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<東京怪談ノベル(シングル)>


道標

 どこまでも澄んだ沼の底で、みなもはじっと自分の手を見詰めていた。
 鋭く尖った長い爪と鱗に覆われた皮膚は、勿論彼女のものではない。自分では見えないけれど頭に生えている角も、長い尾と鱗に覆われた胸から下も、借り物だ。
 その本来の持ち主である龍神様は今、お出かけ中である。みなもが姿を見せるなり、龍神様を代わってと云って来たのだった。
『お願いッ!』
 半人半龍の可愛い龍神様に涙目で迫られたら、断れる筈が無い。そうして、みなもはまた「一日龍神様」になった。
 きっと龍神様には、今日も何か大事な用事があるのだろう。全てを見通す龍神様の今なら、用事がどの様なものかも見る事が出来るが。
「失礼ですよね」
 みなもは首を振った。
 本当は、龍神様に相談をしに来たのだ。自分の将来について。
 初めてここへ来た時、今と同じく龍神様を引き受けたみなもは、全てを見通す力を使って、自分の将来を垣間見た。そして結局、未来なんて無限にあって、一瞬一瞬を自分で選んで行くしかないと思い知らされた。
 だからと云って、将来への不安は消えたりしない。
 だったら、今あるこの力を使って、自分で答えを捜してみよう。
 みなもは顔を上げた。
 この沼の水は、少しも動かず淀んでいるのに、この上無く澄んでいる。きっと、水であって水でないのだろう。その証拠に、ここの水はみなもが操ろうとしても動いてくれない。
 この沼の元である龍神様は、どの様にして生まれたのだろうか。
 みなもは、答えに向かって腕を伸ばした。

 そこは小さな水溜りだった。
 暗く湿った場所にあったので、溜まった水が全て蒸発する前に次の雨が降り、水溜りはいつもそこにあった。
 流れずそこに留まる水には、色々なものが溶けて行く。
 枯れ葉や動物の死骸、泥。
 それらの他に、動かない水へと引き寄せられるものがあった。
 普通の人には聴こえない声。普通の人には見えない姿。善いものも悪いものも押し並べて、水溜りに溶けた。
 そうして色々なものが溶け、溜まる内、水溜りは段々と大きく、深くなって行った。
 いつしか沼になった水溜りは、聴こえない筈の声が聴こえ、見えない筈の姿が見える人に見付けられ、神の宿る沼と呼ばれる様になる。
 沼は人々に祈りを奉げられ、願いをかけられた。
 良い願いも悪い願いも、沼は溶かし、その内に溜めて行った。

「水には、霊気や神気みたいなものを溶かす性質があるんですね」
 霊感の類が無い自分には、そっちの方面には手が出せないと思っていたみなもだ。これは大きな発見である。
 霊気や神気が水に溶ける性質を持つのならば、水を使って霊気や神気を取り込んだり、上手く行けば邪気や瘴気を払ったりなんかも出来るかも知れない。
 拝み屋になる将来だってありだ。
 ただ、具体的にどうすれば良いのかはさっぱり判らない。今まで、水を使って目に見えないものをどうにかしようと思う事も無かったみなもが、その方法を知る筈も無かった。
 うんうん唸っていたみなもは、はたと気付いて手をたたく。もしかして、この沼で何かを見通すのと同じ要領で出来るのではなかろうか。
 その時だった。
「ただいま」
 龍神様が帰還したらしい。みなもは水面に出る。
「お帰りなさい」
「ただいま」
 人間の姿の龍神様は、何だか元気が無かった。
「何か、あったんですか?」
「ううん、何でもない」
 龍神様を返しても、変わりはしない。本人が何でもないと云うのに、あまり突っ込んで話を聴くのはおせっかいすぎるだろうか。
 友達だから、何でも話してほしいのに。みなもは少し寂しさを感じた。
「じゃあ、また来ますね」
「うん」
 手を振って別れ、雑木林を抜けてからも、重くなった気持は晴れない。せめて彼女に元気が無くなった理由が判れば、打開策を考える事も出来たのに。
 雨がぽつりぽつりと降り出した。
 本降りにならない内に帰ろうと駆け出したその足が、不意に止まる。
 道路脇に、潰れた紙の箱が落ちていた。
 ただのゴミと云えばそれまでだが、何故だかとても気になって、みなもはそれを拾い上げた。
 近所のケーキ屋さんの箱だ。ただ、思いっ切り潰れているので、中身は見るも無残な姿になっているだろうけれど。
 誰がここに置いて行ったのだろう。どうしてこの箱は潰れてしまったのだろう。先程考えていた水の力で、何とか判らないだろうか。都合良く雨が降っている。使う水には事欠かない。
 箱を左手に移して右手を空けると、みなもは掌を天に向け、右腕を差し出した。
 重力に逆らわず真っ直ぐに落ちていた周囲の雨が、掌に集まり渦を巻く。それは次第に細長く伸び、形を定まらせた。
 掌の上に、小さな龍が乗っている。水で出来ているので無色透明だが、紛う事無く龍だ。顔つきは怖いが、小さい所為かどこか愛嬌もある。
 みなもが何かを知りたいとの願いが、沼の龍神様と結び付いてこんな姿になったのだろう。
「水龍さん、この箱の持ち主は誰ですか。どうしてここに置いて行ったんですか」
 早速のお願いに、龍はケーキの箱に巻き付いて、みなもを見た。龍に手を触れると、何かがそこから流れ込んで来る。
『たまにはわたしがおもてなししなくちゃ』
『うん、これとこれにしよう』
『みなもちゃん、喜んでくれるかなあ』
『きゃっ! あいたたた。あーッ! ケーキの箱、潰しちゃった。折角買ったのに。こんなの持って帰れないよ』
 龍神様の声だ。みなもは思わず微笑んだ。
 今日の龍神様を代わってのお願いも、帰った時しょぼくれていたのも、全てみなもの為だったのだ。
「水龍さん。沼へ、しずくさんの処へ、最短距離で案内して下さい」
 龍が箱を離れてふわふわと動き出す。みなもは、それを追いかけて走り出した。

 いつもは来るまでに散々迷う沼までの道を、龍のお陰で初めて迷わず辿り着けた。雑木林に入ってから降っていた雨が止んだのは、きっとここが外と直接繋がっていないからなのだろう。
「しずくさんッ!」
 ずっと落ち込んだままだったのだろう。沼の縁にちょこんと腰かけていた龍神様は、振り返ってびしょ濡れのみなもの姿を発見し、目を丸くした。
「これ、ありがとうございます」
 差し出されたのは、潰れた上に雨に濡れてぐしゃぐしゃになったケーキの箱だ。龍神様は、ぽかんとしている。
「どうして」
「箱に残ってた感情を、この子を使って水に溶かして読み取ったんです。ついでにここまで案内してもらいました」
 ふわふわその辺を漂っている水龍を、みなもは指差した。
「水があんな風に使えるなんて思わなかったです。結構便利ですね」
「じゃなくて」
 相槌を打ちかけたしずくは、首を振ってみなもに向き直る。
「風邪引いちゃうよ、早く乾かさないと」
「大丈夫です。あたしは元々水生生物だから、雨に濡れた位で風邪は引きません」
 なら良いけど、と呟いて、しずくはみなもが大事そうに抱えている箱に目を落とす。
「ありがとう、みなもちゃん」
「それはあたしのセリフです。でも、中身はもう食べられそうにないので、また今度買って来て、一緒に食べましょうね」
 みなもの笑顔に、しずくの顔にも笑顔が戻った。
「うん」

 帰り道。
「あれ、そう云えばしずくさん、ケーキを買うお金なんて持ってらっしゃいましたっけ」
 どうやら、謎は全て解けた訳ではないらしい。
「まあ、そんな事はどうでも良いですよね」
 家路を行くみなもは、一つ小さなくしゃみをした。