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午前零時の月
少し酔っているようだ。右手のグラスを傾け、青年は熱を帯びた吐息をつく。
グラスの中で揺れるルビー色をした液体の表面に、青年の眠たげな顔が映っている。これは、俺。
グラスを掲げて軽く振ると、赤い液体の向こう側にいる男の姿がゆらゆらと揺れる。あれが、俺の愛しい人。
たいして飲んだ覚えもないし、簡単に呑まれる体質でもなかったはずだが、こんなに月が美しい夜は自ら進んで酔いたくなる。
ほろ酔い加減で長い夜を過ごすのはなんとも心地の良いもので、その上視界に愛する人の姿があるとなれば、これほど素晴らしいものはない。
立食式のパーティーで出された簡単なつまみの類いは、どれも一流レストランのそれに勝るとも劣らない絶品で、赤いワインもまた最上の美酒であることは疑いなかった。
彼は、自分がありとあらゆる類いの贅沢と娯楽を味わうに足る人物であることに満足していた。
大広間は、彼と同じく教養と審美眼とに恵まれた人々で賑わっている。
賑わうといってもそれは慎ましやかなもので、談笑は終始和やか、礼節と流麗な言葉遣いのうちに交わされる。
紳士は仕立ての良いスーツを、婦人は艶やかだが上品なナイトドレスに身を包み、それらのどの人も、ルノワールの絵画からそのまま抜け出してきたとでもいうように完璧だった。彼らは上流階級の人々には違いないのであろうが、ここに集う連中は殊に――俗世から切り離されたような趣きがある。人間離れしている、とでも言えば良いのか。
アドニス・キャロルもそんな浮世離れした連中の一人だった。
外見によるところも大きい。銀色の髪は人外の美しさを備えていたし、髪と同色の薄い瞳はどこかを見ているようでも見ていないようでもあり、ハスキー犬の青い瞳のように、対峙する者を戸惑わせる。恐ろしく端正な顔立ちではあるのだが、どこか艶っぽい。
彼は上手く俗世間に溶け込む術も心得ていたが、その必要がないときはぼんやりと己の世界から外界を眺めている。そんなとき、彼の姿はとりわけミステリアスに人々の目に映ったことだろう。
銀色の丸く磨いたような月を背負い、バルコニーの手摺りにもたれて、アドニスは風の音と広間から聞こえてくる談笑をいっぺんに聴いていた。
グラスを口につけて、ワインを一口啜る。貴婦人の血の味を思わせる液体がするりと喉の奥へ落ちる。アドニスはグラスの淵をちょっと舐めて、ワインの舌触りを味わった。
アドニスの視線は、知らず恋人の後ろ姿へと向かう。
ほっそりしたスーツの背中。美しいシルエット。束ねた金色の髪が肩に垂れ下がっており、彼が客と何事か話し、気持ちの良い笑い声を上げる度に、ふわふわと揺れる。まるで尻尾のようだ。人前に出るときはいつもきちんと結わえてある髪を、恋人はベッドの中で解く。右手で彼の髪を梳いたときの感触を思い出して、アドニスはなんとも言い得ぬ高揚した気分になる。
まいったな、顔がにやけているだろうか?
あまり月が綺麗だからって、自分の世界にばかり篭もっているわけにもいかない。時間が許せばいつまでだって彼の姿を眺めているだろう……。
恋人の後ろ姿を観察するのもそろそろ切り上げて、さてパーティーの輪へ戻ろうかというところに、この会の主催者が、こつこつと杖の音を鳴らしながらゆっくりこちらへ歩いてきた。
彼の名はセレスティ・カーニンガム。これらの特殊な人々の中でも、特に稀有な存在である。群集を描いた絵画の中にあってもまず真っ先に鑑賞者の目を惹くに違いない、不思議なオーラを纏っている。恋人とはまた違った意味で、アドニスはいつも彼に見惚れてしまう。
彼自身が完成された美そのものであるように、この不思議なセレスティ・カーニンガム侯の下には、古今東西のあらゆる美が結集する。今夜の催しも、数奇な運命を経てセレスティ・カーニンガムの元に辿り着いた『美』を披露するのが目的だった。
その『美』とは、ヴィクトリア王女時代のジェットジュエリーだ。一見すると黒い石のようだが、良く見れば見るほど、その深い黒色に吸い込まれそうになる。ジェットの原石は、一億年以上のときを遡る。有史より遥か以前に海の底に沈んだ流木がそのまま化石化したもので、またの名を黒い琥珀。自然が生み出した宝石だ。
セレスティはそれをとあるオークションで落札したのだった。今夜はその展示会で、セレスティは共に簡単なレセプションも執り行った。
美酒とつまみ、小さな楽隊が奏でる優雅な室内音楽。この人のやることは何から何まで完璧だ――アドニスはさり気なく生花で飾られた広間を見回し、感嘆の溜息を漏らしたものだ。
「楽しんでおいでですか、アドニス」
歌うような声で、リンスター財閥総帥、ことセレスティ・カーニンガム侯は朗らかに言った。
アドニスはワイングラスを目の高さに持ち上げてみせて、
「ええ。いつになく良い気分ですよ」
銀色の目を細めて微笑んでみせた。
「人の輪から外れておられるもので、退屈してはいまいかと少々気にしていたのですよ」
「いえ、とんでもない。こういう雰囲気を、外側から味わうのがまた良いんです。それに――」
セレスティはアドニスの視線の先を追うと、意味ありげに微笑んだ。
「なるほど。遠巻きに眺めるのもまた一興、ということですか?」
「ええ、そんなところです」
遠くから眺める――恋人を。
アドニスが先ほどからずっと見つめていることに気づいているのかいないのか。モーリス・ラジアルは、三人の紳士淑女を相手に何事か楽しげに歓談をつづけていた。
彼はあくまで気さくで友好的だが、時折、彼の本性がちらっとその綺麗な面(おもて)を過ぎる。それは皮肉っぽい目つきだったり、器用なエイシンメトリーの唇の持ち上げ方だったりと、色々だ。
「愛する者との距離感にも、色々あるものですね」とセレスティ。「例えばそのワインにしても、ボトルから注がれた美しい液体の色を愉しむのか、実際に舌触りを愉しむのか……」
「宝石をケースに入れて眺めるのも、身につけるのも良し、ですね」
「対象と自分との距離で、また認識が変わるでしょう」
「ええ。こう、触れているのとただ見ているのとじゃ違う……。好きな者は独占したいとは言いますが、俺は後者でも十分楽しめるんです」
遠くから眺めていると、自分の愛する相手がどんな人物であるか再認識できる。立ち居振る舞いや話し方、ちょっとした目配せの仕方。それらのすべてが自分に向けられたものだと、俺は溺れてしまう、とアドニスは思う。溺れるのももちろん悪くない。
ようやく客との歓談にも一段落ついたのか、モーリスはふとこちらを向き、二人の姿を認めると歩いてきた。
「大事な人を放って、何を熱心に話し込んでいたのですか、君は。まったく気の利かないお人だ」
先ほどの会話の内容などはおくびにも出さずに、セレスティはからかうようにモーリスに言った。
「まったくだよ。君と来たら、パーティーが始まるなり誰かと話し込んで……俺がここでどんなに嫉妬してたことか」
アドニスも面白がって、セレスティに乗じた。
セレスティとアドニスはちらりと視線を交わした。唇の端に笑みが浮かぶのは禁じ得ない。
「私にも付き合いがありますからね」
モーリスはわざとつれない調子で答えたが、彼が戸惑っているのは明らかだった。いつも飄々としている癖に、二人の関係について指摘されると途端にしどろもどろになるのだ。
「何の話をしていたんだ?」
別に嫉妬してというわけではなく、純粋な好奇心でアドニスは訊いてみた。
「いえね、あちらのご婦人方が殊のほかジェットに関心を寄せられていて、その出所についてなど話していたのですよ」
「『黒い琥珀』はお気に召されましたか?」とセレスティ。
「あれは見事なものですね。しかし女性方は、やはりケースに入れて眺めるよりは、自分で身に纏ってみたいという感想になるようだ。その場合、宝石の価値は下がると思いますか、上がると思いますか?」
「と言いますと?」
「一度身に纏われた宝石は、女性の美しさを引き立てる道具となるわけでしょう。言わば宝石の魅力は、女性の魅力の前に屈服してしまうというわけです」
「宝石に着られてしまうというケースも、ないことはないだろうがね」とアドニスは横槍を入れた。
「素晴らしい貴婦人が素晴らしい宝石を身に纏った場合、双方が価値を高め合うことになるのではありませんか?」とセレスティは穏やかに答える。そこで何か愉快なことでも思いついたのか、セレスティは悪戯っぽく微笑して、こう付け加えた。「ちょうど、恋人同士が互いの存在を高め合うのと同様に」
アドニスは先ほどの会話の内容から、セレスティの言う意味を察した。
俺にとってはモーリス、モーリスにとっては俺が、その宝石か。
「恋人同士、ね。それは上手い喩えかもしれませんが――」
「あなた方のことを言っているのですよ?」
セレスティ・カーニンガムは、にこにこと優雅な微笑をその唇に湛える。
「――――」案の定、モーリスは固まった。「いえ、総帥。それは話が飛躍していませんか」
「飛躍などしていません。そもそも私とアドニスは、愛するものとの距離感という、極めて興味深い談義の最中だったのです。ねえ、アドニス?」
「距離感? なんですか、それは」とモーリス。
「アドニス曰く、あなたを遠巻きに眺めているだけでも幸せなのだそうですよ?」
「ちょっと、総帥……」
アドニスはさすがに照れて、セレスティに咎めるような視線を送る。セレスティは涼やかなものだ。
「ここで嫉妬に燃えていたのでは?」
モーリスはアドニスのほうを向く。
「それも事実と言えば事実だが、今更、君を髪の毛の一本から足の爪の先まで所有しようという気は起こさないからね。どちらにしろ君は俺のものだし」
「そこまで想われて、君も隅に置けませんね、モーリス?」
「ええまあ……」モーリスはなんとも居心地の悪そうな様子で、曖昧に答える。
「アドニスをしばらく放っておいた罰として、君には私達と夕食を共にしていただきますよ」
「それのどこが罰なんです?」
モーリスは胡乱げにセレスティを見た。
「積もる話も色々とありますからね?」
その『積もる話』が、セレスティ・カーニンガム総帥お得意の、お茶目で、そして機知に飛んだからかいであることは容易に想像がついた。モーリスは、勘弁して下さい、という風にため息をついて夜空を見上げた。
*
客がそれぞれ帰途に着いてから、三人は特別の晩餐を催した。
証明を落とした部屋でキャンドルを灯し、アンティーク調の食器に盛り付けられた、それ自体芸術品のようなディナーに舌鼓を打つ。
セレスティ・カーニンガムその人にとって、何よりものメインディッシュは二人の部下を茶目っ気たっぷりにからかうことであったが。
「スタンダールの『恋愛論』はお読みになりましたか?」
セレスティは二人の部下のどちらにともなく言った。晩餐も終え、お茶を楽しんでいるところだった。
「スタンダールによれば、恋愛には四つの種類があるそうです。曰く、情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛と。私は、モーリス――あなたは二番目か三番目の恋愛を好むタイプだと思っておりましたよ」
モーリスは複雑そうな表情で、「まあ、当たらずとも遠からずと言いましょうか……」
「それが最近はどうしたんでしょうね? すっかり情熱恋愛に転向したようではありませんか」
これにはさすがのアドニスも紅茶を喉に詰まらせそうになった。
「私の恋愛観云々は、重要な話題なのでしょうか」
「ええ、もちろん。重大ですとも」
リンスター財閥総帥は、大真面目に請合った。
情熱恋愛――つまりアドニスとモーリスの。
モーリスを信頼しているアドニスは別に彼の過去の恋愛遍歴を云々するつもりはないが、聞くところによれば、以前の彼はそれは移ろいの激しい恋多き青年(という呼称は必ずしも的を得ているとは言えないが)だったらしい。相手の精神より肉体を求める恋愛はもちろん、スタンダール曰く『影までも薔薇色でなければならぬ一幅の絵』である趣味恋愛も、モーリスの得意とするものだったのだろう。
「長い人生に一度くらいは――」困っているモーリスに助け舟を出すような具合で、アドニスは言った。この場合の『長い』とは字義通りの意味であり、人間の尺度で計れる年月ではない。「真剣に恋をすることがあるんでしょう」
「アドニス、君はどうやって、モーリスの気まぐれな心を捕まえたのでしょうね?」
「さあ、どうしてですかね。俺にも良くわかりませんね。俺が捕まったのかもしれないし――実際、どっちが先に相手の罠にかかっただろうか、モーリス?」
モーリスは咳払いをした。契約者の前で恋人同士の愛の囁きみたいなやり取りを交わすのは、彼にとってなんともむずがゆいものらしかった。
「どうでしょうね。私にもわかりませんよ」
それで、素っ気無く答える。
セレスティはモーリスの態度が微笑ましく見えて、くすっと微笑を零しながらこんな風に言うのだった、
「アドニスと君が恋仲になってから、私は毎日部下の新鮮な姿を発見していますよ。君もなかなか可愛げのある性格をしていたのですねえ」
窓の外から、銀色の月が彼らを見下ろしていた。
*
その後二人きりにされた恋人同士は、静かに愛を囁き合う。
彼らの他に人の姿はなく、窓から覗く月だけがひっそりと二人を見守っていた。
「今日はとんだ目に遭いましたよ、キャロル」
モーリスはアドニスの本名を口にする。
「総帥もお茶目な人だからな」
「ようやく二人きりになれた。といっても、あの人が気を利かせてくれた結果ですがね」
あの人、つまりセレスティ。
モーリスはアドニスの腰にそっと手を回して、引き寄せる。
アドニスは彼の背中を眺めていたときに触れたいと思っていた後ろ髪に触れた。髪を束ねていたリボンを解くと、金髪が月の光を跳ねて彼の肩にぱらりとかかった。
不意をつくようにして、アドニスは彼に口付ける。モーリスは抵抗せず、自ら積極的に彼の口付けに応じた。どのような美酒よりも濃厚で、甘いキスだった。二人は幾度となく唇を重ねては、互いの瞳の中に互いの姿を見出した。
「なんだか、今日はずっと酔ってるみたいなんだ」
アドニスはモーリスの耳元で低く囁く。
「私が話している間中、ずっとワインを飲んでいたからでしょう。まだ酔いが醒めていないのですか」
「君に酔ってるかもしれない、モーリス」アドニスはモーリスの髪をそっと撫でる。「君のその髪を見ると、余計にね」
「私の髪?」
「ベッドの中で髪を解くじゃないか?」
「君がずっと私を見つめていたことには、もちろん気づいていましたよ、モーリス。頭の中で、ベッドの中の私ばかり想像していたのではないでしょうね?」
「今、想像してるね」
「正直な人だ」
血が欲しいわけではなかったが、アドニスはモーリスのスーツを脱がし、シャツを肌蹴させて、首筋に齧りつくようなキスをした。
「血が欲しければ、飲んでも良いのですよ?」
モーリスは微かに吐息の混じった声で言う。
アドニスは顔を上げ、モーリスの瞳を覗き込んだ。
「いや、いらない。血はいらないが、君のすべてが欲しいな」
モーリスはそっと微笑を浮かべる。それは同意の微笑。
月明かりの下で、二人の悠久の恋人達はその愛を確かめ合う。
夜は長く、恋人達に味方した。
午前零時の月明かりは、彼らを祝福するように、恋人達の頭上に降り注いでいた。
FIN.
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