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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


遠雷に舞う飛沫

 その時、外では豪雨と雷の洗礼を大地に、この地の全てを洗い流すかの如くたった一つの地域、けれど見た者には世界中の全ての地域が滝にでも打たれてしまったかのように見えた。
 雷の色は様々、黄色に紫、それぞれの色を持って辺り一面を美しく激しい感情の渦へと巻き込んでいるのだから。暖かい、などと言うものではない。
「――ッ!」
 暗く茂った森を見渡す場所は思いの他明るく、やってきた客人である空狐・焔樹(くうこ・えんじゅ)を暖かく、そして優しく包んでくれた。
 四月、そして五月の初頭。ともなれば野生の生き物達は一斉にその愛を胸に秘め、子供を増やす。人間の間としても春は出会いの時期、逆に別れの時期とも言う。
(馬鹿者が、私はなにをしておるのだ!?)
 膝を抱え、まるで子供が親に叱られ、泣いているかのように蹲る焔樹。その耳からは人のそれではなく、空狐としての、いや狐としての耳と柔らかな五本の尻尾が時折吹き付ける風になびいていた。

 口を閉ざし、その耳を伏せ、風の思うが侭に尻尾をなびかせる焔樹の理由。それは決して雷や豪雨が怖いというわけではない。
 いつもならば雷の無常さと美しさに見惚れ、豪雨の美しい涙に見とれるであろう焔樹は、今例え春うららかな花が咲き散らばろうともこの体勢を崩す事はないであろう。
 外の風は春というよりは秋のそれで、頬を撫でる冷たさが丁度良い。
 元々この朽ちた場所は壁こそないものの、何故か風は通しても豪雨や雷の被害が無い。まるで、特別な場所。
(そう、だな。 あやつとの…)
 思い出して頭を振る。火照っているのは頬だけではなく身体全て。それが人の姿も上手く保てなくなり焔樹は今、野生の狐に法った欲を持て余しているのだ。
(これしきの…ことで…)
 悔しい、恨めしい。空狐である自分の制御できぬ感情が胸の内で横暴に暴れまわる。
 もし、今ここが天界ならば焔樹は誰彼構わず、野生の本能としてその身を焦がしていただろう。下界、よく留まる店でもそうだ。習性ならば仕方ない、いつもそうやって過ごして来た事柄全てを今の自分は全力で否定していた。

「くそっ…!」

 男のような声と、女の悲鳴を混じらせて喉から声を出す。
 長い爪が膝を掻き、朱色の涙が流れる。と、すぐにそれは神力か、或いはこの状況下の回復力が増幅しているせいか、零れ落ちたものは小さな宝石となる。
 思い出の場所、ここはよく焔樹と、そして彼女の想う人物がその疲れを癒しに来る場所。共に笑いあう日もあれば自分ばかり拗ねている日もある。顕著に出た嫌悪する欲もそんな場所では表に出るまい。
「愚かだな…私は…」
 楽になる方法などいくらでもある。けれど、この思い出の場所に来る人物の笑顔が、いや、もしかすれば寝顔であったかもしれないが焔樹の火照った欲をただ暖かい気持ちへと浄化してくれる。

 豪雨と雷の舞うその日。空狐である一人の女はただ膝を抱え、目を瞑りお呪いを唱える子供のように両膝に唇を埋め、小さく言葉にならない言葉を紡いでいた。
「…珍しい」
「っゆ、故!?」
 背後から彼の声が聞こえるのはもう何度も、飽きる回数、飽きない逢瀬で慣れてしまっている。筈なのに、低い声を少し上ずらせ、本当にさも珍しいものを見たように言葉を紡ぐ露樹・故(つゆき・ゆえ)。彼は翡翠の瞳をさも面白いものを見たとばかりに数度、瞬かせ、焔樹の側へと寄ってくる。
「ま、待て! 故!」
 今故が側に来てしまえば自分はどうなってしまうのだろう、愛を囁くか、人肌だけを求めるか。否、そんな一時のものは紡ぎたくはない。
「貴女の耳、元気が無いようですね?」
「…っ、この…」
 子供が母親にあやされる様だ。けれど、そのお陰で欲を彼にぶつけずに済んだ焔樹も居る。
 そうだ、出来れば故と紡ぐのならば永久とも言える時の中、二人幸せと名の付く時間を過ごしていたい、口が、それだけは裂けても言えぬが焔樹の心と今の自制心を生み出しているのだ。

「そんな貴女も可愛らしいですよ」

 故は、焔樹の正体は知っていたとして、生態までは知らない。
 動物として子孫を残す考えも、その間うずく身体も、心も。知らないから、焔樹の下を向いたままの耳を静かに撫で、月から零れ落ちたような笑みを向けるのだ。
「や、やめろっ! さ、触るでない…っ!」
 いつもならば声を荒げずとも良い事でも、今回ばかりは分が悪すぎる。焦りと羞恥と、そして思考を遮る何かに焔樹は躍起になっているのだから。故の行動は出来れば控えてもらいたい。
「おや、本当に珍しい貴女ですね? 尻尾も、ホラ?」
 五本の尻尾はなびくがまま、そして故のなすがままにゆらゆらと、手に取られては優雅な毛並みを撫でられ心地良さそうに淡く揺れている。
「うっ…故…や…っ!」
 どんどん顔が赤くなっていく、尻尾も心地よい刺激に今にも狐として、空狐としての姿を現しそうになり焔樹はとうとう泣き出してしまった子供のように曇った黄金の瞳までを隠してしまった。
「お嫌、ですか?」
 触れていた尻尾から手を引いて、故の声はここで初めて憂いを帯びた。
 尤も、焔樹が嫌ではないという返答を返すと彼ながらに理解して放った言葉で。まさかそれが。

「当たり前であろう! お主はそれが分からんというのか!?」

 言ってしまった。もう駄目だ、焔樹は心の中で自らを叱咤すると共に奈落の底に落ちるような気持ちを味わう。こんな形で、自分の身体の調子だけで全てを崩してしまうというのか。今まで築いた思い出をたった一言、それだけで。
「そう、ですか」
 故の言葉は焔樹の悲鳴に近い声から数秒、もしくは数分経ってから辺りを支配した。
 豪雨と雷雨に包まれているというのに、まるで故の言葉が焔樹の中にすんなり入ってくるような、そんなごく自然な形で、瞳に涙すら浮かべて俯く自分に、降ってくる。
「すみません、でも、弱々しい貴女も、嫌いではありませんよ?」
「――!?」
 静かな雨だった。故の言葉という雨は、静かに焔樹の心を濡らし、その隅々にまで浸透していく。決して落胆した音も、からかっているわけでもない声は安心という晴れ間を心に燈してくれる唯一の光。
「っう、この…!」

 ばかもの。

 言葉に出して言ってやりたかった。けれど、故は焔樹が思っているよりずっと大人の人格を持ち合わせており、自分はまだずっと子供である事がよく分かった。
「泣かないで下さい、ほら。 相変わらず感情的ですね、貴女は」
 相変わらず、が余計だ。でも、そう言って焔樹から微笑みを零させるほどに故の話術は巧みで、涙と漏れそうになった嗚咽はただの笑いとなって唇から零れ出る。
「しって、おる。 …であろ…?」
 言葉がしっかりと声になって出ないのが辛く、緩和されたとはいえまだ思考を遮る欲が焔樹の涙を遮る。見られては居ない、しっかりと膝を抱えたその下にある自分の顔は。
「ええ、知っていますよ。 何もかもと、俺は言いませんけれどね」
 今、故は何処を見てものを言っているのだろう。自分か、はたまた豪雨に濡れる大地か、雷が吼える空なのか。いずれにしても、近くに届くようになっている声は暖かみを増していて、そっと柔らかな風に包まれれば。
「ゆえ…」
 暖かい。情も欲も捨て、ただ子供をあやすような腕の中。それは紛れも無く故の胸の中であり、焔樹は今までの焦りではなく、ただ一時甘えるだけの子供となった。
「俺の弱みは…? 貴女は知っていますか?」
 御伽噺でも言い聞かせるようにして、故の声が問う。当然、焔樹の答えは否、知る筈は無い。知って遊んでやろうとした悪戯心はあっても。
「それは。 ――ね?」
「?」
 豪雨が一度大きな音を増し、雷が辺りを取り囲んだ。
 これはきっと故の仕業に違いない、そんな風に思わせるような一瞬、何も聞こえなかった一言に焔樹は涙の溜まった瞳をただ上に上げる事しかできない。
「ほら、ようやく貴女の顔が見えました」
「なッ!?」
 頭の中の全てが吹き飛んでしまうような一言。
 それは、故の弱みを言葉にしたというより、焔樹の顔が見たいが為のひっかけ、であったのか。恥じらいと怒りで心が揺れ動く中、それでも何か笑がこみ上げてくる。
「お主は…」
「意地が悪い? ですか?」
「どうしてくれよう…!」
 愛しい、けれど言う事は出来ない。何より今、そんな風に女である自分を確認できるかと言うとそれは違った。
 故の言葉巧みな仕草に子供の頃に戻ったかのような悪戯心と、母親にいいように扱われたような、どこかくすぐったさを感じている自分が居るのだから、焔樹はただ故の腕の中で欲と戦い抜いた身体を静かに落ち着け、時折肩を揺らせるしかない。

 豪雨の中、時折雷が空を彩る時間、それはあまりにも長く、何日、いや何ヶ月も経ったかのようにも思える時間であった。
 側に居る互いの温もりと、何より時折焔樹を微笑ませる故の会話は今までのどの思い出よりも美しく、この場所が新たに思い出の場所となるような。自分が種族を超えても想う相手の側で一夜、それは何も無い一夜だったかもしれない、が、欲という欲を抑え、共に過ごした日。
(こやつはどう、思っているのか…の)
 この一時が焔樹にとってどれだけ大切だったかを、どれだけの自制心で自らを押さえ付けていた事を。或いは自分と過ごした一時が良いものであって欲しい。想っている、それが伝わっていなくともお互いが一つとても大切な時を共有した。
 そう考えていれば自然と心が平穏を取り戻していく。

「のう、故?」
 目が腫れている。らしくない、と笑いつつも、焔樹はそれを隠す事無く、平穏を取り戻した自分と、そしてあれだけ鳴っていた雷が止んで暫く。たゆたうように故の肩を背にしながら言葉を紡いだ。
「まるで私は本当に滑稽な者になってしまったな」
 故に醜態を見られ、涙し、揺り篭に眠る赤子のように過ごしてしまった。例え心地よい思い出となっても、本来ならば恥ずかしくて顔を見せる事も出来なかったであろう。
「本当にそう思ってますか?」
「…お主は、どうだと思う?」
 風向きが変わった。焔樹から故へと吹いていた風が故から焔樹へと流れ、彼特有の日陰のような、光のような不思議な香と、青銀の髪がまだ出ている狐の耳を覆うようにして青空の見える空へと舞い上がる。
「それも貴女だと思いますよ。 俺は、涙を醜悪とは思いません」
 私見ですが。と、故は付け加えた。
(おおばかもの、そう言うと…)
 もどかしい、けれど心地よい。口に出してしまうのが何故か勿体無いと、そう、思ってしまう時もあるのだと。
「思ったわ」
「? はい?」
 故が今度は珍しく、首を捻った。涙に濡れた子供の焔樹は彼の腕の中でその反応を面白がって笑っている。
 きっと、こんな風に接する事のできる相手だからこそ、自らを受け入れつつ情欲の波に流されなかったのかもしれない。故と、出来るならばこのまま。
「意地悪ですね、貴女は。 何を思ったか俺に教えてはくれないのですか?」
 優しい翡翠色は焔樹をまっすぐ見て、自分の頬にまた朱色が差すのが分かる。
 今度は欲などのものではない、焔樹自身の心の揺らぎ、心地よい安らぎの場所を見られまいと視線を逸らし一度だけ、人間としての幻影を見せるとすぐに空狐としての、狐の姿へと戻った。
「お主も似たようなものであろう? のう?」

 ――故。

 名前はあえて、言葉にはしなかった。あの時、母親のように親身に側に居てくれた彼をまだ身近に感じていたくて、焔樹はひらりと故の側から離れ、天空から彼と、思い出の場所を見下ろす位置に留まる。
「おや、俺は貴女程意地悪ではありませんよ?」
「よく言うわ」
 空狐としての焔樹はその名前に恥じず、美しい。
 美という言葉は数あれど、これ程に美しい獣が空へ飛び立つ姿は天女にも出来ぬであろう、幻想的な空の海。果てしなく続く海原に雲という名の波が打ち寄せている。

「…居てくれて、よかった。 礼を言う」
 飛沫に塗れてこの言葉は届いただろうか。まだ少しばかり残った雨は心地が良く、焔樹の身体を濡らし、全てがまだ晴れきっていない空を泳ぎながら思う。
「こちらこそ、楽しかったですよ?」
 とても。有意義というよりは、故にとって意外な人の一面を見る機会として。腕の中に蹲った女性の温もりは非常に優しく、彼にとっても暖かかった。

 もし、交わる事があるこの時ならば、また交わって欲しいと思う。例えそれがどんな形であれ、相手を思いやるという気持ちがある限り。全てはまだ、終わってはいないのだから。
 波打つ空がそれを物語るように、故は消えた焔樹の後姿を眺め、そして。静かにその場から姿を消した。また、もう一度、二人が出会うその日は――近い。