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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


女将からの頼まれごと



1.
 その日もいつもと変わらず黒川の姿は黒猫亭の指定席ともなっているカウンタにあった。
 日が落ちてまだ時間はさほど経っていないが、すでにグラスを何杯空にしたのかなど数える気にもならない。
 新しいグラスを手に取り、それに口を付けたときだった。
 すぅ、と黒川の目が細くなる。
 その目は何も写していないように見えたが、見るものが見れば目の奥に鈍い光を見出せたかもしれない。
「……で? 僕にどうしろというんだい?」
 黒川の前には誰もいないが、誰かに対して黒川は非常に億劫そうにそう尋ねていた。
「ふん、キミの自業自得という気もするがね。あぁ、わかった、ツケを溜めたこちらも悪い。わかったわかった、そう怒鳴らないでくれ」
 追い払うようにそう言うと、ようやく相手が黙ったのか黒川の目が『こちら』に戻った。
「まったく、ここ以外の店で飲むものじゃないな」
 億劫以外の何ものでもないという口調と顔でそう呟いてから、黒川はさて、と考えた。
 いまから誰かを探してこなければいけない──面倒事を押し付けられそうな誰かを。
「失せもの探しなんて、僕の性には合わない」

「で? お前は私にどうしろというのだ?」
 突然呼びつけられたヴィルアは非常に億劫そうに黒川にそう尋ねた。
「なに、少しばかり手伝ってもらいたいことができてね」
「押し付けたいこと、の間違いではないか?」
 ヴィルアが黒猫亭に辿り着いたときには、すでに黒川は何処かへと出かける用意を済ませていた。
 酒の一杯も飲む時間も与えないらしい。
「たまには別の店で飲むのも悪くはないだろう?」
「成程、その店の誰かに何かを頼まれ、そして断れないというわけか」
 皮肉を込めてそう言っても、黒川はくつりと笑いながら「ご明察」と答えるだけだった。
「その店にどういう貸しを作った?」
「非常に単純で、もっとも厄介な貸しだ。持ち合わせがなくてね、つけておいてくれと言った」
 それは確かにかなり厄介な貸しだなとヴィルアは納得した。
 この黒猫亭でさえ、マスターが不在とはいえ黒川が勘定を払っている姿などいままで一度も見たことがないし、そもそも金というものに縁があるようにはまったく見えない。
 そんな男のツケなどという言葉をよく信じたものだとも思ったが、黒川はいけしゃあしゃあと「こう見えても信用があるのさ」などと言ってみせる。
 しかし、そのツケをいまだに払えず(もしくはそもそも払う気などなかったのか)それを帳消しにするということを条件にトラブルの解決を頼んできたというのだから、相手も最初からこういう請求方法しか黒川には望めないことを知っていたのかもしれない。
「お前も別の店で飲むことがあるのだな」
「たまには飲むさ」
 話しながら、ふたりはすでに黒猫亭を出て、馴染みとなっている通りへと足を踏み入れていた。
 何処にでも通じていて、何処にも通じていない道。
 使い方を心得ており、それを使うだけの力を持っている者にとっては、普通に向かうよりも簡単に目的地へと辿り着くことができる。
 黒川は気乗りがしないという顔をしながらヴィルアを案内し、しばらく歩くと何かが現れた気配と共にひとつの店が目の前に現れていた。
 昔の料亭を思い起こさせる店構えだったが、さほど堅苦しい感じはない。
 いまは店を開いていないのか、客がいる気配は感じなかったが、少なくとも中に何かがいる気配をヴィルアは感じ取った。
「僕だ」
 入り口の前で黒川がそう言うと、すっと扉が開き、同時に嫌味ったらしい女の声が飛んでくる。
「随分と遅うございましたねぇ」
 そこにいたのは、『女将』という表現がしっくりくる和装の女だった。
 結った髪や佇まいにも何処となく色気が漂っているが、その目には少々疲れている色が窺える。
 と、その目がヴィルアのほうを向いた途端、客相手に使う笑みを浮かべて寄ってきた。
「あら、これはまた良い男……」
 そこまで言ってから、何かに気付いたのかその目と口調が変わる。
「なんだ。お前さん女かい」
「流石に鼻も目もきくようですね」
 ヴィルアも別にこの依頼主に殊更気を使う必要はないので機嫌を損ねない程度に相手をしていたが、その正体にも察しはついていた。
「女将サン。貴方、猫ですね」
「そうだよ、それがどうしたっていうんだい。猫が店をやっちゃあいけないかい?」
 女相手は苦手なのかあけすけな口調になった女将に、黒川は宥めるように口を開いた。
「僕の代わりに女将の悩みを解決してくれると言っているんだ。そう邪険にしないでくれよ」
「あら、そうでしたかい。それは失礼致しました」
 そう言うと、女将は軽く頭を下げた。
「さて女将。僕に言った話をこちらにもう一度説明してもらえるかな」
「呆れた。押し付けようっていう相手に何の説明もしちゃいないんですか?」
 本当に呆れたという顔になったが、黒川の性格は知っているらしくそれ以上のことは言わなかった。
「ようござんす」
 肩を竦めてそう一言置いてから、ヴィルアのほうを見、今度こそ本当に困った顔になって女将は口を開いた。
「アタシの大切なものが先日盗まれましてね、それを取り返してもらいたいんですよ」


2.
 その客は初めて店にやってきた者だった。
 妙に愛想がよく、口も達者で女将自ら客の相手を務めた。
 顔立ちが女将の好みだったことも理由のひとつらしい。
「昔の知り合いに似てたんですよ」
「女将は面食いだからね」
 黒川の揶揄に、女将はふんと鼻を鳴らした。
「生憎と、多少顔が良くっても勘定を払わず逃げようっていう男は御免ですよ」
「でも、今回は騙されたわけだから女将もまだ見る目が甘い」
 くつくつと黒川はそう笑った。すっかり傍観者を気取っている。
「黒川氏、話の腰をこれ以上折るのなら、私は帰るので当初頼まれた通り自分が動いてはどうだ?」
 そんな黒川の態度に釘を刺すようにヴィルアがそう言うと、軽く肩を竦めて明後日のほうを向いた。
「その男は、最初から貴方から何かを奪うつもりで訪れたという可能性はありますか」
「そうかもしれないね。この店に人間の客っていうのは滅多に来ないんだから」
「ということは、その客は人間だったわけですか」
「そうだよ」
 女将の言葉に、ヴィルアはふむと相槌を打ってから続きを促した。
「で、その客は、女将になんと言いました」
 だいぶ酒の席も進んだところで、何気ない会話のように男は女将に向かって口を開いた。
『女将、その懐に持っているものはなんだい?』
「なんだか、その言葉が妙にはねつけられなくて、ノせられちまったんだ」
 普段ならそんな口車になんて乗らないのにと女将は顔を顰めた。
「それで、懐のものを見せてしまった」
「そうだよ」
 ヴィルアの言葉に女将の顔がますます顰められる。
 そして見せた途端、客はそれを奪い取り店から逃げ出してしまったのだというのだから女将としては店の主としても化生としてもプライドが傷付いたのだろう。
「女将サンなら捕まえられたのでは?」
「馬鹿におしでないよ。アタシだってこう見えて少しは長く生きてるんだ。ただの人間にそんな真似をされたんなら、その場で捕まえて噛み殺してやったさ」
 歯噛みしながらそう言った雰囲気からすると、可能ならば実際にそうしていたのだろう。
 つまり、相手は人間でありながら人の姿を取れる力を持った女将を出し抜くだけの力を持っていたということになる。
 そうなれば、相手の正体もおのずと把握できる。
「魔術師か、少なくともそういうものに通じているものでしょうね」
「だろうね」
 忌々しそうに女将はそう答えたが、まだ肝心なことを聞いていなかったヴィルアは更に問いを重ねた。
「盗まれたものというのは、なんです?」
 途端、先程までの剣幕が薄れ、言うべきか躊躇うような気配が伝わってきたが、隠していては動いてはもらえないと諦めてか大きく息を吐いて口を開いた。
「……鈴さ」
「鈴?」
「あぁ。アタシの力の源の鈴だよ。ただの猫だったときにもらってね。こうして化けられるようになったのはそいつのおかげでもあるんだよ」
 だから、と女将は言葉を続けた。
「あれが早いところ戻らないと、店どころかアタシ自身も危ういのさ」
 どうやら、事態は思った以上に切迫していたものだったらしい。
「そうじゃなかったら、誰がこんな男に頼むかい」
 しかしそう言われた当人はいままでの話を何処までも他人事として聞いていたのだから、余程他に頼るものがいなかったのだろう。
「さて、僕はこうして適役を連れてきたのだからお役御免ということになるのかな?」
「……黒川氏、そんな了見が女将だけならともかく私にも通ると思うか?」
 いますぐにでもその場を立ち去ろうとしている黒川に対して冷たい笑みを浮かべながらヴィルアはそう尋ねた。
 もとより人に押し付けるだけで自分のツケはなしにしてもらおうなどという虫の良い話に利用されるようなヴィルアではない。
「お前が頼まれたのだ。お前も来い」
「僕はキミにこの件は任せたはずだぜ?」
「確かに頼まれはしたが、お前が完全に手を引いて良いと言った覚えはないな」
 逃げ出したらどうなるかわかっているだろうなという含みを持たせてヴィルアがそう言うと、やれやれとわざとらしく肩を竦めてみせた。
「しかたがない。キミの機嫌を損ねるような愚行はしたくないしね」
「機嫌は損ねんぞ? ただ、私へのこの手の貸しはこの店のツケよりも厄介だと思うがな」
 あくまで笑みを浮かべたままそう言ったヴィルアに黒川は「怖い怖い」と嘯いてみせた。
「ちょっとあんたら、遊んでないで早く鈴を取り返しに行っておくれよ!」
 女将の苛立った声に、ヴィルアと黒川は顔を見合わせて今度はふたりとも肩を竦めた。
「頼まれたので断りはしませんがね、今度からはもう少し気をつけたほうが良い。相手が人間だと思って甘く見れるほど、どうやら女将サンには力がないようですから」
 いつも誰かが助けてくれるとは限らないですよとヴィルアは忠告し、店を出た。

「さて、そういえばキミがこういう探索をするのを間近で見るのは初めてだったかな」
 店を出てから黒川は先程までの億劫さとは違う、少々好奇心が浮かんだ顔でヴィルアを見た。
「どう探すかね?」
「なに、簡単だ」
 愉快そうに笑う黒川に、ヴィルアは素っ気なく答えた。
「これだけ強い匂いがしていれば、すぐに見つけられる」
 ヴィルアには確かにその匂いが嗅ぎ取れた。先程まで対峙していた女将の匂いだ。
 魔力の元である鈴ならば、同じ匂いがするのは当然だろう。
「これを辿れば、すぐに見つかる」
「成程、便利なものだね」
 言いながら、黒川は急ぐ様子も見せずにゆっくりと歩いている。
 もう少し早く走れないのかとヴィルアが言っても、歩みの早さを変える気配はない。
「動くのは性に合わないんだ」
「性に合うのは覗きと酒だけか?」
「当たらずとも、と言っておこう」
 ヴィルアの皮肉にも、くつりと黒川は笑うだけだった。


3.
 わざとではないかと勘繰りたくなるほどゆったりしたペースで動く黒川のせいで、ヴィルアひとりで向かうよりも幾分時間はかかったが目的の場所へは問題なく辿り着いた。
「ここかい?」
「あぁ、間違いない」
 黒川の問いに、ヴィルアは軽く頷いた。
 一見すると何処にでもある家屋だが、女将の魔力と同じ匂い、そして魔術を使うもの独特の空気が混ざり合ったものが漂っていた。
「では、速やかに返してもらいにいこうか」
 言いながらも黒川は自分で動く気はないようだ。完全にただの付き添い、そしてヴィルアの行うことを眺めるために来ただけという体を崩す気がないらしい。
「覗きが趣味の割に、入り込む術も知らんのか?」
「生憎と、僕は『現実』の家屋に侵入する趣味はなくてね」
 キミに一任するよと無責任極まりない言葉を吐く黒川はもはや無視して、ヴィルアはひとりその家へと入り込んだ。
 ぴくりと空気が動いた。どうやら、相手もこちらの侵入には気付いたらしい。
「──誰だ?」
 警戒した声が奥の部屋から聞こえ、その部屋へつかつかと歩み寄って扉を開くと、ひとりの男がいた。
 扉をなんなく開いたヴィルアを驚いた目で見ていたので、どうやら男なりに何かしらの結界を張っていたのかもしれないが、『人間』の魔術師で作れる結界などたかがしれている。
 しかも、人に化かされるような化生から力の源を盗み取るような真似をする程度の者では余計だ。
「盗んだものを返してもらいに来たんですよ」
 紳士的に、ヴィルアはそう口を開いた。
「……盗んだもの? 覚えがないな」
 そう言いながらも、男の顔には冷や汗のようなものが流れ始めていた。
 ヴィルアが只者ではないことを察するだけの鋭さはあるらしいが、口先で何とかごまかせると思っているあたりはまだ甘い。
「私からではなく、とある店の女将の大切なものです。そう言えば、おわかりですかね」
 途端、ひくりと男の顔が引き攣った。隙があれば逃げ出そうとしているようだが、そんな隙を勿論ヴィルアは与えない。
 店での話を聞く限り、魔術に関してはともかく、逃げ足のほうは得意のようだ。
「私のほうも頼まれただけでしてね。ソレ、おとなしく返していただけませんか」
 おとなしく返すのなら、ヴィルアとて必要以上に事を荒立てる気などない。今回のことは女将の不注意が招いた結果であり、男のみを責めるわけにもいかないからだ。
 ヴィルアの言葉に、男は尚もつまらないごまかしを言おうとしていたが、うまい言葉が出てこないようで、言葉の代わりというほどだらだらと汗だけが流れている。
「ここには……ない」
「ほう。では、懐にあるソレはどう説明するので?」
 見え透いた嘘をつく男に、ヴィルアの目がやや細くなる。
 つまらない嘘を重ねるような男と長く付き合う気はない。これ以上くだらないことを言うだけなら実力行使に出るだけだ。
 その気配に気付いたのだろう、男は慌てて「待て、待ってくれ」と懐に手を入れた。
「返す、返すよ。最初からしばらく借りたら返すつもりだったんだ。本当だ!」
 言いながら男は懐に入れた手を出そうとした。
 ──その手を、いつの間にかその場に現れていた黒川が掴んだ。
「おや、おかしいね。いまキミが出そうとしたものは彼女が言ったものとは違うようだが?」
 意地悪い笑みを浮かべながら黒川はそう言ってヴィルアのほうを見た。
 掴み出された手の中には確かに鈴があったが、すぐにそれはこういう場合に用意してあった偽物だということがヴィルアにもわかった。
「彼は随分と往生際が悪いようだね?」
 くつくつと黒川は笑っている。この場を楽しんでいる愉快そうな笑みだ。
「そうだな。あまり往生際が悪いのは感心せんな。ここまでくると無様なだけだ」
 ヴィルアもその言葉に笑みを浮かべるが、こちらはひどく冷たいものだ。
 ふたりの異なった笑みを向けられている男はというと、無論笑ってなどおらず引き攣った顔をしてふたりを交互に見て口を開いた。
「な、なんなんだ! 何がそんなにおかしい! あの化け物から頼まれたということはお前らも化け物なんだろうが……化け物なんぞに馬鹿にされる覚えはないぞ!」
 化け物、という言葉に黒川は心外だというふうに肩を竦めただけだったが、ヴィルアは違った。
 先程まで浮かべていた冷たい笑みさえも消し去り、その代わり冷え切った声を男に向けて放った。
「化け物なんぞに、か……貴様らからみたら化け物なんぞだが、私たちからみると人間なんぞなんだがな」
 己と違うものをひと括りに『化け物』と蔑む者に対して寛容な心を持つ気などヴィルアにはない。
 確かに、ヴィルアや女将は人間から見れば化け物だろう。しかし、化け物だというだけでただ蔑むのは愚か者の思考だ。
「おとなしく鈴を返す気がないことはわかった。そして、どうやら貴様は『化け物』に対して極めて思慮の浅い愚か者だということもわかった」
 さて、とヴィルアは冷たく男を見下ろしたまま口を開く。
「その『化け物』にどうされるのをお望みかな?」
 そのときになって男は言ってはならないことを言ったのだと気付いたようだが、今更後悔したところで遅い。
 ぐい、とその首を無造作に掴む。途端、男が情けない悲鳴をあげた。
 ふと黒川のほうを見ると、そんなヴィルアの様子にも男の様子にも愉快そうな笑みを浮かべている。
 男がいまからどんな目にあうのかを楽しもうという腹らしいことに気付いたヴィルアは、あることを思いついた。
「黒川」
「なんだい?」
「ここまできたのだ。お前が何かしてみせろ」
 普段黒川は専ら観客を気取っている。その男を舞台へ引きずり出したらどうなるか一度見ておくのも一興だという考えからだったが、案の定黒川は露骨に面倒くさいという顔をした。
「動くことは得意じゃないとさっきも言ったと思うんだがね」
「覗き以外に芸はないのか」
「億劫なことはするのは苦手だ」
 ふたりのやり取りを男が黙って聞いていたわけはないが、ヴィルアが首を掴んで折れない程度の力で床に押さえつけていては逃げ出すことなどできるわけがなく、蛙のように床を這っている。
 この程度の相手だからこそ、こういう『余興』じみた真似ができるということもあるのだが、この機会を逃せば次がいつあるかわからない見せ物でもあった。
「では、こうしよう。今日は私が奢る。その代わり何かしてみせろ。もともとこの件はお前に持ち込まれたものだろう?」
 ヴィルアの提案に、黒川はふむと考え込む顔になった。
「魅力的な条件だね」
 にやりと黒川は笑みを変えた。先程までより数段意地の悪い笑みだ。
「──良かろう」
 そう答えたとき、『それ』は起こった。
 ゆっくりと、黒川の影が変化し始める。
 黒川自身の影はそのままだが、その中から違う『何か』が首をもたげている。
「では、つまらない影絵をお見せしようか」
 言っている間も、影はその形を変えていく。
 何かがゆっくりと黒川自身の影から抜け出てきていたが、それは影のみだ。現実には何も現れていない。
「この場合はやはり、『本人』に登場してもらうのが一番だろうね」
 にたり、と黒川は笑った。
 その間に、影は完全に黒川のそれから離れて立っていた。床に映る影だけが。
 影は、猫のようにも見えたが、猫とは程遠い姿をしていた。
 その影に向かって、黒川はわざとらしく言葉を放つ。
「『女将』、キミに恥をかかせた相手だ。好きにしたまえ」
 その言葉を合図に影の『猫』はゆっくりと男の影に近付くと──その影に食らいついた。
「ぎゃあぁぁっ!」
 途端、男自身には何の傷もついていないのに、まるでその身体を獣に食われているような悲鳴をあげた。
 そして確かに男は『猫』に食われていた──影だけが。
「……成程、影絵だな」
 目の前で繰り広げられる光景にヴィルアがそう納得している間も男の絶叫は響き続け、そして、止んだ。


4.
「この芸はお気に召してもらえたかな?」
 死んだように横たわっている男など気にも留めず、黒川はヴィルアのほうを見た。
 男の身体にはまったく傷はない。しかし、その影は無惨に食い荒らされ、辛うじて残っている部分が余計にその凄惨さを増していた。
「死んだのか?」
「生きているよ、いまはね。以前も言ったけれど、血を見るのは苦手なんだ。暴力沙汰も好まない。まぁ、このままで無事生きていけるかは僕は知らないね」
 そう言って浮かべた笑みはいつもと同じまったく信用のできない何処までも意地の悪いものだった。
 男の生死はヴィルアもさして興味はなく、いつの間にか消えている『影』に気付いてから黒川に尋ねた。
「いまのは何だ?」
「ただの影絵さ。このくらいしか能がなくてね」
「そうではなく、さっき出てきた影だ。あれは、女将自身か?」
 先程黒川の行ったことは本人が言う通り『影絵』というのが相応しい気はしたが、問題は先程登場していた影だ。
 本人の影であるというのならば、この男は他人の影を自在に操れることになる。
 しかし、それに対して黒川はくつくつと愉快そうに笑った。
「そんなたいそうなことはできないよ。実際に僕が見たことがあるものの姿を拝借して、キミが好むような言い方をすれば演じさせるのが関の山だ」
「では、いまのが女将の本性か?」
「正確には、僕が思っている姿、かな」
 その言葉にヴィルアは肩を竦めた。あの『いかにも』な風体を装っている女将をあのような姿に表わしたということを本人が知ればさぞ腹を立てるだろう。
「一度、お前の思っている私を追及する必要がありそうだな」
「ご心配なく。僕はキミのように存在感のあるものを表すだけの演技力はないんだ」
 くつくつと笑いながら黒川は言い、さてとヴィルアに声をかける。
「もう用は済んだのだから行こうか。早く女将にその鈴を返して黒猫亭に行かないとね。なにせ、今日はキミの奢りなんだから」
 にやにやと笑って黒川は外へと歩き出し、ヴィルアも鈴を持って同時に出て行く。
「やはり、飲むのはあの店が一番だね」
「そう思うのなら、払うものを持ち合わせていないくせに別の店に行くべきではないな」
「ご忠告痛み入る。けれど、たまには別の店の酒も味わいたくてね」
「そのツケをいつも誰かに押し付けられると思うなよ?」
 ヴィルアの言葉に黒川は答えず、ただいつも通り人を食ったような笑みを浮かべただけだった。
 そして、ふたりの姿は闇に溶けた。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)       ■
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6777 / ヴィルア・ラグーン / 28歳 / 女性 / 運び屋
NPC / 黒川夢人

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■         ライター通信                    ■
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ヴィルア・ラグーン様

いつも誠にありがとうございます。
この度は黒川の自業自得のツケの押し付け依頼を引き受けてくださりありがとうございます。
開口一番のヴィルア様の台詞には、ついにやりとしてしまいました。
黒川も同行をということでしたので、少々出番が多くなり、また黒川の曰く『芸』に関しても拾ってくださったので披露させていただきましたがお気に召していただけると幸いです。
これをふたりで盗人いじめと見ていただけると嬉しいのですが。
最後はできたら黒猫亭でということだったのですが、話の流れ上そちらへ向かったという描写に留めさせていただきました。
変更点等ご要望がありましたらお申し付けくださいませ。
またご縁がありましたときは、何卒よろしくお願いいたします。

蒼井敬 拝