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<東京怪談ノベル(シングル)>


信じる者の幸福

 ゴールデンウィークのある一日。
 影内にある道場で、黒 冥月(へい・みんゆぇ)は弟子である立花 香里亜(たちばな・かりあ)を目の前に、恒例になった挨拶を交わしていた。
「老師、今日もよろしくお願いします」
 冥月は、今日から香里亜につけている訓練を、一段階進めることにしていた。今まで体力測定から始まり、『冥月の体を触る訓練』や『自分の体の一部を触られないようにする訓練』などをやって来たが、今日からはまた一番最初の訓練に戻すつもりだ。
 去年の秋口から始まった稽古は、それなりに順調に進んできている。最初は「自分の身ぐらい自分で守りたい」という香里亜の願いからだったのだが、最初は受け身も取れなかったのが最近はそれもサマになってきている。
「香里亜、今日から少し訓練を厳しくするぞ」
「厳しく……ですか?」
 きゅっと香里亜の表情が、緊張感をたたえたものになる。
「そうだ。今までのは、防御の基礎の基礎を身につけるためのものだったからな。今日はまた一番最初にやった『私の体の一部』を、とにかく触れるようにする訓練だ。ただし前回までと違い、私も少し本気で返しに行くからな。覚悟しとけ」
 ある程度の動きが身に付いていれば、次に必要なのはその速度を上げることと、痛みに慣れることだ。人は何処かに痛みを受ければ、それで動きが固まってしまう。それはある意味正しい自己防衛本能ではあるのだが、本当に自分の身を守りたいと思うのであれば、一度ぐらい痛い思いをしても、次の瞬間に立ち直れなければ意味がない。
「私が老師の体を触ればいいんですね?」
 香里亜の言葉に、冥月は不敵に笑って頷いた。
「ああ、そうだ。私が一メートルの円の中に立つから、私に触れるよう動け。ただし、こっちからの攻撃も、前より少し強くするぞ。痛みにも慣れないと、いざという時に体が動かなくなるからな」
 今まで稽古を付けてもらってきて、香里亜は冥月が自分に対してかなり手加減をしていることは分かっていた。
 冥月が本気を出せば、香里亜など容易く殺すことが出来るだろう。それぐらい冥月の力は強い。影を操る力もすごいが、身につけている格闘術だけでもかなりのものだ。それを格闘どころか、スポーツ自体ほぼ初心者の香里亜に合わせている。
「頑張ります」
 どれぐらい段階を上げてくるのだろう。そんな不安を抱えながらも、香里亜はいつものように戦闘の構えを取る。
「さあ、どこからでも来い」
 一番最初の訓練と同じのはずだった。
 だが、円の中に立つ冥月にはほとんど隙がない。いつもなら何処かから手出しを出来るのに、迂闊に飛び込めば返り討ちに遭う気がする。
「どうした?香里亜から仕掛けないと始まらないぞ」
「うっ……」
 流石に何もしなくても、隙を見せなかったのに気が付くようになったか。
 それが分かるようになっただけでも、香里亜の成長が伺える。冥月は少し笑い、いつものようにわざと隙を作った。
「相手の力量が分かるようになったのは褒めてやろう。さあ、来い」
 その言葉と同時に、香里亜が懐に飛び込んできた。前回までの訓練なら、冥月の体にかするぐらいは出来たのだろう。低い姿勢から繰り出される手刀を、冥月は手で勢いよく弾き飛ばす。
「痛っ!」
 弾かれた手にしびれが走った。それに思わず動きを止めると、冥月はその隙にもう一発掌底を香里亜の肩に繰り出してきた。
「これぐらいで怯んでいたら、自分の身は守れないぞ」
 流石に少し驚いたか。
 それでも冥月は、香里亜への攻撃を緩める気はなかった。
 結局格闘術に関しては反復訓練が基本になる。どんな攻撃を受けようがどんな絶望的な状況に陥ろうが、冷静さを保つためのメンタル面での訓練と、自分が襲われたときに痛みで怯まないための肉体的な訓練。この「円の中の相手を触る」というのは、その両面に対して効果的だ。
 実際、軍の特殊部隊などに所属する兵士達も、格闘術を極めるときは二人一組で練習をする。それは防御と攻撃を体で覚えるだけではなく、実際に体を動かさなければ身に付かないからだ。
 鏡に向かって型を練習しても、それは実践では役に立たない。人間は時に予想を超えた動きをするし、自分で自分に与える痛みはどうしても手加減しがちになる。ある程度基礎が出来たのであれば、今度は「痛みに慣れる訓練」も必要なのだ。
「やっぱり前と全然違います」
 何度飛び込んでも、フェイントをしても、香里亜の攻撃が冥月にかする気配すらない。それどころか軽くかわされて、逆に自分が肩や背などに反撃を受けたり、力を利用されてあっさり投げられてしまう。床に衝撃吸収のマットが敷いてあるとはいえ、受け身が取れなければ結構痛い。
「具体的にどう捌くか、そして攻撃の予測……」
 それでも香里亜も、何とか冥月に今まで教えられた通りにやろうとはしているのだが、少し段階が上がっただけでそれが頭から抜けてしまい、体と頭が同時に動かなかった。考えすぎれば攻撃の手が緩くなるし、かといって何も考えなければあっさりかわされる。
「流石にきついようだな」
 だんだん香里亜の息が上がってきた。少しだけ強くした冥月の攻撃が痛いのか、時折表情が歪む。
 連休とはいえ、あまりやりすぎると筋肉を痛めるだろう。痛みに耐える訓練をするときは、その切り上げ時の見極めも大事だ。痛みに慣れさせるための訓練で、身体を壊してしまっては意味がない。
「たあっ!」
 気合いと共に振り下ろされた香里亜の腕を、冥月が掴んだ。
 そしてその力を利用し足を引っかけ、受け身が取れない体制で投げ飛ばす。
「………っ!」
 ゴホッ、と香里亜が咳をした。それを見下ろしながら冥月は、容赦なく忠告を投げかける。
「痛みで呼吸を乱すな、体が動かなくなる」
「は、はい……」
 やっぱり床に投げ飛ばされるのは、訓練だと分かっていても吃驚する。体を動かした筋肉の痛みではなく、冥月に与えられた攻撃がじわじわと痛い。冥月に教えられたことを思い出し、香里亜は息を吸うことよりも吐くことを意識し、呼吸を整える。
「今日はここまでだ。痛みに耐える訓練は、そのまま体へのダメージにもなるからな。ちゃんとストレッチするだけじゃなく、休息して回復させなければケガの原因になる」
 そう言いながら、冥月はぐったりとしている香里亜に手を差し出した。訓練の段階が上がった時は、誰だってこうなる。自分が昔、師匠に格闘術の稽古をつけられた時もそうだった。
 まして香里亜は訓練を続けているとは言え、格闘術はこれが初めてなのだから仕方がない。
「ありがとうございました……はうう〜体がガタガタです」
 明日も休みで良かった。これで次の日仕事があるなら、筋肉痛で動けないかも知れない。
 よろよろと起きあがり、香里亜は床にぺたっと座り込んだ。取りあえず起きあがることは出来るらしい。
 ならば話をしても大丈夫だろう。冥月は、香里亜を守るために考えていたことを話すべく、立ち上がって話をし始めた。
「香里亜、危ない状況での打合せをしておこう。後ろを見ろ」
「ほえ?」
 座ったままで冥月の言う通りに香里亜が後ろを振り返ると、そこにはどこからか藁束が二本現れていた。ちゃんとそれを見ているかを確認し、冥月は影から剣を作り出す。
「まず私が剣で斬る所をよく見ておけ。ここからが大事だからな」
 ゆっくりと冥月が影剣を持ち、藁束に近づく。そしてそれを振り下ろすと、音もなく藁束が切り落とされた。普通の刀等なら風を切る音がするのだろうが、影なのでそれもない。床に鈍い衝撃を伝わせ、斜めに切り落とされた藁束がずるりと落ちていく。
 だが、次の瞬間、香里亜は信じられないものを見た。
 影剣を持って二本目の藁束に向かい剣を振り下ろしたはずなのに、藁束はびくともしない。途中で剣が消えた訳ではなく、ちゃんと冥月は振り切っている。
「えっ、えっ?なんで最初のは斬れて、二回目は斬れてないんですか?」
 その驚く仕草に冥月は苦笑しつつも、手に持っていた影剣を香里亜によく見せた。
「ちゃんと説明してやるから。まずこれは見えるな?」
 そう言いながらまず刀身をよく見せる。それは影から作られた、顔も写らないような漆黒の剣。
「見えます」
「じゃあ、ここからが種明かしだ」
 そう言いながら冥月は、持っていた剣を少しずつ傾けていった。それが背側の方に行くと、香里亜の目の前から刀身が不意に消える。
「あれ?何で消えちゃったんですか?」
 消した訳ではない。その証拠に右手には剣の柄が握られている。なら、これは……。
 更に驚いている香里亜に、冥月は逆に剣を傾け、刀身と背を何度か見せながら話す。
「今この剣は二次元……つまり厚みが全く無い状態だ。これで斬っても三次元の物質は素通りする。だからもしお前が敵に捕まった際、私はこの剣でお前ごと敵を斬る。予想外の事に敵は慌てる筈だ。その隙に逃げるんだ。分かったな?」
「はぁ……」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 自分に聞き間違えがなければ、捕まってしまったときは敵と一緒に斬られる?
「……って、ちょっと待ってください。いざという時は、私、みん……違う、老師に斬られちゃうって事ですか?」
「そうだ。実際斬れないのはさっき見ただろう」
 確かに斬れてないのは見た。それでもあれは相手が藁束だったのだから、驚いたり感心したりしたのであって、自分が斬られると言われれば話は別だ。冥月が自分を傷つけることはないし、その力も信用しているが、斬られるのは怖い。
「あ、あの、出来ればなるべくご遠慮したいんですが」
 疲れが取れてきたのでそーっと立ち上がった香里亜に、冥月はニヤッと笑う。
「それが嫌なら、出来るだけ捕まらないように精進することだ。立ち上がれる程度には回復したようだし、じゃあ、いざという時に恐くない様に一度試し斬りを……」
「えっ?」
「ちゃんとこっちを見てろよ。あと、無意識に弾いたりするな。私を信用しろ」
「ひー!待って下さい、心の準備がぁ!」
 ここで逃げ回ったりしたら、ケガどころでは済まないかも知れない。
 大丈夫。冥月は自分にケガをさせたりしない。香里亜は小さな声で、何度も自分にそう言い聞かせる。
「冥月さん、信じてますっ」
 それでも、思わず自分の腕を抱きしめてしまう。緊張でガチガチになっている香里亜に、冥月は剣を見せ、もう一度ニヤッと笑い……。

「あー、怖かった。さっきはちょっと涙出ちゃいました」
「あれに慣れる訓練も必要だな」
 香里亜は冥月からマッサージを受けながら、目尻を人差し指でちょっと拭った。今日は痛みに慣れるために強く衝撃を与えたので、汗を流した後念入りに筋肉をほぐしダメージが残らないようにしなければならない。
 あの後。
 香里亜は何とか頑張って、逃げずに冥月が剣を振り下ろすのを見ていたのだが、それでも相当怖かったらしく、その後ぺたっと座り込んでしまったのだ。
「さっきみたいに座り込んでいたら意味がないぞ。私を信用できないか?」
 その事を話すと、香里亜はベッドの上でうつ伏せのままつま先をバタバタさせる。
「そういう訳じゃないんですけど、やっぱり分かってないと怖いかなって。でも、次は大丈夫です、冥月さんのこと信じてますから」
 やはり何事も最初は怖い。
 それでもその恐怖心などを理解しつつ、それから一歩ずつ踏み出していかなければ前には進めない。
 人を傷つける恐怖、傷つけられる恐怖。
 それと同時に、味方を信じる事を身につけなければならない。
「一度大丈夫だって覚えたら、次は頑張れます」
「その意気だ。体はほぐれたか?まだどこか痛いなら、マッサージしてやるぞ」
「極楽ですよ〜。痛いのにも少しずつ慣れなきゃですね」
 落ち込まず、立ち直りも早いのが香里亜の良い所だ。冥月はマッサージをやめ、ベッドに座る香里亜に向かって笑いかける。
「そういえば、そろそろ香里亜が東京に来て一年か」
 香里亜が東京までやって来たとき、一番最初に話しかけたのは冥月だ。空港まで香里亜を迎えに行き名前を確かめた時に、香里亜が顔を赤くしながら「はっ、はい?」と聞き返したのが印象に残っている。
「そうです。最初は心細かったんですけど、何だかあっという間でした。そう考えると何だか早いですよね」
 五月に東京に来て、一年が経つのはあっという間だった。その間に色々な事件が起きたり、多少怖い目にも遭ったりしたが、それでも東京に来て良かったと香里亜は思っている。たくさんの友人、たくさんの出来事。それは北海道の父の元にいれば、出会わなかったものだろう。
 何となく感慨深くなりながらそう呟くと、冥月も香里亜の隣にスッと座る。
「記念に何か贈ろうか」
「ほえ?」
 折角出会ってから一年経ったのだ。それまで、亡き恋人の墓を守るぐらいしか生きる目的がなかった冥月も、香里亜がここに来たことによって「香里亜を守る」という目的が出来た。それに感謝しているということもあるし、誰も何も考えていないのであれば自分が祝ってやってもいいだろう。
「えーっと……何も考えてなかったです。一年って言われて『そうだったっけ』って思いだしたぐらいですから」
「そうか。何かして欲しい事があるなら、それでもいいぞ。次までに何か考えておけ」
「でも、クリスマスにも色々贈ってもらっちゃったし、冥月さんとは旅行もしたんですよね……次までに頑張って考えておきます」
「思い切り欲張ってもいいからな。遠慮はするなよ」
 そう言いながら冥月かクスクスと笑った。香里亜はあまり欲深い方ではないのは分かっているが、ついそうやってからかいたくなる。何かを買うことに関しても、冥月は使う宛のない金を大量に持っているので、ちょっとやそっと何か買うぐらいでは、特に懐が痛むこともない。
「欲張るような物もないんですが……あ、そうだ。それはひとまず置いといて、冥月さん私の家で夕ご飯食べませんか?時間かけて作ったチキンカレーがあるんですよ。一緒に食べたいなと思って、ぐつぐつ煮込んでたんですけど」
 にこっと笑った香里亜の頭を、冥月がくしゃっと撫でる。
「カレーか。私と一緒に食べるために作ってたのか?」
「ふふ、カレーとかシチューの煮込み料理は、たくさん作った方が美味しいので、張り切って作ったんです」
「じゃあご馳走になるか。次までには考えておけよ」
「はい、そうしますね。どうしようかなー、お出かけが良いかな、それとも思い出に残る何かをもらった方が良いのかな」
 一生懸命考えている香里亜に、冥月はくすっと笑いながらもう一度頭を撫でた。
 もし何も考えつかなかったときは、驚くぐらい盛大に祝ってやろう。

fin

◆ライター通信◆
いつもありがとうございます、水月小織です。
訓練が最初に戻って痛みに慣れる事や、いざというときの打ち合わせなど、色々書かせて頂きました。もうすぐ一年ですね……あっという間にまた春がきてという感じです。
影の剣で斬られるのは、分かっていても最初はやはり怖いだろうということで、ぺたっと座り込んだりしています。次はきっとすぐ走れる…かな?
タイトルは黄菖蒲の花言葉です。信じていれば、それだけで幸せなことだと思います。
リテイク、ご意見は遠慮なく言って下さい。
またよろしくお願いいたします。