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<東京怪談ノベル(シングル)>


黒い悪魔と悪夢の午後


 天気の良い日だった。冴え冴えとした空に眩しい陽射し。心の中まで洗われるような気持ちのいい風。
 楷巽は窓の外の様子を見るとはなしに眺めていた。久しぶりの好天のせいか、はたまた暖かくなってきたためか、今日はやけに行き交う人々の数が多いような気がする。それにしてもここのところの気温の上がり下がりには……。
 取り止めもないことをつらつらと考えていると、奥の方から何かしら物が崩れ落ちる音と共に、この興信所の持ち主である草間武彦が携帯を片手に顔を出した。
「悪いな楷、もうちょっと待ってくれ…いやいやだから俺は違うって…!」
 後半は電話の相手に向けたものらしい。忙しそうな草間に楷は会釈で返すと、そういえば、と興信所の中をぐるりと見回した。あらゆる意味でいつも賑やかな興信所は、今日はどうやら皆出払っているようで、空気がしんとしている。こんなに静かなのは珍しい。初めてここへ訪れた時でさえ――。
 初めて、をふと思い出して、楷は背筋がすっと寒くなるのを感じた。思い返しても恐ろしい。あの日も天気が良くて、レポートの資料を買いに書店へ向かったのだった。それがまさか、あんなことになろうとは……。

 うららかな昼の空気を引き裂くような女性の悲鳴が、通りの向こうから伝わってきた。楷はほとんど条件反射的に音の方向へ走り出していた。
 ひとけのまばらな通りの、とある建物の前に震えている女性がいた。おそらく彼女が悲鳴をあげた人物だろう。だが、おかしなことに周囲に何か危険と認識できるようなものはなかった。
「あの、大丈夫ですか」
「あ、あれ…」
 青褪めた顔で彼女が指し示した先には、数匹の群れをなしているゴ○ブリが…。
「!」
「こ、こんなところ二度と来ないわ!信じられない!不潔よ!」
 楷が助けに来たはずの女性はそう吐き捨てると、立ちすくむ楷を置いて走り去ってしまった。
「あ、悪魔…いや、悪夢か…」
 成す術なく大量のそれがこちら側へ這い出てくるのを見つめていると、不意に現れた影がすばやく先頭の集団を革靴で踏み潰した。
「あ…」
「ん?何だ、ここに用があるのか?」
 男は無造作に革靴をアスファルトに擦り付け、楷の顔を伺うように見た。
「用はありませんが、あまり近づかないで下さい…」
 楷としては男のしたことは信じられないことだった。しかし男は少しも気に留めず、不意に楷の肩をぐっと掴むとゴキ○リの巣窟かもしれない建物の中へ無理やり引きずり込もうとする。
「ちょっ…何なんですか」
「んー?ちょいと人手が足りなくて困ってるんだが、手伝ってもらえないかと思ってな」
「手伝うって…」
 まさかアレの退治だろうか。そうだとしたら是が非でも御免被りたいと考えていた楷の耳に入った言葉は、男の外見と態度からは少々信じがたいものだった。
「俺、草間武彦って言うんだが、見てのとおりこの事務所で探偵業をやってるんだ」
 少しも見ての通りではないと思ったが、草間のあまりの強引さとマイペースぶりに翻弄された上に、何より困っていると言われれば、楷には断りづらいことなのだった。

「おー、待たせたな…ってどうしたんだ、ぼーっとして」
 珍しく気を使った草間が大きめのマグカップをふたつ持って戻って来た。楷は草間から湯気の立つコーヒーを受け取ると、今しがた思い返していたことを草間に話した。
「ほお、お前にも怖いものがあったのか…いやまああるんだろうが、何ていうかわかりづらいな…」
「怖いと言いますか、苦手と言いますか…生理的に受け付けないんですよ」
「ふーん…」
 先程まで聞きながら大笑いしていたくせに、草間の笑みは徐々に引きつり始めた。
「そういえば今日の用件は…?」
「あー…」
 楷が尋ねると、草間は目を逸らして考える振りをする。明らかに挙動不審だ。
 しかし楷がいぶかしみつつコーヒーをすすったところで、草間の表情からためらいとか戸惑いといった類のものが消えた。
「飲んだな」
「え、何か問題が…?」
「実はそれは今月最後のコーヒーだ。明日からは誰が来ようとも水。お前が今飲み干したのはここで受けられる最高のもてなしだったというわけだ。…で、受けたからには俺の頼みを断るはずがないよな?」
 ひどく思いつめた様子でそう告げられて、楷は思わず頷いていた。了承した楷に草間の表情は幾分やわらいだものの、いつもよりはずっと真剣な表情をしている。これはもしかすると相当危険なことを頼まれるのかもしれない、と楷が覚悟を決めたのは、あながち間違いというわけでもなかった。
「ついて来てくれ」
 そういって連れて行かれたのは、興信所2階の突き当りの部屋だった。どうにも日当たりが悪いようで、昼間だというのにその部屋の辺りは真っ暗だ。若干異臭もする。
 そうして開け放たれた部屋の中で、楷が見たのは、信じられないほど大量の――
「いやー、最近俺以外誰もいなかったもんだから、すっかりずぼらをしてな。こいつらの繁殖能力を侮ってたぜ…おい、楷?」
 草間がどうかしたのかと問う前に、楷は無言のまますばやく扉を閉めると、草間を置いてくるりと方向転換をした。
「ちょっ、俺を置いていく気か!手伝ってくれると言っただろう!?」
「ここで、待っていて下さい」
 振り向いた楷の表情は完璧な『無表情』で、草間はそこからかもし出される威圧感に負けて、気づけば楷を見送っていた。しまったと思っても後の祭りである。
 しかし草間が次のターゲットを呼び出そうとしていた時に、楷はドラッグストアの大きな紙袋を抱えて戻ってきた。
「戻ってきてくれたのか!…で、どうしたんだそれ」
 楷が袋から出したのは、大量のゴキブリ駆除剤だった。
「これを持っていますぐ部屋の中に、迅速かつ静かに入って下さい。使い方はわかってますよね?」
「え、いやでも多くないか。前にニュースでゴキブリ駆除剤の大量炊き出しで倒れた人間が出たって…」
「この部屋を放置できた草間さんなら大丈夫です」
 楷はそう断言すると、ゴキブリ駆除剤を草間に押し付けて、僅かに開いた扉の隙間から草間を押し入れた。
「ギャーーーーーーー……」

 その後暫く、草間武彦からゴキブリ駆除剤の匂いが取れなかったという…。



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