『秘密』なんですって?」
 廊下を並んでゆっくり歩き、壁にかかった絵をひとつずつ見ていきながら、遊那が口を開いた。
「そのようですね」
 杖をつきながら同伴するのは、セレスティ。そしてその肩の上に八重。
「確かに、他人の秘密は甘美なものよね。私の秘密はどうかしら」
 ふふ、と唇をほころばせる。
「納品書を貰って……未来から送られて来たのかと思ったわ。糸永さんに本当に注文するつもりだったの」
「それは面白いお話ですね。未来の遊那さんが着る服」
「それとも過去の私かも」
 謎めいたことを、遊那は言った。
「その服を着た私はひとつの秘密をつくった。……私が支払うべき秘密があるとすればきっとそれだわ」
「糸永さんも、なにかの秘密と引き換えに、このホテルにいらっしゃるのでしょうか。服の仕立て人というのは、あるいは、誰かの秘密をのぞいてしまうことも多いものなのかもしれません」
「そうなのですか? 困るのでぇすよ。夢見る乙女はヒミツがたくさんなのでぇすよ」
 と八重。なんでも、糸永には、以前、身長10センチ用メイド服を仕立ててもらったことがあるとかで。
「オーダーメイドはその人だけの服ですからね。身体のサイズも採寸するわけですし――」
「はわ! 言われてみれば、なのでぇす。糸永しゃんは、今まで数々のひとのあんなところやこんなところのサイズを……! はれんちなのでぇす!」
「……それはまあ、お仕事ですしね」
「今こうしているあいだも、このホテルのどこかでぇぇぇ!!」
 言っているうちになにやらエキサイトしたらしく、赤面した顔を覆った拍子に、セレスティの肩から転げ落ちた。
「『わがままな美人』、か――。ホテル・ラビリンスに糸永さんを呼び寄せた謎の客。まるでダークレディね。シェイクスピアの詩にあらわれる」
「だ、だい! はっ! けん!」
 と、そのとき、足元のほうから八重が叫ぶ声が聞こえてきた。
「おや、それは……」
 偶然、転がり落ちた廊下の絨毯のうえで、それを見つけたようだ。
「マチ針ですね」
「糸永しゃんのに違いないのでぇす」
「ああ、仕立ての人って、手首につける針山に、マチ針を刺してたりするものね。……でも、それだけじゃ、このホテルに彼がいるということにしか……」
「それは最初からわかっていたことですしね。糸永さんは、ロミオさんを通じての呼び出しには応じて下さいませんでした。たぶん、応じられない状態なのでしょう」
 セレスティは言った。
「納品書をでたらめに発送したのは、やはりSOSということでいいようですね」
「部屋番号がわかればいいんだけど……、……あら?」
 いつのまにか、針を見つけて騒いでいた八重の姿がない。

「いちどじっくり見てみたかったのよね」
 シュラインは、蘭を連れて中庭を散策中だ。
「糸永さん探さなくていいなの?」
「そうなんだけど……。大人にとっての久しぶりのお休み、というもののことを、どう説明したら理解してもらえるかしら」
「持ち主さんが一日中寝てる日のこと?」
「正解だわ」
 ホテル・ラビリンスの中庭は、生い茂る樹木のあいだを迷路じみた遊歩道が入り組んでいる。そしてところどころに、奇妙なオブジェのような彫刻がたたずんでいるのだった。
「この彫刻も誰の作品なのかしら。それ以前に、どの世界から持ち込まれたのかさえ謎だわ。……面白い形。案外、このホテルのことだもの、こういうところにヒントが転がっているかも」
 独り言のように、シュラインは言った。
 蘭は目をぱちくりさせて、何をあらわしているのかもわからない彫刻をながめる。
 だが、彼は、それよりも、周辺の植物のほうに関心があるようだ。
「糸永さんを知らないなの?」
 そっと、樹たちに訊ねてみる。
「えっと、金色の髪の男のひとなの。ホテルに泊まってて……、えっ、銀の髪のひとなら見た……?」
 小首を傾げた。
 ――と、シュラインがふいに顔を上げた。
 木々がざわめくのを聞いたからである。
 なにかいる。なにか、大きな影が、樹木の向こうを移動していくようだ。だがそれはすぐに視界から消え、かわって、茂みを分けて、ひとりの男がぬっと姿を見せる。
「……」
「……こんにちは」
 レグゼキアスの銀の瞳にじっと見つめられながら、とりあえず、挨拶してみた。
「……探しものか」
「ええ、人を」
「……どんな、やつだ……」
 問われて、シュラインが口を開きかけたとき、ぽつん、と水滴がそのほほを打った。
「雨?」
 蘭が、てのひらをそらに向ける。
「!」
 レグゼキアスは、まるで火に触れたように反応した。ほとんどシュラインたちを突き飛ばさんばかりに駆け出してゆく。
「あ、ちょっと――」
 大慌てで、彼は建物の中へ飛び込んだようだ。
 シュラインたちが小走りにあとへ続いた頃から、ぱらぱらとにわか雨が庭の木々の葉を打つ音がしはじめていた。
「珍しい。このホテルにいるときに雨だなんて」
「……めずら、しい……だと?」
 レグゼキアスは首を傾け、不本意そうな声を出した。
「ずっと雨だった……ぞ。それ、で……半月も、ここを……出られ、ない……」
「雨、嫌いなの?」
 無邪気に問いかける蘭に、憮然としたふうに顔を向けたが、まあ、そういうことらしい。正確にいえば、ただの雨でなく、彼が出立しようとしたときに限って雷が鳴るのが問題だったのだが、レグゼキアスはそれは話さなかった。もとはといえば、雷雨を逃れて、この場所に転がり込んだことも。
「糸永さんも雨だから帰れない、ってことじゃないわよねえ、まさか」
「……金髪の、男か……?」
「知ってるなの!?」
「何度か……見かけ、た……二階の、奥の部屋、だ……」

■雇い主は気まぐれに怒る

 すっ――と、服地にはさみを入れれば、おどろくほどたやすく、あざやかに切られていく。特別に切れ味のよいはさみなのか、切り方にもコツがあるのか。糸永大騎の仕事ぶりに迷いはない。無造作に見えるほど、ざくざくと生地を切っていくが、それは型紙と比べて寸分の狂いもなかった。そして早い。その手の早さをもってしても……、しかし、その仕事はまだ終わりそうになかった。部屋中に散乱した型紙。糸永は腕で額をぬぐった。嫌な汗をかいている。
 と、その拍子に、ぽとり、とマチ針が一本、落ちた。
 それは机の上を転がって、部屋の床へ。
 広いあげようと大儀そうに腰をかがめて――
「……」
 八重と目が合った。
「みーつけた、なのでぇすよ♪」
「ちょ、おま――」
「さあ、白状してもらうのです」
「こら」
 足から上りつこうとするのを、さっととらえて机の上に。そして、しっと人差し指を唇にあてる。
「気づかれる。静かにしろ」
「やーっぱり、密会なのでぇすね」
 八重の目がキラン、と光った。
 見れば、彼女はいくつものマチ針を、一寸法師の刀よろしく、携えていた。
「そのくせ、針を点々を廊下に落としたりして。ヘンゼルとグレーテルのつもりですか? 隠したいけど、知られたい、フクザツな男心なのでぇすね」
「バカを言え。いいか、他にも誰かきてるだろ? 腕の立つのを何人か呼んできてくれ」
「どうしてでぇすか」
「なぜって、それは――」
「あたくし、思ったのだけど」
 その声が言った。
 糸永は、ぱっと振り返り、後ろ手に八重を隠そうとする。ふいに捕まれてじたばたする不条理妖精。
「やっぱりマーメイドドレスのほうがいいんじゃないかしら」
「べ、別に今のままでも……」
「でも……どうかしら」
「今さらデザインを変更したら、また時間が……」
「せっかく仕立ててもらうんだもの。本当に気に入るものをつくりたいわ。ここなら、時間はいくらでもあるのだし」
「それはそうだが…………。と、ところで、それはともかく、う、腕が……」
 八重はすぽん、と糸永の手を抜け出した。仕立て人は掴みなおそうとしたが、たくみにそれを逃れて、彼の背中をクライミング。
「腕が……その――、前に採寸したときと……また……増えてるんじゃないか?」
 肩からそっと顔を出す。
 八重の目が丸くなった。
「あら、そうかしら」
 女は腕を伸ばしてみせた。すっと長い、かたちのよい腕だった。短い腕もあった。女とは思われない腕も。あるいは、到底、人間のものとは見えないものも。
 腕だけではない、足も二本ではなかった。
 それは、いったいどのような身体をしていたのか――にわかに判断しかねる、冒涜的な異形だった。複数の人形をバラバラにしてでたらめにくっつけあったような、姿をしている。そしてじっと見れば見るほど、腕と足の数ははっきりせず、数えるうちに増えているような、ふと目をそらしたら減っているような、頭のよこにも足があり、膝からわかれて腕があり、パーツひとつひとつは、美しいものであることもあるのに、全体としてみれば、とんでもない化け物以外の何者でもなかったのだ!
 パラパラ――、と音を立てて、マチ針が机の上に落ちた。
 そのものには顔がない。いや、あるようなのだが、いくら目を凝らしてみても、そのものの顔のかたちをはっきりととらえることができないのだ。その無貌のものが、しかし、糸永の肩のあたりをにらみつけたことが、なぜだかわかった。
「それは何なの?」
 糸永はとっさに八重を掴むと、部屋の入口のほうへ放り投げた。
「頼む!」
「お待ち!」
 異形の身体がぞわり、とくずれて不定形のものに返った。灰色の、ゼリーの海からでたらめに人間の手足をはやしたような代物だ。
「おまえまさか、あたくしの仕事を放棄しようというの?」
 ゼリーはふたてに分かれて、一方は八重を追い、もう一方は糸永に向かった。
 指が8本ある女の腕が、彼の喉を締め上げる。
「で、できるわけないだろう……!」
 糸永は叫んだ。
「手足の数もはっきりしないんじゃ、服の型なんか起こせるもんか!」
「あたくしを侮辱したわね!」
 だん、とドアが開いた。
 飛び込んできたのはレグゼキアスだ。
「これ、を……なんとか……すれば……雨、やむんだ……な……?」
「お庭の木さんが言ってたの。そのひとがきてから雨続きだって」
 続くのは蘭。八重を拾い上げる。
 レグゼキアスは、手足をはやしたゼリーの中に踏み込んでいく。
「なにをするの! おまえたち!」
 目も鼻もない顔が絶叫する。
 レグゼキアスのてのひらがあらわれる螺旋の刃。部屋のうす暗いスタンドの灯りを反射してさえ、それはぎらりと凶悪に輝く。
 ぎゃーっ、と耳を覆わんばかりの悲鳴があがった。
「悪いが注文は、取り消させてもらう」
 と、糸永。
 ばん、と荒々しく窓が開く。
 そして、遠ざかっていく声。
「誰が! 二度と頼むもんですか!」
「……こっちこそ願い下げだ」
 なまぐさい、風が吹いた。
 ごう――、と突風が、ホテル・ラビリンスの中庭を舞い、梢を騒がせる。
 そして激しい雨が、淀んだ空からスコールのように降り注いだ。
 さらには、天を裂くような雷鳴――
 その瞬間、レグゼキアスは大きな身体を屈して、いちばんそばにいた蘭にしがみついている。少年はきょとん、とした顔で。そしてその頭のうえで八重が、「行っちゃったのでぇす」と、雨天を見上げていた。

   † † †

「糸永さんも、お客さんは選んだほうがいいですよ」
 ボーイにコーヒーのお代わりを注いでもらいながら、セレスティが言った。
 庭に面した、いつものカフェダイニング。
「そのつもりなんだが」
 苦笑まじりに、仕立て人は応えた。
「結局、『彼女』は誰だったの?」
「さっぱりわからん。俺たちの世界の住人ではなかっただろうな」
「……当ホテルにはいろいろな場所からお客様がいらっしゃいますから」
 シュラインのカップにもコーヒーを注ぎながら、ボーイが一言、言葉を挟んだ。
「でもそれだけ、糸永さんの服が気に入られたってことよね」
 シュラインがどこか面白そうに言うのへは、肩をすくめる。
「ともかく助かった。礼を言う」
「お代は仕立てで……なんていうのは、虫が良すぎるわね」
「一着くらいならかまわんぞ。安いもんだ。永遠にここに閉じ込められて、いつ完成するかもわからない服を作らされ続けるくらいなら」
「本当?」
 冗談まじりに言ったことに思いがけぬ返事があって、シュラインは目をしばたいた。
「せっかくですから、草間さんに一着さしあげては?」
「んー。それは見てみたいような、そうでもないような」
 セレスティの言葉には苦笑を浮かべる。テーブルの上では、何を想像したのか、八重もくすくすと笑っていた。
「糸永さんの服が見られるかと思って来たのですが、それはかなわずにすこし残念でもあったのです。やはり今度はファッションショーをやりましょう。モデルは草間さんに……」
「それいいアイデアね。でも私は、本当に仕立ててもらうつもり」
 遊那が言った。
「仕事で使うの。だからきちんとお代は払うわ」
「歓迎だ。まともな仕事がしたい。時間があるならすぐにでも聞くが」
「いいの? じゃあ、そうね。テーマは……『わがままな美人』」
 デザイン画用のスケッチブックをとりだそうとした糸永の手が止まる。
 遊那の瞳が、面白そうに、その様子をうかがっていた。

「雨、やんだなの」
 別のテーブルで、蘭が言った。
「ん。ああ」
 角砂糖をかじりながら、レグゼキアス。
「これで帰れるなの?」
「ああ」
 短く、答えた。
 ボーイが、窓を開けて回っている。
 その様子を、蘭はじっと見つめていた。その視線に気づいたロミオへ、
「前にも……ここへ来たことあるような……」
 といいながら、小首をかしげる。
「そのときも……、お部屋に泊まってる人が……」
 ロミオは、腰を落として蘭に目線を合わせると、唇に人差し指をあてて、「しーっ」と、言うのだった。
「ご宿泊のお客さまは、みなさま、『秘密』をお持ちですので」


(了)

□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1009/露樹・八重/女/910歳/時計屋主人兼マスコット】
【1253/羽柴・遊那/女/35歳/フォトアーティスト】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2163/藤井・蘭/男/1歳/藤井家の居候】
【6470/レグゼキアス・−/男/64歳/一角獣(亜種)】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

お待たせしました。
お久しぶりのホテル・ラビリンスのエピソードをお届けします。
糸永さん受難編。

というか、基本的に、ゲストのみなさんは毎回受難のような気がします。
それに対して、今回はいつにも増して、お客様のみなさんの
のんびり具合がちょっと可笑しかったです。
はじめましての方も、いつもお世話になっている方も、
今回のご滞在が楽しいものになっていればさいわいです。

>露樹八重さま
はじめましてです。今回は八重さんのお考えが、いちばん本質に近かったような……。おかげさまで糸永さんも救出されたようです。

このたびは、ご宿泊ありがとうございました。
またのお越しを、お待ち申し上げております……。