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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


SWEET―ある苦悩―



 ガラス張りの温室へと緩やかな午後の陽射しが差し込んでいた。
 幾つも並んだ透明な小瓶の中で、赤や黄色に色づく液体が艶やかな明るさを放ちながら、静かに揺れている。
 男は、ビニルの手袋に覆われた手で、小瓶の一つをそっと持ち上げた。細長いプラスチック容器の中に流し込む。そしてまた、別の小瓶の中身をプラスチック容器の中に流し込む。数度の調合を繰り返された液体は、少しずつ混濁し色を変え、最終的には半透明の鮮やかな朱色へと落ち着いた。
 容器の液体は陽の光にきらきら輝き、危うい繊細さを醸し出している。遠く、ピアノの音が聞こえる。深く、ゆったりとしたその旋律を聞き流しながら彼は、ポンプのついた蓋を容器の中へと差し込むと、二度三度回転をさせ、きゅっときつくキャップをしめた。
 調合台の横には銀色のラックが置かれてあり、ガラス製の丸い鉢植えが数個、規則正しく並べられている。彼はその銀色のラックへと身を翻すと、鉢植えの中に向かい容器の中身をプッシュしていった。
 ガラスの鉢植えから、華奢に美しく葉を伸ばしているのは、数種のハーブだ。四角いフレームの眼鏡を押し上げながら、彼は、時折、葉を撫でたり裏返したりして点検をする。
 分かったような顔で淡々と作業をするその首元には、ゆったりと柔らかめに水色のミニストールが巻きつけられ、浅いブラウンの薄手タートルネックと細身のズボンが痩身の体をユニセックスな雰囲気で包み込んでいた。ナチュラルに佇む彼の井出達と、「科学」や「テクノロジー」は余りに似合わない組み合わせだったが、作業は黙々と進められていく。
 しかし実のところ、この作業にはまるで意味がない。
 液体はただの色つき水というやつで、液体肥料でもなければ培養液でも成長促進剤でもない。種をあかせば何ということはないただの水遣りを、彼は「液体肥料を作っている自分」風に演出し、遊んでいるだけなのである。
 そんな意味のない作業を繰り返している彼の名前は、草間武彦。とある繁華街に程近い雑居ビルの中の一室で、「辛うじて生活できる程度の儲けしか出さない興信所」を経営している私立探偵である。
 ただの探偵であるので、ハーブの栽培や園芸についての知識は一切ない。遠い昔に習った化学式も、シーオーツーくらいしか覚えていない「ど素人」だった。
 そんな彼が今、バイオテクノロジー気取りでハープの液体肥料作りに勤しんでいるその場所は、とあるお屋敷の敷地内にある、その名も「科学小物館」。
 この小さな離れのような館を作ったのは、「麻生源太郎」。今、温室から数十メートル離れた場所にあるサロンでピアノを弾いている少年の祖父に当たる男である。武彦としては、その気さくなジジイの「とにかくお洒落な理科室っぽいモンを造りたいコンセプト」や道楽具合に共感する所が、何となーくあるので時折こうして遊びに来るのである。
 一人で一時間くらい思いっきり無駄なことをして遊び、別室に飾られてある「ちょっぴりグロテスクだけど美的センス溢れるホルマリン浸け」や「原色カラーの科学的工夫が凝らされた小物」や「科学的知識が活きるそれっぽい装置」なんかをぼんやり眺めて時間を潰すのが、最近のストレス解消法である。「何となーく」を絵に描いたような人生を送る彼は、知識はないもののこれまた何となーく化学とか科学っぽい感じも好きであるので、ここに居ると、曰く。
 何かわかんないけど癒される。
 ハーブの無駄な水遣りを終え、ビニルの手袋を外すと、彼は温室の外へ出た。そこに置かれてあるゴミ箱に、手袋を丸めて捨てる。それからさっと、腕に巻いた時計を見た。
 これからこの「科学小物館」は映画か何かの撮影に使われるらしい。源太郎の孫、麻生仁志からそんな話を聞いた。興味があるかないかの二者択一なら興味はないこともないけれど、わざわざ一人で野次馬するほどの興味があるかと言えばそうでもないので、科学小物館を出ることにする。
 何ともファッショナブルな配色の人体模型が並ぶ廊下を歩き、クラシカルなデザインのエントランスを通り抜ける。重厚な両開きの扉から外へと出ようとしたところで、不意に扉は、外側から先に開いた。武彦はさっと身を引き、立ち止まる。
 入ってきたのは、仁志の友人である河成純也だった。武彦を見つけると小さな身の丈に良く似合う柔らかい声で「あ、武彦さん」と微笑んだ。後ろに数人の友人を従えながら、小さく手を振る。
 武彦は「えー」と皮肉っぽく唇を釣り上げた。
「えーって何でそんな意地悪そうな顔するんですか〜」
「ガキのくせに何で友達気取りで手ぇ振ってんのか意味わかんないとか思って」
「嘘ォ」クスクス、と純也は柔らかく微笑んだ。「だけど友達気取りなんじゃなくて友達なんですけど」
「いっぱしの大人に向かって中学生がシラフで言う言葉じゃないでしょ」
「んー。ただ真昼間からこんな場所でふらふら遊んでる人がいっぱしの大人を気取るのはどうかなって」
「あー。そうくるか」
「で、帰るんですか?」
「そうだね」ミニストールの形を直しながら武彦は覇気無く答える。「帰るよね」
「そうなんだ」
「撮影見るんだ?」
「ついでなんです。どうせ仁志の家には来ようと思ってたから。後ろの人らは完全に野次馬ですけど」
「いいなあ」
「え、何が」
「んー」出所不明の羨望をしてみせた武彦は黒縁眼鏡を押し上げながら曖昧に小首を傾げる。「何か微妙なんだよねえ」
「え、何が」
「何かが」
「ああ」
 純也は小さく頷きながら、「何かが……」と眉根を寄せる。「それ以上の解説はない感じですか」
「そうだよねえ。無い感じだよね」
「そうなんだ……」
「じゃあ。俺、行くね」
「んー、お疲れ様でぇす」
 その「何か」は「一体何なのか」をまだ考えているような顔つきで、取り残されたままの純也の隣を通り過ぎた武彦は、不意にその歩みを止め最後尾に居た少年に目を向けた。
「そういえばさっきから俺のこと見てるけど、何か用だったっけ?」
 眼鏡をかけた、可憐な顔つきの少年。頬にかかるくらいの柔らかそうな髪の間から、しっとりと濡れた黒い瞳が物憂げにこちらを見つめていた。
 どうでも良さそうに見送る武彦の目と、最後尾を歩いていた少年の視線が絡む瞬間。
「あ、いいえ」
 少年は素早い仕草でその瞳を伏せた。
「…………ふうん」
「何でも、ありません」
「ああ、そう」
 頷いたものの、彼は暫くの間ぼんやりと少年のことを見下ろしていた。しかし不意に、「まあいいか」とでもいうようにまたその歩みを再開する。
「でもそういえば」
 外に出ると明るい日差しがきらきらと頭上に降り注ぎ、その瞼を瞬間的に重くした。
 眩しげに瞳を細め、ミニストールを口元に当てた武彦は小さく呟いた。「あの子どっかで見たことあったっけ」
 それから小さく小首を傾げる。「んー。誰だったかな」



  ■■



 円形の透明な筒の中に小さな空気の泡沫が連なっている。
 無数の泡粒が泳ぐ円柱の中の液体には、赤や黄色やピンクといった原色の鮮やかな色付けがされており、冷たいほど真っ白な空間を危うく彩っていた。
 ゴム底の靴がリノリウムの床を踏みしめる度、柔らかい足音が一つ一つ浮いていく。
 男は淡々とした足取りで「ソーダ水の廊下」を通り抜け、直角に曲がった廊下の角を折れ曲がる。彼の歩いてきた廊下は、大きな部屋を一つ挟んで伸びてきたそれと交差し、出入り口である両開きの扉へと続いていた。
 人体模型がずらりと並ぶ先の廊下を、続けて歩き出そうとした彼、中原莞爾は、そこでこちらに向かい歩いてくる数人の少年達の姿を見つける。その中に顔見知りである河成純也の姿も見つけ、そういえば、と彼は、今日の撮影に見学者が居たことを思い出したのだった。
「あ、莞爾先生」
「あーそうね」
 元教え子の幼馴染と遭遇した元家庭教師は、面倒臭そうに髪を撫で上げた。「今日見学入るんだったね。忘れてた」
「まず先生じゃないってとこに食いついてくるかと思ったけど、何、そうくるか」
 廊下の展示物を好き好きに眺めている後方の友人を差し置き、純也がひょこひょこと莞爾の元へ駆け寄ってくる。
「忘れてたってどういうことよ」
「あー、そうね。先生じゃないね」
「相変わらず人と違うテンポいくよね、莞爾さんて」
「いや真剣に先生じゃないなあって引っかかったから」
「まあね。アルバイトの家庭教師だっただけだしね」
「え、そっちなの」
「どっちよ」
「今はもう先生じゃなくて、映画監督さんですよ、って話じゃないの」
「話じゃないよ」
「いやいやいやいや。ちょっと待って。先生だったことはあるから百歩譲って先生って呼ばれることは我慢できても、やっぱり俺はお前の先生だったことは一度だってないからお前には先生って呼ばれたくない。っていうかそう、呼ばれたくない」
「噛まずに言えて凄いね」
「そうね。凄いでしょ」
「何でそんな今、若干、必死になったの」
「でしょう。何でだろうね」
 莞爾はまた面倒臭そうに髪をかきあげる。「自分でもびっくりだよ」
「それで監督さんは。これから一体何処にいらっしゃるおつもりなんですか」
「ちょっとジュースを買いに出るおつもりですよ」
「嘘ォ。普通に俺らを撮影現場に案内してくれる気ィとかない感じなんだ」
「そうだよねえ。申し訳ないくらい、それはないよね」
「んー」
 溜め息のように頷いて、純也は首をカクリと垂れた。「何か昔からだけど、莞爾さん俺には冷たくない?」
「たぶんねえ、甘やかし出したらキリがなさそうだからなんじゃないかな」
「嘘ォ。びっくり」
「俺はお前がまだ仁志と友達だったことの方がびっくりだね」
「まだって何よ」
「小学校ん時から不思議だったんだよな。全ッ然タイプ違うし、話とか合わないでしょ。大人の目から見てもどうしてこの二人が仲良いわけって思うもんね」
「大人の目は濁ってるからね」
「あーそう」
 フンと鼻を鳴らしながら軽く笑って、不意に莞爾は何かを思い出したような顔つきになる。「濁りのせいときたか」
 自らの記憶には触れず、当たり障りの無い言葉で返事を返す。それから遠く、自分より顔一つ以上小さい純也を通り越し、廊下の奥へと視線を馳せる。
「それであれは全部見学する人なの」
「まあ全部見学する人だよね」
「ふうん」
「今更無理とかやめてよね」
「いやまあ、いいんじゃない? 別に。って、俺が判断するのもどうかと思うけど」
「何それー。監督でしょー」
「しかしあれだよね。仁志は全く興味なさそうだったのに、お前は何にでも首突っ込みたがるんだねえ。見学しても別に面白くもないと思うけど」
「はいはい」
 覇気のない声で頷いて、純也はさっと伸びをする。「じゃあ何か、話が小言臭くなってきたので、俺行くね」
 それから背後を振り返り、「おい、行こうぜ」と声を上げた。
「虹の間にスタッフ入ってるから」
「虹の間、ね」
 軽く頷きながら、友人達と合流した小さな影は、ひらひらと手を振り莞爾の前を通り過ぎていく。「さっさと戻って撮影始めろよー、監督」
「何でそんな偉そうなんか意味わかんない」
 首筋を掻きながら文句を垂れた莞爾は、廊下をまた、出入り口に向かい歩いていく。莞爾は、大学在学中からラッキーにもある有名な映画監督に就き、映像に関して学んだ。三年という月日を経て、監督として作品に携わる機会が出来た。監督デビューの撮影に、仁志の自宅にあるこの「科学小物館」を使うことが決まったのは、一ヶ月ほど前のことだ。
 莞爾が頻繁に出入りしていたその頃、科学小物館はもっと小規模でこんなに整頓されていなかった。それでもその、非日常めいた展示物の世界観に、心躍ったことは強烈に記憶の中に焼き付いている。そして、それ以上に、この場所を撮影の場所に選んだのは、その頃見ていた仁志という少年の蒼い部分が強烈に記憶の中に焼き付いていたからに違いない。
 しかし当初はこの場所そのものを使うのではなく、この場所を下敷きに何かを作ろうかというような話になっていた。
 莞爾は人体模型が並ぶ廊下をエントランス目指し、ゆっくりとした足取りで歩んでいく。内蔵の各部位を、原色で鮮やかに色づけられた無表情な人形達は、虚ろな瞳で何処か遠くを見ているようでもあり、こちらをじっと見つめているようでもあった。
 それが実際にこの場所で撮影するに至ったのは、イメージを膨らませるためだけに訪れたはずのこの場所が、予想に反し、イメージ通りの奇抜さで莞爾を迎え入れてくれたからである。
 時に、頭の中でだけ先行したイメージのせいで、目に映るそのものこそ色褪せて見えることが多々ある。例えば思い描く女より美しい現実の女を見たことがないとか、記憶の中では名曲だったあの曲が実際に今聞いてみたら実はそうでもないなあとか、頭の中では美しかったはずのカットが実際に撮ってみたらそうでもないなあとか、そういうことである。けれどその反対に、頭の中のイメージよりも圧倒的に実物に力のあるものもある。例えばそれは偶然目にした夕日の美しさだったり、耳に流れ込んでくる弦楽器の音色だったり、人間の繊細な体の動きだったりする。そういうものを感じた時、貧困な想像力を上回るその計り知れない威力にハッとし、美しさに時に涙し、優秀さに時に胸が詰まる。
 莞爾にとってはこの小物館もまた、そういった類のものだったのだ。たくさんの色、奇抜な展示、館の中を取り巻く濃密な空気。実際に目にした者にしか分からない力強さのようなものを、眼前に突きつけられたような気がした。
 莞爾は、エントランスの近くまで歩みを進め、そこで不意に、人体模型と人体模型の間に身を隠すようにして佇む一人の少年の姿を見つける。
 見かけない顔だった。純也の友人だろうか。可憐という言葉の似合う、痩身の体躯の少年である。
 頬にかかるくらいの柔らかそうな髪の間から、無表情な横顔が覗いている。赤フレームの眼鏡の奥の瞳は、何処かぼんやりと色を無くし虚ろに空を彷徨っているようにも見えた。ひっそりと、けれど尋常ならざるその蒼白な横顔と不安定な雰囲気に、莞爾は思わずふらふらと引き寄せられていく。
「何、君。どうしたの」
 小さな声で呼びかけてみる。少年は何とも虚ろな表情のまま、そう、例えば夢現というような表情のまま、赤い唇だけをそっと動かした。
「先に行っててって言」
 か細い声が濃厚な彩の中にポツンと浮かぶ。
「え、何だって?」
 聞き返した莞爾が近づくと、彼は突然カクン、とその膝を折った。
「おっと、危な」
 ふわ、っと彼が、莞爾の手の中に落ちてくる。



  ■■



 彼女は優美なデザインの椅子に腰掛け、肩肘を突きながら窓の外をぼんやりと眺めていた。
 窓から差し込む柔らかい光が、彼女の真っ白なシャツの襟元を眩しいほど鮮やかに照らし出している。光の粒子は更に優しく、彼女の着ている長襦袢のようなデザインの羽織りの上にも降り注ぎ、朱色と茶色と山吹色で描かれたレトロな柄を艶やかに鮮明に見せていた。
 クラシカルな柄の羽織りは、艶やかに彼女の肩から地面へと流れ続き、椅子の陰影に屯する。
 赤いレトロなデザインのパンツに包まれた足は、組まれた格好のまま微塵も動かず、あるいは彼女は同じ体制のまま微塵も動かず、じっとただ、木枠の古めかしい窓の外へと、その黒い瞳を定めている。
 しっとりと長い黒髪は頭の高い位置で無造作に丸め纏められ、東洋的な髪飾りがさりげないアクセントをつけている。露になったその横顔は、達観した老人のように透明でもあり、同時に酷く幼く不安定だった。
 彼女はそんな、儚く透明な表情で、ただじっと窓の外を眺めている。
 半目を開けてまどろんでいる時のような、その、掴みどころのない生ぬるい時間を遮ったのは、突然部屋の中に響いた音だった。
 チリチリチリと玩具のように軽い金物の音が、彼女の耳を突く。
「クミノちゃん」
 続いて、若く幼い男性の声が耳を突いた。彼女、ササキビ・クミノは、窓の外に目を馳せたまま、「なに」とナチュラルな返事を返した。
 もじもじとしているような気配が、背中に伝わる。クミノはゆっくりと怠惰に、大きな瞬きを一つ。そして椅子をそっと回転させた。
「どうした」
 そこに立つ二つの固体に向け問いかける。
 学生帽のようなデザインのハンチング帽を被った、二人の少年。個性的なカッティングの施された短い丈のジャケットを羽織り、軍服のようなデザインのズボンと、白タイツ、黒いブーツでその身を包んでいる。全く同じような顔をした二人だが、一人は青系、もう一人は飴色系と衣服の色が分けられていた。
 ぞっとするほど整った顔立ちの彼らは、生身の人間のように見え実のところ、生き物という括りの物質ですらない。正式名称は、メイドアンドロイドのプラゼノモナリスとプテラノモリナス。利便上、今、青系の衣服に身を包んでいる方をモナと呼び、飴色系の衣服に身を包んでいる方をリナと呼んでいる。
 要するに彼らはこの、重厚で古めかしい造りのお屋敷で使われている使用人であり、屋敷の一階部分に作られたネットカフェ「モナス」の従業員でもある。本日はその店が休みであるため、ついには暇を持て余した二人が、経営者であり主人であるクミノの部屋に顔を出したのだ。
 しかしあのリナのモジモジとした様子からして、顔を出しただけではなく、何か頼みたいことがあるに違いない。
「あのね」
 リナは甘えの抜けない声でもそもそと言った。店に出る時には「舐められるからやるな」ときつく命令されているので出さないが、彼はどうにもモナに比べて幼い部分がある。しっかり者で完成されたタイプのモナに頼りっきり、甘えっきりというのが遠目に見ててもはっきり分かる。
「モナくんが……遊びに行きたいって」
 そのくせ、好奇心が旺盛でいろんなことを知りたがる。人の影からこそこそと顔を出している引っ込み思案のくせに、自分の意見を通したがるところがある。
 クミノは机に両肘を突きながら、じっと冷たい瞳でリナのことを見つめていたが、不意にふっと小さく微笑んだ。まだ若干、十三歳である彼女の顔が、母性的な慈愛や色気をふわりと孕む。背丈こそ十三歳の標準より少し大きいくらいのクミノは、その華奢な肩に「元、企業お抱えの傭兵」というお荷物を背負って生きていた過去がある。
「本当にモナかな」
 リナは母親に悪戯を見咎められた子供のようにばつの悪そうな顔をした。ちらちらと隣のモナへ視線を渡す。
「はい。クミノさん。僕です」
 モナが落ち着いた声できっぱりと言い切る。クミノはまた小さく唇をつりあげた。
 一端に、お兄様気取りだ。
「ああ、そう」
 彼らは機械だ。むしろ、機械でないとクミノと一緒には暮らせない。彼女の体は見えない障壁に覆われており、あらゆる一般生命体は彼女の傍に居るだけで、二十四時間を以って即死してしまう。悲しいかどうかを考えたことはないが、面倒だとは最近良く、思う。
 そんなわけで彼女の周りには殆どの場合、機械しか居ないわけだが、この二人は見ていて飽きない。
 傭兵として超有名巨大企業に従事していた頃、殺し屋・軍人を始め七百余人を殺害し、それこそ多くの人間というものとある意味では触れ合ってきたはずのクミノだったが、人間というものが面白いものだと気づいたのは、ここ最近のことだ。
 その過去が哀れむべきことかどうか、気に病むべきかどうか、興味はない。あの業務が両親を人質にされたからだ、ということも、今になってはもう考えるべきことではないと思っている。ただ、自分のその境遇を哀れんでくれたらしい上司と同僚には一つだけ感謝したいことがある。
 このモナとリナを少しだけ複雑に面白く作ってくれたことだ。
「その……やはり、駄目でしょうか」
「こんな檻の中みたいなところは息苦しいかい」
「ここも……楽しいけど。お外の世界ももっといっぱい見てみたい……って、モナくんが」
「ああそう、モナくんがね」
「……はい、すみません」
「何にせよ、お前達が外に出ようと思ったら、私以外の保護者が必要だね」
「保護者」
「保護者……」
 二人はそっくりな顔を見合わせ、じっと黙りこくる。
「クミノちゃん」
 リナの呼びかけに、クミノは目だけで返事を返す。
「あの人はどうだろう。あの、ふわふわの黒髪の。前髪だけぴっちりと撫で付けた」
「ああそうだ。眼鏡の」
 リナの言葉を浚ったモナは検索するかのような沈黙を置き、クミノを見た。「草間武彦さんはどうでしょうか」
「草間ね」
「彼は何でも屋さんでしょう。何度かこちらにもお見えになったし、僕らのことも知ってらっしゃるし」
「まあ、そうだね……いや、何でも屋ではないけど」
「違うんですか」
「違うの」
「しかしまあ。そうだね」
 クミノはふと物憂げに瞳を細めて、デンと幅を利かす紫檀の机の上にある黒電話を見つめた。「依頼だと言ったら、お前達の面倒は見てくれるかも知れない」
「じゃあ、そうしよう! ……ほら、モナくんからもお願いして!」
「ああ……。そうですね、クミノさん。どうでしょうか」
「……うん」
 そしてクミノは黒電話を前にして、草間に連絡すべきかどうかを暫しの間、思案する。



  ■■



「で監督、何処行っちゃったんだろうな」
「ジュース買いに行くつって遅くない?」
 カメラや音声機材の前に腰掛けた撮影チームが、監督の不在について雑談している。
 それらの声を聞き流しながら、男は一人、部屋の隅に置かれた椅子に腰掛け、静かに瞳を閉じていた。着やせするらしい逞しい体躯を柔らかく椅子の背に預け、腕を組みながら眠っているようにも考えことに耽っているようにも見える。
 彼のその、悠然と組まれた長い脚の袂には一匹の小さな子犬がちょろちょろと動き回っており、時折くんくんと甘えたような声を出しては頬をその脚にこすり付けていた。
 無表情な男の顔は酷く冷たくも見え、子犬は今しも苛立ったその立派な足に踏みつけにされてしまうのではないかと、何も知らない者には杞憂を抱かせる光景だったが、それは男の持ち物で名をメーテルと言い、彼はそれを、それはそれは大事に飼っており、転地がひっくり返っても踏みつけることはない。
 しかし今はそれ以上に、子犬を踏みつける余裕などないくらい、彼は深く集中していた。自分の中を空っぽにし無にするために、瞳を閉じてただぼんやりとしているのである。
 周りがさわさわとしている中で、自分だけを空っぽにすることは案外難しい。けれどそれは、彼が何かを演じる前に必ずやる儀式のような作業だった。
 彼の名はCASLL・TO(キャスル・テイオウ)。ある劇団に所属する俳優である。
 逞しい巨体に、鋭い双眸。(しかも右目には眼帯)。所属劇団のサイトにさえも「悪役向き俳優」と謳われる彼は、「悪いことを企ませたら右に出る者は居ない」と決め付けたくなるほどの「悪い顔」をしている。もちろんそれは、顔の造形の話をしているのではなく、彼という人間そのものの佇まいが「悪く」見えてしまう、という話である。
 そんなわけで何かと安易に「悪役」として重宝されていたわけだが、彼はどんな現場に入っても、命令が無い限り自分のために台本を開くことはない。現場に入る前に台本を端から端まで熟読し、その殆どを暗記している。そもそもがこれまで、テレビや映画に関する仕事では台本を堂々と開いていられるほど長台詞のある役を演じるわけでも、名のある役を演じるわけでもなかった。しかし最近、何かと「テンションの高い悪役」以外のオファーが彼の元に舞い込むようになり、役者としての新境地を開拓中ではあるが、何はともあれやはり台本は開かない。
 というより、開けない。
 容姿こそ、「極悪」の「ふてぶてしい」「大男」であるし、実際のところはそうしていい実力もある彼だが、彼は彼なりのイクスキューズを持って生きているのである。それすら勘違いされがちの今日この頃だが、本当の所はイクスキューズイクスキューズでもうイクスキューズなのである。
 そんな彼が今回、オファーされた役どころは。
「なあ」
 不意に、テイオウの頭にそんな声が響いた。
「緊張してんの?」
 しかし彼の周りには人の姿はない。子犬がそろそろと大男を仰ぎ見ているだけである。
 テイオウはゆっくりと瞳を開き、オールバックにした赤色の前髪をそっと骨ばった指で梳いた。それから心の中でこう答える。
「いえ、まあ」
 口調は不器用なほどに四角四面で丁寧。そして淡々としている。「どうなんでしょうかね」
「まあな。俺はお前の肝っ玉が実はミクロだってことも知ってるしさ。何つーかさ。分かるぜ」
「…………」
「だけどお前なら出来るよ」
 頭の中に響く声は、まるでテイオウを包み込むかのように闊達に、そんな根拠のない励ましを堂々と言う。
「…………」
 テイオウは自分の足元に蹲る子犬に目を落とし、「……そうでしょうか」と頭の中で問うた。
「お前が生まれた時から見てる俺が言うんだから、間違いねえんだって」
「君は……どうしてそう、根拠のないことを堂々とそれらしく言えるんでしょうかね」
「根拠はあるんだって」
 彼があの皮肉っぽい笑みを浮かべ、へらへらとのたまっている様が、テイオウにはリアルに想像できる気がした。
 今、テイオウの足元で蹲っているその子犬のメーテルは、どう見ても見た目はただの子犬でしかないのだが、本性はケルベロスという守護獣だ。この握りつぶしたくなるほど可愛い容姿は仮の姿で、実際の所は世にも美しい成をした極めて人型に近い種の一種で、そのくせ何ともアバウトで破天荒でハードな性格の獣くんなのである。
 そんなわけで、傍から見れば一方通行。意思の疎通など不可能に思える一人と一匹は、実の所、頭の中という二人だけの異次元で会話を交わすことが出来る。
「だいたいお前は、スタートって入ったら、ガッと人間変わっちゃうんだから、心配しないでいいんだって」
「…………」
「とかいって俺も実はちょーっと、どうかなあ、とは思いはしたけどさ」
 ほらみろ、と言わんばかりにテイオウが静かに項垂れる。「やはりそうですか」
「これ、結局ラブロマンスだもんなあ……」
 メーテルは遠い目で撮影陣の方を振り返り、それからまたテイオウを見る。
 今回、テイオウの元にやってきた出演依頼は、何をどう間違ったか恋愛的な内容が絡むフィルムの主役の男だった。出演映画自体はさほど長い作品ではない。三人の若手監督と、一人のベテラン監督が、それぞれ四つのショートフィルムを取り、それが一連の流れとして一本の話として繋がる、という企画映画の、一本にテイオウが主役として出演するのだ。
 それぞれ、違う分野で活躍してきた個性派の鬼才が集った今回の監督郡の中に、この無謀とも思えるキャスティングをした中原莞爾が居る。
 中原莞爾はCG技術を得意とする監督である。
 その彼の劇場用映画初監督作品は、不器用な男の一方通行の恋を描いた「奇怪な恋愛物」だ。様々な場所に散りばめられた奇怪は、映像美の中にも無論存在するが、何より脚本の中に存在する「彼」の、熱烈な憧れ、心酔、そして苦悩は、奇怪なくらい強烈だ。
 どうやら原作物ではなく下敷きからしてオリジナルらしいが、あの淡々とした監督と色恋沙汰はどうにも結びつかないように見える。見えるだけで、心の中には激しい熱情を持っている、ということなのかも知れないが、メーテルが盗み聞きしてきた情報によると「日記」がシナリオに深く関わっているということらしい。
 誰の日記なのか。そもそもそれは、正真正銘の日記なのか、は定かではない。
 とにかく。
 誰でも一度は名前くらいは聞いたことがあるだろう有名な監督に就き、映像について学んだ彼の、華々しいデビュー作の主役などが果たして自分などでよかったのか。恋愛は人を一番便利に描く手段だから、と言ったあの、淡白な監督の柔らかさと、メーテルの後押しも相まって出演を決めたがしかし、ここへ来て後悔の念は募るばかりである。
 とはいえ撮影は自分の内心とは裏腹に、順調に進んでいるようだし、今日だってもうすぐ撮影が始まるし、今更後悔もクソもないのだが、そこはイクスキューズの男、キャスルテイオウ。一応、ここで一旦イクスキューズしておかないと、やはり尻の心地が悪いのである。
「だけどあの監督さ。言ってたぜ」
「…………」
「あの人は凄く飄々としているように見えて、実はシャイなんだ、ってな」
「…………」
「初めて会った時から、何であの人があんなテンションの高い役やってんだろうって思ってたんだってさ。あんな演技をぱっとできるような人には見えなかったって。だけど、演技に入ったら本当にそういう人が実在してるのかと思わせる力持ってるってさ」
「…………」
「お前のこと、最初から違う目で見てたんだよ」
「…………」
「俺思ったよ。この監督ならお前のこと、ちゃんと分かって撮ってくれんじゃねえかなあってさあ」
「…………」
 テイオウは微かに、頬を強張らせる。「……そうですか」
 それは誰の目に見ても笑顔には見えないが、彼なりの喜びの表情だった。
「私は君に、いつも励まされてばかりいる」
「ま、お前を守るのが俺の役目? みたいな? 何せ、守護獣だし」
「君は時折」彼は銀色の瞳を物憂げに細め、メーテルを見やる。「私の母のようだ」
「やだー。俺こんな馬鹿デカイ男産んだ覚えないー」
 きゃんきゃんきゃんとメーテルが嫌そうな鳴き声を上げ、走り回る。
 テイオウはさっと視線を上げて、現場の雰囲気に視線を馳せた。真正面から見ると、少し焦点のずれたように見える彼の両眼は、何処か遠くを見ているようでもあり、同時に近くに定まっているようでもある。幼い頃、父親が献眼した眼球から角膜を移植して貰った彼の右目は、暗闇で光ったり、要らぬものが見えたりするため、普段は眼帯で覆い隠しているが、撮影ともなれば、そうそう隠してもいられない。
 今回はその瞳のニュアンスが、思い描く主人公の儚くも美しい容姿を更に膨らませてくれるであろう、という監督の思惑もあり、現場では殆ど眼帯を外している。テイオウは、その両目でしっかりと、その場の雰囲気を観照し、空っぽだった体の中に取り込んでいく。
 虹の間という名前の付けられたその部屋は、その名の通り、煩いくらいの色の中に沈み込んでいる。これから撮影されるのは、男の心の中の心象風景。
「これは結局のところフィクションなんですよ。だから、主人公が気持ち悪くては話になりません」
 監督の言葉が頭を過る。
 気持ち悪いのではなく、切なく。
 恐ろしいのではなく、甘美に。
 ――男の想像の中、彼女の幻影はどんどんと美しく美化されていく。
 ――一方通行に抱く憧れとは。現実の醜さと幻影の中の美しさのギャップとは。この主人公の抱く、想いの重さとは。
「それでさ。瞑想もいいけどさ」
 ハム、と突然足首に噛み付かれ、テイオウはぎょっとして目を落とす。
「何ですか、突然」
「いやさ。気持ち入れてくのいいんだけどさ」
「……はい」
「監督居ないと始まらないじゃん」
「まあ、それはそうですが」
「んー、なあんなあらあ」
 チラ、とメーテルが上目にテイオウを見上げる。「俺、探してこようか? 監督」



  ■■



 所々色の剥がれた、くすんだ緑色の石床に、薄い影がそっと長く伸びている。
 町の住宅街の中にある寂れた電気屋の店内に、その浮世離れした佇まいの女性は居た。
 何十度目かの洗濯を終えた後のような、褪せた白のワンピースを身につけている。綿の素材で出来たそのワンピースは、色こそ白一色の単色だったが、形が酷く個性的だった。ボタンの位置、カッティング、そのどれもが少しずつ、浮世離れしている。
 彼女の長身を強調するかのように、高い位置に腰の搾りが置かれ、その細い体のラインをとても効果的に魅せていた。
 灰色の淡白な色のカーディガンを無造作に羽織る彼女の佇まいは、ふらりと買い物に出た娘のようにも、物憂げな悩みを抱える女のようにも見えた。しかし本当の所、彼女はそのどちらでもない。
 寂れた店内を淡々とした足取りで見回っていく。
 ノスタルジックな昭和然とした電気屋の店内は、酷く殺風景で生暖かい懐かしさのようなものを感じさせる。
 埃を被った黄ばんだ貼り紙、値段の書いたポップ。乱雑に陳列された掃除機のフィルター、乾電池のパック。
 そして彼女は、ポツンと店内の雰囲気から浮くように置かれた最新型の空気清浄機の前で、足を止める。
 深い青の瞳を物憂げに細め、棚に展示されている空気清浄機をじっと見た。
 淡々とした横顔。冷たくも見える切れ長の瞳。彼女は一体、どのような詩的なことに思いを馳せ、あるいはどのような苦悩に頭を悩ませ。と、想像せずにいられない雰囲気を醸し出しながらも、彼女はこんなことを考えている。
 これを買えつったら、即答で拒否だろうな。
 そして更に彼女はその光景をリアルに思い浮かべる。
 むしろ、被り気味で拒否かも知れない。
「あれ買っ」「あー無理」
 そして頭の中の男は、飄々とした顔つきで回転椅子をゆらゆらさせながらこう言うのだ。
「だって何処にそんなお金があるのよ」むかつくことに、鼻だってほじっているかも知れない。
 そこまで想像して彼女は無表情に首を項垂れた。
「それはそうだ」
 あの野心の欠片も見えないのらりくらりとした男に、空気清浄機を買える甲斐性などあろうはずがない。
「自分で買って勝手に置くかな」
 どうやら自分が、軽度の花粉症デビューしてしまったらしいことも相まって、彼女は、あのヤニ臭い興信所を一掃すべく、思いを馳せる。
 淡々と事務所のヤニを排除してやろうか、と企んでいるこの彼女の名前は、シュライン・エマ。草間興信所の経理事務を務めている女性である。
 目立つ容姿の人間は、浮気調査などの追跡調査には向かない。何せ、目立つんだもの、という所長草間武彦の格言により、裏方に徹して早数年。どのみち、町に立った時に目立つか目立たないか以前の問題で、彼女には翻訳というれっきとした本業があり、そちらの方面では顔も広く、様々な人に顔を覚えられてしまっている。
 そんなわけで、興信所の経理に関する事務や、最近では専ら、女性向けのカウンセラーとして活躍している。
 やる気があるのかないのか根性があるのかないのか良く分からない、ふらふら、いやむしろゆらゆらとした草間武彦と共にやっていける女は、きっとこの人しか居ないだろうと評判の、草間興信所影の女帝である。
 ただし彼女自身は、共に歩んでいるつもりもないし、武彦を手玉に取っている気もない。あんな空気のような奴を捕まえようとしても無駄であるし、放っておけばいいのだ、と思っている。
 人は、二人のことを、似た者同士と形容する。
 二人を同時に佇ませてみれば、その雰囲気は確かに、同じ空気の中を生きている人種だった。本人達は「間違っても自分はあんなわけの分からん人間ではない」と否定し合うが、何色にも染まる無色透明に見え、一緒になって染まってくれてるようにすら見え、蓋を開ければ実のところ何色にも染まっていない無色透明。なんて所などそっくりなのである。
 彼女らは決して、わざとらしく手に手を取り合ったりしない。そういうことを好まない。が、気がつけば凹と凸。似た者同士の最強コンビなのである。
 そんな凹凸の内の一人のシュラインは今、寂れた電気屋でそうして空気清浄機を眺めているわけだが、そもそも空気清浄機を買うためにこの電気屋に足を運んだわけではなかった。
「お、来たね。いらっしゃい」
 店の奥の住居スペースから浅黒い顔の女が顔を出す。
 北村朝子。この北村電気店の娘であり、全くそんな風には見えないが、その業界ではちょっとばかし名の売れたスタイリストである。
 シュラインは近頃、頼まれた地元のフリー誌にエッセイなどを掲載しているが、その取材の折に、映画の衣装などを多く手がけている彼女と知り合いになった。以来、ちょっとした飲み友達となっている。
 今日は、そのフリー誌のネタの相談で顔を出した。
 北村はサンダルをつっかけながら、元気良く店内へと歩き出してくる。
「相変わらずそのまま現場引っぱってきたくなるくらい、格好いい格好してんね」
「格好いい格好ね」
「それで、ネタに詰まってんだって?」
「詰まってるね。そろそろ紹介する場所も無くなってきたっていうか」
「地元密着誌も大変だ」
「ねー」
 顔を顰めながら深く頷いたシュラインのバックの中で、突然、プルル、と携帯が振動した。
「あ、ごめ。ちょっと待って」
「うん、ゆっくりどーぞ」
 開いた携帯の画面に表示されていた「着信。草間武彦」の文字。
 シュラインは「はい」と軽く電話を受けた。
「何してるの」
 飄々とした武彦の声が耳の中に流れ込んでくる。
「なんで」
「んー。今日興信所来るのかな」
「夕方頃顔出すかな」
「それはこれからすぐには来ないっていう話ですよね」
「話ですよね」
「あー……そうなんだ」
「何、眼鏡屋でも行こうと思ってた?」
「別に眼鏡壊れてないよ」
「私今、忙しいんだけど」
「んー。いや何か、微妙なんだよねえ」
「何が」
「何かが」
「ああ、忙しいから切るね、とりあえず」
「ちがーう、ちがちがちが。ちょっと待って」
「何なの、一体」
「実の所、俺だって本当は見たいよ、という話がしたいわけでね」
「…………」
「電話で無言とかやめないか」
「何言われてるのか全然わからないんだもの」
「いや何か。映画の撮影がさ」
「うん」
「俺も見たいけど、一人はヤなわけだ。だって中学生に混じって一人で見学してる俺ってどうなの。うわ、恥ずかしい」
「もう何か限界だからとりあえず切っていいかな」
「ついてきてよ」
「どうでもいいけど、さっきから何か音声変じゃない? キャッチ入ってるでしょ」
「だってお前、切るでしょ。キャッチ受けたら」
「それは切るよね」
「…………」
「いいから早く出なよ。仕事の電話かも知れないでしょ」
「お前、切るなよ」
「命令される覚えはございません。っていうか、早く出なよ」
 んーっと鬱陶しげな唸り声を出しながら、武彦がプツと回線を切り替える。保留音が流れ出した所でシュラインは宣言通り電話を切った。
「何? 武彦さんかい」
「おかしな話なのよ」
「とか言ってるエマちゃんとこは、何だかんだ言って、似た者夫婦だからね」
「はいはい何とでもお好きにどうぞ」
 小さく肩を竦めてシュラインは、住居スペースとの境に腰かける北村の隣に座った。「それで、ネタの話なんだけど」
「展開早いねえ。んーネタねえ」
 顎を撫でながら北村が明後日の方を睨む。
 その時、店のドアがからから、と柔らかく開いた。
「お、いらっしゃい」
 顔見知りに挨拶するような声で手を上げた北村に対し、店の中に入ってきた少年はペコリと小さく頭を下げた。何とも覇気のない若者である。
 少年は電池の所にもそもそと歩いて行き、レジへと歩いて来た。「はいはい、まいど」と立ち上がった北村は不意に、何かを発見したような顔でシュラインの方を振り返る。
「あ、そうだ。エマちゃん。これどうよ」
「どれよ」
「あの子、この近所に住んでるんだけどさ。あの子のうちに、科学小物館っていう離れがあってね」
「科学小物館?」
「あの子のじいちゃんが面白い人でね。面白いものいっぱい展示されてんのよ。一般には公開されてないけど、エッセイの中で紹介していいか聞いてみなよ」
「うーん」
「ね、仁志。この人、アンタの家まで案内したげなよ」
 突然話の矛先を向けられ、少年は戸惑ったような鬱陶しがっているような、屈折した上目を北村に向ける。「何の話ですか」
「いやさ。この人さ。地元紙でエッセイ書いてんだよ。ほれ、良く、この街のこんな場所見つけました〜、みたいな記事あるでしょう?」
「知りません」
 冷たい声できっぱりと言った彼は瞳を伏せながら付け加える。「そういうの、見ないんで」
「ああ、そう。アンタが見なくても存在してるもんはこの世の中にはたくさんあるからね。このお方はそういう仕事をなさってるわけだ」
「はあ、そうですか」
「けど人間、書けなくなるときもある。ネタが切れることもあるわけでしょう。このお方はまさに今、そういう状況で、つまりはこの世の中は助け合いだ、ってことがアタシャ言いたいわけ」
「……で?」
「アンタの家面白いんだから、ネタになっておあげなさい」
「嫌です」
「おっと」
「博物館とかとは違うし、おじいちゃんの趣味で知り合いとかしか来ないから」
「嫌だってどうする?」
 北村はそこにぼんやり座ったままのシュラインの方を振り返る。
「まだ誰も書くとは言ってないからね」
 よっこらしょと立ち上がり、シュラインはレジ台に肘を突いた。「とりあえず見せてくれる?」
「ウチを、ですか」
 少年は嫌そうに呟き、ただでさえ物憂げな顔を更に憂鬱そうに曇らせる。



  ■■



 一人の女が、青色の中に沈み込む長い廊下を、淡々とした顔つきで歩いて行く。
 凛としているのに同時に酷く儚いような、独特の雰囲気を滲ませる女だった。美しい二重の瞳は手入れの行き届いた睫に縁取られ、色素の薄い緑色の眼球が、悠然と怠惰に前を見据えている。
 その瞳は何かを明確に捉えているようにも見え、全てに興味を失っているようにも見えた。
 深い青の中を歩いて行く女。
 柔らかいベージュのタートルネックの上に、茶系のレトロなチェック柄の薄手シースルーのカーディガンを羽織る彼女が闊歩する度、深海のような廊下の影が揺らめいていく。
 廊下は、天井も床も左右の壁も、人を取り囲む全てが青色だった。明と暗が繊細に塗り分けられ、そこはまるで深い海の底のようだ。
 良く良く見れば左右の壁には、極々細い線で魚が描かれ、うっそりと緩く浮かび上がっている。幾重にも重なった魚の瞳はどんよりと生気なく濁り、廊下を歩いていく人間を、じっと無機質に見定めているようでもあった。
 しかし女は、まるで気にしない。
 あるいはそこに、魚が描かれてあることすら気づいていなかったかも知れない。
 彼女の名前は、法条風槻。
 情報の取り扱いと機械の取り扱いにおいてはスペシャリストの、「情報屋」である。
 仕事となれば様々な場所に様々な情報を提供する上、使えるデータとして「情報」を提示することもする。友人その他の言葉を借りれば、インターネットの検索画面に、こちらの知りたい情報だけを表示してくれる機能がついたような便利さがある、らしい。従って市場調査関連の仕事も多く、多種多様な企業と繋がっている。
 そんな彼女は今、仕事を一つ、終えてきたところだった。
 と、いうより決裂させてきた所だ、と言った方が正解かも知れない。
 明確に返事をしてきたわけではないが、今回のこの件に関して、この先、この会社と仕事をしていくことはない。今日の話の流れで彼女はそれをさっさと決めた。たくさんの仕事を抱える人生の中で、幾つもある選択の瞬間の一つに、彼女は余り時間をかけない。
 淡々と決断を下す。そしてさっさと次の行動に出る。
 だから彼女は出口を目指し、今、ただ、淡々と歩いている。
 今日はもう自宅でやる仕事しか残っていないので、帰る前に買い物でもしていこうか、とぼんやり考える。
 と。
 不意に、彼女の手にある黒いシンプルなデザインの鞄の中で、素っ気無い携帯の着信音が鳴り出した。その色素の薄い緑の瞳がゆらっと怠惰に鞄を見下ろす。
 風槻はそこに立ち止まり、鞄の中から携帯電話を取り出した。
「はい」
 その瞬間、彼女の右側の壁に並んでいた青い扉の一つが、バッと勢い良く開いた。
 咄嗟に視界の隅を過った扉はよけたが、そこから出て来た男に勢い良くぶつかられ、細身の彼女はムッとする間もなく弾き飛ばされる。それと同時に、運悪く開いていた鞄の中身が、青い廊下に散らばった。
「おっと、これは失礼」
 男は、軽快な声で言い、彼女の傍に屈みこむ。頬骨にかかるくらいの栗色の髪をさらさらと靡かせ、無表情に物を拾う風槻にシニカルな笑みを向けた。「慌ててたものですみませんね」
「…………」
 男の言葉には反応を返さず、風槻は一先ず電話を切った。
 それから辺りに散らばった鞄の中身を拾い始める。
 彼女の態度に、男は別段気を悪くするでもなく、散らばった鞄の中身を一緒に拾い出した。
 そして全てを拾い終え立ち上がると、「じゃあ」と行ってその場を立ち去ろうとした。
 風槻は何を考えているのか分からないような淡々とした顔つきで、男の背中を見送る。
 男は、数歩歩いて徐に振り返った。
「時に、一つ聞きたいんですが」
「…………」
「これ」
 男は、風槻の鞄から飛び出した、会社の丸秘がてんこ盛りの資料の入ったファイルを耳の横に掲げ、シニカルな笑みを浮かべる。「僕が持って行ってもいいんですか」
「ん、どうすんのかなと思って」
「ふうん」
 風槻の反応を楽しむように、男は小さく頷いた。「どうするとは?」
「…………」
「これを何に使うかという意味?」
「明らかにパクってるでしょそれはみたいなことを思いっ切り見てた持ち主のあたしが、無視してやったらどうするのかなと思った、という意味」
「それはそうだ」
 男は悠然と微笑んで栗色の髪をかきあげる。「俺としては、いやいやいやって、突っ込んでくれるかなって思ってたもんだから、思わず振り返っちゃったよ。追いかけられると逃げたくなるけど、無視されるなんて予想外だ」
「逃げるようなことしてるんだ」
「あの男。ムカつくでしょ」
「…………」
「さっき君が話してた男さ」
 男はファイルの中身をパラパラと繰りながら素っ気無く言う。「これは中々使い勝手が良さそうな素晴らしい情報だ。これにケチつけるなんてあの人、信じられないね。いい加減な項目でいい加減にとられたアンケートを、君は完璧に仕上げた。なのにそれをいい加減に使用されて結果が上がらないなんて文句言われた日には、ムカッ腹が立って当然と思うけどね」
「ああそう」
「だいたいアイツは君の容姿を見て、小娘だと思って最初から舐めてかかってたよ。人の本質はそんな所にはないのにね」
 風槻はじっと男を見据えながら、小さく唇をつりあげる。
 盗聴器にしろ、何にしろ、この男があの部屋での会話を聞いていたことは明白だ。
 だからと言ってどうということはない。この会社に立てる義理など始めからないし、そもそもこんな男に会話を盗み聞きされるようなずさんな管理体制の会社に義理を立てても仕方ない。どうせもう、一緒に仕事をしていく気はない。
 自分のキャパシティに入りきらないことや、無いものを出せといわれても、結局のところは無理なのだ。
 求める物が違えば一緒に仕事をしていくことは出来ない。それだけ。事情は酷くシンプルだ。
「人の本質を外見で判断しようと思う人と、そうじゃない人がいる。それは人それぞれだから、好きにすればいいんじゃない」
「ふうん。ムカつかないんだ?」
「何にしろあたしはあたしでしかないからね。あたしの好きなようにやるよ、別に」
「ふうん」
 満面の笑みで考え深げに頷いた男は、「それで、考えさせてください、か。いいね」と呟いた。
「お褒め頂き、どうも」
「濁してやんわり席立って、後でほえ面かかせてざまあ見ろってことでしょ」
「それで」
 風槻はゆっくりとした瞬きをし、腕を組む。「さっきから思ってたんだけど、おたく、誰?」
「そうだね。まだ言ってなかったっけ」
「…………」
 男は切れ長の艶っぽい瞳をさっと細め、風槻を見据える。
「さあて、私は、誰でしょう」



  ■■



 気がつけば彼は、荒涼とした大地の上に立っていた。
 灰色の世界は遠く何処までも果てしなく広がっている。満ちては返す波のように一定の周期で廻ってくる風は、匂いも色もないはずなのに濃密で濃く、ゆったりとした重みを持って、そこに佇む少年の頬を撫でていく。
 さわり、さわり、と、細く柔らかそうな顎先まである髪を靡かせながら、彼はそっと後ろを振り返った。
 そこには広がるのは打って変わった、目にも眩しい、鮮やかな色味の原色世界だ。それは、鬱蒼とした木々が生い茂る、緑色の世界。ポツリ、ポツリと蛍のようなオレンジ色の光が舞って、空には赤と黄色と緑のオーロラが広がる。
 彼の前に広がるモノクロの世界と、後方に広がる幻想的な、けれどどろどろとした原色の世界。
 その境目に、少年は今、ポツンと一人、佇んでいる。
 そうか。
 彼、京師蘭丸は、可憐な仕草で眼鏡を押し上げた。その全身は白く霞み、今しも消えてしまいそうにゆらゆらと佇んでいる。
 また記憶の中に飲み込まれてしまったのだ。
 蘭丸は聊か、特異な体質を持つ少年だった。優れた記憶力、と一言で片付けてしまうには複雑過ぎる、「記憶力の持ち主」なのである。
 彼は一度体験したことを決して忘れない。そしてその記憶の中に、彼は「落ちて」いってしまう。常人が、記憶を思い出すのとはまるで違う。記憶の回廊の中に、彼は落ちていく。整理されているわけでも整頓されているわけでもない様々な人生の中の記憶は、時も場所も選ばずに、まるで病か何かの発作のように彼を襲う。
 発作が起きたのは友人と共に訪れた「科学小物館」の中でだった。何がきっかけになるかは、彼自身まだ良く分かっていない。発作はいつも、一匹の小さな蟲の足音からいつも始まる。頭の中を這い回る蟲の足音。かさかさかさかさ。
 その音が始まると彼はたちまち自分の「記憶」の中に落ちてしまう。
 そして気がつけば、彼はまた自らの記憶の世界の中に居た。
 不意に、目の前を一匹の蝶々が横切っていく。
 その羽ばたきに誘われるようにして空を煽ると、セピア色の稲妻が時折ピリピリっと走る不穏な黒い空の中へと、原色の空の混濁する幻想的な空が溶け込むように吸い込まれていっている様が見えた。
 ぞっとするほど明確に二つの顔を持つ世界。吐き気を催しそうなほど無数に置かれた、古めかしいブラウン管テレビのような四角い箱。
 箱の中では、様々なシーンが再生されている。「自分」が居るべきはずの部分だけがぽっかりと抜けたその「映像」は、彼の記憶の全てだ。無音のまま、あるいは物悲しさすら漂わせ、画面は淡々と彼の「痛い部分」も「恥ずかしい部分」も「情けない部分」も「柔らかな部分」も全て、彼の目に付き付け、曝け出す。
 物憂げに瞳を伏せながら、蘭丸はまた荒涼とした大地の方へ視線を向けた。
 原色世界の中よりも圧倒的にその数は少ないものの、荒涼とした大地の中にも、ポツポツと「記憶のテレビ」が点在していくのが見える。鮮やかに色取られた後ろの世界が過去ならば、これはこれから開拓されていく、未開拓の地なのかも知れない。
 だとしたらこれからここをどんな記憶で生めていくのか。これからここは、どんな色に染まっていくのか。そんな事を考えながら、物憂げに瞳を細めた彼の後ろで、突然。
「これは凄いな」
 奇妙なエコーを滲ませる他人のものの声がした。
「え……」
 人の声?
 蘭丸は弾かれたように振り返り、呆気に取られたように目を見開いた。
 そこに一人の男が立っている。
「だ、誰」
 違う。
 蘭丸は咄嗟にその人物を見たことがあるということに気づいた。
 それも、極々最近。
 そうだ。ついさっき。
 彼の思考の流れを読み取るように、ぴゅっと何処かから、四角い箱が飛んでくる。
 流れる映像。
 小物館の中。そうだ。僕はそこで発作に襲われ、男の人に声をかけられた。友人と間違え「先に行っててって言ったじゃない」と言った。はず。
 どうしてその人が、ここにいるのか。これも自分が生み出した幻影なのか。
「これが君の記憶の中なんだ? 凄いな」
 淡々とした男の声が、やはり奇妙なエコーを伴い消えていく。
「驚いてる? 驚いてるよね。だけど俺だって驚いているからね」
「どういうこと……」
「勝手に入ってごめんね。だけど俺のせいじゃないよ」
「…………」
「何かこういうの久しぶりだなあ」
「だ、誰なの。どうしてここに居るの。……何で……」
「まあ、落ち着いて」
 可憐な体を怯えたように震わせる蘭丸に、男はそっと近づき肩に手を――。
 蘭丸は、走った。
 良く分からない恐怖に駆られ、ぞっとしたものを感じ、居ても立ってもいられなかった。
 何がと言われれば良く分からない。けれど、自分の記憶の世界の中に堂々と人が侵入してきたことなど初めてで。そんな事が可能なのか、とか。そんなこといったらだいたい記憶の中に落ちるなんてありえないとか。じゃあここに「居る」僕は何なのか、とか。だったらこの在り得ない体質を持った「僕」なんて存在しているの? とか。
 幻想の中に不意に飛び込んで来た「現実」は、芋ずる式に疑問を膨らませ、自分自身という存在すらも覚束無い物のように危うくしそうで。見ないふりでやり過ごしてきたいろいろなことを突きつけられそうで。晒されてしまいそうで。わけがわからなくなってしまいそうで。錯乱して発狂してしまいそうで。
 怖かった。どうしようもなく怖くて。
 だから逃げた。とにかく走って、走り回って。
 荒涼とした大地を蘭丸は、自分の足音だけを聞きながら走り抜けて行く。重い空気が柵のように体に巻きつき、酷く早く走っているようなのに、見える視界はまるでスローモーションだ。
「きみ、待って」
「どうして追いかけてくるの」
 細い声で叫び、蘭丸はぶるぶると首を振る。
「いやいや。君が居なきゃ俺は戻れないでしょ」
「知らないよ!」
「だからさあ。そんな怖がらないでよ」
「こないでよ」
「だいたい、そんな。走ろうと思ったって、走れないでしょ」
 何かを言い返そうとして振り返った蘭丸の目に飛び込んで来たのは、淡々とした表情で歩く男の姿だ。しかも、一生懸命に走っているはずの自分との距離を、男はどんどんと縮めている。
 怖い。何なのだ、これは。
 と。
「わっ」
 突然に地面がぬかるんだ。足元を掬われ蘭丸はバタンと、思い切り良くその場に倒れこむ。
「あらら」
 頭上から男の声が降ってくる。しかし蘭丸はそれどころではなかった。いつの間にか地形がまた変わっている。遠くに豊かな水を湛えた湖が見えた。
 けれど自分が倒れこんでいるこの場所は。
「ひっ」
 短い悲鳴をあげ、慌てて彼はその上半身を起こす。どろどろとした灰色の泥の中に。蟲が。
 そうだ。蟲が。
 細やかな蟲が。
 たくさんの蟲が。
 僕の体に。
「ひィ」
 体を払いながら、頭を抱えた蘭丸は、か細い声で呻いた。「た、助け」
「よっこらしょっと」
 突然ばっとその手を引かれ、浮くようにして蘭丸は立ち上がる。
「ごめん。面白いからちょっと見ちゃった」
 飄々として前髪をかきあげた男の足元は、何てことはないただの大地である。ふと見ると自分の足元にも沼などは何処にも存在しておらず、彼と同じ大地にしっかりと立っている。
「以外にそそっかしいんだ、きみ」
「だって……」
 怪訝そうに辺りを見渡し、蘭丸は可憐に俯いた。「だって沼が」
「ああ。あるよね、あるある」
 いい加減な返事をした男はふっと小さく唇をつりあげる。「あれでしょきみ。思い込みが激しいタイプでしょ」
 途端に頬を真っ赤に染めた蘭丸を柔らかく見下ろして、それから男は、前方に佇む湖を見やった。
「きれいな湖だな」
「…………」
「普通の人は」
 暫くの間、ぼんやりと湖を見ていた男は、徐に小さく呟いた。「どんどんここに記憶を捨てていけるんだよ」
 蘭丸ははっとしたように男の横顔を見やる。
「だけど君のここはまだこんなに美しいままだね。透き通った湖だ」
「…………」
「普通ならここはもっときっと沼のように澱んで荒むのに。不要な記憶のゴミで濁るのに」
「貴方は……」
「俺の名前は、中原莞爾です」
 何を問いたかったのか、漠然としていた質問の問いをさらりと浚われ、そんなことが聞きたかったわけではない、と蘭丸は顔を伏せる。
「きみの名前は?」
「……京師、蘭丸です」
「蘭丸のゴミ箱はまだ空っぽなんだなあ」
「捨てないんじゃなくて、捨てられないんですよ」
「知ってるよ」
 飄々と素早く頷かれ、蘭丸はまた莞爾の横顔を盗み見る。
「俺も昔そうだったことがあるから」
「…………」
「だけど君の世界は綺麗だな。何というか凄く、色彩に富んでて、少し甘くて、素敵だ」
「そんなことを褒められても、嬉しくありません」
「こんな世界、要らないか?」
 蘭丸は無言でコクリと頷いた。
「だけど普通の人の記憶はもっと味気ないんだ」
「だから大事にしろって言いたいんですか。稀有だってだけで」
「そんなことは言ってないけどね」
「……変な人」
「君に言われたくないよ」
「…………」
 きっぱり言われて二の句が告げず、蘭丸は俯く。暫くそうして小さく拗ねていたが、思い立ったように莞爾を見上げた。
「……あの」
 そうして、切り出す。
「どうして貴方は。その、ここに居るんですか」
「さあね。そんなこと俺にわかるわけないじゃない」
「貴方は、幻想なんじゃ」
 ふふふ、と莞爾は、さもおかしそうな笑い声をあげる。「かもね」
「何だか貴方は、幻想だって方がしっくりきます」
「参ったな。そんな風に褒められると……」
「別に褒めてません」
「たぶんさ。俺が思うにシンクロしちゃったんだな。元、記憶少年の莞爾君と、現、記憶少年の蘭丸くんは」
「……シンクロ?」
「あの小物館の中で君を助けたとき。僕の手の中にきみが落ちてきた時。触れ合った皮膚から、膨大なエネルギーみたいな。そんな物が流れ込んでくるのを感じたんだ。膨大で無意味な、少年の若い力っていうかさ。発散されず鬱積している、若い子特有の蒼い力っていうかさ。そんな物が」
「本当に?」
「なんて嘘でしたって言われたらどうする」
 シニカルに唇をつりあげて、莞爾が蘭丸を振り返る。
「……もういいです」
「ねえ」
「…………」
「この先、この世界を作っていくのは君だよ」
 また湖を見つめながら、淡い声で莞爾が呟く。その横顔は今までに見たどんな大人より柔らかそうで、優しそうで、それなのに酷く冷たそうで。
 変な人。
 蘭丸はまた、そう思った。
「さて、帰るか」
「え?」
「おいで。戻り方を教えてあげるよ」
 あっけらかんとした口調で言った莞爾は、そっと手を差し出してくる。
「おいで」



  ■■



 デスクトップのパソコンモニターが、彼の顔を淡々と映し出している。
 その丹精な横顔に触れる、水色のミニストール。不意に手を伸ばし触れたくなるほどそれは、柔らかい質感を持った光景として、彼女の視界の中に映り込む。
 黒縁のレトロな眼鏡とぼさぼさに散った黒い髪。くすんだ年代物の木製机に置かれた、二台のパソコンの内の一台は、先程からずっと同じ人物ばかりを映し出している。
 そこに映し出されている映像は、メイドアンドロイドのモナとリナの「目」を通し、こちら側に送られてくる風景だった。
 ササキビ・クミノは、パソコン画面に視線を馳せながら、草間武彦に連れられ「お散歩」している二人を、じっと見守っている。もう随分と高く上がった陽の光が、ぼんやりと頬杖をつく彼女の無表情な横顔を照らし出していた。
 リナは、先ほどからずっと飽きもせず、草間武彦の顔ばかり見ている。
 彼らが居るのはどうやら「科学小物館」という場所らしい。画面の中では、武彦の背後に幾つもの透明な円形の筒が見えた。
 無数の泡粒が泳ぐ円柱の中の液体には、赤や黄色やピンクといった原色の鮮やかな色付けがされており、ただでさえ掴みどころのない草間武彦という人物を、もっと浮世離れしたものに見せている。
 外の世界を見たいと言ったのは自分の癖に。
 見るべきものはもっと他にあるはずなのに。
 リナはやっぱり、草間武彦の顔ばかり見ている。
 対してモナは、何かを見る度、いちいち武彦に疑問を向けた。武彦は、モナの口からいちいち飛んでくる折り目正しい疑問の数々に、いい加減な態度でのらりくらりとした返事を返している。
「ところでここは、何という場所なんですか」
 またモナが武彦に言った。
「ん、科学小物館、だね。入り口に書いてあったでしょ」
「そうですか」
「ここならほら。お前達が好き勝手やっても誰も何も言わないから」
「ああ、さっきはたくさん見られてましたからね、僕ら」
「そうだよねえ」
「僕らはやっぱりその……見た感じが変なのでしょうか」
「んー。そうだよね。街中歩いてるとかなり浮くよね」
「……そうですか」
「でもまあ。ここの人らはあんまりそういうの気にしないから。俺の知り合いだって言えば別に問題ないし」
「……そうですか」
 無表情に顔を伏せたモナは、何かを考え込むような間を置いて徐に言った。
「何だか。面倒を押し付けてしまったみたいで」
「押し付けられた覚えは特にないけど」
「犬の散歩とはわけが違うし、僕らを連れて歩くのはその……大変だと思います」
「見られるし?」
「はい」
「ああそう」
「というより、どうして草間さんは僕らの面倒を見てくれって言った時、二つ返事でいいよ、なんて言ったんですか」
 武彦はふわあと怠惰に大きな欠伸をした。それから自らの頬を撫で徐にポツリ。
「だって子供の面倒は大人が責任もって見なきゃ誰が見んのよ」
「…………」
「でしょ?」
 武彦の瞳がリナを通してこちら側のクミノを見つめる。
「……うん」
 か細い声でリナが頷いた。
「だけど僕らは子供なの」
「どっからどう見ても子供だね」
「そっか」
 リナは今、一体どんな表情で武彦を見つめているだろう。
 クミノは不意にそんなことを考える。
 そして出来ればそれは、平静で老獪な無表情であって欲しいと同時に願う。
 これはリナであって自分ではないけれど、リナは酷く、自分の中にある「恥ずかしい部分」に似ている気がして、彼女はいつも、武彦とリナが一緒に居る場所を見ると落ち着かなくなる。
「なんてな」
「え?」
「俺も見たいものがあったから。要するにお前らはついでのおまけ」
「僕らを利用されたんですか。それは、ずるい」
 機械ならではの折り目正しさで、モナが口を挟む。その言葉にふっと小さく唇をつりあげた武彦は、「そうだね。ずるいね」と答えながら、ズボンのポケットに手を突っ込み携帯電話を取り出した。
「大人はずるいね。出来れば子供は、そういうずるい大人が利用できそうなくらいには素直で馬鹿であって欲しいよね。そしたらもっと、平和な気ぃしない?」
「言われていることの意味が良く、わかりません」
「だと思うよ」
 いい加減な返事を返した武彦は、プッシュボタンを軽やかに操作して、携帯電話を耳に当てる。
「何処に電話してるの?」
 無垢にも問いかけたのはリナだった。
「ん、ちょっとね。さっき思い切り電話ブチられたから、ちょっと嫌がらせしようかと思って。だって受けた途端ブチッ、だもんね。ムカつくでしょ」
「ふうん。それは、草間の友達なの?」
「そうだね、悪友だよね」
「どんな人なの? 女の人?」
「どんな人かは俺にも良く分からないけど、たぶん女だよね」
「……ふうん」
 草間が一体何処に電話し、誰とどんな話をするのか。
 微かでも自分の中にもそんなことを気にしている場所があり、クミノはそれを何となく恥ずかしく思う。もっとちゃんと聞き出して欲しくて、だけど同時にもう聞くな、とも思う。
 リナが傍目にも酷く好意的に、武彦に懐いているのを見る度、彼女はそれがどうか自分の影響ではないように、と祈る。
 ――自分の中にある「恥ずかしい部分」に似ている気がして。
「…………」
 何なのだ。この、胸に渦巻く、面倒臭いものは。
 クミノはそんなことを考えながら、物憂げな溜め息を吐き出した。



  ■■



 シュラインは隣を歩く、麻生仁志にチラリとその切れ長の瞳を向けた。
 少年の歳はまだたったの十五歳。中学生だという仁志の身長は、長身の部類に入るシュラインと同じくらいの高さだった。
 痩身の少年の横顔は物憂げに翳り、酷く大人びて見え。
 それでもその痩身の体を取り巻く空気は、何とも曖昧なぬるま湯のような甘さに滲んでいる。中途半端とも形容出来そうなその雰囲気は、孵化する前の卵の殻のように少年を覆っている。
 北村電気店を出た二人は、そのまま仁志の祖父の持ち物であり、その彼の自宅の離れでもある「科学小物館」へと向かった。仁志の嫌々感溢れる案内の元、ざっと館内を見終えた二人は、最終地点であるハーブの小屋と名付けられた温室で緩やかに対峙している。
「何でさ」
「え?」
「何で、突然、いいですよって言ったの」
 シュラインは淡々とした目を辺りを向けながら、ポツリと言う。
「何が、ですか」
「あんなにはっきり嫌ですって言ってたくせに、何で突然私のこと案内してもいいって思ったのかなって思って」
「まあ」
 微かな沈黙を挟み、仁志は俯く。「何となく」
「その割に、物凄く案内が嫌そうなんだけど」
「そうですかね」
「そうですね」
「…………」
「あれだ」
 ステンレス製の台に尻を預け、シュラインは腕を組みながら俯いた。「書いて欲しくないんだ?」
「実際に見て、どうなんですか」
「何が」
「記事に、なりそうですかね」
「どうかな」
 シュラインは横目に仁志を見やる。「ま、面白い所ではあるよね」
「そうですか」
「だけどアンタが、どうしても書いて欲しくないって言うなら、書かないよ」
「その代わり何故貴方を招待する気になったか話せっていうのはやめてくださいね」
「ふうん、可愛くないこと言うガキだね、アンタ」
「良く言われます」
「だいたい案内してくれって言ってないのに、館の中でも私について歩いてる所が分からない」
「初めて来た場所に放り出されて気分いい人なんですか」
「良いって言った手前、責任があるから、嫌々でも私を案内してあげようって?」
「そうですね」
「ふうん、優しいんだ」
 悪戯っぽくも冷たく微笑んだシュラインは、飄々とそこに佇む仁志の傍に寄る。それからそっとその手を伸ばし、少年の柔らかな頬に触れた。
「やめてください」
「おっと」
「何ですか」
「平然とやめてくれと言われるのは中々ないからね」
「何がしたいんですか」
「私に興味があったのかな、と思って」
「自信過剰なんじゃないですか」
「可愛くないこと言うガキだね」
「良く言われます」
「ふうん」シュラインはふっと小さく唇を釣り上げる。「面白いね、アンタ」
 それから不意に彼女は、何かに気づいたかのようにゆっくりと、その顔を透明な扉の方へ向けた。
 扉の向こうの廊下を、数人の若者が通り過ぎていくのが見える。その中の一人、一際体格の小さい少年が足を止めてこちらを見ている。驚いたような悲しんでいるような怒っているような酷く複雑な表情で、その大きな目をじっとこちらに据えている。
 見やった仁志は、無表情の裏に痛ましさのような、けれど重大な決意のようなものを孕みながら、向こう側の少年を見つめ返している。
 ――ふうん。
 例えば画面の向こうで繰り広げられているドラマを見るような、完全なる傍観者の目で扉を挟み対峙する二人を見比べ、彼女は思う。
 やがて扉の向こうの少年は、細い喉を上下させながら唇を噛みしめ、走り去っていった。
 仁志はおずおずと瞳を戻し、明後日の方を向きながらふっと小さな溜め息を吐く。
 若いな。と、最近しみじみ自分の年齢の重さに気づきつつあるシュラインは思った。
「あの子、何なの」
「今日、ここで映画の撮影があるんです。その見学に来てる奴らで……」
「そういえばそんな話どっかで聞いたな……って、違うけどね」
「何がですか」
「あの団体は何だ、って聞いてないよ、私は。あの子何なの、って聞いたんだけどね」
「どの子……ですかね」
「立ち止まってこっち見てた子だよ」
「…………」
「そんな子居ましたっけなんて言わせないよ。思い切り見詰め合ってたもんね」
「河成、純也と言って。僕の幼馴染ですが」
「ああそう」
「……貴方って、見かけに寄らず嫌な感じの人ですね」
「勘違いしたんじゃないの」
「…………」
「ああ、そうか。勘違いさせたかったのか」
 わざとらしく声を上げながらも、抑揚なくシュラインが言う。仁志の目が物憂げに翳った。
「……意地悪ですね」
「意地悪でごめんね」
 その時、がりがり、と何かを爪で引っかいたような音が温室の中に響き渡った。仁志ははっと扉を振り返る。しかし見るべきものはもっと下にあった。扉の枠に隠れるようにして、小さな子犬の尻尾と胴体が見える。
「おや、これはこれは」
 平然としたようなシュラインの声が言った。優美に立ち上がり歩いて行くと、ばっと扉を開いた。
「知ってるんですか、その犬」
「アンタ、こんなトコで何してるのよ」
 クンクン、と可愛い声で鳴きながら、差し出したシュラインの手を子犬はペロペロと舐めた。口にくわえていた一冊の本が、ボトリと地面に落ちる。
「飼い主の馬鹿デカイ男は何処に行ったんだろうね」
「わんわん」
「ん? これは何」
 それを拾い上げたシュラインは、硬い素材の表紙を開き、パラパラと中身を繰った。それからふとある一ページで目を留めて、さっと素早く目を走らせる。
「何を見てるんですか」
 小さく呟いた仁志がそっとシュラインの背後に忍び寄る。そして彼女の手の中にある物に気づくと、
「それ……」思わず、と言った呈で呟いた。
「何これ、アンタの?」
「……知りません」
「ってことは、日記だね」
「……知りませんって言ってるのに、何言ってんですか」
「男って本当嘘吐く時、目がキョロキョロするよね。何でだろ」
「…………」
「フィクションかと思ったけど、アンタの本音が綴られた日記ってわけだ」
「…………」
「結構小さい時から書いてんだね。どんどん筆跡が変わってる」
「…………」
「隠そうと思うから不自然なんだよ。堂々としてな」
 素っ気なく言ったシュラインは、ポンと日記を仁志の胸に押し付ける。
「それでその、最後のページに書かれてるアンタの殺したい人って誰」
「誰でも、ありません」
 落ちつかなげに日記のページを繰った仁志は、酷く苦しげに眉を潜める。
「これは……ただのフィクションです」



  ■■



「だけどね」
 無言のまま対峙する風槻に視線を定めた男は、暫くの沈黙を挟んだ後、徐にそう言う。「だけど俺は君を知ってる」
「でしょうね。あたしってば有名人だから」
「法条風槻。通称、Dと呼ばれる情報屋」
「…………」
「Dの意味は、人形と娘。人形が破壊し搾取し、娘が与える。あるいは、娘が与え、人形が破壊し搾取する。誰が言い出したか知らないけれど、君のことをとても上手く形容してるよね」
「…………」
「どう? 詳しいでしょ?」
「詳しいのはいいけどさ。何か目的があるんだよね」
「無いとただのストーカーだよね」
「そうなんだよね」
 面倒臭そうに風槻は頷く。男は「でもさ」と指を立てた。
「一応ストーカーにも彼らなりの目的はあってさ」
「まあストーカーの目的はどうでもいいけどさ。熱弁するあたり、おたくはストーカーなの?」
「だけど君をストーキングしようと思ったら結構大変だよね」
「ま。そうですよね」
「何せ天下御免の敏腕情報屋、法条風槻だもんね。その私生活は愚か、自宅の場所すら簡単には掴めない。ねえ? そんな君を調べた俺ってば凄くない?」
「で、そういうおたくは誰ってあたしが言ったら、何か話がループしそうな気配なんですけど」
「とにかくまあ俺は、君がどういう人か見ておこうと思って」
「ふうん」
「俺の名前は、綾小路って言ってね」
 突然に男はそう名乗る。
 風槻は要注意リストの中にそんな名前があったかどうか、素早く頭の中をひっくり返す。しかし、思い当たる節はない。恐らくはただの、偽名だろう。
「君ならその気になれば、この顔だけで俺のことを調べ上げられるんだろうけど」
 綾小路と名乗った男は、ポケットから一枚の紙切れを取り出す。
「俺だけが君のこと知ってるっていうのも何か申し訳ないからさ。ヒントをあげるよ」
「それはわざわざご丁寧にどうも」
「いえいえどうも。……はい、これ」
 男が差し出した紙切れを、とりあえず風槻は受け取った。中を開く。それは一種の脅迫状であるようだった。淡々とした短い文面が、河成純也という人物に綾小路なる人物を殺すよう、命じている。
「この河成純也ってのが綾小路さんの正体を知ってらっしゃるわけですか」
「わけないよね」
「ですよね」
「ごめんね」
「どうでもいいけど命狙われてらっしゃるんですね、綾小路さん」
「でしょ。笑っちゃうよね。しかもそれ書いたの中学生だしね」
「そうなんだ」
「普通の中学生に命狙われてるの。中々ないからちょっと面白いじゃない。ま、向こうは俺が本当は何者かなんて知らないけどね」
「ああそう」
「それを書いたのは、河成純也という男の子でね」
「河成純也が、河成純也への脅迫状を書いちゃうんですか」
「彼は俺の教え子で、俺は教え子に何故か命を狙われている家庭教師」
「または?」
「または。そうだな。または泥棒、あるいは」
「スパイ」
「ま、そんなもんだよね」
「でしょうね。何でそんな物騒な職種の人が家庭教師になんてなってんのよって話ですけどね」
「それはほら、いろいろあるでしょ。俺らの業界」
「いや、知らないけど」
「でも若いっていいよね、正直で。と、いうより若い子には正直であって欲しいよね」
「もう何か、一気に話が見えなくなったな」
「焦れたんだってさ。小さい頃からずっと一緒に居て、自分をずっと見てる相手が、自分に酷く憧れていることは分かるけど、それが恋かどうか分からなくて。相手とは性格の違う自分のことを羨ましく思っているって意味で自分を見てくれているだけなのか、自分を人として生身の人間として欲してくれてるのか、分からないことに苛々したんだってさ」
「苛々しちゃ駄目なんだよ人は。だけどあたしは今、結構こう見えて凄い苛々してるけどね」
「だからさ。その相手の気持ちを確かめようと、彼は強硬手段に及んだわけよ。ほら、向こうにとっても丁度良いところに、俺っていう、何となく恋敵風の演出できそうな男が家庭教師として現れたわけでね」
「…………」
「これ、実のところ、相手がこっそり日記に書いてた文面らしいよ。”この毒入りの小瓶を差し出して、あの人を殺してくれと頼んだら、彼は一体どんな顔をするのだろう”」
「日記見てんじゃん。気持ち分かってんじゃん」
「そういうところは突っ込むんだね」
「そういうところはね」
「だけど相手の口から聞きたいんじゃないかな。そもそも抽象的な書き方だし、自分かどうかも分からないしね。アイツの言葉次第では僕は本気で貴方を殺すかも知れません、ってね。それ見せられながら宣言されちゃったよ。青春だなあ」
「青春だろうと何か夢見ちゃってる感じが凄い気持ち悪いのは、あたしだけ? そんなこと日記に書いてる男、あたし無理」
「あー、それ言っちゃうか。若いんだから許してあげようよ」
「無理なもんは無理だね」
「それにその子、何か科学小物館とかいう辺な館持ってる爺さんの孫だからさ。ちょっと浮世離れしちゃってんだよ。許してあげなよ」
「そこ許してフィクション気味のままさっくり人殺されても堪んないけどね」
「止めてあげる大人が居ないんだよ。悲しい話だ」
「別に知りたくないミニ情報ばっかりどうも」
「どうでもいいけどこんなに君が気さくに話してくれてることに驚いてるのは俺だけ?」
「あたし基本的、どんな事態に遭遇しても軽く受けて流してくタイプだから」
「いいね。俺もそう。何だ、気が合うね」
「で?」
「え? でって?」
「これをあたしに見せてどうしろと」
「まあ、俺の正体を突き止める、何かのヒントになればと思って」
「今更だけど、全然ヒントになってないんですけど」
「じゃあさ。いつか機会があったら返しといてよ。俺は今日やっと、この過酷な仕事終わってずらかるところだから」
「え。いや、普通に嫌ですよ」
「じゃあ捨てといてよ。何となくさ。短い間だったけど、元教え子の熱い想いが綴られた手紙はコピーにしろ捨てるのって何かさ」
「要らなくなったけど何となく怖いから捨てられない人形誰かに上げるみたいなことしないでくれますか」
「まさにそれだよね」
 艶やかに瞳を細めた男が、ふっとシニカルに微笑んだ所で、風槻の手の中でまた、携帯電話が振動し始めた。
「お忙しそうで」
 携帯に一瞬、意識を取られた隙に男は、ふっと煙のようにその姿を消していた。声だけが何処からともなく聞こえてくる。
「今日は、邪魔してごめんね。だけどまたお会いしましょう、法条さん」
 風槻は無表情に青い廊下を暫し見つめて、小さく肩を竦めた。また何事も無かったように歩みを再開し、電話を受ける。
「はい」
「あ、草間ですどうも」
「どうもじゃなくて、忙しいんだけどあたし」
「あのさ。実は今日、朝から人の携帯鳴らして俺を叩き起こしたのはそっちの方だって知ってた?」
「いつまでたっても報酬が支払われないもんでね」
「どうでもいいけどさっきも受けた途端電話切ったでしょ。何? どういう嫌がらせ? 俺のことが好きなの」
「それではいそうです、実は好きでした。ってうっかり告白したら、どう責任取ってくれんの」
「すみません。はしゃぎすぎました」
「じゃあとりあえず折角電話貰ったからこれから小金を調達しに、取立てに行こうと思うのですが」
「あー、残念。今は無理だな。俺、科学小物館に居るから」
 ――何か科学小物館とかいう辺な館持ってる爺さんの孫だからさ。
「ふうん、そう」
「悪いねどうも」
「はいどうも」
「いやもう本当残念。払う気はあるんだよ。すっごいあんの。風槻にはめちゃくちゃお世話になってるし、これは払っとかなきゃと思うんだよね。だから払う気はあるんだ」
「気持ちはあっても金はなし。このクソ貧乏人が」
「残念。本当、残念。今の俺は金持ちだよ。ちょっとした小金が入ったからね」
「あるの」
「あるよ」
「お金あるの」
「お金あるよ。だからもう本当残念。払う気も金もあるのに、俺は今、君の手の届かない場所に居るわけだ。凄い残念。悪いね」
「いや、いいよ。じゃあ取り立てに行ってあげるから」
「え」
「特別に取り立てに行ってやるっつったの。頭の次は耳まで悪くなりましたか、草間さん」
「いやそれはいいよ。悪いよ」
「いいよ、そこまで行く交通費も、しっかり報酬転じて借金に上乗せしとくし」
「いや、本当無理しなくていいよ」
「無理してないよ。行ってあげるから首洗って待ってなよ」
「いや。すみません。嘘つきました。これ、俺、残しとかないと家賃が」
「経理の姉さんに怒られればいいじゃん。耳とか抓られながら、じわじわ虐められればいいじゃん」
「想像したくない。出来れば俺は虐められるより虐めたい」
「じゃあ、その科学小物館でお会いしましょう。場所、あたしが自分で調べてもいいけど、その分も料金上乗せになるけどいいかな」
「…………」
「十秒以内に返事しないと上乗せ確定」
「……言います」



  ■■



 ジュースを買いに行ったはずの監督は、ぐったりとした様子の少年を抱えて帰って来た。
 何だそれは、と現場の中心は一時、騒然となり、男は、輪から離れた場所に置かれたパイプ椅子に腰掛けながら、それを何処か他人事のように眺めている。
 カメラを向けられれば酷く鋭くもなる銀色の瞳をフラットにまどろませながら、どのように事態が展開していくか、場の雰囲気を感じ取っている。
 そうしながら彼、テイオウは、脳の片隅では未だ戻ってこないメーテルのことを待っている。
 監督を探しに行くと言ってふらりと現場を出て行ったまま、彼はまだ戻ってこない。
「映画の見学に来てた子達の中の一人なんですって」
 すぐ近くで声が聞こえ、テイオウはゆっくりとその方向に顔を向けた。
 スタッフの女性がにっこりと微笑みながらこちらを見ている。
「……そうですか」
 無表情に答えたテイオウは、彼女から視線を逸らし現場の方を見やる。
「驚きますよね」
「そうですね」
 その女性のことを嫌がっているのでは無かったが、テイオウはフリートークというものが極端に苦手だった。嫌いだ、と言ってもいい。映画についてや芝居についてや、仕事の話でなら幾らでも会話できるが、その他の事については何をどう喋ったらいいか途端に分からなくなる。
 一時は。そう例えばもっと若い頃は。そんな自分が酷く滑稽で間違っているような気がしてならなかったが、沢山の人に出会い、言葉を交わし、歳を重ねる毎に「なるほど、これはこれで仕方のないことなのかも知れない」と何となく達観してしまった。
 勝手に自己完結で達観してしまったので、きっと雷にでも打たれない限り、悪しき性格にしろこれはもう中々変えられない。気難しい屋と形容されようが、人が離れていこうが、それはそれで仕方なく、自分のやったことに責任を持っていく。多分そういうことが、大人になっていくことなのかも知れないと、最近良く、考える。
 それからもテイオウは、彼女の言葉に当たり障りのない、悪く言えば気のない返事をポツポツと返し、そんな彼に嫌気が差したのか疲れてしまったのか、彼女は最終的にまた後でとおざなりな言葉を残し、輪の中に去って行った。
 と。
「お前、本当駄目だなあ」
 不意に、頭の中に闊達なメーテルの声が響いた。弾かれたようにテイオウは、その顔を空間の出入り口へと向ける。
「女にはもっと優しくすんだよ、分かるか」
 ちょこちょことこちらに歩いてくるメーテルの、小さな姿が見える。
「しかし、優しさなどという酷く抽象的な概念にはそれぞれに価値観がありますから、私の思う優しさと相手の思う優しさが同じとは」
「うわー、やだやだ。理屈っぽい。頭痛くなる」
「…………」
「インテリの男はこれだからヤなんだ。分かるか? この世の中は、愛だよ、愛。もっと気軽に構えてだな」
「何処に行ってらっしゃったんですか」
 そんなことよりと言いたげに、見下ろしたテイオウを、メーテルは少し意地悪そうな横目でチラリと見上げた。
「まあね。ちょっとね」
「……そうですか」
「何、俺が居ないもんで集中できなかったって?」
 それはまさにそうなのだが、テイオウは無表情に顔を伏せ、赤い髪を撫で付ける。
「そんなことは言っていません」
「そいつは結構。まあ、お前もいつまでも撮影に犬連れて行くわけにはいかないしな。だんだんと自立してけよ」
「…………」
「俺だっていつまでも、お前の傍に居られるわけじゃないしな」
「……そうなんですか」
「なんてな、嘘だけど」
「…………」
「お前のそういう困った顔見たくなる俺ってば何、小悪魔?」
「…………」
 無言でメーテルを見下ろしていたテイオウは、徐にそっとその柔らかそうな耳を優しく掴んだ。
「うわー、やめてやめて、俺は耳だけは、耳だけは駄目なんだ!」
「お返しです」
「お前、やめろこのやろー」
 自らの耳を押さえながら呻いたメーテルをふふん、と見下ろし、テイオウは腕を組む。
「とにかく今回は、わけのわからない事件に巻き込まれてくれなくて良かった。君は良く、変なものを拾ってくる」
「あ〜あ」
 ウシシ、と瞳を細めたメーテルは「いや実はさ」と言う。
「何ですか」
「変な物は拾っては来たんだ」
「…………」
「日記だよ、お前。日記、日記」
「日記?」
「あれだよ絶対、監督が脚本の下敷きにした日記って」
「…………」
「これでもかってくらい、片思いのせつなーい、憧れが綴られてあったもんなあ。もう殺すかどうかみたいな、映画みたいな話になっちゃってるもん」
「見たんですか」
「俺さあ。何かこう、隠されてるあるもの見つけるの得意なわけ。その日記もさ、他の本と一緒に本棚にこうわからんよーに忍んでたわけさ。木は森の中に隠せって言うだろ。あれだよ」
 きゃいきゃいと黄色い声で話すメーテルを無表情に見やり、テイオウはふっと溜め息を吐く。
「全く」
「なに」
「見ただけではなく人の物を勝手に持ち出してくるなんて」
「何だよ、硬いこと言うなよ」
「酷い。人を失格してますね」
「何だよ。そこまで言うことないだろ。だいたい俺は人じゃないし」
「信じられません」
 小さく首を振りながらテイオウは明後日の方を向く。「君が反対の立場だったらどうするんですか」
「……何だよ」
「人に勝手に見られたくないから秘め事なんでしょう。本来、日記なんて人に見られて嬉しいわけがない。君はそれを見たんですよ。何を楽しそうに話してるんですか」
「何だよ、怒ってるのか」
「無神経にも程がある」
「…………」
「私はそういう思慮に欠けた行動は好きではありません」
「……そう怒るなよ」
 へらへら、と明るい声で言ったメーテルを無視すると、暫くして彼は、テイオウの足元にこそこそっと擦り寄ってきた。
「……悪かったよ」
「…………」
「ごめんなさい」
「…………」
「ごめんね」
「私に謝っても仕方ないでしょう」
「だけどちゃんと持ち主に返したもん」
「……そうなんですか」
「いやさ。だから、お前にも見せてやろうと思って加えて来たんだけど、奪われちゃって」
「持ち主に?」
「女帝、シュライン様に」
「シュライン女史が?」
「そうなんだよ。持ち主と一緒に居たみたい。何か、凄い偶然。ね?」
「それでそうやって私が怒ってたことを流そうとしてるんでしょうが、私はまだ怒ってますよ」
「だからさ」
 クンクン、としおらしい声で鳴きながらメーテルは鼻をこすりつけてくる。
「ごめんね」



  ■■



「ふうん」
 シュラインはその何とも蒼い仕草で、屈折に翳る瞳を伏せる仁志を見やり、鷹揚に言う。
「ま、私は、フィクションだろうが現実だろうがどっちでもいいんだけどね」
「…………」
「誰かに憧れる気持ちが、恋に変わることはあると思うよ」
「……そうでしょうか」
 どちらかと言えば嘲笑を含んだような声で仁志が言う。「憧れは憧れでしかあってはならないんですよ。恋と憧れは別ですよ。だいたい恋というのは……その、何ていうか。とにかく同じ次元で捉えたその人とその、したいことや……同じ次元で捉えたその人に対する欲望とかがあるわけで。憧れは崇拝だから」
「若いね」
 シュラインは短い一言で仁志の理屈を切り捨てて、ステンレス台にまた尻を預ける。
「要するにその人を抱きたいとか思っちゃう自分がヤだって話でしょ」
「そんなことは……言ってません」
「若いよねえ。天然記念物みたいに美しき青春だよね」
「……馬鹿にしてますか」
「汚くないよ。それが人間だから。有名な言葉もあるでしょ。”人間だもの”」
「…………」
「要するに、相手のことも自分のことも必要以上に美化したり崇めたりすることないってことよ。そんなことよりも、ただの人だと分かった上でもその人をちゃんと愛せるかってことの方が重要なわけでね」
「…………」
「で、アンタはさ。その想い人といちゃいちゃしてる相手を殺したいくらい相手のことが好きなのに、まだ憧れと恋は別だなんて頑ななこと言っちゃうわけだ」
「だから、あれはフィクションで、僕とは何の関係も」
「その相手のことすら殺したいくらい追い詰められてんのに告白はしません、と」
「…………」
「ごめんね。日記って知らないで結構読んじゃったから」
「…………」
「他の誰かの物になったり、病や事故がその人の命を奪ってしまうくらいなら、自分が殺すか殺されてしまいたいって気持ちは分からないでもないよ。だけどさ。その後、検死や葬式やつってベタベタ触られたりしてんのリアルに想像するとちょっとなあって思うんだよね」
「…………」
「冷静に考えたら、結局それはつまり、一緒に生きていくべきだってことなんだよね」
「…………」
 淡々と言った言葉の後、不意にふっと、仁志の物ではない笑い声が響いた。
 シュラインは、テイオウの飼っている子犬が出て行った時のまま開け放たれている温室のドアの方を見やる。
「わーこんなところで何か若い子相手に薀蓄垂れてる恥ずかしい人が居るー」
 抑揚のない声が言い、シュラインはフンと鼻を鳴らした。「わーこんなところに何かチンドン屋みたいな二人組を連れた恥ずかしい人が居るー」
 同じ言い回しでそこに立つ草間武彦に言い返してやった。
「お前、何してんの」
「そっちこそ、後ろに何連れてんの」
「どうでもいいけど話はすっかり聞かせて貰いましたよ」
「ああそう」
「お前は俺の電話を途中で切っといて可愛い少年とランデブーか」
「まあね。漠然と良く分からないとこについて来てよって言われてついていくより、こっちの方が面白そうだったし」
「殺すとか殺さないとか物騒な話してるのが面白いとかはどうかと思うよ」
「どうかと思うよねえ」
「何、誰か殺したいんだ?」
「そうだよねえ。殺したいんだよねえ。このまま放っておいたら、真剣この子なら殺しかねないよねえ。フィクションのまま突っ走っちゃいそう」
「なるほど」
 武彦はついと眼鏡を押し上げ、自分の後ろにぼーっと佇んでいる二人組の少年に目を向ける。
「それではここで、殺しのプロに意見をお聞きしましょうよ」
「居るんなら是非、人殺すってことがどういうことかさっくり意見して欲しいですね」
「だってさ。お前は、どう思う? クミノ」


  ××


 どう思う、と突然話を向けられて、クミノは正直酷く戸惑った。
 モナとリナにカメラが埋め込まれていることを武彦が知っていることは知っているし、だからきっとこれはありえない展開ではないのかも知れないが。
 だけどやっぱりありえない。
 何よりずっと自分が見ていたかも知れないことを、武彦が感づいていたかも知れないことが、既にもうありえない。
「見てんでしょ」
 画面の向こうの武彦が飄々とこちらを見つめる。
 何だか酷く消え入りたいような恥ずかしさを感じながらクミノは暫し沈黙し、それからパソコンのボタンをポンと押し込んだ。
「……見ている」
「ここにおらっしゃる少年さんは、ちょっぴり死というもんをロマンチックに考えておられるようですが。どうよ」
「どうよと言われても困る……が、人を殺すということはもっと無機質なものだと思うよ」
「無機質ね」
「殺すことは簡単だ。人なんて驚くほど呆気なく死ぬ。そこに宗教的な意味や哲学や美学なんてないね」
「ほらみれ。人を沢山殺して来た人は言うことが違うよ」
「だから。そんな呆気ないものに囚われているのが如何に無駄か、考えるべきだ。人の死にに拘ることより考えるべきことは他にある。殺さない解決する方がより困難だから、困難を乗り越えていこうとしているとき、きっと人は」
 きっと、人は、何だ。
 クミノはそこで言葉をとめる。自分が何を言おうとしていたか、自分が何を言うべきなのか不意に、見失う。
 殺す以外の方法で、もっと時間はかかっても、何かしらの方法はあったんじゃないか。
 白くなった頭の中にそんな言葉がぽっと浮かんだ。
「そうそう、何か漠然といい感じだってことだよ。成長してそうだしね。でしょ?」
 言葉の続きは武彦が浚った。
「……そうだな」
 クミノは曖昧に頷く。
「で、どうよ仁志」
 画面の中で武彦が、少年の方へと顔を向けた。
「何だかんだつって、真正面からぶつかってみる気になった?」
「なりません」
「おっと」
「というか、何なんですか。さっきから。僕は別に」
「ほら。子供の面倒見るのは、大人の仕事だし」
「誰も頼んでません。僕のことは放っておいてください」
 物憂げに瞳を伏せた少年は、そのまま温室の中をさっさと出て行く。


  ××


 何となく聞き覚えのある声がしているな、と思いながら「ハーブの小屋」へと近づいていた風槻は、そこで、温室の中を覗き込んでいる小柄な少年と遭遇することになる。
 何やってんだ、コイツ。というのが風槻の印象である。
 別に声をかける義理もないので暫しじっと観察していると、少年の方が風槻を振り返った。
 視線を感じたからかも知れない。
 しかし風槻を見つけた途端、少年は飛び上がりそうなほどに驚き、だっとその場から逃げ去ってしまった。
 何がしたいんだ、あれは。
 小首を傾げながら更に歩みを進めていくと、温室の中から出て来た今度は痩身の少年とぶつかりそうになった。
 何だここは。少年のバーゲンセールか。
 そんなことを考えながら温室の中を覗き込むと、やはりそこには草間武彦とシュライン・エマの姿があった。
「あらあらお揃いで、何やってらっしゃるの」
「風槻じゃない。どうしたの」
「うん、ちょっとね。草間さんに借金の取立てで」
「ああ、そう」
 横目にチラリ、とシュラインが武彦を見やった。
 武彦は明後日の方を向きながら顔を伏せ、気まずそうに眼鏡を押し上げる。「この女は何を喋ってるのか俺には全然理解できない」
「それからちょっと、届け物もあったしさ」
「届け物?」
「手紙」
 風槻はバックの中から一枚の紙を取り出しシュラインに手渡す。「河成純也って男子が書いたものらしいので、河成純也に返しに来ました」
「ああ、自分で書いちゃったんだ。面白いな」
「何か良くわかんないけど、面倒臭そうだね」
「若いってことは面倒臭いのよ」
 シュラインはまた丁寧に手紙を折りたたみ、風槻に差し出す。
「自分でも何がしたいか良く分かってないからだろうね。さっきもさ。そこで偉くチビの男がさ。中覗き込んでたんだけど、あたしに気づいて走ってったんだよね。意味わかんない」
「ああ、そうなんだ。聞いてたんだ、あの子」
 達観した表情でシュラインは、小さく唇を釣り上げる。
「だけど。何か良くわかなくても、この河成純也って奴の方がさっくり行動してて素直な分、見てて気持ちよくはあるよね」
「あともう一押し、って気はするんだけどなあ。二人の恋の成就まで」
「姉さん。他人の恋を成就させようなんて思い出したらオバサンに片足突っ込んだ感満載ですよ」
「いいよ、私。オバサンだもの」
「とか自分の彼女がオバサン宣言堂々としちゃうの見てどうですか、草間さん」
「とか言って、この人、乙女だから」
 意味深に微笑みながら武彦が眼鏡を押し上げる。
「わー、気持ち悪い」
「あ!」
 すると突然、シュラインがパンと手を叩きながら声をあげた。
「こういうのはどう。二人の恋を成らせることが出来たら、風槻の借金はもう暫く待って貰えるって」
「いや、勝手に決めないでよ」
「じゃあいいよ。私が奢るよ。イッタリアーンなデエィナーをさ」
「…………」
「予約めちゃくちゃ取りにくい、かの有名なシェフの店」
「んー……」
「部屋の整理でも何でもしますよ、一日ただ働き券付き」
「よし、乗った」
 風槻は淡々とした顔で頷き、武彦を見やった。
「そういうわけでお前は今から、あの二人をちゃんとくっつけて来い」
「お前が俺に上から物言うなよ」



  ■■



「それで、君は」
 鍵盤の上に開かれた手紙をそっと置き、麻生仁志は抑揚のない静かな声で言った。「その人を殺すの」
「殺すわけないじゃない。何言ってんの」
 ピアノの傍に腰掛けていた少年は驚いたような顔で仁志を見やる。「殺すわけないじゃない。大切な人だし……それより何より人を殺すなんてこと、するわけないよ」
「そう」
 軽く頷き、仁志は手紙を元通りに折りたたんだ。
 離れと本館を繋ぐような格好で立つサロンは、ドーム型の高い天井を持ち音響を考えられた設計になっている。「じゃあ問題はないじゃない」
 囁くような声が楕円形の空間に、さわさわと響いた。
 天窓から差し込む柔らかな光が、そこに佇む二人の少年の姿を淡く照らし出している。
「問題ない?」
 河成純也はおっとりとした声色をツンと尖がらせた。「問題はあるだろ。こんな気味の悪い手紙が届いて問題ないわけないじゃない。これは一種の脅迫だよ」
「だけど純也は、その人を絶対に殺さない自信があるんだろ」
「そうだけど、そんな問題じゃ」
 勢い良く立ち上がりそうになり、純也はそこではっと言葉を止めた。
 言いたいことは沢山あるのに。言いたいことだけが、何も言えない。
 さっき一緒に居た人はだれなの。
 お前の日記に書かれてた気持ちは本当なの? 嘘なの?
 他の人の事なら幾らでも分かるのに。
 一番知りたい人のことだけが、何も分からない。
「どうして、お前は……」
 苦しげに純也が呻いた。
 その時。
 コンコン、と壁をノックする音が響いた。
「お取り込み中失礼しますよ」
 少年二人は、驚いたように後ろを振り返る。草間武彦がそこに立っていた。
「あ。武彦さん……いつからそこに」
「んー、結構前からだね」
 何でもないことのように言って、武彦はついと眼鏡を押し上げた。「さっきそこでちょっと遊んでたからね。今から帰ろうかなって思ってたところでさ」
 それから思わせぶりに仁志を見やる。武彦の目から逃れるようにして、彼は目を伏せた。
「武彦さん、今の話……聞いてました、よね」
「んー普通に聞いてたね」
「…………」
「中学生が殺すとかマイルドに言ってるからちょっと笑いそうになった」
「別に、マイルドに言ってたわけじゃないんですよ」
「いや言ってたよ」
「…………」
「実は、俺のところに変な手紙が来て」
「あそう」
「誰から送られてきたのかも全然わかんなくて」
「ふうん」
「興味ない感じですか」
「ああいや?」
 中指の先を弄りながら、視線を落としたまま武彦は言う。「でも何、俺が興味ないと駄目なの?」
「いや、そういうわけじゃあ」
「それともあれか。そうか」
「え?」
「いやいいよ。何ならその手紙のこと調べてみてあげてもいいよ」
「そんな」
「そうですよ、わざわざ別に調べるほどの事じゃないから」
 素っ気無い口調で仁志が口を挟む。すると純也は、唇を尖らせた。
「何でさ」
「…………」
「お前が決めることじゃないじゃない」
 たしなめるように言われると、途端に仁志は淡々とした表情のまま口を噤む。
「送られてきたのは僕なんだから、僕が決める」
「全然気ィ使わなくていいよ。お金はちゃんと貰うから」
「そうだよ。調べて貰ったっていいじゃない。お前に口を挟む権利なんかないよ」
 何かを考え込むような沈黙を置いた仁志は、
「そうだね」
 ピアノの譜面台に立てかけられていた譜面をパタリと閉じた。
「じゃあ、好きにすればいいよ」
 それから武彦へと向き直る。
「すみません草間さん、僕は失礼します」
 そして淡々とした表情のままその場を去っていった。
「面白いほど愛想がないよね、あの人」
 振り返って純也を見やる武彦の目に映ったのは、今にも泣き出しそうな少年の表情だった。
「……俺、誰に冷たくされてもいいんです」
 純也が項垂れたままポツリ、と呟く。「誰からどう見られてもいいんです。だけどあいつだけは違う。あいつにだけは、どう想われてンのか、どう見られてるのか知りたくてたまらない。一番分からない事だけが、どうしようもなく知りたいんです」
「結構あるよね、そういうことって」
「…………」
「なんてね、俺実は知ってるんだよね」
「何を」
「この手紙書いたの、お前でしょ」
「…………はい」
「好きなんだ? 仁志のこと」
「…………はい」
「協力してやろうと思ったんだけどさ」
「……どうして?」
「子供の面倒は大人が責任もって見なきゃだしね」
「……そっか」
 悲しんでいるような、困っているような、複雑な表情で純也が頷く。
「上手くいった暁には、たんまり報酬催促しようと思ってたんだけどな」
「仲介料って? それって僕らを金儲けの道具にしてるってことじゃないですか」
 泣き笑いの顔で純也は武彦の顔を指差した。
「まあ、そうとも言う」
「…………」
「協力、しようか。これから、お前がこれを書いたってことを突き止めたことにして、それを仁志にぶつけてみる」
「いいです」
「いいの」
「いいです。もう」
「…………」
「これ見せたら、あいつどんな顔するかなって。俺はお前の気持ち、知ってるんだよって。そういう意味、分かってくれるかなってちょっとは思ってたんですけど。でも、あいつは表情一つ変えない。言ってくれるかなって。何か、きっかけがあれば言ってくれるかなって。思ってたんですけど。何も言わないで行っちゃった」
「…………」
「あいつ、凄く優しくて。だからもしかしたら俺のこと、好いてくれてるんじゃないかって。でも、俺勘違いしてたみたいですね。いいです、もう。諦めます」
「そんな遠回りなことだけして? 素直なことは一度も言わずに?」
「何か思ったんですけど。本当に運命なんてものがあるなら。俺と仁志がちゃんと結ばれる運命にあったなら、こんなに周り道することなかったんじゃないかって。だから、僕らは結局結ばれる運命になかったってことですよ」
「違うと思うよ」
「…………」
「まあいいや。お前は、このまま仁志が何も言ってくれないと諦めるってことね。よし、分かった。で、仁志、どうするの」
「え?」
 背後に向け声を上げた武彦の顔を、驚いたように見やった純也の視界に、美しい女性に首根っこを掴まれ登場する仁志の姿が映る。
「ほらアンタ。今根性出さないで、何時出すの」
「仁志……聞いてたの……」
「ごめんね」
 武彦は、呆然と呟いた純也の顔を、淡々として振り返る。
「昔はさ。こういうお節介な大人が沢山居たんだよね」



  ■■



 次に目覚めた時、彼の視界に一番に飛び込んで来たのは、様々な色がマーブルのように混濁する七色の壁だった。
 蘭丸はまだ、ここが自分の記憶の中かと一瞬疑う。
「ここは、映画のセットの中だよ」
 聞き覚えのある声が聞こえて、蘭丸はゆっくりと起き上がった。
「若い頃だけなんだよ」
「莞爾さん……」
「君のあの美しい世界のことだけどね。若い頃だけなんだよ」
「僕のこと、ここまで運んでくれたんですか」
「ああ」
「ここは?」
「映画のセットの中だよ。俺の職業は映画監督なんて奴でね」
「……見学することになってた映画って。貴方が撮る映画だったんだ……」
「擦り切れて汚れていくと、見たくても見えなくなるものがこの世の中には沢山あってね」
「…………」
「その頃は嫌で嫌でたまらなかったのに、不意に懐かしく思うんだ。だから僕は映画なんて作ってるわけでね」
「……どういう、意味ですか」
「若い頃にしか見えないことがある。だけど、若い頃には見えないことがある」
「貴方はもう記憶の中に落ちることはないんですか」
「そうだね、ないね」
「僕もいつか、なくなるんですか」
「それは分からないけどね」
「…………」
「さて。今日は君のプライベートルームを覗いちゃったから。お返しに今度は俺の情けない部分も君に見せるよ」
 そう言って莞爾はシニカルに微笑みながら、顎をしゃくった。






















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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号0086/ シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号3453/ CASLL・TO (キャスル・テイオウ) / 男性 / 36歳 / 悪役俳優】
【整理番号6235/ 法条・風槻 (のりなが・ふつき) / 女性 / 25歳 / 情報請負人】
【整理番号4860/ 京師・蘭丸 (けいし・らんまる) / 男性 / 15歳 / 中学生】
【整理番号1166/ ササキビ・クミノ (ささきび・くみの) / 女性 / 13歳 / 殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
 ライターの作り出す世界観と皆様のプレイングやお預け頂きました「彼」や「彼女」との化学反応をお楽しみ頂けたら幸いです。
 愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。