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<東京怪談・PCゲームノベル>


その者の名、“凶々しき渇望” 【 第四話 】

■an end





「懐かしいだろう? 君のお姉さん――三ヶ月振りの…感動の再会だ」






 ――――――…もう戻らない、あの日々。
 憎い憎い魔王の声が、見たくも知りたくもない現実へと引き戻す。
 三ヶ月振り――三ヶ月前。
 それは佐々木晃が――『人間』としての生を、終えた時。
 …その時、そこに居たのは。

 一瞬で。
 空気に霜が下りた、気がした。
 天薙撫子操る妖斬鋼糸に拘束され、彼女の術による浄化のダメージを一時的に受けた後の姿。数多の能力者や霊鬼兵の血肉を寄せ集めて造られた醜悪な姿のキメラ――“喰らう”魔物、『アバドン』。
 その一部に見えたのは、見間違いようのない、佐々木恭子その人の頭部。それが――アバドンそのものの頭部の如く、眦を吊り上げ咆哮を――苦鳴を上げている。その事に、佐々木晃も漸く気付く。
 …そして余計な事まで――自分がベルゼブブを狙い一番初めに放った銃弾が、その存在に着弾していた事をも、思い出す。
 ――自分が、撃った。
 晃の身体から、唐突にがくりと力が抜けている。髪の色が瞳の色が――本来の色に――黒に戻っている。魔力消耗による肉体崩壊と言う意味だけでは無く、心の方の問題でその場にずるりと崩れ落ちる――崩れ落ちそうになる。肉体崩壊が進む中での無謀を制止する為――綾和泉汐耶と神山隼人が咄嗟にその身を支えていたそのままの状態から、晃の重量が俄かに増す。倒れてはいないが倒れているも同然。…晃はもう自分で立とうとすらしていない。体組織が崩れていると言う意味以上の、その事で齎される痛み以上の理由で――足に力が入っていない。表情は茫然自失、放心し、瞠目したまま、動かない。
 視界に映っているのは、アバドンの正体――その一部に見えている、頭部。
 その持ち主しか見えていない。

 空気の質が変わった、そこ。
 拘束されつつも全く動けない訳で無いアバドン、目の前の相手を圧しているアスタロト、己が造った土人形を嬲るように言葉を選ぶベルゼブブ――自分が動ける隙間と見たか、まずシュライン・エマが逸早く新たな動きを見せていた。汐耶と隼人――そして晃の状態を見、三人の居る側に移動しようと床を蹴る。撫子操る妖斬鋼糸の拘束から逃れようと暴れるアバドンの脇を抜ける事を考え。…無論それで自分に特別何が出来るとも思えない。けれど黙って立ってはいられなかった。
 元々、彼らとの位置関係はそれ程離れていない。ほんの数メートルで、少し走れば届く距離。だから動いたのだが――そのごく短い距離は、取り巻く状況を考えると長過ぎるとも言えた。…床を蹴ったその時点では確かにアバドンの動きは殆ど止められていた。浄化のダメージを受けた直後だったからか、苦しげに暴れるばかりで目標を定めての戦意はやや薄れていた。脇を抜けられる隙間もあった。だがそれは一時の事。いつアバドンが攻撃目標を定めるか知れない――妖斬鋼糸のその拘束が弾けるかもしれない。もし僅かでも弾けたら、腕の一本でもシュラインを襲う動きを見せたら――その動きは常人離れして速く、攻撃は重い――シュラインが移動する途中でそうなってしまえば、彼女が無事に目的を果たせる可能性は著しく低い。
 アバドンはシュラインの動きを意識に入れていた、ようだった――それで余計に暴れる力が強くなっているようにすら見えた。とんでもない位置に付いている異形の剛腕が妖斬鋼糸の拘束を一部弾き飛ばす。撫子の成した術の名残かばちりと火花が散る。…アバドンの剛腕は自分の脇を通ろうとしている――即ち自分の方に向かって来ている事にもなるシュラインを第一の攻撃目標に選んだ。…アバドンはただ、誰も通すまいとその意志だけで動いているのかもしれない。傷付けられた今の己の状態の――何もかもを無視し報復すら考えず。ただ与えられた命令のままに、目の前にあるものを喰らい尽くせ、と。
 アスタロトと真っ向対峙している葉月政人にはシュラインの行動に気付いてもその援護をする余裕が無い。魔的な他の手段を取らせさえしなければ――接近戦、白兵のみの地力勝負となれば、装着している特殊強化服「FZ−00」でこの悪魔にも何とか張り合える。だがそれだけ。敵に僅かでも余裕を与えたら一気に自分が不利になると政人は自覚している。だからこそ「FZ−00」の機能をスピードもパワーも光電磁フィールドの出力も上限ぎりぎりまで稼動させ、間断無く攻撃を繰り出し挑んでいる。現れた晃に対しこちらを向くな――その魔獣を、アバドンを見るなと制止の意味をこめた声を掛けた事すら、ぎりぎりの線になる。
 撫子もほぼ同様。妖斬鋼糸を媒体にアバドンに浄化の術を叩き込んだ時点で、俄かに息が上がっている。今の己の全能力を解放、背に薄らと現れた三対の翼――星詠みの巫女神を継ぐ者としての更なる超越した力の発現、天位覚醒…に近い状態にまで力尽くで持ち込みはしたが、その分術の効果が上げられるとは言え元々その身を苛んでいる原因不明の体調不良がある。気力で補い殆ど常態そのものの行動を取れてはいたが、それでも無理を重ねている事には変わりなく。…そう見えなくとも、余裕は、無い。
 床を蹴り移動を開始したシュラインの横、膨張した異形の剛腕が見た目の愚鈍さからは想像も付かない速さで襲い来る――アバドンの攻撃がシュラインに達する、直前。その剛腕から庇うよう咄嗟に坂原和真が飛び込みシュラインの身を突き飛ばしている――突き飛ばせていた。アスタロトの相手を政人と交代し、こうなる直前に僅か休めていたが故に、今、一番速く反応出来ていた。和真はシュラインを突き飛ばした直後――と言うよりほぼ同時、体力温存の為一時解除していた【キーマテリアル】を再び構築。己が握り持つ携帯電話から伸びるよう、何も無かった空間に唐突に現れた一メートルに満たない長さの硬質な棒状――その鍵を以って異形の剛腕を真っ向から受けていた――受けられた。とは言えやはりその攻撃の重さに持ち堪えられはせず、受けたその勢いのまま一気に衝撃が来る――身体ごと後方に押し遣られ、そこにあったリアクターに背中から激突する。撫子も一拍遅れ妖斬鋼糸を新たにそちらの助力にと展開していたが、間に合わない。
 直後、和真が【キーマテリアル】で受け止めている剛腕に、小さな異形の爪と複数の水の刃が弧を描き取り付いていた。そして次の瞬間には水の刃は慣性のまま弧を描き離れ、異形の爪の主はその剛腕を足場にし飛び立ったようこちらも離れている――離れた途端、ばっと血が噴いた。アバドンの剛腕に、一瞬にして幾筋か深い傷が付いていた。びくりと剛腕が怯み退く。和真が受け止めている膂力が緩む。
 爪を繰り出した小さな異形の正体はシュラインの肩に止まっていた隼人の使い魔。複数の水の刃は海原みなもの――否、水の刃については彼女と連携して水を遠隔で操っているセレスティ・カーニンガムの仕業と言うべきだったか。何処の配水管からかその場に流れ込んでいる大量の水は、みなもとセレスティ二人の連携で様々動きを見せている。壁や刃。質量を性質を利用し。様々に水を変化させ、対アバドンの攻撃を極力押さえる為、対アスタロトで戦っている政人に少しでも余裕を与える為、皆への攻撃を防ぐ為――特に細かい緻密な作業と刻一刻と激変する戦況の把握はそこに居るみなも、水そのものの大量供給とみなもからの戦況報告を受けての大規模な水操作…主に攻撃方面に関してはここから見えない離れた場所に居るセレスティが担当し――遊軍の形で皆の助力に動いている。
 シュラインが和真に突き飛ばされた方向は目的通り晃たちが居る三人の側になる。またも自分を庇う形になった和真を振り返る――か振り返らないかと言うところで、行って下さい! と和真の強い声が背後から届く。その声で彼がまだ無事である事を確認。幾分ほっとする――が、彼の言う通り今ここで躊躇している場合ではない――即座にその意を汲み、シュラインはすぐに身体を起こして晃たち三人に近寄る。折角アバドンの脇を何とか抜けられた訳だから。
 今のシュラインの行動、黙ってはいられないと言う衝動もあるだろうが、それ以上に何かそれなりの理由があっての行動と和真も――他の皆も見た。何か事態を打開出来る可能性。そう判断して託してくれたとシュラインの方でもわかっている。
 わかっているから、三人の元に辿り付くなり、何はさて置きまずシュラインは晃に確認を取った。
 先程のベルゼブブの発言からして目の前の状況からして――晃の身体の維持には魔力が必要なのかと言う事。それから――もしそうなのなら、魔力の供給が必要なのは身体の維持の為のみ、なのかとも。
 訊いても返事は返らない。そんなシュラインの発言も晃には届いていない。今まで側に居なかった人が近付いて来たからか声がしたからか、茫洋とシュラインを見るよう僅か顔を動かしはした。したが、その目には何も映っていない。我に返らせようと肩を揺する――揺すろうと手を伸ばす――が、先程からの彼の肉体崩壊振りを思い出し、服地に触れる寸前で、止めた。
 晃の代わりに、汐耶から返事が来る。…こうなる前、自分が檻から脱出し晃と対峙したその時、晃本人から直に聞いている。ベルゼブブから供給される魔力が、自分の命を繋いでいると言っていた。目的を果たせば――つまりベルゼブブを倒したなら、身体は元々保たないとも。が、身体の維持『のみ』に魔力が必要なのかと限定して問われれば、それは厳密にはわからない。そこまで突っ込んだ話は聞いていない――けれど目の前の状況からしてそうなのだとは、予想出来る。
 汐耶がその旨言うと、すぐに隼人も同意した。恐らく、体組織の維持だけの為に魔力が使われていると考えて間違いないと思いますよ。そう続ける。…隼人が事情聴取の時から観察していた結果、その意志は――魂は晃のままと見ていいから。それは性格的なものが魔力に影響されている節はある。けれど基本は本人のまま。ベルゼブブの立場からしてみてもそこから造り替えてしまっては楽しくないのだろう――とも思う。
 シュラインは頷いた。
「だったら…一つ考えてみた事があるの」
 ――アバドンに使われている恭子さんの能力は、何だったのか。
 優れた能力者だったから。そうは言っても、何の?
 それを考えた。そして――ベルゼブブの言い方からしても今目の当たりにしているアバドンの様子――アバドンの感情が表れている顔は彼女のものだから――からしても、どうやら彼女こそがこの魔獣――アバドンの核となっている。その点から、このアバドンそのものを象る為の結合接着となってるのは恭子さんじゃないか――彼女の能力は、それだったのではないか、と仮定してみた。
 ならば。…アバドンである事は変わらないかもしれない、けれど成長の為だけに他者が必要なのなら、付いた部分を削ぎ落とす事は可能だと、削ぎ落とせばこの魔獣としての力は弱まるのでは――と思う事。
 …それから。アバドンと恭子さんの分離は難しいでしょうけど、その核の一部でも佐々木さんと結合可能ならば、彼の身体をこそ繋ぐ事が出来れば――魔力供給の必要がなくなるかも、と。
 無論、それが実現可能だとしても――実行するのは晃の胸一つ、こちらで強制出来る事でも何でもない。ただ、同じ女として、不本意な姿に使われるなら大切な対象の為の方が良いし、とシュラインは続ける。
 すぐ側で続けられる言葉に、晃の目に僅か意志が戻る。戻るが――それは、到底、今の話を受け入れる方向に傾きそうにはなく。
 むしろ。
 何を言っているのかと――怪訝そうな目で。
 話の中で出された大切なひとの名、目の前の生体兵器が呼ばれている名称。関係する話とだけは理解した。したが話の内容まで噛み砕けない。何か、忌まわしい事、絶対の禁忌に至る話のような気がする。…理解してはいけない事だと漠然とそう思う。けれど何より切実な事だとも同時に思う。だから、理性の部分で必死に理解しようとしているが、やっぱり理解し切れていない――理性より先に感情の判断で、理解する事を、晃の頭が拒否している。
 結局、殆ど反応は返らない。そこに、シュラインの声が叩き付けられる。――自分の絶望に浸ってないで前向きなさい! 途端、びくりと晃の肩が大きく震えた。
 今シュラインが選んだ『声』は、葉月政人から借りた留守録で記憶した…――。
 ――…佐々木恭子の、『声』。
 やはり反応するのはそれだけか。痛ましく思いつつ、佐々木恭子の『声』を使うのはそこで止める。…こめられた想いを知ればいたずらに使い続ける気はない。ただ、今の状態から彼の意志を叩き起こすにはそれしかないかと思ったから。だから今の一度だけ、借りた。…今の佐々木氏のように存在否定されるのは辛い。冷たく酷い事言ってるのは承知、けれど想いと魂まで殺させやしない。そう思いをこめて。
 晃が瞠目して『声』の主を見る。今度こそは確りと意志のある目。ただ、今恭子の『声』を発したのが目の前の女性――シュライン・エマと言う全くの別人であった事に気付き、途惑いと――彼女が能力を以って姉の声を使用――利用したのだと理解するに連れ、噛み付くような非難が彼女を見る目の中に凝る。…今、同時に他の事がなければそのまま激情が――怒りが叩き付けられていたかもしれない。けれど今は――冒涜と言うなら『声』以上のものが無惨な姿の生体兵器として目の前にある。残酷な方法で恭子を殺め、その魔獣に造り直した仇敵すらすぐ側に存在する――感情は疾うに飽和状態、劇薬は確かに効いた。…何であれ、彼が彼自身で考えられる意志が幾らか戻った事には変わりない。
 と、そこに。
 やってみるがいいよ、と声がした。
 火の粉の掛からない位置、晃に喚ばれながらも本来の主に従う事を選んだ下級悪魔を侍らせ、滞空してその場を見下ろしているベルゼブブ。
 今の一連の動きを見ていたと言うのに何も手を出そうとはせず――ただ、口を出す。
「君たちが君たちの方法で佐々木君を救えると言うのなら。好きなようにやってみたまえ」
 …所詮、無理だと。
 そう言外に含み、嘯く。嗤う。
 口を挟んで来た魔王の声に、シュラインは、きっ、と鋭い目を向ける。けれど今の言葉――信じる信じないはさて置き今この時点では紛れもなくただの事実。ベルゼブブは今、口しか挟んで来ていない。襲うならすぐにも出来るだけの隙があっただろうに実際に襲っては来ていない――ならば。やってみろと言うならやるだけ。その間をくれると言うなら魔王の掌の上でも踊ってやろうじゃないか。その結果まで魔王の思い通りになるとは限らないのだから――思いながら、シュラインは自分同様――それ以上の鋭い視線をベルゼブブに突き刺している汐耶を窺い見る。意図を察して汐耶は頷いた。それらを見て隼人も、頷く。…ひとまず、シュラインが今提案した試みを手伝おうと。
 二人に頷き返したシュラインは、返って来ない晃からの返答を待たずにアバドン内の――同一組織体を音の面から検索に入る。結合部分がわかれば、他の部位より幾らかでも切り離し易いかと思うから言い出した自分がまず動く。聴覚を研ぎ澄ます。…物質には固有の振動数がある。生命活動――それは本来の自然のままの、ではなくとも――細胞の活動する音はしている。血の流れている音も。筋肉が伸縮する音も。彼女の耳なら集中さえすれば一つ一つが別に聴こえる。佐々木恭子の頭部は見えている――その部分の『音』だけなら、わかる。
 なら違いの判別は――可能な筈。

 アバドン内同一組織体検索に入っているシュラインの脇で、ふ、と空気の質がまた変わる。何事かと思えば――今度はその場に居る者の気配一つ一つが誰から見てもそれまでよりはっきりとわかるようになっていた。
 誰かが、何かをした。…綾和泉汐耶。自分が拘束されていた建物の内部構造を把握する為、同時に脱出に当たり敵に見付かり難いよう自分の気配を暈す為――今まで施設全体に薄く流していた自分の封印能力を解除し、より集中出来るような形に持ってきた、と言う事らしい。
 すぐにそうと気付いた隼人は、汐耶を見る。と、見た途端に汐耶も気付いたか、神山さんナイフか何か――あったら貸して頂けませんかとすぐに隼人に頼んで来た。…確かに、持っている。黒魔術を使用する、表向きそういう事にしてある以上――隼人の場合本来は必要なくとも儀礼用ナイフの一本や二本は取り敢えず常備品として用意してある訳で。
 ナイフを借りて汐耶は何をする気なのか――隼人はそうは思ったが、実際自分はナイフを持っているにしても特に必要な訳でも無い。そして汐耶は――脱出して来たそのままなので、丸腰と言えば丸腰だ。身一つでも封印能力と言う武器はあるのだろうが、それでも幾分心許無いのかも知れない。
 ともあれ隼人にしてみれば貸す事自体に否やは無いので、どうぞとすぐに取り出し手渡す。受け取った汐耶は有難うと頷きつつ、するりと鞘から引き抜きすぐ使えるようにした。…案外、扱いが手慣れている。
 それから、汐耶は晃の様子をちらと見た。シュラインの荒療治で少しは意志が戻っているようだが――まだ一押し足りないか。思いながら喝を入れる。佐々木恭子の肉体と能力はあの生体兵器作成に利用されてしまってるにしろ――魂はまだ別のようじゃないかと。ならばあの姿を見ても――せめて姉の魂は救おうと考えられないのかと。あれだけの殺人を重ねて――覚悟決めてるような事言っておきながらここに来て何もしないでただ絶望だけで終わりなのかと。今のこれを見せられてそうやってただ呆けてる事こそあの魔王を喜ばせてる事になるんじゃないのかと。…それで良い訳か。まだ全部終わった訳じゃない。彼女を救える可能性すら、絶望に負け否定するのか――と。
 続けて叩き付けられる汐耶の声に、晃はぎりと唇を噛み締める。
 それでも何も答えは返らない。
 けれど今度は――聞こえている。言われた事を、言われた通りに正しく理解してはいる風で。
 ただ――単純に自分の中の問題で、答えが、出て来ない。
 シュラインに言われた事の。汐耶に言われた事の。…それで自分はどうするべきなのかを。
 つぅと晃の唇から一筋血が流れる。それは肉体崩壊――内臓が血管が崩れている、と言う意味ではなく、今ただ強く噛み締め過ぎたから。けれどそんな事はどうでもいいと言いたげな、苦しげな表情はそのままで。どうしようもなくぐちゃぐちゃな感情と情報の中、ただ必死に思考している。
 と。
「――っ」
 シュラインが――息を呑んでいた。
 その理由は、アバドン内にある恭子と同一組織体、の検索結果。
 …それは、どう聴いてみても。
 区別が付かなかったから。
 強いて言えば見えている頭部と全く同じ音は見えている頭部からしかしない。が、だからと言って頭部だけは完全に恭子のものである――と言う訳では無さそうで。何故ならそこと同じ音を奏でる細胞が薄らとながらアバドンの全身、あちこちに分布している。そして逆に、彼女の頭部の中にも――他の部位の、異なる生命体の細胞と同じ音としか思えない異音が混じり合っていた。まるで『アバドンと言うその個体』に一度咀嚼され、その体内に養分として取り込まれ、形をも記憶し改めてアバドンがその形に己の頭部を造り出した――かのように。
 そして同時に、単純に質量として、恭子の同一組織体がアバドンの中に成人女性一人分あるとは思えない。どう見積もっても、見えているその場所――頭部、くらいの量としか思えない。
 息を呑んだまま絶句しているシュラインの様子に、ベルゼブブの笑みが、深まる。まだ検索結果を他に伝達できない――口に出せないシュラインに向け、どうしたね? と白々しく告げる。けれどその視線だけは、意味ありげに晃に向いていて。
 まるで、晃なら何故そうなのか――何故そこに恭子の頭部だけしかないのか、その答えを知っている、とでも言うように。
 晃はベルゼブブの視線に――その意味に気付くと、また目を見開き、止まる。汐耶も隼人も問うように晃からシュラインへと目を向ける。
 それを認めつつ――辛そうにシュラインの頭が振られた。
「駄目。他の組織体と完全に混じり合ってる、みたい」
 分離させ易いような、別の個体が接着されたような境目は、無い。細胞レベルなら区別は付くが、その区別通りに分離させたなら――それはただアバドンの肉体をバラバラにするだけになってしまう。
 もう一つ気付いた事。
 アバドン内にある佐々木恭子の物と思われる同一組織体の絶対量が…成人女性一人分としては、少な過ぎる。
 …人間が使われているのなら、五体全てが使われているとは到底思えない、量。
 そして目の前にアバドンの頭として表れている、恭子の顔。その形。
 ならば彼女のその部分だけが――アバドンに使われていると言う事なのかもしれない。
「…そう来ましたか」
「なら」
 今度は私がやってみるわ、と汐耶。晃を支える手を離し、先程隼人から借り受けたナイフで自分の掌を躊躇いなくさっくりと切り付けた。いきなりの行動に隼人は軽く驚く。シュラインも汐耶の掌にじわりと滲む鮮血に軽く目を見開いた。
「汐耶さん!?」
「あのアバドンの核が佐々木恭子だと言うのなら、『本来の姿を封印されてる』――と解釈すれば」
 物理的な意味では無理でも、私の能力で封印解除を行えば――あわよくば分離も出来るかもしれない、と。
 汐耶は自分の掌を傷付けるなり、援護お願いしますと言い捨てアバドンに向かう――己の血をアバドンに付けようと試みる。…ただでさえ普段の眼鏡が無いところ。媒体もなく、直接触れない限り己の封印能力を上手くコントロールして使うのは難しい。が、己の血を使うなら、多少強引だが直接触れているのと同様の意味合いにまでは持ってくる事が出来る。…ただ付けるより直接飲ませた方が効果は与え易いかもしれないが、それはこの状況では少し難しいかと思う。
 床を蹴り前に出た汐耶が、己の掌を切り付け血の付いた当のナイフをアバドンに投擲する――目標は確かだったがあっさりと剛腕に弾かれる。肝心のナイフに付着していた血の方はどうか。その血がアバドンの身に――振り払ったその剛腕にでも僅かなりと付いてさえいればそれでナイフを投擲した一番の目的は果たせた事になるが――どうやら付いていない。ナイフがからんと床に落ちている。撫子が新たに妖斬鋼糸を多数繰り出しアバドンの拘束をより強めようとする――同刻、汐耶がアバドンのすぐ側まで駆け込み、傷付けた掌をアバドンに向け思い切り振るった――そこから滲み溢れる血を振り掛けた。初めのナイフ投擲の二番目の目的はここにもある――次の一手として自ら懐に飛び込む為のフェイントに利用する、とも考えてはいた。この距離と角度にまで近付ければ、まず目的は果たせる。掛けられる血を振り払ったとしても払ったその腕に今度こそ血は付く。この巨体では避けられる位置関係ではない。
 直接アバドンの巨体に触れては攻撃と見なされるのは想像が付く。そうなってしまえばまず自分は太刀打ちできない――けれど危険を承知で側に行く程度なら、まだ可能。
 今度こそ――血は付いた。が、予想通りと言うか何と言うか――そこに複数の異形の剛腕が連続して矢のように汐耶を襲い来る。その重く素早い攻撃と汐耶の間に、ざ、と流れ込む大量の水。それがそのまま壁となり、複数の剛腕を押し留めた。汐耶は水の壁が間に合わぬまでも攻撃を避けようとしており、自ら床に転がって少し移動している。水の壁で遮られた剛腕に、隼人の使い魔が飛び付いた。牙と爪でざっくりと裂かれ、剛腕が退く。
 手応えを感じた――自分の血をアバドンに付けられたと思ったそこで起き上がり、汐耶はアバドンへの『封印解除』を施行――しようとした。…したが何故かその時奇妙な躊躇いを覚えた。視界の隅にベルゼブブの貌が見え、その表情がやけに気になった――のかもしれない。…薄らと笑っている。それは先程から事ある毎に嘲笑はしている。嗤ってはいる。が、今見えた薄ら笑いは――先程までの、人間が足掻く姿を面白がっているような笑いとは何か、決定的に違う意味を含めているように、感じた。この場所に於いては――それは汐耶の知る限りはだが――今までこんな種類の笑みは見せていない――と思う。
 ――…まるで何か、都合の良い事が起きているような。思惑以上に、事が上手く運んででもいるような。そんな、つい浮かべてしまったような、何処か昂揚した笑み。
 思わず能力の行使を止め、汐耶は訝しげにベルゼブブを見遣る。
 おや、とベルゼブブは意外そうな貌をした。
「…続けないのかね?」
「…何を考えてるの」
「いや、そのまま続けて欲しいと思っているだけだが」
 君に出来ると言うのならば、是非、『ソイツを本来の姿に戻して欲しい』。
「…!?」
「封印の解除、との解釈でもしそれが叶うなら――君に礼を言わなくてはならなくなるかもしれない」
 手間が各段に減る事になる。
「どういう…」
「それは――この『アバドン』、単に生体兵器の名前…と言うだけではない、と言う事になりますか?」
 隼人。
 考えるよう目を細め、アバドンの魔力を窺いつつ、ぽつり。
 その科白に、弾かれたように汐耶が隼人を見た。
「って――」
 まさか。
 …生体兵器の名称としてアバドンと付けた。それだけの意味では無いとなれば――それはそこに居るベルゼブブやアスタロトと同様の意味で――『これは、アバドンそのもの』だ――とでも?
 思ってもそこまで言葉を紡げない汐耶の様子を見、ベルゼブブはあっさりと頷いた。
「その通り。こいつの『本来の姿』は…最早、佐々木恭子にはならないだろうね」
 ――きっとその名の通り、アバドンになるだろう。
 遺伝子工学で造り上げた魔物――凶暴な合成生物、生体兵器を魔術的手段も使い成長させた結果がこれ。強い霊能力を持つ特異体質――霊体素子が多く含まれていた佐々木恭子の肉体を核にしたと言うのは――遺伝子工学的な意味でその肉体を基に他の能力者の肉体を繋げて合成生物を造り上げた、と言うより、魔術的な意味合いで『器』の核とする為、仕上げに生贄のような意味で――いやまさに生贄そのものとして儀礼的な残虐な方法で殺害し――肉体の一部を使用したと言う方が正しい。そうして造った『器』に、奈落の王の魂を受胎させた。…結果が、今目の前にある。
「…もし、君の能力を以っての解釈でコイツを本来の姿に戻してもらえるのなら、能力者のゲノムを少しずつ摂取しての成長を待つよりも…一気に成長してくれる事になりそうな気がするからね」
 私が手を下すまでもなく人間自らの手で地獄の蓋を開ける事になるなんて、痛快じゃないか?
 薄笑いの理由が明らかになる。
 目を見開く汐耶。
 ならばそんな事出来る訳が無い。汐耶は慌てて今やろうとしていたアバドンへの『封印解除』を取り止め、逆に本体まるごとアバドンを封印しようと試みる。既にその巨体に己の血を付けてある以上、封印解除か施行かの切り換え自体はすぐにも可能。が、このアバドンは――これまで遭遇した事が無いくらい封印への抵抗が強い。その強力な抵抗力に、奈落の王の――魔王の魂こそが主体であると言う事の信憑性が、増す。ベルゼブブ自ら手掛けたとは言え、虚無の境界の息が掛かっているとは言え――ただの『兵器』でこれは、強過ぎる。
 封印出来ない。…少なくとも完全に安全なレベルで能力のコントロールが出来ている――即ち無意識下で能力的制限を付けてしまっている『今の汐耶』では――。
 と。
 だったら! とみなもの強い声が響いた。
 魂の方はアバドンが主導権を持ってても、器の方の核がお姉さんであるのなら! …そう続け、みなもは呼吸を整え集中し始めた。同時に、みなもが集中出来るように別の意志――セレスティの操る水が彼女を取り巻き守る壁を作っている。
 その場に在る大量の水の中から、見えないくらい極微量の水だけが新たに別の形に動いている。みなもはナノサイズの『ライン』を構成、シュラインが実行した音での同一組織体検索結果も加味し、アバドンの――その内の佐々木恭子の組織体が多いと思われる頭部に、構成した『ライン』を突き刺した。その中枢神経を探り当て、何とか意識を覚醒させようと刺激を与えてみる。…器の核と言うのなら、アバドンの魂を受胎し生体兵器とするのに器をわざわざ造る必要があるのなら――その器が無ければアバドンは活動出来ないのかもしれない。分離は出来ないし、しない。アバドンがお姉さんを生かしているのは事実だから。今は共生関係にあるとも言えるのかも。なら、器の核になるお姉さんが覚醒すれば――アバドンを抑える事が出来ないだろうか。そう思う。
 …実験みたいで酷い事をしているとは自覚している。それにこれで上手く行ったとしてもお姉さんにこの酷い状況を認識させる事にもなってしまう――そうは思っても最良の結末を望みたいから、心を鬼にする。
 みなもが具体的に何をしているのかは、ナノレベルでの行動故に誰の目にも見えない。けれどそれで――確かにアバドンに反応はあった。そちらは誰の目にも見えた。びくりびくりと電気刺激でも受けたように時折痙攣している。今、己がどんな状況に置かれているのかわからず、混乱したような奇妙な苦鳴が発される。
 けれどそれでも、ベルゼブブはただ眺めているだけ。
 …それもまた無駄だとでも、言う気なのか。

 びくりびくりと震えるアバドンに――苦鳴を上げる佐々木恭子の表情に、葉月政人も思わず反応していた。視界の隅に入った時点で思わず顔を背けてしまう。…当然、隙になる。その間に対峙しているアスタロトの爪での斬撃が入った。直撃し、政人は数歩よろけて後退する。「FZ−00」の装甲と出力しっぱなしな光電磁フィールドの防御で保ちはした。…目を背けている場合ですか葉月様! と叱咤の声が届く。ぎりと妖斬鋼糸を引き絞っている天薙撫子。アバドンを拘束する力は緩めない――が、みなもの試みているだろう方法では――みなもは何らかの方法で、恐らくは水を操る力を使用して佐々木恭子の肉体の中枢神経を刺激しているのだろうとは察しが付く――けれどそれでも、恐らくは如何ともならないと撫子にはわかってしまっていた。いやむしろ反動で――アバドンの力が暴走してしまう可能性すら危惧された。
 ――何故なら佐々木恭子の魂が、アバドンの中には感じられない。魂が無ければ本来の意識は目覚めない。覚醒は不可能。ならばこれは――ただ苦痛を与えているだけになってしまう。そうなれば――曲りなりとも生体兵器――悪しき力に造られたものであっても『いきもの』であるのなら、何もかも振り捨ててその痛みだけを何とかしようとしそうなものではないだろうか? そうなればベルゼブブの制御すら離れて――それ自体は良い事だとは思うが、それどころでなく――ただ荒れ狂う可能性すらある。だから撫子はみなもを制止する為慌てて声を上げた。アバドンの中に恭子様の魂がありません、そのまま続けても恭子様の意識が目醒める事はありません! と。
 上げた声と、殆ど同時に。
 撫子の視界の中に、神山隼人に身体を支えられた状態の佐々木晃が――前後の脈絡なく唐突にごほりと咳込んでいる姿が入っていた。
 残った手で反射的に押さえる事すら間に合わないまま、やけに黒ずんだ血を吐いていた。

 ――…このままでは、一刻の猶予も無いと思った。



 …少し時間を遡る。
 天薙撫子が妖斬鋼糸でアバドンを押さえ何とか施行した浄化の術が一応の効果を齎した時点。葉月政人がこちらを向くなと苦しげに――悲痛げに佐々木さんと呼ばわった時点。…そのこちら側。【キーマテリアル】構成及びそれを使用しての戦闘行為により疲労が激しい坂原和真と入れ替わり、特殊強化服「FZ−00」を纏う葉月政人がアスタロトの相手をし始め、少し経った時点。
 戦闘に特化した能力を持たない生身でしかない和真よりはましとは言え、政人一人では結局ぎりぎりの対峙しかできない。今の武装は「FZ−00」本体のみ。何か他の武装が使えれば――とは頭に過ぎるが、アスタロトの魔術的手段を封じておく為には、政人側にも改めて武装を取り出す余裕など持てない。ただ直接体術で打ち合っているのみで時が経つ。
 思うように出来ないアスタロトが苛立っている様子が窺える。その苛立ちは隙になるか――そう見たのか、セレスティの水の刃がアスタロトを襲っていた。…入った。そう手応えを感じたところでここぞとばかりに同じ水の刃を連続して畳み込む。僅かながら政人に余裕が出来る。そこですかさず――政人は遠隔操作で「トップストライダー」を呼んでいた。この生体学研究所敷地内まで乗り込んだトレーラーに積載してある「FZ−00」専用バイク。そのトランクの中に、頼れる強力な武器がある。
 政人のその行動と前後して、シュライン・エマが佐々木晃の方に移動している。坂原和真がその助力に飛び出している。が、アバドンの剛腕に吹っ飛ばされまた背中を強か打ち付けていた。けれど見た目で想像されるよりダメージ量は少なかったようで、和真は剛腕が退くなりすぐに立ち上がる。…実はそれらは神山隼人が念動の力でアバドンの攻撃の勢いを削いだり、それで齎される和真への衝撃を和らげたり、同時に不自然に見えないようリアクターの方に直接、和真の身体が勢いよくぶつかったのと同等の衝撃を与え罅を入れたり――と目立たないようさりげなく助力に入っていた為になるのだが。
 隼人は皆のように表立って能動的に動く気は無い。…確かに晃のような性質の人間が絶望に打ちひしがれる様を見るのが楽しいのは――隼人にも経験上わからないでもない。が、今のこの場合ベルゼブブ――御大ばかりが良い思いをするのが面白くはない。…そんな気持ちの方が余程大きいのも確か。だから、今のような場合ならさりげなく、目立つような状況の場合は使い魔の行動や黒魔術の効果と偽装して――ここ生体学研究所に突入している皆のフォローをしようとは思っている。…一番初めに草間興信所経由で受けた依頼に、晃から受けた依頼の件もあるのだし。便利屋稼業、信用は守って損はない。
 撫子が妖斬鋼糸を引き絞る。シュラインがアバドン内部から佐々木恭子と同一組織体の音の分布を検索している――と言うのなら余計な音はしない方が良い、そう思い、せめてもの助力にとアバドンの拘束を強め出来る限り動きを止める。が、少しして――恭子とアバドンの体組織は殆ど混じり合ってしまっていて区別が無い。そして同時に――恐らくは頭部のみしかそこに無いと絶望的な答えが出、なら、と次に綾和泉汐耶が掌をナイフで切り付けながら前に出ていた。本来の姿を封印されてると解釈して封印解除をすればと言い、その通りに実行しようと試みる。
 本来の姿。その科白で気付き、撫子も拘束を緩めないままアバドンを霊視した。本来の姿――本来の恭子様が核としてそこに居るのなら汐耶様の能力で何とかなるかもしれない。再び拘束を維持する。妖斬鋼糸の一本一本にまで神力をこめているのにアバドンはまだそれ程弱った様子が無い。ふ、と撫子の三対の羽の影が更に薄まり消えかかっている――本来ならそろそろ集中が途切れ力が抜けているところなのだろう。けれどそのまま撫子は留まっている。
 撫子が霊視した結果、アバドンの中でその身を構成する部品として数多の魂が虐げられている中、一つだけ大きな、そこに座している主体となるべき魂が存在した。したが――その主体となる魂は、例え歪められていたのだとしても、元が人間だとは到底思えない魂で。何処にも人間らしい意志が――光が見出せない真っ黒な。そして何より、その魂には佐々木晃との姉弟としての縁など欠片も見出せなかった。…数多使われている魂の中にも、そんな魂は、見付からない。
 …恭子様の魂は、そこには居ない。
 ベルゼブブの声がする。…そのまま続けて欲しいと思うからね。…本来の姿は、佐々木恭子にはならない。疑問の形の隼人の指摘。単に生体兵器の名前ではないと言う事になりますか――悪魔アバドンそのものではとの懸念。汐耶が慌てて『封印解除』を取り止める。だったらとみなもの強い声が続く。魂の主導権はアバドンでも器の方の核がお姉さんだと言うのなら。覚醒してくれれば、抑えられるかも。
 …それは、駄目です。そこに恭子様の魂がいらっしゃらない以上、逆効果になる可能性がある――思うが撫子には咄嗟に制止できない。声が出ない。…思っていたより消耗している自分に撫子は初めて気付く。今の戦力状態ではアバドンは自分こそが抑えていなければならない。そんな使命感に駆られアバドンを捕らえているのだが――今の自分ではこれが精一杯なのだろうと漸く自覚した。
 そこまで自覚して、深く息を吸うと今度こそ声が出せた。アバドンには佐々木恭子の魂が感じられない事をみなもに伝える。みなもは辛そうに顔を顰めている。今試みていた事を止めたようだった。少しだけほっとする――が。
 視界の隅に佐々木晃の姿を見、声にならない悲鳴が出た。
 急激に咳込み黒ずんだ血を吐いている。晃はシュラインの声と汐耶の言葉で幾らか正気に戻り掛けたが恭子の体組織が頭部しかそこに無いだろう事を知り、再び思考が止まってしまっているようだった。
 そんな中での、唐突過ぎる喀血。
 ――もう、一刻の猶予も無い。
 思った時には撫子はその場を離れていた。瞬時にその場から離脱――何処に行ったかと思ったら、唐突に晃の前に居た。直後、パン、と小気味良い音が響く。
 その場に居る者はその音で初めて、撫子がそこに移動している事に気が付いた。



 生体学研究所内、皆の居る部屋からは幾つかの壁を隔てた少し離れた位置関係にあるその場所。そこにはセレスティ・カーニンガム一人だけが居た。通路の無機質な壁に背を預け、目を閉じて集中したままただ静かに佇んでいる。その周囲は何故か水浸しになっていた。
 共に連れ立って突入していた二人とは、今は取り敢えず別れている――さすがに事ここまで至ってしまえば、依頼を受けた当人である興信所の所長ならまだともかく、何の異能も持たない、巻き込まれたに等しい少女まで連れて行く訳にもいくまい――連れて行かない方がいい。戦闘特化した能力を持たないまま向こう側――アバドンらとの戦闘――に合流してしまっている仲間も居る。向こう側の事態を確認する限り、合流したら最後、離脱は難しい。向こう側からは事が終わるまでは離脱出来そうに無い。だが今居るこの位置からなら、まだ引き返せる余地がある――そう思い、セレスティはやはり少女を送り返す事にした。
 …そして、少女をこんな場所から一人で送り返す訳にはいかない、付き添いに、と言う名目で興信所所長も一緒に送り返した。…二人とも送り返すつもりだったと言えばそうなのだが、この場でただそう言い含めてもそれだけでは興信所所長は納得しなかったろう。少女が同行していた事が好都合だった――と言ってしまっては言い過ぎの気もするが、良い口実になった、とは思う。
 初めはセレスティも決着が付くまで二人と同行するつもりだった――今更返した方が、とまでは思っていなかった。彼ら二人を自分の力で守る余裕くらいは持てると思っていた。けれどある瞬間から劇的に周辺にあるものの気配が辿り易くなっており、それは恐らく敵側からも同じ事が言えるのだろうとすぐに察しが付いた。そうなれば幾ら広範囲の水を操っているが故の攪乱もあるとは言え――ホームグラウンドは向こう、少し離れた場所にいる、見え難い場所にいると言うアドバンテージは最早無いものと考えた方が良いと思う。
 いつ危険になるか知れない。言ってしまえば――セレスティはベルゼブブら――アバドンらと直接対峙している皆への支援に専念したい。自分の側、こちら側を、自分以外に二人も庇う精神的余力が惜しい。今は同行して直接守るより、この建物の外に居た方がまだ安全だと思うから――そうする事が可能な状態である以上出来ればそうしていて欲しい。…身体的にはそれは自分が一番頼りない。けれど異能の手段が絡むなら全く逆になる。同行していた所長も少女も異能の力は全く持たない。ならば――すぐ側、もしもの時に咄嗟に守る対象は自分だけの方が能力的にも精神的にも幾らか身軽に済む。集中出来る。名のある悪魔――魔王を直接敵に回すとなれば余計にそう思う。
 ぱたぱたと皮膜が扇がれる音がする。小型の下級悪魔――神山隼人の使い魔が戻ってくる。先程少女の肩に止まっていた個体。その使い魔も、もしもの時の助力にと二人を送り返す時に二人に一緒に付けた――と言うか使い魔の方で自らその役を買って出た。その使い魔がこの場に帰って来たとなれば、二人を無事外まで送り届けられはしたのだろう。その使い魔は今度はひらりとセレスティの肩に止まる。
『葉月さんのトレーラーのところまでお送りして来ました』
 ひとまず、生体学研究所内部から一番近い位置にある味方のベースキャンプ、と言える場所の名を隼人の使い魔は――使い魔の口を借りて隼人は言う。そのトレーラーとリンスターの黒服が合流していた事も続けた。生体学研究所内に来ている皆を脱出させる為の突入準備に入っているとも。…それはセレスティも部下の黒服たちの様子から察している。外の包囲は上手く行っているらしい、と自分以外の存在からも伝えられた事でより安心感が増す。隼人の使い魔も戻って来たところで、少し心強くもなった。勿論自分も油断をするつもりは無いが、自分の居る側に自分以外の異能を持つ手もあった方が頼りになる事も当然で。
 心強くなったところで、幾つもの壁を隔てた向こう側の方に改めて意識を向ける。皆の状態、魔王たちの状態、佐々木晃の状態。戦況。…個々人の気配が辿り易くなったのは綾和泉汐耶が施設全体に流していた自分の能力を解除したから、らしい。もう奇襲の用は果たしたから――と言うか事ここに至ればもう今更奇襲にはならないから必要無くなった、と言う事なのだろう。…それだけの事が可能だったのなら。拉致され囚われていた汐耶の無事を伝聞だけではなく自分自身の感覚でも確認し少し安堵する。同行している晃の様子も、伝えられていた通り少なくとも今は敵ではないのだろうと思う。彼の敵意は明確にベルゼブブに向いていた。
 が、アバドンの正体を知るなり、それまでの激情など見る影も無く放心している。
 ――…『奴は、知らない』。
 興信所所長の――草間武彦の懸念が当たったか。
 セレスティは辛そうに目を伏せる。
 ぽつりと隼人の声が響いた。
『…能力者は余すところ無く有効活用…さすが地獄の住人と言いますか』
 お姉さんがこうなっているのを知り佐々木さんが呆けるのも無理ありませんか。
「ええ。…辛いでしょうね」
 望まぬ姿にされて死後もなお利用されているのは恭子嬢の思うところではないでしょうし。
 佐々木氏――晃君にとっても、大切なひとをこれ以上この現世に留めておくのは…苦しいでしょう。
 晃君がベルゼブブを倒す前に――出来れば先に解放して差し上げて、安心させてあげたいところです。
 そこまでセレスティが告げたところで、水を介して海原みなもから恐る恐る意志が届く。
 あたしも――刑事さんのお姉さんの事を助けてあげたいのは同じです。恐らく、刑事さんはこのお姉さんを人質にされ、ベルさんに従ったのでしょうから。
 でも、今のこの姿――このアバドンである限りは、お姉さんはまだ生きている、とも言えませんか。
 ベルさんとアスさんたちは、言動からして何かしらの結果を求めているのではなくて、手段を目的としているようだし。なら、そのアバドンこそをベルさんやアスさんから解放出来たなら――生きたまま、『彼女』を助けられる事にはならないか、と。
 ベルさんがお姉さんを核として作った――らしい――アバドンが能力者の魂で成長している。逆に言えば、それらがなければ弱小化する。で、アバドンとして弱小化すれば、お姉さんの力でアバドンの力を抑える事は出来ないかって…元に戻れはしないか、って。…アバドンの力とベルさんの魔力って近似だと思うから…刑事さんもお姉さんも助けられないかなぁって…そう思うんですが――。
 みなものその意見に、セレスティは黙考する。可能であるならそれが一番救われる方法――になるのかもしれない。死を覆す事が出来、元に戻る――とまでは行かなくとも、元に戻ったのと近い状態にまで持ち込む事が叶うなら。曰く、アバドンの脇を抜け晃の元に駆け込んで来たシュライン・エマも殆どみなもと同じ事を考えているとの事。幾らかでも付いた部分を削ぎ落とす事が出来るなら。彼女の能力を佐々木晃に使う事が出来るなら――肉体維持の為の魔力の供給が必要なくなるかも、と。そこまで提案し、シュラインはまず自分が音でアバドン内に存在する佐々木恭子の同一組織体を検索している――らしい。…そう隼人が伝えて来た。殆ど同時にみなもにも伝わる。既に動いている事態に、セレスティもそちらを見守りフォローする方向に意識を切り換える。
 が。
 蝿の王がそれをさせてくれる程甘いだろうか、とも思う。…何か罠が無いだろうか。一度歪んだ生命となってしまった今、そのまま――生かしたまま救える余地など本当に考えてしまって、いいのだろうか。それは邪悪から来た魔の者であろうと、自分の周囲に――仲間へと無闇に迷惑をかけない存在であるなら殊更否定する気はセレスティには無い。そもそも己が本性――人魚とて、悪魔とまでは行かないにしろ充分魔の者には分類される。もしこのアバドンをベルゼブブの呪縛から解放し、何らかの方法で無害化させて佐々木恭子の心を備えたまま存在させる事が出来るなら――それで救う事が出来るのならば何よりだと思う。だがこの場合は――既に物理的現実的な意味合いで、不可能なのではと懸念する。
 思っているとその通りに、みなもの心が受けた衝撃が直接水を介して伝わって来る。シュラインが検索した結果、佐々木恭子の体組織は他の能力者の血肉と完全に混じり合っている事実。そしてそこに使用されている佐々木恭子の体組織は――あろう事か頭部のみと思われる事。…付いた部分を削ぎ落とせば。そうは言っても佐々木恭子以外の体組織だけを物理的に削ぎ落とす事すら難しい。それを受け、綾和泉汐耶が『本来の姿を封印されてる』、と解釈してのアバドンへの『封印解除』をすぐさま試みている――それなら物理的に削ぎ落とすのとも少し意味が違うから試す価値があるかと考えたのかもしれない。汐耶は媒体にと流した己が血をアバドンに付け、そのまま封印解除を実行しようとし――けれどその過程で何かに気付いたのか躊躇っているようだった。
 と。
 その躊躇いを受けるようにして、ベルゼブブがまた新たな事実を告げる。
 このアバドンの本来の姿は――今は最早佐々木恭子では無くアバドンそのものになるだろうと。…アバドンの魂を受胎させる『器』にする為の魔術的な生贄。佐々木恭子が核である、とはそんな意味。話を聞くなり、汐耶は封印解除では無く逆に封印施行を試みる――が、どうやら難しいらしい。アバドンの体表面が何か不自然に歪み軋んではいるが、動きそのものは止まる事なく存在が圧縮されも消えもしない。…汐耶嬢の封印能力を以ってしても難しいとなると。このアバドン、相当に強力な存在なのだと改めて思い知らされる。
 次。汐耶の能力が効かないと思ったところでみなもが動いた。なら、と強く叫んでの――『器』の方の佐々木恭子を、その中枢神経を刺激して覚醒させる事は出来ないかと――それで『アバドン』を抑えられないだろうかとナノサイズの『ライン』を展開している。…気持ちはわかる。どれ程僅かな可能性でもと手を尽くしたい気持ちは自分にもある。けれどそれでも、やはり…。思っても、セレスティにはみなもの行動を止められなかった。せめてもの助力にと彼女自身を守る形に水の壁を張る。
 佐々木恭子の魂はそこには無い、と天薙撫子の叫びがこちらの感覚にまで直接届く。…ならば、何をしても彼女の意志を起こす事は出来まい。少なくともアバドンの中に『彼女』は居ない――みなもはナノサイズの『ライン』の展開を止めていた。酷く悲痛げな感覚が水を介して伝わって来る。まだ年端も行かぬ少女が目の当たりにしたその現実。痛々しくさえ、思う。
 …どうしたらいい。幾つもの壁を隔てた位置に居ながらセレスティは考える。生きたまま救えるか――その希望を以って起こせる行動はここまでか。…そもそも恭子嬢本来の魂は何処にある? アバドンの身に彼女の魂は無いと断言した撫子嬢。彼女の霊視能力なら恭子嬢の魂を探す事は難しくないだろうが――アバドンの中に無いとは言っても他の何処にあるとも彼女は言わない。そして肉体がこの状況――魂の方とて安らかに眠っているとも思えない。可能性としてまず思いつくのは晃君の傍――但し、魂をも利用されていなければと注釈は付くが。撫子嬢が何も言わない以上、恐らくはそこにも居ないのだろう。
 ともあれ、こうなればやはり生体兵器と造り替えられてしまったその身を倒し――殺し、肉体を解放する、しかないのだろう――と思う。辛くても他の方法は、ありそうにない。そして覚悟を決めさえすれば、倒す事なら――現実的に考えられる。…実際に撫子嬢の施した浄化の術でそれなりのダメージを受けている事実がある。私の水の刃で――神山君の使い魔の爪と牙で、傷付けられもする。
 ベルゼブブはどうか。…殆ど無傷。眷族の下級悪魔を盾とし侍らせ、火の粉の掛からぬ位置で滞空し佐々木晃を――そしてアバドンを、皆が色々試みている様子を興味深そうに眺めている。隙が出来ればいつでも即座に衝けるよう水を滞空させ攻撃の用意はしてあるが――悠然としているようでありながらその実、隙がない。ベルゼブブの身の内にある血――体液を直接操ろうと考えてもみるが、今の各所の戦況を見るにその事だけに集中できそうにない。そしてもし集中して実行したとしても――どれだけ効力があるかはわからない。汐耶嬢がアバドンに試した封印と同じで、殆ど効果が無い可能性もある。他への助力を放り出してそんな賭けに出る事は、まだ出来ない。
 葉月政人と対峙しているアスタロトの様子も考えてみる。苛立っているように感じられる。…肉弾戦は苦手なのだろう。名前からして、魔術に――恐らく本来は中長距離戦にこそ長けているのだろうと想像は付く。
 …アスタロト。その名から伝えられる意味合いを考える。蝿の王の側近であり――実妹であり妻である、と言う立場の悪魔。今みなもたちの前に現れてからの動き方。曰く、何処かで見たようなごく普通の青年――その青年が住田と言う名を持つ佐々木晃の部下であった刑事である事にセレスティはすぐ気が付いた――が、山羊の如き角に一対の翼を持つ異形の女性の姿――アスタロトに変身し襲い掛かってきた――のだと言う。どうも住田氏の身体を操っている――と言う訳では無さそうだが、少し気になる。
 ひとまずそこについては後回しにしても良い。ただ、それより先に、一つだけ。このアスタロト――先程からの動きを見ているに、アバドンやベルゼブブの事は視界に入れている――気にしているにしろ、佐々木晃の事に限っては――無視に近くはないだろうか。
 と、なると。
 …アバドンが、ベルゼブブが消えさえすれば――直接何もしなくともアスタロトに限っては手を引くのではないだろうか。どうやら、彼女(?)の方は佐々木晃に拘る必要を感じていないよう。向こう側の皆――僅かなりと自分を傷付けた相手に対しては感情的に思うところが出来たようだが、それ以上は――ただ義務的に動いているような。
 そんな気がした。
 なら、そちらに限っては時間稼ぎで良いのではないでしょうか。セレスティは隼人とみなもにそう伝えた。今は対アスタロトには葉月政人が出ている――そのまま長くは続けているのはきついでしょうが、今は実際に葉月君の方のペースに持ち込めている様子。それで何とか動きを押さえられている事実がある。自分とみなも、そして隼人の使い魔も助力にと動いてはいるが――こちらで脇から手を出す隙すらも見出せない状態で彼らは打ち合っている。…先程ほんの僅かな間に水の刃を連続して叩き込んだ時しか、まともな助力になってはいない。その時政人も何らかの別の動きを見せていたようだが、何をしていたのか詳しくはセレスティにもわからない。
 と。
 唐突に、状況が動いていた。
 …どんな方法でか天薙撫子が瞬時にして佐々木晃の前に移動し、その頬を打っていた。
 それと前後して――坂原和真だけが、唯一躊躇いなくアバドンへと攻撃を仕掛けていた。



 …佐々木恭子の意識はアバドンの中に存在しない。
 シュラインの言動。汐耶の言動。隼人の指摘。ベルゼブブの言葉。みなもの言動。撫子の発言――それら総合し結論付け、坂原和真は逸早く覚悟を決めていた。立ち上がって後、改めて構築した【キーマテリアル】をアバドンへと容赦無く打ち込んでいる。…アバドンにしてみればたった今、和真を行動不能にしたところ。まさかリアクターの壁面に罅が入る程強か打ち付けられた相手がすぐに立ち上がって向かってくるとは思わない――即ち和真が躍り掛かって来た今の時点でアバドンはすぐに彼に攻撃を仕掛ける用意は無い。反応が遅れる。…今なら俺でも目的は達成出来る。和真はそう判断していた。巨体である以上まずは足許、身体を支えている部位を狙うのが定石か――和真は思う通りにまずそう動く。
 今度ばかりははっきりとした攻撃。…実はこの時になるまで和真は自分から本気で攻撃を仕掛けていない。例外は他者を庇って防戦に出た時だけ――それが目的で、誰かを守る為にこそ――攻撃の効果としては殆ど駄目元なつもりで無謀な先制攻撃を仕掛けた時だけになる。この目の前の状況、ちょっと喧嘩に自信がある程度の自分では頑張って何とかなるような事態では無いのは疾うに承知、けれど当然黙ってやられるつもりもなく、自分で出来る範囲で何か有効な手段はないかと考えた結果が――これになる。
 やってる事自体は結局喧嘩の延長で【キーマテリアル】を使うにしろ自分の手に打撃武器があると言う程度の違いにしかならない。…ともあれ、これでは特に考えた結果には見えないかもしれない。が、自分の封印能力をと考えてもこの相手では歯牙にもかけられまいと思うから結局はこうするより仕方無い。自分の封印能力、魔王と呼ばれるような悪魔を相手にどうこう出来る程の能力とまではさすがに思えない。…効果が期待出来ない危ない橋は渡らない。
 実際、既にして自分より強力な同系統の能力者と言えそうな綾和泉汐耶の封印能力を受けていながら、このアバドンの場合は殆ど効いていないようだと言う事実がある――ならば自分は【キーマテリアル】でも使って皆の支援に動くくらいしか思い付かない。喧嘩で鍛えられてそれなりに反射神経や動体視力は持っている。…捨て身で当たれば、まぁ、ある程度仲間を守れるだろうとは思う。こうなるとデカい鍵の代わりに何か刃物のような致死性の武器を構築出来るように鍛えておいた方がまだ良かったか――と思ったりもするが、この期に及んで高望みしても仕方が無い。
 考えたと言ってもその程度の事。
 …そう、和真はアバドンに対してどうしたら良いか、そこについては特に何も思い付きはしなかった――だが、皆が試みた行動で本当に何とかなるなら――佐々木恭子を救えるならばその方がずっと良いだろうとも思っていた。…佐々木恭子の意識が何処かにでもあるならそれを呼び起こせるなら。殺して終いは後味が悪い。何か方法があるならそれを優先するべき。出来る余地があるなら足掻くべき。だから、余計な手は出そうと思わなかった。
 せめて、佐々木恭子の意識の有無が判明するまでは。
 が、こうなれば話は変わる。
 そこに彼女の意識が魂が無いのなら。このまま漫然と様子を見守っている訳には行かない。情に溺れれば共倒れ。倒すしかないのなら――敵わぬまでもそう動く。和真は他の皆より先にそう心に決め、決めた通りに率先して【キーマテリアル】を手に飛び出していた。…それでもやっぱり自分の力では無謀と承知。ただ、自分は嚆矢になれれば良い。こうするしかないと他の皆が動く切っ掛けになればそれでいい。俺よりアバドンに有効な能力を持つ奴は仲間内に居る。俺で敵わずともそいつが動けばいずれアバドンは倒せる。

 和真がアバドンに打ち込んだのと撫子が晃の前へ瞬時に移動していた――妖斬鋼糸でアバドンを拘束している状態から離れたのは、偶然ながら殆ど時差が無かった。計ったようなタイミングで、対峙している相手が切り換わる。床を蹴り走り込む和真の姿、その過程を見、はっとするみなも。同刻、水の刃が中空を踊っている――みなもが和真の行動を認識すると同時にセレスティの方の意志でその場の水が動いていた。和真を一人でアバドンに向かわせる訳には行かない、と水を操りその動きを支援する。
【キーマテリアル】が巨体を支える異形の足に打ち込まれる。避けられなければ当たる位置。払える位置。動きが止められる位置。けれどアバドンの持つ巨体に見合わぬ敏捷性を考えると、和真の速さで狙い通りの効果を齎せるかは微妙な線か――思っていたがその攻撃を躱されはしなかった。殆ど同時、いや少し前か――に、ベルゼブブが何か鋭く呼ぶ声が…した気がした。間を置かず、アバドンの絶叫が轟く。
 攻撃は和真の狙い通りアバドンの足の一本に当たった。関節を砕く事が出来たのか、膝のような部分が派手に陥没しアバドン本体ごと身体が傾いだ。そして今砕かれた足を庇うような動き方をする――拘束が無くとも動きが鈍くなっていた。…思ったより良い手応えと良過ぎる効果に和真は俄かに訝しむ。が、まぁ好都合なのは変わらない――こんな場面で敵の悪魔がこちらを優遇する訳も無し、誰か仲間の攻撃と被ったのだろう――と思う事にする。
 思ったその通り、和真の攻撃と同時に別の攻撃も成されていた。…隼人の念動力。密かに和真の攻撃とタイミングを合わせ、和真の攻撃の威力にこそ見えるよう器用に重ねてアバドンの足にぶつけていた。
 アバドンの足の動きが事前に止まっていたのはベルゼブブがアバドンを呼ぶ声と汐耶の封印施行が重なった為。ベルゼブブの声――それは本当にベルゼブブがアバドンを呼んだのでは無く、シュラインがベルゼブブの声を使ってアバドンを呼んだ声だった。…僅かでもアバドンの気を逸らせればと考えて。汐耶の封印能力も、アバドン本体を全部まるごと封印するのは無理でも局所的な封印なら充分可能なだけの力はあった。先程付けた血を媒体に、和真が狙った足そのものの動きを止める事くらいは出来た。…その血の流れを神経の伝達を筋肉の脈動を、生命活動ごと封じる方向に考えて。
 それら、シュラインがベルゼブブの声でアバドンを呼んだのと同時。結果として皆が狙った事柄は皆上手く嵌っていた。和真と隼人が狙い汐耶が封じた足は、壊死に近くなり使い物にならなくなる。

 アバドンの絶叫に重なり、何か機械音が徐々に近付いて来るのにシュラインは気が付いた。何事かと源を探すが見付からない。そもそも同じ部屋内で立てられている音ではなく幾つも壁を隔てた向こう側から聞こえて来る音――その音が近付いて来る方向がはっきりとわかる頃には、他の面子の耳にもその機械音――排気量の多いバイクのエンジンが稼動するモーター音が聞こえていた。
 途端、また別の轟音。
 その轟音と共に弾丸の如く部屋の壁をぶち破り中に飛び込んできた白い機体がある――まず見えたフロント部にPOLICEとのペイント――アスタロトと対峙する中、葉月政人が先程僅かな隙を使い自動操縦で呼びつけた「FZ−00」専用白バイ、「トップストライダー」がそこに居た。飛び込んで来たそのままタイヤを軋ませアバドンへと突進、スピードを緩めるどころか轢く勢いでそのままぶち当たる。
 それと和真がアバドンから退くのとほぼ同時――それまでの反応よりは遅れてだがアバドンは自分に対して目に見える被害を与えて来た唯一の相手――和真の姿を次の標的と定め攻撃を仕掛けて来ていた。狙ってだか偶然だかは判別付け難いが結果としてこの「トップストライダー」に庇われたような形になる。
「トップストライダー」はアバドンに衝突した衝撃と勢いを巧みに殺しつつ、乗り手不在とは思えない安定した動きで鮮やかに急旋回。床にブレーキ痕を付けつつ今度は政人の側に走って来る――が、アスタロトと対峙していた政人の位置で止まる事はせず、そのまますぐ脇を走り過ぎた。ただ、「トップストライダー」が走り過ぎたその時には政人の姿も忽然と消えている。
 速度を落とさない状態で脇を走り抜けた「トップストライダー」。忽然と消えた政人はと言うと既にそのシートの上に居た。自分の脇を通り過ぎるその刹那、自ら「トップストライダー」のハンドルを掴みスタントめいた動きで軽々とシートに飛び乗っている。
 直後、隼人の使い魔数体がアスタロトへと躍り掛かっていた。政人の離脱を見切っての行動としか思えないタイミング。…それは先程アスタロトと対峙している時点、僅かな隙が出来た時に政人は何か手許で操作をしているようではあった。あったがそれで何をしていたかは他の誰も気付かない状況だった筈――実際今も何が飛び込んで来たのかわかっていたのはそれを呼んだ当人と、皆より速い段階で近付いて来るのが何の音かに気付いたシュラインくらいだった筈――なのに、事前にこうなることがわかっていたように隼人は動きを見せていた。まだほんの数秒しか経っていない、未だに何が飛び込んで来たのかはっきりわかっていない者も居る状態。アスタロトも何事かと政人を攻撃する手を止め辺りを窺う事を優先していたような状態だった。
 そこに、隼人の使い魔が一気に畳み込んで来る。政人を庇う為の行動と言うより、アスタロトの隙を衝く事こそが本題のような行動とさえ見えた。「トップストライダー」を得てから再びアスタロトに向かおうとした政人だったが、それより前に隼人が――隼人の使い魔が取った行動を見て停車する。
 隼人の使い魔の攻撃を慌てて防御しつつ、アスタロトは、きっ、と忌々しげな目で政人ではなく隼人を見た。そして――何事か、怒鳴り付けようとした。したが――それは叶わなかった。
 アスタロトが何事か口を開こうとしたその途端、顔面真正面に小型の下級悪魔――隼人の使い魔の深く裂けた三日月型の口――笑い顔が見えていた。視認出来たのはそれまで。次の瞬間にはいきなり後方に吹っ飛ばされている。アスタロトの身に襲い掛かっていたのは強烈な衝撃波。先程まで隼人の使い魔たちが行っていた攻撃よりずっと強力な攻撃――隙を衝いたとは言え高位体である悪魔のアスタロトをあっさり吹っ飛ばしている。どうやら使い魔単体の能力と言うより、その使い魔自体を媒体にその使い魔の主――隼人が何か黒魔術でも展開した、と言うところらしい。
「トップストライダー」の突入と自動走行――政人の行動に合わせ、計ったように自分を助けた相手へと礼を込めて政人は頷く。受けて隼人はさりげなく目配せ。…こちらはお任せ下さいと。そのバイクを呼んで何かするつもりだったのでしょうと。確かにその通りではある。政人は停めたバイクから降り、トランクへと手を掛けた。

 今、隼人が先回りしていたのは、次の一手の為の一時的な離脱とは言えそこで政人までが離れると単純に色々と戦況が厳しくなると見たからになる。アスタロトはベルゼブブと違ってただ様子を眺めているだけのつもりはなさそうで、実際に皆に手を出している――恐らくは僅かなりと自分を傷付けた――自分に屈辱を与えた相手に対しては報復せずにいられないと言うところもあるのだろう。…侵入してきた皆を誰一人帰さない為の足止めが元々の目的。そう大義名分があればこれからも嬉々として皆を襲って来そうだ。
 政人の代わりにアスタロトを止めておく為――初めはそれだけが理由で、隼人は取り敢えず使い魔を何体かそちらに投入した。が――それを慌てて捌こうとしたアスタロトが忌々しそうに隼人を見て怒鳴ろうとしたその科白――表情からして態度からしてその内容を察したらもう、行動妨害をする程度、などと甘ったるい事をやっている気は失せた。こちらから少々本気で攻撃を仕掛けた。結果が今至近から衝撃波を受けて転がっているアスタロトの姿になる。
 …『対等の相手を罵倒しようとした』――具体的にどう言う気だったかまでは知らないがアスタロトが隼人に怒鳴ろうとした内容はそれだった。人間に対してするように完全に見下した言い方ででは無く、それなりに認められるだけの立場の相手に悪態を吐くような。即ちこちらの正体――高位体の悪魔である事――を前提とした科白を吐く気だった訳で、当然そんな事は口に出させる訳には行かない。…これだけ勘の良い面子が揃っている中では、具体的に明かされなかったとしてもそれだけでこちらの正体が察されてしまう懸念がある。

 それらの動きと殆ど同時。「トップストライダー」のトランクから政人は何処かSFの小道具めいた造りの大振りのライフル――荷電光霊子ライフルを取り出していた。取り出したそのまま即座にアバドンに向け構え、標的の持つ固有の振動数を走査に入る――入るが。
 細かな電子音と共に走査完了と出る。だが政人は引き金を引かない。…引けない。指が動かない。引き金に掛かる指が震えているのが自分でわかる。理由ならわかっている。アバドン――恭子さんを倒す事なんて自分には…。魂は無い。そう指摘されてもその顔が――肉体の一部だけであっても本人がそこに居る事には変わりない。そして――アバドンと混じり合って生きている。そんな風に言われてしまっては――余計に、動けない。例えそれが辱められた姿であったとしても恭子さんがそこに居る事には何も変わりは無くて。あれだけ可能性が否定された後でもまだ、本当に救いようはないのだろうかと思ってしまう。攻撃を躊躇う。…誰かがやらなければならない事なら僕がと思う。だから狙いを外せない。けれど撃てない。理性の部分でどうしても撃たなければと思っても、自分の腕が撃つ事を拒否してしまう。荷電光霊子ライフル、人が悪魔を倒す事が出来る稀有なる銃。標的への攻撃を可能にする為の振動数の走査――標的に有効な威力を与えられる用意は済んでいる。なのに、駄目で。…撃てと必死で己に言い聞かせる自分と絶対に撃てないと思う自分が居る。どうしようもなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまっている。
 それを横目に、再び和真がアバドンに躍り掛かっていた。【キーマテリアル】を用い容赦無く攻撃を加えている。足が一本潰れ、体勢が崩れ動きも鈍くなっているアバドンの異形の剛腕を一本一本叩き潰すつもりで――せめて危ない部分から無力化させる為、【キーマテリアル】を振るう。
 和真のその様を見て、政人は余計に動けなくなる。…止めさせなければと反射的に思ってしまう――本当は逆に思わなければならないのに。和真を止めるのではなく和真の助力になるようこの荷電光霊子ライフルの引き金を引かなければならないのに、と。
 思っていると、その和真の声が政人に強く叩き付けられた。
 …あんた刑事だろ力があるんだろ甘ったれてんな! 飛び込んで来た「トップストライダー」の存在を、構えている荷電光霊子ライフルの存在を、辛うじて視界に入れつつ和真は怒鳴っている。その和真に襲い掛かろうとするアバドンのまだ無事な別の腕。水がぶわっと宙を舞い、遮る壁と化す。葉月さん! と叫ぶ少女――みなもの声がそこに続く。
 …そうだ、甘えている場合じゃない。やらなければ、ならないんだ…。
 辛いのは自分だけじゃない。政人は歯を食い縛り、荷電光霊子ライフルの引き金に掛けている指に力をこめようと努力する。

 と。
 その時。

 ざ、と急激に清冽な光が溢れた。
 政人の持つ荷電光霊子ライフルの引き金は引かれていない。が、その引き金を引くまでも無く、何かが爆発するように――誰の視覚も利かなくなる程の、凄まじい烈光が場に満ちていた。



 ――…この施設の、何処かの部屋――バイオ分子工学研究室の何番目かの実験室で。
 バイオハザードが起きたとされているその日。
 本当は、魔王たちに生きたまま五体を引き裂かれて喰われたのだと、聞いていた。
 それを俺に伝えた仇敵こそが、その心臓を喰らったのだとさえ。
 他の部位も、他の魔王たちに喰われ既に無い、と。

 なのに何故。
 そこに在ると。
 生きて。
 いや、
 生きて…とは言えないのだろうか。
 その頭部が繋がるのは、貴女とは似ても似付かぬ異様な形に造られた巨躯。
 …何を思えば良かったのだろう。
 それを見て。
 どう考えられれば良かったのだろう。
 貴女の貌を目を見た途端。ただ、何も考えられなくなった。
 ただその姿を、呆然と見ているしか出来なかった。
 それでも、こいつら…草間興信所の連中に強く言われてから、彼女を救える可能性、元に戻せる可能性すら考えようとした。…きっと自分に伝えられていた蝿の王の言葉にこそ嘘があったのだと思おうとした。五体を引き裂かれ殺されたのなら何故そこに居るのだとその事実を根拠に。異形の魔獣と化している事実を見てなお、儚い希望に縋る価値を自分で認める事が出来た。…きっと、他人が作り発したものだったとは言え、久しく聞いていなかった『貴女の声』だったから…自分はその話に耳を傾ける事が出来たのだろう。
 仇敵への憎しみより先に彼女を救う事をこそ考えるべきなのだろうと、思った。
 気付けた。
 だが。
 …すぐ、打ち砕かれた。
 仇敵に聞いていた通り嘘は無かったのだとすぐに明らかになった。魔獣の中に居る貴女は――成人女性一人分に到底足りない量の体組織しか無いとすぐに知らされた。五体を引き裂かれて後、一部だけ――頭部だけ、その魔物に喰わされたのだと。
 今はその魔物に吸収されて、その力を『器』の核として利用されているだけなのだと。
 今はもう、その魔獣本来の姿は佐々木恭子では無くアバドンであるのだとまで。
 今はもう、ただそこに留められ利用され、彼女が冒涜されているだけなのだと。
 知れば知る程、どうしようもないのだと思い知らされる。
 …俺のすぐ目の前で、貴女はあんなにも苦しんでいるのに――俺にはもう、貴女を救えない。
 ただ、無力感が圧し掛かる。
 一度儚い希望を抱いてしまったからこそ、余計そんな気になっているのかもしれない。

 唐突に。
 何か、喉の奥からせり上がって来た。
 己の意志とは別に、ただ生理的衝動で。
 反射的に咳込む。
 口に手を伸ばそうとする。
 間に合わなかった。
 何か、吐いている。
 一頻り吐きつつ、喘鳴する。
 鉄臭さと腐臭の混じった、どろりとした赤黒い液体。
 血。
 …ああ、もう身体の内側も保たないのかと漠然と思う。

 と。
 目の前に影が差した。
 それまで側に無かった影のような気がした。
 けれど、何なのか確かめる気にすらならない。
 もう、何でもいい。
 そう思う。
 が。
 次の刹那。
 思い切り、平手で頬を叩かれた。

「――まだ全てが終わった訳ではないでしょう!!!」
 間近で叱咤の声が耳を打つ。
 …佐々木晃の目の前に唐突に現れていたのは天薙撫子。彼女が晃の頬を張っていた。辛そうな表情のまま、だが強い瞳で晃を見ている。つい一瞬前まで妖斬鋼糸で何とかアバドンを拘束していた筈なのだが、何故か今そこに居る――それも、その姿を変えて。
 今度こそ、三対の翼が薄らとでは無くその背にばっと力強く広がっていた。日常着の着物に襷掛け、撫子はそんな姿でいた筈だったのに――今は紗が重なる東洋の天女風の衣裳を纏い、胸や関節を部分装甲で覆っていると言う姿になっている。そして何より、その身を包む神々しさが凄まじいまでに増していた。
 天位覚醒、光の女神の戦闘態――『戦女神』の姿。…助けるにはもう一刻の猶予も無いと強く思ったら、それまでの自分が置かれていた極限状態を覆す事が出来ていた。何とかしなければと言う強い思いが、自分の中に眠る力を漸く引き摺り出した。ここに至っての反動的な本格覚醒。もう体調不良の影響は何処にも見出せない――否、体調不良と思われていた原因は、内包する神気が魔王の気に反応していたからこそ、だったのだと『戦女神』となった今になって撫子は気付いている。魔王の放つその気が存在が、その行為が――許せない。
 今はもう顔立ちさえ何処か違って見える撫子が、晃の頬を張っている。…無論それだけで終わらない。叱咤と共に、別の効果が見えていた。…それだけで晃の肉体崩壊が止まっている。晃の身を苛む肉体的な苦痛と軋むような不自由さが一気に消えた。
 …どうやってか肉体崩壊を一時的に停止させ、同時に魔王の魔力をも遮断したらしい。それを認めてから隼人は晃の身を支える手をそっと離している。信じられないとばかりに目を見開き、何をした、と呻く晃。撫子さん、とただその名を呼ぶしかできないシュラインの声。
 撫子はそれらを受け、ただ、頷いた。
「これからどうするか――それは佐々木様次第です」
 復讐に囚われるか愛に殉じるか。何を為すかは――わたくしが決める事ではありません。
 これで猶予は充分な筈。貴方様が何を為すにしろ、生命の守り手はただ、その魂の行く末を、見守りましょう。
 そこまで告げると、撫子はゆるりと振り返る。
 魔王の――ベルゼブブの姿を視界に入れる。
 一度鋭い目で、睨みつけた。
 そこから更に視線を流す。続けて撫子が見たのは、和真をはじめ皆で倒そうとしている――何とか倒して解放しようとしている、着実に力を失いつつあるアバドンの姿。
 一度ゆっくりと瞼を閉じてから、同様にまた開く。
 そして――迷う事なく真っ直ぐにその魔獣を見据えていた。

 途端。
 撫子を源に、爆発かと思う程――圧倒的な光が発されていた。



 …部屋の中に、誰もの視覚を奪う程の烈光が満ちていた。
 その時何が起きていたのかは、それを為した当人以外は誰も把握出来なかったのだろう。ただ、唐突に爆発するよう生まれた凄まじい光が薄れ消えた時には――あろう事か皆があれだけ苦戦していたアバドンの姿だけがいきなり消えていた。…そうは言っても忽然とその姿が消滅した訳では無く、ただその異形の巨躯が――その巨躯を構成していた各部分が、ほどけたようにバラバラになって床に散らばっている。
 …さすがにもう、ここまでなってしまえば――再び魔獣として起き上がって来る事はないだろう。
 今、撫子は自身の圧倒的な神力解放により一気にアバドンを浄化した。そしてアバドンに使われていた数多の能力者や霊鬼兵――犠牲者たちの魂の解放と鎮魂までを行っていた。光の中、魔獣の上げた一際大きな断末魔の後、何か淡い光が――魂が、幾つもゆるゆると天に昇り消えている。霊視可能な能力がある者や感覚の鋭い者ならその様子は感じられた筈だった。…ただ、事前に撫子が霊視した通り、佐々木恭子の魂はそこには無い。
 ならば何処にあるのか。一瞬にして戦況を覆し、邪悪な魔道が行われたこの研究所を場違いなくらいに清浄な空気に塗り替えた中、撫子は佐々木恭子の魂を注意深く探している。
 何処にあるか。殺された当の場所。大切な人の傍。可能性を、一つ一つ辿る。
 殺した当の相手――殺させた、首謀者。
 …まさか。
 撫子ははっとして、ベルゼブブを見る。
 ぞくりと悪寒が走る。
 …見付けた。
 ――そこに在る。
 けれど。
 ――そこに無い。
 …何て事を。
「――…喰らったのですね――恭子様の、その、魂すらも…!」
 信じられないとばかりに、怒りを込めて撫子は言い放つ――言い放ってしまう。
 その場に居る誰もの耳にその言葉は届いた――届いてしまった。
 佐々木晃の耳にも――葉月政人の耳にも。
 途端、ガチャリと金属が鳴る音がした。撫子の告げた事実に反応しての、殆ど反射の領域の動き。葉月政人がアバドンに向けていた――結局その時引き金は引けなかった――荷電光霊子ライフルの銃口を今度はベルゼブブに向けている。標的の振動数走査中の電子音を間近で聞きつつ、政人は今度は迷わない――迷う必要など欠片も見出せなかった。
「――…人の命を、人の心を弄ぶな!!!」
 殆ど時を置かず振動数走査完了。怒号と共に、撃ち放つ――直前。赤みがかった黄の影が政人に体当たりして来る方がほんの僅か早かった。開かれた赤みがかった黄の翼一対――アスタロト。その魔王の動きは隼人が押さえていた筈だったが、アスタロトは今の政人の行動を見るなり、そこから必死で逃れ、邪魔をした。…それは荷電光霊子ライフルの中に凝る力が尋常では無いと感じたからだったか。それとも単にアスタロトにとって何者にも代え難い大切な存在が狙われたからか。どちらにしろ今、政人の邪魔をすると言うその目的は叶っている。
 政人はアスタロトに吹っ飛ばされて床に転がった。あのプライドの塊のようなアスタロトの形振り構わぬ必死の攻撃だったからか、政人はそれまでで一番強烈なダメージを受けていた。被っていた「FZ−00」のヘルメットも衝撃で外れ、構えていた荷電光霊子ライフルも取り落としている。…露になった政人のその貌は、いつから泣いてしまっていたのか――涙でぐしゃぐしゃになっていた。
 アスタロトに邪魔されるまでもなくベルゼブブは政人のその攻撃を察して身を翻していた。荷電光霊子ライフルの射線からは身体をずらしていた。その代わりのように配下の下級悪魔が射線上になる位置に集まっている――その身を以って主を庇う形に前に出ている――庇うつもりなだけではなく、特攻とでも言うつもりかそのまま主を狙った人間に襲い掛かろうと怯みもせず弾丸のように突進してさえ来た。
 …来たが。
 その途中で。
 音もなくその下級悪魔たちが一気に消し飛ばされるよう消滅した。前触れも何もなくいきなり、ベルゼブブを取り巻いていた名も無き眷族が一体残らず消えている――『封じられている』。
 何事か――それは先程自ら流し、ナイフにこびりついてもいた汐耶の血液があったからこそ。それを密かにごく微量ずつ、セレスティとみなもが手分けしてベルゼブブを取り巻く下級悪魔の一体一体全てに付け直していた。…対象に気付かれないよう注意深く。水を操る力は液体になら適応可能、無論血液であっても固まらない限りは分子式H2Oの水同様、問題無く操れる。
 …アバドンそのものの封印が成らないと見、セレスティの機転でその試みが為されていた。汐耶はアバドン封印に使用しようとしていた血が自然では有り得ない動き方で別の対象へと少しずつ移動している事に気付くと、その血を移動させた相手の意図を即座に察して――ベルゼブブの盾となり矛となっている眷族たる下級悪魔を一気に全て封印するタイミングを狙っていた。血が付いた時すぐにやってはまた別の眷族が喚ばれてしまい何の意味もなくなる。だから、効果的に封じられるタイミングを、待っていた。
 …それが、今。
 同刻、撫子の叫びが響き渡っている。首謀たる魔王を逃がす訳には行かない――我が名にかけて、魔王をただでは逃がしはしません! まさに神懸かった状態の彼女こそが、その叫びと共に完全解放の御神刀『神斬』を手にベルゼブブへと躍り掛かっていた。
 ばさりと扇がれる彼我の翼。空中で行われた一瞬の剣戟――神世の戦が目の前で繰り広げられているかのような一瞬。渾身の力をこめた撫子の一撃が、ベルゼブブへと突き刺さる――ぶつりと肉が千切れる音とぶんと強く風を切る音が連続した。
 一拍置いて、ぼとりと重苦しく濡れた音と鈍く後引く金属音がほぼ同時に響く――何が床に落ちている。肩口から斬られ血の糸を引いた腕。濃い青の袖に包まれた、異形の色彩――淡い赤色の手指が覗いている。…それと一振りの日本刀――御神刀『神斬』が。
 ベルゼブブは避け切れはしなかった。だが隙を衝かれたとは言え致命傷は避けていた。斬られる事が避けられないと見たその時、『神斬』の刃に斬り込まれた腕を捨て、撫子の振るうその『神斬』をこそ力尽くで奪い取り投げ捨てていた。…神懸かったその手にあるだけで危険なもの。強烈な力を発する神刀――魔王たる身ではただ掴むだけでもそれなりのダメージがあるのはわかっているが腕を切られてまで黙っているつもりもない。このくらいの屈辱は即座に返して然るべき――殺すより傷付けるより先。刀を使う者であるならその刀をこそ奪われると言う屈辱を。無論それで全て返せた訳ではないがこのくらいの挨拶は。金属音はその為。…御神刀『神斬』がベルゼブブの手で床面に叩き付けられた音。ベルゼブブの切り落とされた腕と殆ど同じタイミングで床に落ちている。
 何処からか、頼りなく電子音が響いているのにシュラインは気が付いた。…政人の持っていた荷電光霊子ライフルの振動数走査が完了していると知らせる音――なのだろう。誰の固有振動数――ベルゼブブの。邪魔されて政人は撃てなかった。今すぐ撃てる状態にあるそのライフルは今何処にある。取り落とし転がった場所。…それは私のすぐ近く。
 …否。
 佐々木晃の、すぐ前――と言った方が正しかった。
 そちらを、見ていなかった。目の前の撫子とベルゼブブの瞬間の対峙に目を奪われていた。――…まさか、彼がその銃を拾っているなどとは思わなかった。
 表情は無かった。…憎しみも悲しみも感情を浮かべる余裕すら無いのだろうと思える目は何処を見ているのかわからなかった。ただ、彼のその手が、政人の取り落とした装備――人間が悪魔を倒す事が出来る稀有なる銃、荷電光霊子ライフルをいつの間にか持ち上げていた。唯一残っている片腕で何とか抱えるようにして、真っ直ぐと、奇妙なくらい真っ直ぐに揺らがない銃口が中空に上げられている――厳しい体勢、銃の反動や排熱を考えれば到底無事では済まないだろう体勢でありながら、銃口はある一点でぴたりと止まっていた。
 ――…狙う相手は、当然の如くただ一人。
 引き金を、引く。
 躊躇いも何も無く。
 銃口から爆発的な光が溢れる。寸前、ベルゼブブは瞠目していた。その銃から撃ち放たれたのは、先程撫子がアバドンに対し放った、圧倒的な神力解放にも劣らないような、力。
 視覚を奪うあまりの光量に、命中したかすらわからない。
 …ただ、晃は確かにベルゼブブを狙っていた。射撃技術に優れる政人の目から見ても、あれなら当たると確信出来る位置に銃口が固定されていた。撃つには無茶な体勢ではあったが、発射するその時まで銃本体を確り押さえられてもいた。命中すると、思った。…それは後から考えれば、そうあって欲しいとの願望だったのかも知れないけれど。
 撃った後、当然齎される反動で晃は後方に吹っ飛ばされ、銃も空中に放り出される。持っていられなかったのだろう――身体が吹っ飛ばされ背中から床に激突したそこで、晃の身体が、繋がっていた側の腕までも肩口から崩れ出した。
 その様を見、堪らず政人の唇から名が零れた。思わず――晃、と初めて佐々木では無く名の方で呼びかけている。その声に、ほんの僅かな間だが、晃の方の目が政人を見た、気がした。
 ――消える。
 そう思ったら、名を呼ぶ以上に言葉が続かない。

 が。

 そこまでで、晃の崩壊は止まっていた。
 …体組織の崩壊――そう見紛うが、違っていた。排熱による火傷と銃本体の反動で、元々弱っていた体組織の一部と黒く焦げた服の袖、その一部がぼろりと千切れた、それだけで――完全に崩壊が始まり、腕が取れた訳では無かった。撫子の行使した肉体崩壊を一時的に停止させている力が、未だ効いている。
 光が消え、ベルゼブブの姿が消えた時にも――晃の身体が崩壊し消えた訳では、無かった。
 その事実から導き出される事。
 …ベルゼブブを倒せてはいない。
 すぐに察して撫子は一人顔を曇らせる。魔王のその片腕を斬る事は出来たが、すぐに奪い取られ捨てられてしまった――完全解放していた筈の『神斬』。拾い、刀身の血脂を拭いつつ己が唇を噛み締める。至らなかった自分に腹が立つ。
 今の光の中、攻撃対象では無かったアスタロトまでが消えている。…もし今のライフルの攻撃でベルゼブブを倒せていたのだとしたらあのアスタロトが黙って退却などするだろうか? 撃たれる直前に退却したベルゼブブを最優先で追いかけた。そう考えた方が余程納得が行く。

 後にその場に残されたのは、ただ、静寂。
 見渡せば――まるで、猟奇殺人の現場でしかないその場。
 例え強烈な神力で浄化され、解放されたのだとは言えども――アバドンの器であった数多の肉体の各部位は虚ろとなってそのまま存在しているが故。…その魔獣に使われていた肉体は、次元の異なるものではなく、この世の能力者や霊鬼兵のもの。
 数多の魂を力を喪失した今、ただの、分割された死体――肉片となって、そこに在る。
 …最低限の救いは、たった今生を断たれ殺された、そんな風では無い事かも知れない。元からあった死体がたった今バラバラにされた――そんな有様。鮮やかな色も生々しさも、薄い。…風化し崩れ、塵になりつつある部位まである。
 アバドンから解放され、器はそれぞれ本来在るべき姿に戻ったのだと、思う。
 皆がそう、認めた。
 …ただ一人、以外は。

 がたりと人が倒れ込むような音がした。
 何事かと視線を集める。
 赤い斑の――元々は白かった――服を着た、男。
 晃。
 銃の反動で飛ばされたそこから我武者羅に起き上がり、そして再び倒れ込むようにして――縋るように死体の散乱する中に膝を突き、床を這い、探す。何処だ。手当たり次第に死体の海を漁る。今の自分が他者にどう見えるかなどは考えない。どうでもいい。汚れる事も気にならない。他の何も気にならない。ただ、一心不乱に――探している。今探しているもの。ただそれだけが重要であると。
 探しているものは、ただ一つ。
 愛しい人の面影。
 見付ける。
 手を伸ばす。
 探す最中の乱暴さとは裏腹に、とてもとても大切そうに、そっと取り上げ、抱き寄せる。
 腕の中にあっさりと収まってしまう大きさの。
 それだけが。
 ――そこに居た、貴女。

 佐々木晃はそのまま、動かない。
 俯いた表情も、見えない。
 ただその僅か震えている背中には、今抱き寄せたもの以外に対しての、何もかもの拒絶があって。

 見てしまった、その時は。
 誰も何も、声を掛ける事が出来なかった。





■after effect

 それからの事は、綾和泉汐耶は殆ど知らない。
 あの後結局、能力の使い過ぎで倒れてしまったから――である。どうやら「終わった」と見た途端に緊張が解け気が抜けてしまったのかもしれない。それでリンスターの手配した救急車でこの総合病院まで運ばれて、今に至る。一応、服が派手に血塗れである事から誤解を招くかもと思い、救急車の乗務員に特に大きな怪我は無いと――怪我らしい怪我はナイフで手を切った事、それでの貧血くらいだと自分の状態を伝える事くらいはぎりぎりで出来た。が、それまでだった。…乗務員にそれらを話していた時の汐耶は、話をしてはいたが殆ど意識が朦朧としているようだったと後から教えられた。
 淡いピンク色の壁紙が張り巡らされた個室の病室。能力の使い過ぎによる極度の疲労で数日の間昏睡状態だった汐耶は、本日漸く目が醒めた。
 その報を受け、セレスティ・カーニンガムとシュライン・エマが病室まで見舞いに訪れている。
 あの後、何があったか――今はどうなっているかの、報告も兼ね。

 ――…生体学研究所からの脱出の手配をしたのは――これもまたセレスティだった。と言うか、少女を帰す付き添いにと言う建前で先に外へと逃がした草間武彦が、リンスターの――セレスティの部下たちを引き連れて取って返して来たような形だったらしい。そして、その段になって――独走した葉月政人以下「FZ−00」トレーラーの運転手以外の警察組織の人間や、IO2までも掌を返したように乗り出して来ていたと言う。生体学研究所の周辺はちょっとした騒ぎになっていたそうだ。
 彼らは施設内部まで乗り込んで来、殆ど済し崩しに施設内に居た研究員や警備員たちを捕まえ事情聴取を、そして施設の解体までも始めていた。元々、セレスティもキメラが造られた施設をそのままと言うのはどうか――と後始末にそうする事を考えてはいたのだが、事が終わった直後まさかそんなにすぐ――まるで証拠隠滅かと思う程すぐさまそれを始めるとまでは思わなかった。幾ら基本方針が秘密主義だとは言え、訝しく思える程――奇妙なくらいにIO2は手際がよかったらしい。ここで行われていた事を、元々知っていたのではと――介入する機会をずっと窺っていたのではと疑いたくなるくらい。
 アバドンだった残骸は――天薙撫子が浄化した結果、どう見ても複数人数分のバラバラ死体にしか見えないような状態になっていた為、IO2ではなく一旦警察が引き取り司法解剖が為された。その後、身元が判明した部位に限っては遺体は遺族に帰され、それ以外は無縁仏となるか――霊鬼兵や強力な能力者の遺体と思われる場合はIO2が引き取ってもいた。ただ、ベルゼブブの切断された腕だけは、どさくさに紛れていつの間にか消えていた。…腕の持ち主が持ち帰ったのでなければ、恐らくはIO2が隠密裏に持ち去ったのだと思われる。
 その事もあり、撫子は天薙の家の方を介してそちらからベルゼブブについての追跡調査をしているらしい。IO2が持ち去ったのだと思われる魔王の腕についても、あるのなら提出するよう圧力を掛けているとかいないとか。…身体の一部が残されているとなれば、確かに追跡するのにとても有効な材料となる訳で。
 アスタロトこと住田和義の事についても、後からそれぞれで入手した情報を擦り合わせていたら色々と新事実が明らかになっていた。巡査長どころか警察学校の卒業記録すらない――遡ればそんな名前の人間自体が存在しないとまで。
 …架空の人間だった、そう判明した時点で端末として残ってしまうのではとのセレスティの懸念は取り敢えず晴れた。そこまで明らかになっているのなら、さすがにそのまま警察組織に残る事は叶うまい――実際、現時点で住田和義の所在は確認されていないと言う。アスタロトの本性を見せ生体学研究所で皆と対峙して以降、行方不明となっている。…きっともう住田和義巡査長として戻る事は不可能だろう。他の人間となって舞い戻る可能性は否定出来ないが、そこは――考え出したら切りが無い。…ひとまず、採用に当たり事前に警戒して確り個人の調査をしておくと言う地道な事くらいしかできそうにない。
 草間興信所としては事件に関わる事になった発端、当初草間興信所を頼って来た依頼人への報告も疎かには出来ないのも当然で。結局、生体学研究所で起きた件が少し落ち着いてから、調査が完了した事を報告する為に依頼人――木村正秀氏の元に所長が出向いていたらしい。
 調査報告として伝えるべき事――それを考えるのもまた大変で。…依頼人の妻は生贄にする為だけに悪魔に惨殺された。そんな救いの無い話を、幾らかでも救いのある話――それは殺されたと言う時点で既に何処にも救いは無いのだが、事実通りに伝えたら混乱の極致に至るしかない上に、罷り間違えば第二の“凶々しき渇望”を生み出し兼ねないとも危惧された為、『悪魔』や『魔術』と言う要素を排し、『犯人は死亡していた』――と、それだけを伝える事にしたと言う。…何とかそれで収めようと考えた。
 ――…佐々木晃は三ヶ月前に一度死んでいる。死亡していたとの言は、嘘では無い。

 …その、佐々木晃はどうなったのか。
 そこに話が至ると、セレスティもシュラインも俄かに口を噤んでしまう。汐耶同様、入院している――但しここではなく警察病院で。一拍置いた後、まずそれだけが端的に続けられたが――そうなるまでの事こそ、そして入院している今はどんな状態なのかこそ、気懸かりになる事で。…警察病院と言う事は、取り敢えず『生きて』はいると言う事なのだろうが。
 それだけでは報告が充分でない。…が、あの場での状況から考える以上…――汐耶は二人の気持ちを察して言葉には出さなかったが、顔には出てしまっていたのかもしれない。
 少し沈黙を置いてから、セレスティとシュラインは汐耶に話し出す。あの場に居た汐耶には――むしろ当の施設に実験体目的で拉致までされてしまっていた以上、セレスティやシュラインより余程深く事件に巻き込まれてしまっていたとも言える訳で――元々、全部知らせておくべきだと思っている。ただそれでも、話し難い事ではあった。だから二人とも、一時、沈黙を置いてしまった。
 …あの後、あの時、あの場所で――撤退するに当たり、佐々木晃を連れて行く事を坂原和真が強く主張したと言う。このまま放っておいてどうするのか――この男に訊くべき事は幾らでもあるだろうと。事件の概要、虚無の境界の事…そしてベルゼブブの事。どんな理由があったにしろ、連続殺人犯である事を忘れたのか。
 他の皆も、無論忘れた訳では無い。けれどそれでも人間であるのだから情はある。この様を引き離せるか。この様を見ていながら、今ここで人に戻ったその心まで断ち切れと言うのか――否、ならばこそ。
 ――…今ここで無理にでも連れ出さなければ、この男は本当に救えなくなってしまうのではないか。
 和真はそうとまでは言わなかったが、セレスティやシュラインは言葉の裏側にあるものをそう理解し和真の主張に同意した。…放っておけばいずれ肉体崩壊が再開し死に至るとも知らされて。戦いの中撫子が行使したのはあくまで一時的な処置に過ぎないらしい。そして彼女は自分の判断だけで尊厳ある人の命をどうこうするつもりは無いと言っていた。それは彼自身が望むなら話は変わる。だが――その本人が、今はもう、何も望んでいない。
 いや、望む望まない以前に。
 意志の疎通が図れなかった。
 死体の中でへたり込み、他の誰をも拒絶して――ただただ姉の亡骸を抱き締めていた。
 引き離すのにとても苦労したと言う。それはそうだろう――あの状態では、佐々木恭子の遺体を少し引き離しただけで気が狂うのではとさえ思わせた。そして実際、それに近い状態でもあったらしい。
 今はもう、ベルゼブブの存在こそがあの魔王への憎しみこそが、唯一晃を正気に返す手段だったのだとその時撫子は判断したのかもしれない。…その身を侵す魔の力の問題では無く彼自身の心の問題で。力の問題だけで済むならもう疾うに彼は解放されている筈なのだから。
 だからこそ、撫子は天薙の家を上げてそちらをまず追っている――彼の肉体崩壊が再開するより前に、『生きて』いる内に間に合うように。討つ事叶わなかった仇敵を討たせて差し上げたい、との思いも彼女は抱いていたのかもしれない。逃がしてしまったのは自分の不手際、そうとさえ感じていたのかもしれない。
 姉の遺体と引き離されてからの晃は、ずっと抜け殻の如き状態のまま――生きようと言う気が全く感じられないのだと言う。
 司法解剖から返された佐々木恭子の遺体を、受け取る事さえ出来なかったと言う。
 結局、葉月政人や草間興信所の皆――今回の件に関わった者が代行し、葬儀に立ち合った。
 …その報告の前と後でも――晃の態度は殆ど変わりはしなかった。唯一の例外が『佐々木恭子』の名を出した時だけ。その時だけはぴくりと身を震わせた。茫洋とだが名を口にした者を見さえした。…が、それ以外は徹底的な無反応。その様は悲嘆に暮れ泣き叫ばれるよりずっと、堪らない程に痛々しく感じられた。
 それが、魔術で数多の殺人を犯した連続殺人犯当人であると知っていても。
 …それでもそこに居たのは、ただ一人の女性を愛する『人間』でしかなかった。
 佐々木恭子の遺骨は今、佐々木晃の病室に置いてある。



 …警察病院。
 ドアが開いているとある一室の前。そこに佇んでいたのは沈鬱そうな表情の海原みなもと、黙って部屋の中の様子を見ている坂原和真。つい今し方その一室――佐々木晃の病室に見舞いに来、ちょうど出て来たところになる。
 開け放たれているドアから次に出て来たのは神山隼人。駄目ですとばかりにゆっくりと横に頭を振りつつ、部屋の中を示すようにちらり。続けて、葉月政人が出て来た。
「…事情聴取どころか口を開く事もこちらを見てさえもくれません」
 誰にともなくぽつりと告げる。
 晃はまるで廃人だった。ただ、頭の側だけ斜めに少し起こされたベッドに横たわり、そのまま何をするでもなくただ日々を過ごしている。…少しも動こうとしない。立ち上がりもしない。何も見ようとしない。何も聞こうとしない。何も話そうとしない。食事もしない。排泄もしない。…本当にただ瞬きをし息をしているだけ。
 入院しているとは言え、生体学研究所にて肉体崩壊が始まった際に崩れてしまっていた患部の手当て以外ははっきり言って何の治療も施されていない――そちらの容態は落ち着いている今、ただ申し訳程度に点滴とハルンバッグが繋がれているだけ。…他に、やりようが無い。重要な臓器含めその体細胞のかなりの部分が期限付きの特定の魔力――ベルゼブブの魔力で構成されてしまっていると言うだけで、それ以外に病理的に悪いところは何処にも無いのだ。それでも何かを施そうとなれば、それはもう新たな臨床実験や研究の領域になってしまう――その時点で人間扱いではなくなってしまう。
「…あのまま放っておいてやるべきだったかな」
 これじゃ、ベルゼブブの話を訊くどころじゃないもんな。ぽつりと漏らす和真に、ぶんぶんと必死で頭を振り否定するみなも。…放っておくべきだったなんて、そんなこと、ないと思います。
「…お姉さんがどうしても救えないのなら刑事さんだけでも救わなきゃって、お姉さんの為にもそうするべきだって、思いましたから…。でもこれじゃ…刑事さん、余計に辛いのかもしれませんよね…」
 どうしたらいいんでしょう…。
 弱々しく呟くみなもに、宥めるように隼人が返す。…こういう事は、時間に任せるしかないんでしょうが、と。隼人も自分でそう告げはするが――その真理が今は白々しくなってしまうのも自覚している。この晃の場合、時間に任せては乗り越える乗り越えない以前にまず死ぬだろう、と言う状態なのだから。
 本当に、どうしたらいいのかと悩む気持ちもわかる。
 酷く辛そうな貌で政人はまだ佐々木晃の病室を見ている。
 暫く見てから、振り切るように廊下を歩き出した。
 葉月さん、とその背に和真から声が掛かる。その呼び掛けに政人は立ち止まり、すみません、先に失礼します、とだけ返し、振り返りもせずに去って行く。みなもは数歩その背を追うが、結局留まり、和真と隼人を振り返った。振り返ったところで今度は和真の方からみなもの側に歩き出す。みなもを追い越し、その先へと向かう――みなもも結局、彼らの後を追い廊下を歩き出した。

 隼人だけが、最後に残る。
「――これで依頼は終了で、宜しいんでしょうかね?」
 静寂の支配する病室の中に、一声だけ掛けておく。
 少しだけ、待つ。
 返答は、無い。
 …そうだろうとは、思ったが。
 小さく肩を竦め、隼人は静かに病室のドアを閉める。
 それから、先に行った三人を追う形に、隼人も廊下を歩き出した。



 …誰か、来ていた気がする。
 そんな気はしたが、確かめる気にもならない。
 どうでもいい。
 ただ、耳に言葉は入っていた。
 聞き覚えのある声。
 その内容も、頭には入ってくる。
 けれどそれでどうなる訳でもない。
 どうする訳でもない。
 どうでもいい。
 貴女だと告げられ渡された――ベッド脇の棚に置かれた、小さな箱。
 けれど自分の手に残る最後の感触は、全然違っていて。
 …白々しいくらいまっさらな布に包まれたこれが貴女だと、実感が、湧かない。

 ただ虚ろなまま、佐々木晃はそこに居る。
 もし、少しでも何かを思考したなら、そこには絶望しか見付からない事を無意識の内に知っていたから、かもしれない。
 ただ、静寂が続く。
 佐々木晃は何もしない。

 …少しして。
 当の患者以外は誰も居ない筈の病室に、影が差す。
 茫洋と目を上げる。
 誰かが入ってくるような音は、何もしなかった。
 なのに居た。
 ベッド脇、すぐそこに。
 人影。
 目を見開く。
 見慣れた、けれど今そこに居る訳のない、異形。
 青年のような姿の、だが決して人間では無い、名に見合う形の三対の羽を持つ、淡い赤色の肌の、長い髪の、冷たく暗く光る紅い瞳の――。
 誰をも超越した不敵な表情を浮かべるその姿は、見慣れている。
 が。
 …片腕が――右腕が、無い。
 それだけが違っている。
 こいつがその右腕を失った時を、自分は見ている。
 それを思い出しただけで、現実が頭に戻る。

 誰より憎い殺したい相手。
 姉の心臓を喰らい、身体のそれ以外の部分を他の魔王たちに喰らわせ、唯一残った頭部ですら、利用した。
 あまつさえ、魂をも、こいつが喰らっていた。

 凶暴な思いが湧き上がる。
 青年のような姿の異形は黙って佇んでいる。
 すぐそこで。
 何も言わずに。
 黙ったままで。
 有り得ない程。
 無防備に。
 こちらを見ている。

 …がばりと。
 思わずベッドから身を乗り出し、こちらも唯一残っている片腕――左腕で青年のような異形へとおもむろに殴り掛かろうとする。その急激な動きに引っ張られ、点滴を吊るす台が倒れる。
 片腕がない為、少し動くにもバランスが取れず思うように動けない――そうでなくとも衰弱し、体力はどうしようもないくらい落ちている。もし殴り掛かったとしてもそれで敵う訳などない――そう自分で知っていたのか、それとも何も考えられなくて気付く事すらできなかったのかもわからない。ただ、衝動。今自分が武器に出来るものは何も無い。武器に出来るもの。それは自分の拳。それが精々。他には何も無い。
 だから、ありったけの殺意をこめて、それを繰り出した。…敵わなくとも、もうそれしかなかったから。
 ただおもむろに、殴り掛かっていた。
 青年のような姿の異形は、少しも避けようとしなかった。
 止めろと言いさえしなかった。

 …過去、戯れに、殺させてあげようとは言った。
 それは確かに、間違いはないが。

 こつりと。
 繰り出された拳が、当たる。
 けれど。
 青年のような姿の異形に実際に齎された衝撃は、とても『殴る』とは思えない程、弱々しい力でしかなくて。
 羽を生やした青年のような姿の異形は、その拳の軌跡を目で追ってさえ、いた。
 その上で、黙って受けていた。
 こうなる事をわかっていたからか。

 ベッドの上にあった身体は、青年のような異形のその目の前で、ずるりとベッドから半分落ちた。
 繰り出された拳が目的の相手に触れた、その直後。
 拳を繰り出した男の方が。
 崩れるように。
 事実、崩れて。
 倒れ込む。
 …それっきり、動かない。
 動けない。
 開かれたままの目も動かない――瞳孔も、開いたまま。
 もう、揺らぐ事は無い。

 再び、静寂が訪れる。
 …断ち切ったのは、一人の悪魔。

「やはり来ましたね」
「!」
 いつの間にか病室の扉が開いている。いつから開いていたのか――いつからその悪魔が扉のところに居たのかはわからない。背に流した黒髪に底知れぬ金の瞳、異形ではなく人間と完全に紛れる青年の姿を取ったその悪魔は、今病室の中で起きた一連の出来事を、黙って見届けていたようにさえ思えた。
「貴方があのまま彼を手放す訳は無いと思っていましたが…それにしても、随分とお優しい」
 ひょっとして、『お姉さんの魂の影響』と言う事もあるんでしょうかね?
 貴方が喰らった――言わば貴方の中にある、彼の姉の。
 ――…人間を、甘く見ない方が良かったのかも知れませんよ、御大。
 そうは、思いませんか?

 人の姿をした悪魔の声だけが、室内に響く。
 佇む青年めいた姿の異形からは、声は何も、返らなかった。
 少し離れた廊下の先から、神山さん、どうかしましたかー、と、呼び声と共に誰か廊下を戻ってくるような足音がする。何でもないです、お待たせしてすみません、とその呼び掛けに答え、人の姿をした悪魔は――神山隼人は本当に何でもないように病室の扉を閉めた。呼ばれる通り廊下に出、後を追う。
 …その後ろ。
 佐々木晃のその病室の、扉の内側。
 床に崩れた屍を――誰かが抱き上げるような気配がした、気がした。



 ――…それから、少しして。
 病室から佐々木晃が消えたと、警察病院から、関係各方面に連絡が入る。
 …ホテルの時のように夥しい血の痕も。身体の状態からして充分に有り得る、体組織が崩れたと思しき肉片や塵の痕跡さえも――残さず。
 そのベッドには元々誰も居なかったとでも言うように――ただその姿だけが、なくなっている。
 派手に捲れ半分床に落ちていた掛け布団と。
 繋ぐ者を失った医療器具だけが――そこに人が居た名残。

 …事情を知らぬ外野からは被疑者逃亡と疑われ慌てられたが、それ以前にまともに他者と意志疎通も計れない動けもしない状態にあった廃人同然の者がどうやって己の意志でこの場所からこれ程鮮やかに逃げるなどと言う事が出来るか、と幾らかでも事情を知る者はその疑いを否定した。だがこの場に居ない事は事実、逃亡ではなく何者かに攫われたのではと考えた。
 周囲に緊急配備を敷き、総動員で捜しはした。逮捕の名目で、実質的には保護の意味で。…けれどそれで被疑者が見付かりはしなかった。入院時、栄養的には点滴――魔力で肉体を維持している身にすればそれも殆ど意味は無く単なる気休めに過ぎないのだが――だけで細々と命を繋いでいた状態だった事もあり、最早その生存からして絶望視されていた。それでもその身柄がどうしても、いつになっても、現れない。出てこない。
 …死体すら。
 表向きではそんな不可解な状況になっていた。
 が。
 更に深く事情を知る者は――居なくなった佐々木晃が結局どうなったのか、その最終的な行き先すら――想像が付いていた。確証は無いにしろ、確信してしまっていた。そして同時に、確信していても、それで彼をすぐさま自分たちの居るこの場所に連れ戻せはしない事も、わかってしまっていた。
 結局。
 彼の起こした事件はともかく、彼自身に関しては何も解決はしなかった…のだろう。
 …目の前の現実に、そう、認めざるを得なかった。

 ただ。
 この件以降、“凶々しき渇望”と同一犯と思われる殺人事件が起きたと言う報告は、無い。



 ――…今日やっと、この場に訪れた。
 魔力の供給はしたばかりだった。あの時も、殺意による激情と急激な魔力活性――使い過ぎの反動で急消耗はしたが、不活性状態に落ち着いたならば――あの状態ならばまだ暫く保つだろう。そう、今日か明日くらいまでは――そう思ったから、それまで――己の腕の怪我が取り敢えずでも癒えるまで、放り出してはおいたのだが。
 それでも、何故ここまで待ったのだろうと思う。
 そして今も――何故、黙って見送ったのか。
 黙ってその拳を受けとめたのか。
 …見送る事をせず事前に無理矢理救い上げる事こそ、そして手許に置き愛でる事こそ、本来の私。
 何故そんな情を掛けたのか――何故それが情だと、思うのか。
 今、黙って死なせる事を、何故良しとしたのだろうか。
 今、何故拳を止め、すぐに魔力を与える事をしなかった。
 どちらにしろ行く末は同じ――私はこれからも、何も変えるつもりは無いと言うのに。
 あの金眼の悪魔の、世迷言が微かに脳裏に過ぎる。
 有り得ないと振り払うよう首を振る。
 これは私の意志である。

 …彼はまだ、私を殺したがっている。
 ここまで何もかもを拒絶していてさえ、私にだけはまだ、執着している。
 その事にすら愉悦を覚える。

 佐々木君。
 君にはもう、疾うに教えてある筈、だったんだがね。
 あの日あの時、初めて、私の血肉を用い君の身体を造り替え、君を甦らせたその時に。
 丁寧に、説明してあげた筈だよ。
 新しい君に相応しい名を。
 新しい君が名乗るべき名を。
 その意味を。

 ――――――…凶々しい道に堕ちた君の魂は、永遠に潤う事は無いのだと。


【その者の名、“凶々しき渇望”全四話 完】


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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

 ■0086/シュライン・エマ
 女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員

 ■1449/綾和泉・汐耶(あやいずみ・せきや)
 女/23歳/都立図書館司書

 ■1883/セレスティ・カーニンガム
 男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い

 ■1252/海原・みなも(うなばら・-)
 女/13歳/中学生

 ■1855/葉月・政人(はづき・まさと)
 男/25歳/警視庁超常現象対策本部 対超常現象一課

 ■4012/坂原・和真(さかはら・かずま)
 男/18歳/フリーター兼鍵請負人

 ■2263/神山・隼人(かみやま・はやと)
 男/999歳/便利屋

 ■0328/天薙・撫子(あまなぎ・なでしこ)
 女/18歳/大学生(巫女):天位覚醒者

 ※表記は発注の順番になってます

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 …以下、公式外の登場NPC

 ■“凶々しき渇望”(佐々木・晃)
 ■ベルゼブブ(成沢・玄徳)
 ■アスタロト(住田・和義)
 ■佐々木・恭子

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           業務連絡?
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 休日が納期だったと言う事で、お渡しするのが微妙に遅れております。
 大変お待たせ致しました。
 皆様、四話分全編通してのお付き合い有難う御座いました。
 今回の仕様は皆様全面共通文章で長めです。…と言うか最長また更新でして…。
 …何かPC様の行動・発言・性格・思考・名称等でこれは有り得ない間違ってる等の引っ掛かりがあるようでしたら御気軽にリテイク御声掛け下さいまし。他に何かありましたらその際にも。出来る限り善処致します。

 他、ライター通信相当の事柄は…最後には書く、と前々から言いつつ何かすぐには書けそうにないので(汗)、後で下記URL先こと当方の全商品共通部屋(クリエーターズショップ)に記載予定。
 http://omc.terranetz.jp/creators_room/room_view.cgi?ROOMID=162