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<東京怪談ノベル(シングル)>


『四月七日』

 ―――ねえねえ、結婚したい?
 誰かがそう言って、あたしたちは皆頷いた。
 あたしたちはその時はまだ6歳だったんだ。
 だから皆、憧れていた。
 温かな家庭。
 ちゃんと両親が揃っていて、
 温かな笑いがあって、
 明るい場所。
 それはあたしたちがどれだけ望んでも手に入れられない物だったから。
 あたしは最初から持っていなかった。
 あたしはまだへその緒がついている状態でゴミ捨て場に捨てられていたから。
 他の子も同じような物。
 この時のあたしたちには怖れなんか無かった。
 ただ憧れだけがあった。
 向日葵の花が青い空でさんさんと輝く太陽に恋い焦がれて常に愛しいモノに顔を向けているように、あたしたちは臆面も無く温かな家庭という夢に希望の目を向けていた。
 はっ。ちゃんちゃらおかしいよね?
 捨てられたあたしたちは、知らないんだよ?
 知らないんだから、やれる訳無いじゃない。
 今ならあたしだってそう想う。
 きっとそのうち簡単に好きでもない男に身体を売ったり、好き同士とかって思い込んでいるだけの男にやられて、子どもができた途端に捨てられたりして、
 それで母親と同じように子どもを捨てるに決まっている。
 あたしは、怖い。
 大人になる事が。
 女になる事が。
 子どもを産む事が。
 もっと根本的な致命。欠点。世界で一番、無条件に子どもの味方になってくれるはずの母親に捨てられたあたしは、人として一番大切なモノを持ってない。
 哀しいね………。
 だけどさ、そんなの、考えてもしょうがない事なんだよね。
 だって、あたし、死ぬもん。次の、十六の誕生日で…………。
 本当に、あたしの、人生って………。
 あたしたちはただ、温かな家庭っていう、他の子が生まれながらにして当然のように持っている幸せに憧れていただけだったの。
 それが、こんな事になるなんて…………。


【Her daily life】

 春先のまだ肌寒い風に身体を撫でられるのは、この花を見ている間なら苦にはならなかった。
 私は桜の樹の下に立って、それを見上げている。
 淡い薄紅の花はようやく固く閉ざしていた蕾を開かせて、朗らかな想いの花を見ている私の胸に花開かせるように、咲いていた。
 桜、咲く。
 その可愛らしい薄紅の花が、私は確かに愛おしかった。
 まだ花開いたばかりの桜は風に吹かれてもその花びらを一片も落とす事は無い。
 それを私は残念とは思わない。
 桜の美しさはその散り際にあり、とはよく言われる事だが、しかしせっかく花開いたばかりの花だもの。今ばかりはその薄紅の花弁を風に舞わす事無く咲いていてもらいたい。そう思うのは、咲いたばかりの花を愛おしく思うから。その姿がようやく花開いた事を喜んでいるように思うから。
 ―――桜の花は、命を謳歌するように咲いている。
 そして私はそれを美しいと思えている。
 だから、
 今は咲いていて欲しい。
 風に一片の花びらも散らす事無く。
(あっ)
 ふと気になったのは、まだ花開かずにいる蕾。
「他の子は皆もう咲いているのに、随分とゆっくりなのね、あんたは」
 マイペースなところが誰かさんに似ている、私はそう思って、くすっと笑った。
 そして、
 くすっと笑えた事が、ひどく幸せで、胸が温かくって、嬉しかった。
 だって、似ている、と思えた人は、私の大切な人だから。
 大切な人が居る事が嬉しい。
 その人を想える事が幸せ。
 そういう人に私は出逢えた。
 人がこの世に生れ落ちてきて、そしてその後死ぬまで送る人生の中で、確かに幸せだと思える事はいくつかあって、そのいくつかの中に確かにある、大好きな人ができる、という幸せ。
 人は人を想う事で優しくなれるし、自分を初めて知れるのだと想う。
 私は彼を愛して確かに本当の優しさを知る事ができたし、
 私は私の知らなかった私をたくさん知った。
 そしてそれまでただ漠然と想っていた事が実は違っていた事も知れた。
 そういうの、確かに私が人を好きになれたから。
 それは奇跡の一つ。
 たくさんの中の人から、私が自力で見つけた、私だけの、大切な、貴方。
 それは奇跡。出逢えた事が。自力で見つけられた事が。
 それだけでも幸せだったのに、なのに私はさらに彼に愛してもらえた。結婚できた。死が別つまでふたりずっと一緒に居る事を誓い合えた。
 それが本当にすごい奇跡。
 泣いてしまうほどに嬉しかった、事。
 今の私はそういう幸せの微温湯の中で溶けている。
 手を伸ばす。花の蕾に。
 そっと指の先で触れてみたいと想った。
 指先で、蕾を取ってしまわないように、蕾を痛めてしまわないように。
 だけど、
「くっ、あと、ちょっと、なんだけど」
 少しだけ背が足りない。
(残念)
「その蕾に触れたいのか?」
 横からかけられた声。
 身体の右側から空気を伝って感じた体温。
 鼻腔をくすぐる紫煙の香り。
 私の夫、草間武彦が私の隣に立って、そっと枝を触った。悠々と。
「折っちゃダメよ、武彦さん」
「わかっている」
 声が素っ気無いのは照れている証。
 最初の頃は、出逢ったばかりの頃は、それがわからなくって、なんて愛想の無い男なんだろう、って、いつも私が何か困っている時に現れて、私ができない事をやってくれる癖に、礼を言う私に素っ気無い彼に何だか寂しさと悔しさを感じて、その度に目の前にある背中を蹴ってやりたくなった。だけど今にして想えば私はもうあの時にこの夫に惹かれていたのだろう。
 だから彼のする事や言葉がいちいち気になった。
 初めて自分の気持ちに正直になれたあの夜の、なんと恥ずかしくって、くすぐったかった事だろう?
 お風呂の中で自分の想いや行動をいちいち反芻して、照れて、悶えて、お湯の中に潜って、
 お布団の中に入っても、目が冴えて眠れなくって、だからずっと彼に出逢ってからの自分たちの事を反芻する目に遭って、
 だけどいちいちそういう事をする度に幸せだと思えたんだなー、これが。
 本当に女の子だと思えた。
 そう。
 女はいくつになったって、心の中はいつまでも変わらない、思春期の少女なのだ。
 私は草間武彦の前に立つと、いつだって初心な思春期の少女の頃に立ち戻っていた。
 ―――ただそれでもあの頃の、初心だった思春期の少女の頃の私と明確に違っていたのは、確かに私は草間武彦というひとりの男、人間に恋をしているのであって、恋に恋をしていた、という事ではなかった事。
 私はそんな自分を感じる度に、ああ、私は本当にこの人が好きなんだ。恋をしているんだ、私。と想った。
 想えた。
 そして私はこれからもずっと恋をしていくのだろう。
 片想いをしていた私が、ずっと恋をしていた様に。
 両想いになれた私が、ずっと恋をしていた様に。
 結婚しても、そしていつかふたりの間に子どもができても、私はきっと何かある度に知らなかった夫の一面を知って、その度に恋をしていくのだ。草間武彦に。
 それが私の幸せ。
 もしも本当にこの世に神様が居るのだとしたら、それはきっと草間武彦。
 桜の花の蕾がある枝がそっと優しくしなる。私の指先は蕾に触れる。
 春先の肌寒い風は、だけどもう気にはならなくなっていた。私の身体は、まるで暑気あたりをしたかのように心地良い眩暈を伴う温もりに包まれているから。
 動悸が激しかった。まるで初めて抱きしめてもらえたあの日のように。
 私は隣に居る武彦さんを見て、それからありがとう、と唇を動かした。
「蕾に触りたかったのか?」
「ええ」
「早く咲きなさい、ってか?」
「いいえ。そのままのあんたでいなさい、って。変わらない自分で居る事は本当に難しいんだから」
 私がそう言うと、武彦さんは肩を竦めた。
「良い母親になるだろうよ、おまえは」
 もちろん、私が武彦さんの肩を叩いたのは、照れ隠し。



 それから私はちょくちょくとこの桜の花の蕾を見に来るようになった。
 だけど花の蕾にとっては少し迷惑だろうか? 早く咲け、と急かされているようで………。
(うーん)
 悩んでしまう。
「今日はやめておこうかしら?」
 もしも迷惑がられていたのなら桜の蕾が気の毒だ。
 でももしも迷惑がっていなくって、私が来る事を楽しみにしていてくれたなら、それはそれで桜の蕾には悪い。
(うーん。ハードだな)
 私はため息を吐いた。
 そんな自分に思った、
「何だか片想いしているみたいだぞ、私」
 何だか最近私はひとりでよくくすりと笑っているのだが、今回もやはりくすりとひとりで笑ってしまう。
 それで、
 その片想いしている、というのが私に名案をくれた。
 そう。それこそ本当に片想いしている子みたいな行動をしてしまえばいいのだ。
 偶然見かけて、一目惚れした人にまた会いたくって、それで無理やり口実を作って、偶然また会いましたね、っていうのを装うあの感じ―――。
 桜の樹があるのはちょっとした公園の入り口で、そしてその公園の入り口のすぐ隣には老夫婦が営業している甘味屋さんがある。その甘味屋に私は買い物をしに着ました、っていう風。そういう作戦。
 甘味屋さんの暖簾をくぐって、お店の中に入る。
「いらっしゃいませ。何にいたしますか?」
「はい。お持ち帰りで、鯛焼きを、」
 ください。というつもりでケースを見たら、普通のレギュラーサイズな鯛焼きのケースの隣に、小さな鯛焼き(あえて言うなら、鯛焼きというよりも金魚焼き?)が並んでいた。餡子、カスタードクリーム、チョコレート、ヨーグルト、中身は色々とある。
 金魚焼き、一個三十円。
 鯛焼きが八十八円。
 この場合、素直に鯛焼きを買った方がもちろん経済的なんだけど、
「この小さな鯛焼き、そうね、全種類十個ずつくださるかしら?」
 物珍しさの方が勝っちゃった。それに事務所に居るふたりにも見せたいしね。
 金魚焼きの入った紙袋を持って、それで私は、鯛焼きを買いに来て、帰るのだけど、公園の中を突きっていった方が早いのよね、という風を装って、それで、公園に向かう。
 それこそクラスの男子に片思いをして、それで、見ていませんよ、という素振りをしながらしっかりと片想いの男子を目で追う様に桜の花の蕾に視線を向けるのだ。
 はらはらと風に舞う薄紅の花びらの向こうで、それは綺麗に咲いていて、
 それを見た私の顔も綺麗に笑みの花が咲き綻んだ。
 私は風吹いて、舞う、薄紅の舞姫の中を上手に私もその一員であるかのように歩いて、花開いた桜の花に綺麗よ、と賛辞を贈った。
 ―――ありがとう、という声が聴こえたのは、きっと空耳ではない。



 公園を突っ切っていくと確かに近道にはなるのだけど、まず先に出るのは裏通りになる。
 ようやく冷たい空気のどこか硬い匂いが抜けてきた空気の香りが淑やかに街に広がりつつあるにも関わらず、ここは一年中昼夜を問わず夜の匂いがする。
 そして私はそれだけでも気が滅入るのに、余計に気が滅入る現実を目の当たりにする。裏通りから繋がるのはホテル街で、そこへと続く道を中年のサラリーマンと女子高生が連れ立って歩いているのだ。
 ―――見た以上はほかっとけない。
 私はため息を吐いて、ふたりの前に立った。
 途端、男性は自分がこれからしようとしている事の後ろめたさを意識しているのか顔を俯かせ、おどおどとしだした。
 しかし彼は別にどうでもいい。
 私がおや? と思ったのは女子高生だった。まるで心あらず。魂の抜け殻だった。
「あんた………」
 私が彼女に声をかけると、男は逃げていった。
 しかし彼女はそれに反応しなかった。
 それで私はぼんやりとだが、あの男はこの娘の様子がおかしい事を良い事にホテルに連れ込もうとしていたのだ、と感じた。
 そして同時にこの彼女が何かのっぴきならない事態に置かれている事には明確に気付いた。
 何もただ草間興信所で働いていた訳じゃない。彼女のかもし出す空気はこれまで私が仕事で会ってきた人たちと同じものだった。
「大丈夫?」
 私がそう訊くと、彼女の目の焦点が一瞬私に合い、しかしすぐに彼女は彼女の世界に堕ちていった。
(これは、ほうってはおけないわね)
 私はひとつ頷くと、彼女の右手の手首を掴んだ。
 ―――私が驚いたのは、凄まじく彼女の手首が細すぎたのと、体温が低い事にだった。
「私はね、シュライン・エマって言うの。あんたの力になれると思うから、どうかしら、 一緒に来てくれない?」
 ―――!!!
 彼女は薄っすらと笑った。
 そう、おそらく彼女は笑ったのだろう。
 私にはそれは笑みには見えなかった。表情にならない表情。粘土細工で作った表情を踏んで壊したような、そんな、壊れた、モノ。
 ―――表情は心の鏡だ。
 それが壊れているのなら、彼女は壊れているという事………。
 ぞっとしたモノが背筋を駆け上った。
 思わず彼女の手首を握っている手を離しそうになった。
 だけどそれでも私の手が彼女の手首を握っていたのは、その手を離した途端、彼女が消えてしまいそうだったから。
 だから、私は彼女の細すぎる手首を握っている方の腕を引いた。
 彼女の身体は見た目よりも細くって、
 簡単に私の胸の中に飛び込んできて、
 私はその彼女の身体を強く強く抱きしめた。
 彼女が消えてしまわないように。
 もう彼女が独りで震えて、泣かなくっても良い様に。
「大丈夫。絶対に私たちがあんたを救ってあげるわ」
 私は彼女を励ますように、
 全世界に向けて宣戦布告するように言った。
 私の胸の中の彼女は私のその言葉に大きく震え、
 そして躊躇うように私の背中に片腕を回した後に、
 ぎゅっと私に抱きついた。
 まるで溺れていた幼い子どもが、そうする様に。
 あれだけ晴れていた春の青空は、いつの間にか、分厚い雨雲に覆われていた。



【A girl of a client】


 ―――ねえねえ、結婚したい?
 誰かがそう言って、
 それであたしたちは皆頷いた。
 その時のあたしたちは皆、温かな家庭に憧れていたから。
 あたしたちは教会の孤児院で暮らす孤児だった。



 それは本当に他愛も無いただの子どもの遊びだったのだ。
 そう、子どもの遊び。
 もう、その時の気持ちは定かじゃないけど、でもきっとその時のあたしだってそれを信じてはいなかった。
 けど、それでも子どもらしい夢が見たかった。
 興味があった。
 ただそれだけの事で、
 そして、
 それだけの事だった事が、
 今現在のあたしを苦しめている。
 ああ、心が壊れてしまえば良いのに。
 いっそうの事。
 本当にそう思う。
 心が壊れて、
 あたしがあたしでなくなれば良い。
 そしたらこんな恐怖、感じなくて済む。
 救われる。
 なのに心は一向に壊れてはくれなかった。
 その癖あたしは眠れなくって、食べた物は全部吐き出して、身体は衰弱していって、でもどうしても心は壊れてくれなくって、身体はぎりぎりの場所で生かされて、もう本当にどうして良いかわからなくって、
 それであたしは、壊れる事ができないなら誰かに壊してもらおうとして、好きでも無い人に身体を嬲られたら壊れられると思って、
 知らないおじんの誘いに乗った。
 もう本当にどうでも良かった。
 壊れる事ができるのなら。
 この苦しさから、
 怖さから解放されるのなら。
 どうせあたし、十六の誕生日で死ぬんだし。
 だから…………。
 だけど、なら、十六の誕生日を待たずして、怖いのなら、苦しいのなら、解放されたいのなら、自殺してしまえば良いのに、それができないのは、ずっと待ち続けた、いつかあたしの両親があたしを迎えに来てくれるかも、という希望を捨て切れなかったから。
 あたしを捨てた人たちだけど、
 でも、そこはあたしが帰りたい場所だから………。
 そして叶う事の無い夢にすがり付いて、その癖壊れる事を望む、結局自殺なんてする勇気も無いあたしは、その人に出逢ったんだ。
 シュライン・エマさん。
 知らないおじんにホテルに連れ込まれる寸前だったあたしを引っ張り戻してくれた人。
 あたしを、抱きしめてくれて、優しく大丈夫だよ、って言ってくれた人。
 ―――温かくって、柔らかくって、すごく気持ち良かった。
 シュラインさんに抱きしめられながらあたしは思ったんだ。


 ああ、お母さんに抱きしめられるのって、こんな感じなのかな?


 って―――。


 ねえ、お母さん、どうしてあたしを捨てたんですか?
 あたしではダメでしたか?
 寂しいです。
 苦しいです。
 怖いです。
 あたしは、殺されます。十六の誕生日に。
 だけど…………
 あたしを抱きしめてくれた女性は、あたしを救ってくれるって、約束してくれました。
 だからあたしは生きてみても良いですか?
 あたしは生きたいです。
 生きていきたいです。
 それでいつか貴女に会いたい。
 あたしはお母さんに会いたい。
 会いたい。会いたい。会いたいよ、お母さん。
 あたしはあなたに会いたい。
 会いたいから、生きていたんだ。



 あたしはあたしを抱きしめてくれたシュラインさんの柔らかくって温かい胸の中で、大声で「生きたい」、って泣き叫んで、気絶した。



 +++


「はい、どうぞ」
 私は彼女の前に砂糖とミルクたっぷりのカフェオレと金魚焼き乗せたお皿を置いた。
 そして私は旦那の横に座る。
 彼女は私を見て、それから武彦さんを上目遣いで見た。それは知らない大人の前に引っ張り出された子どもの仕草で、彼女の心は手に取るようにわかった。
 とにかくまずは心を落ち着けてもらわなければならない。
 私は彼女に微笑んだ。
「召し上がって。お話はそれから。ね、それで良いわよね、武彦さん」
「ああ」
 武彦さんは意識して大きく頷いた。
 彼女はくしゃっと顔を泣き出す寸前のように歪ませた後にカフェオレを飲んで、それから金魚焼きをひとつ口の中に入れて、「美味しい」、と呟いた。
「カスタードクリーム、あたし、好き」
「クリームパン、美味しいわよね。私、牛乳飲みながら食べるクリームパン好きだな」
「うん」
 彼女はようやくくすりと笑って、それからもう一匹金魚焼きを食べる。
 ………どうやらヨーグルト入りの金魚焼きは口にあわないようだ。
 私は肩を竦めて、私の分のカスタードクリームの金魚焼きを彼女のヨーグルト入りの金魚焼きと変えてあげた。
 武彦さんはそれを私の隣で眺めていた。コーヒーを飲みながら。それは私に彼女をリラックスさせる役を任せてくれているからだ。
 完全なる分業制。適材適所。弱った心を温めてあげるのは嫌いじゃない。笑ってて欲しい。
 だから、
 私は彼女の固く閉ざされた心の蕾が少し開いたのを見計らって、彼女に微笑んだ。
「話してくれるかしら?」
「はい」彼女は頷く。
 そして彼女は口を開こうとして、だけどそれを心が拒んでいるようで、とても寒そうに己が身を自分の両腕で抱いた。
 私は椅子を立ち上がり、彼女を横から抱きしめて、背中を摩った。
 腕の中の彼女は弱々しいけど、しかしはっきりと私に頷いて、そして訥々と語ってくれた。



 +++


 結婚したい? とあたしたちに訊いてきた彼女だが、しかし彼女が言わんとしているのは結婚する方法とかそういうのではなかった。
「それは呪いでした」
「呪い?」そう繰り返したシュラインさんにあたしは頷いた。
「はい。自分が結婚する年齢を知るための呪いだったんです」
「ふむ。要するにあれね。夜中の0時か2時に水を張った桶を剃刀をくわえて覗き込むと、自分が将来結婚する相手の顔が映るって」
「はい」
 あたしは頷いて、そこで口が止まってしまう。
 息苦しくって、声が出せなくなる。
 それはここからあたしが語らなければならなくなる事が、それだけキツイ事だから。
 怖い、事だから。
 ため息が、ひとつ零れた。
 それは草間武彦さんが零したモノだった。
「その結婚相手が桶に映る呪いには、やってはいけないタブーがあったはずだ。例えば将来の結婚相手の顔が映っている桶に剃刀を落とすと、その結婚相手の顔に傷がつくとか」
 それは責めるのではなく、ただ淡々と語られる口調だったけど、あたしが語りを止めてしまった理由を突いていた。
 ああ、本当にこの人たちは良いコンビだな、とあたしは思った。
 シュラインさんがあたしに優しく接してくれているから、この人は敢えてあたしが語れないあたしが仕出かした事のツケを突くような役回りを自らしてくれたのだ。その役をシュラインさんにさせてしまったら、あたしが彼女を頼れなくなるから。あたしが辛くなるから。
 あたしがシュラインさんを見ると、彼女は優しく微笑んでくれた。
 本当に優しい、人たち。
 だからあたしは意を決して、語ろうと思った。
「あたしが教えてもらった呪いは、結婚式の帰りの人に好きな数字を言ってもらうと、その数字の歳に結婚できる、というものだったんです」



『そう。数字を言って貰うの。そしたらね、その数字の歳に結婚できるんだって♪』
 ―――それは本当にただの子ども騙しな呪いのはずだった。
 だけど、あたしたちはしてはいけない事をしてしまった。



「お葬式の帰りの人に、間違って聞いてしまったんです、数字を」
 それは自分でもぞっとするぐらいに感情の篭らない声だった。
「ただの子ども騙しな呪いのはずでした。けど、あたしの他に三人の子がいました。その三人はあたしよりもひとつ年上でした。それでひとりは養女に行きました。そして去年、お葬式の帰りの人にあたしたち全員が言われた一六、っていう数字、一六歳の誕生日にそのふたりは、死んでしまったんです。あたしの、あたしの目の前で殺された。突然、とつぜん…………突風が吹いて、そしたら、彼女たちダンプカーに轢かれて…………ぐしゃぐしゃに」



 あたしは忘れられなかった。
 ふたりの死に様を。
 あの見るも無残な光景を。
 どうして、
 どうして、
 こんな事に…………。



「誤解が生んだ悲劇、か。確かにネクタイを外されちゃうと、結婚式の帰りか、お葬式の帰りか、わからなくなっちゃうわよね。結婚式帰りの人に数字を聞けば、自分の結婚する歳。お葬式の帰りの人に数字を聞けば、自分が死ぬ歳。負の縁が、繋がってしまった? だけど、」



 +++



「疑っているのか?」
「ええ。冷静にあの娘の話を分析してみてもちょっと、にわかには信じられないかな、って。誤解でお葬式帰りの人に呪いをかけてしまった。だけど武彦さん、素人の、しかも当時まだ小学校低学年の子がかけた呪いがそこまでの効力を持つものかしら?」
 私はそれにNOと言える。
 それはこれまで怪奇探偵草間武彦の助手として数々の心霊事件に携わってきた経験則からも明らかだからだ。
 呪いは素人が扱えるモノでは無い。
 では何故彼女と同じ孤児院で過ごし、一緒に呪いを行った少女ふたりは死んでしまったのか、
「私は偶然だと思う。ただ、たまたま偶然、というのが確かに重なりすぎてはいるけど」
「目の前でふたりが死んでしまい、それが偶然彼女たちの一六歳の誕生日だったから、それで彼女の中で思考の飛躍が起きてしまった、というのも充分に考えられる。しかしな、」
「ええ。とにかく彼女の誕生日まで残り一四時間。引っかかる事がある以上、この一四時間でその引っ掛かりを無くさないとね」
 ただの偶然だったのだ、と彼女を納得させるために。
 もしくは何らかの怪奇現象が起こっているのなら、この一四時間でそれを解決しないといけない。
 私はぎゅっと拳を握った。
 そしたら武彦さんがふいにふっと笑ったのだ。
「武彦さん?」
「いや、偶然、というモノは厄介だな、と思ってな。偶然彼女が出会ったのがシュライン・エマだった、というのが一番の偶然という名の必然だと思わないか?」
 ―――確かにね。



【An investigation start】


 事件を調査するに当たり、私と武彦さんは二手に分かれて時間を有効的に使う事を選択した。
 この事件でまず証明しないといけない事は、果たして彼女の目の前で死んだふたりは本当に呪いのせいで死んだのか、という事だった。
 それを証明する手段として一番の有効な手は、養女に行ってしまったという娘の生存を確認する事だ。
 どうも依頼者は彼女も死んでしまっていると思い込んでいるらしく、それを確認はしてはいないらしい。
 だから彼女の生存を確認する役を私は請け負った。
 彼女の生存が明らかになればふたりは不幸にもたまたま偶然事故に遭っただけ、という可能性が濃厚になるのだ。
 果たして彼女は、
 生きていた。
 私は彼女の養家へと連絡し、それで彼女の生存を確認したのだ。
 実際に会ってもみた。依頼者から貸してもらった彼女の幼い時の面影を残した彼女に会い、私は胸を支配していた息苦しい感じが若干薄らいでいくのを感じた。
「わざわざすみません、来ていただいて。シュライン・エマさん」
「いえ。こちらこそ。あのね、できれば彼女に会ってもらえないかしら? 彼女、すごく怯えていて」
「はい。もちろんあたしもそのつもりです」そう言って、それから彼女は、「その、」、と低い声で独り言の様に呟いた。
「彼女たちが、ふたりが、亡くなった、って、本当、なんですよね?」
「ええ」
 私が頷くと、彼女は顔を両手で覆って、その華奢な肩を震わせはじめた。
 低い嗚咽がたまらなかった。
 たまらなく、哀しい。
 誰だって親しい人を失えば苦しいに決まっている。
 彼女たちは特にそうだろう。
 辛い幼少期を孤児院で一緒に育った、いわば姉妹のような関係なのだから。
 私は顔をあげて、「ごめんなさい」、と呟いた彼女に温かいミルクを勧めて、彼女がそれを飲み干したのを確認して、言った。
「それで、あなたは何とも無いのね?」
 私がそう訊くと、
 彼女は確かに頷いた。
 では、やはりただの偶然?
 私が下唇を噛んだのと、携帯電話が着信を報せたのとがほぼ同時だった。携帯電話のディスプレイに表示されているのは武彦さんの名前だった。
「はい」
『俺だ』
「何かわかった?」
 武彦さんには亡くなったふたりの事について調べてもらっている。
 こちらが掴んだ情報は既に先ほどメールで送ってあった。
 だけれど私にはこの武彦さんからの電話が歓迎できないものである事が察知できていた。彼の声がもう既に私にそれを告げていたからだ。
『どうにも厄介だな。死んだふたりが怪異のせいで死んだという事がまるで証明できない。彼女たちをひき殺した運転手もその時の事故で死んでいるしな』
「じゃあやっぱりこの件は彼女の誤解?」
『妄想、としか言い様が無いな。生きているのだし』
「ええ」
 そう。だから彼女の勘違いとしか言い様が無い。
 彼女の本当の誤解は、それだった。
「わかったわ。とにかく私は戻って彼女の隣に居る事にする。彼女の誤解なら誕生日を無事に乗り越える事で解く事ができるし、何らかの怪異に襲われているのなら、ぶっつけ本番で何とかするしかない」
 ―――それはかなり無謀な行為だけど…………。
『ああ。俺はもう少し調べてみる。そっちは頼んだ』
「ええ。了解。武彦さん、気をつけてね」



 +++


 興信所に帰ってきたシュラインさんに連れられてあたしは彼女たちの家に招待された。
 そこは真新しい家具と、清潔な白いカーテンがある、優しい夕暮れ時の光りが似合う家だった。
 優しい夕暮れの光りが似合う場所。あたしはそれにどれだけ憧れた事だろう?
 そしてエプロン姿のシュラインさんはあたしに優しく微笑んでくれた。
「何か食べたい物はある?」
 そう明るい笑顔で訊いてくれる彼女。
 あたしの脳裡には幾つかの料理が浮かんで、絞りきれない三つが最後まで残った。それを、ん?と顔を可愛らしく傾げたシュラインさんに告げると、彼女は頷いてくれた。
「カレーに、ハンバーグ、肉じゃがね。OK。じゃあ、一緒に作りましょう」
 キッチンにふたり並んで作る料理。あたしが死ぬほど憧れた事。
 たまねぎを五つ、冷蔵庫から取り出して、一つをみじん切りにして、そのみじん切りにしたたまねぎをバターで炒めて、
 もう一つを摩り下ろす。
 そして残りはスライスして、
 ニンジンを切って、
 ピーマンを切って、
 ボールに炒めたたまねぎを入れて、ひき肉を入れて、ピーマン、ニンジンを入れて、ケチャップ、塩、コショウ、卵、パン粉を入れて、それをこねて、ふたりでハンバーグのタネを作った。
 そして形作ったそれをオーブンに入れて焼いている間に、
 水に入れて灰汁を抜いておいたジャガイモをもう一度水で洗って、それで二つの鍋にジャガイモ、スライスして炒めたたまねぎ、ニンジン、肉を入れて、茹でる。カレーの鍋には摩り下ろしたたまねぎとリンゴも。それでぐつぐつと煮立てて、ジャガイモが柔らかくなったところで、カレーのルーをカレーの鍋に入れて、
 肉じゃがはシュラインさんに手ほどきを受けつつ砂糖、味醂、醤油を入れて、味を調えて、完成。
 キッチンには美味しい料理の香りが広がって、
 焼きあがったハンバーグを前に、ソースとケチャップ、砂糖でハンバーグのソースを作るか、それとも市販のデミグラスソースを使って、それで味付けをするかシュラインさんとお喋りする自分が、本当にまるで幸福な家庭に育った娘のようで、それが何とも言えない幸福感をあたしに感じさせてくれた。
 それで、涙が出てしまった。
 涙が出て、止まらなくなってしまって、こんなんじゃシュラインさんを困らせてしまう、って顔を上げて無理やり笑おうとしたら、あたしの頭をシュラインさんが撫でてくれた。
 それが本当にとてもくすぐったくって、
 嬉しかった。
 幸せだった。
 そのぴしぃ、という音は、あたしが感じたその人生で一番の幸せの中で聴こえた。



 +++


 あと少しで四月七日になろうとしている。
 依頼者は私の隣で震えていた。
 チャイムが鳴った。
 マンションの玄関の前に、この家を訪ねてきた誰かが立ったのだ。武彦さんではない。では誰が?
 私はインターホンを取って、操作パネルを触った。
 液晶画面に映し出されたのは、数時間前に会った彼女だった。
『あの、夜分遅くにすみません。でもどうしても気になってしまって』
「ええ。ありがとう。じゃあ、玄関開けるから、来て。うちの部屋はわかるのよね?」
 馬鹿な質問をしているとは私は思ってはいない。
 だって、
 私は、
 彼女に、
 住所を報せていないのだから―――。
「はい。じゃないと、呼び出せれないじゃないですか?」
 声はインターホンのスピーカーからではなく、私の背後から聴こえた。
 悪寒が背筋を駆け上った。
 照明が瞬いて、消える。
 本能は振り返る事を嫌がった。当然だ。私の後ろに居るモノは、この世のモノじゃ無い。だから生きる事に直結した本能は、それを嫌がる。
 私は喘ぐように酸素を求めて呼吸して、
 そして、本能に逆らって後ろを振り返った。
 そこに彼女は居た。
「生霊」
 私は呟く。
 そう。私の目の前に居るのは生霊だった。
 それが今回の事件の怪異現象を起こしていた犯人だったのだ。
「何で、こんな真似をしでかしたの?」
 依頼者は泣き震えるばかりで声を出せなかった。
 私はだから代わりに彼女に詰問した。
「何で? そんなの決まっているじゃない。この娘たちがあたしを裏切ったから」
 それはまるでヴォイスチェンジャーを使ったような声で、聴こえるのではなく、脳裡に直接響いた。
「裏切った?」
「そうよ。あたしをこの娘たちは無視した。約束を破った。一年前の四月七日。あたしたちお姉さん組みの一六歳の誕生日。この娘の十五歳の誕生日。あたしたち皆でパーティーをしようね、って、そう約束したのに、この娘たちはあたしを抜け者にした。だからぁ!!!」
「違う」それまで泣き震えるばかりだった依頼者が叫んだ。そして、「違う」、弱々しく呟く。
「違う。だって、お姉ちゃんは養女に行ったから、あたしたちとは違って新しい家族ができたから、だから、その家族との時間を大切にしてもらいたくって」
「大きなお世話よ!!! あたしは皆と誕生日を祝いたかった。なのに、あなたたちは裏切った。裏切った!!! それが許せなかったのよ」
「無駄よ。こういう感情は平行線にしかならない。お互いを想い合う気持ちは時にはお互いを遠ざけるから」
「うるさい!!!」
 生霊が泣き叫ぶのと同時に部屋の中に突風が吹き込んできて、私は壁に背中から叩きつけられる。
 背中を強打した事で私は呼吸を詰まらせた。
 無理やり咳き込んで、詰まった息を吐き出すと、一緒に口の中にじわりと生温かい鉄の味がする液体が広がった。
「シュラインさんっ」
 依頼者が泣き叫ぶ声が聴こえた。
 彼女も確信したのだろう。一年前、確かにこの生霊が殺したのだと。突風が吹いて、そしたらふたりは死んでいた。その突風と、今の突風が同じ物だと彼女は気付いたのだ。
 生霊が、依頼者を追い詰めていく。
 私とは反対側の壁に。
 追い詰めて、殺すつもりだ―――。
(させるものですか―――)
「甘えないで」
 私は声をきつくして、生霊に言った。
 生霊が振り返り、また突風が部屋に発せいして、私は天井まであがって、床に叩き落される。
 それでも私はやめなかった。
「甘えないで。寂しいとか。裏切られたとか。そういうの、あんた、ちゃんとその娘たちに言葉にしてぶつけなかったでしょう? それは怖かったからなんでしょう? その娘たちの言葉を聞くのが。けど、あんたがほんの少し勇気を出せば、あんたは自分の誤解に気付けた。そしたらあんたは、親友を殺さなくって済んだのよ?」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ―――」
 生霊は聞きたくないと自分の耳を両手で押さえた。
 そして泣き崩れるようにその場に崩れこんだ。
「結婚するのと、養女に行くのって、同じ様なものよね。他の家に行って、その家族になるって、本当に難しい。幸せ、という言葉では済ませられない事だっていくらでもある。私もね、同じよ。大好きで大切な人の妻になった。でもただ幸せだから、という言葉では済ませられない事だっていくらでもある。私はそれと戦いたいから、心の守りたい部分に鎧を身に付けた。そうやって自分の心を守って、頑張ろうと思った。私と私の好きな人との結婚生活を。それとあんたは同じ事をしたのでしょう? 新しい家族と一緒に生きていくためにあんたは頑張ったのよね。辛かったと思う。寂しかったと思う。独りだった時とはまた違うそういう感情に苛まれて、あんたは不憫だったと思う。けど、だからこそあんたは友達に、孤児院で一緒に過ごした姉妹たちにもっと甘えても良かったんじゃないの? それすらも罪悪感を感じた? うん、わかるわよ。でも、それでもこの娘たちの前で心につけた鎧を外しても、良かったと思う。言葉はね、感情を人に伝えるためにあるのよ」


 そう。言葉は、自分の感情を人に伝えるためにある。
 ―――この子は、助けて、と言えなかった。
 それは不憫だと思う。
 だからこそ、


「大丈夫。私はあんたの寂しい、という想いをちゃんと伝えられたから」
 私は生霊を抱きしめた。



【epilogue】


 私は興信所の角に置かれたデスクで今回の調査報告書を打っていた。
 事件は解決した。
 私が生霊を抱きしめた後、生霊は私の腕の中から消えた。
 生霊を生み出した彼女自身には変わりは無い。彼女は自分が生霊を生み出した事すら知らなかった。
 しかし武彦さんのその後の捜査から判明した事だが、やはり一年前の事件は、ただの事故である事が判明した。
 その事故を生霊を生み出した彼女も実は見ていて、深層意識の奥底で彼女は自分が生み出した生霊がそれをしてしまった、と誤解してしまったのだろう。
 だから今回、彼女の生霊は、依頼者を殺そうとした。一年前、彼女たちを自分の生霊が殺したのだと誤解をしていたから。
 今回の事件はいくつもの誤解が絡み合う事で発生した事件であると言っても過言ではなく、そしてだから今回の事件の当事者である少女たちを救えたと言えるかもしれない。
 尚、依頼者と生霊を生んだ少女は親交を回復させたという。



【END】