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<東京怪談ノベル(シングル)>


闇黒を食む



「ね、ねえ、どうするの、これ」
 女の声音はひどく震えている。
 点滅を繰り返す街灯のほど近い、ぼうやりとした明かりが届く夜の中。
 降り続く雨の影響は多分にあるのだろうが、東京の街中であるというにも係わらず、視界の中には往行する車の影ひとつですらも映らない。
 もっとも、深夜二時。まさに丑三つ時と呼ぶに相応しい刻限であるのも考慮に入れるならば、街中が寝静まり人影のひとつも確認出来ないのは当然の事なのかもしれない。
 雨はさあさあと静かに降りしきる。霧のように細かなそれは、歩道に乗り上げた状態で停車している車体を無遠慮なまでに打ち続けていた。
 男は女の震えた声に視線を持ち上げて、次いで重たげに目を瞬いた。
「……どうもしねえ」
 言って、酒気を帯びて淀んだ視線を再び足元へ向ける。
 足元には、顔も素性も知らぬ老人が転がっている。どうしてそうなってしまったものかは知れないが、タイヤはその枯れ枝のような体の、腹の上に乗り上げていた。
 ふたりが異変を知って車外に飛び出したばかりの時には、それでもかろうじて老人は小さく喘いでいた。が、それも程無くして失われ、今やその体はなんら抵抗を見せるでもなく、ただ雨に打たれるままになっている。
 男は、――酔いの勢いもあったのだろうが、既に事切れた老人の顔をぐにゃりと踏みつけてみる。なぜか、そうする事で、自分の底に言い知れぬ歓喜が沸き立つのを覚えた。
 淀んだ眦を薄く歪め、男は虚ろに向いたままの死骸の眼孔を覗き見る。
「この時間にうろついてるようなジジイ、どうせボケてんのか、そんななんだろ。誰も見ちゃあいねえし、雨も降ってるしな」
 言い置いて、男は連れの女を一瞥した。
 女は蒼白し、いっそ白々とした面を持ち上げて男の言に聞き入っている。こくこくとうなずいてはいるが、果たして男の言を耳にとめているのか否かは定かではない。
「ガードレールをぶっ壊したわけでもねえし、……車も修理の必要はなさそうだ。これってのは、つまり、ここで事故が起きたなんていう証拠がひとつも残っちゃいねえって事だろう」
 言いながら膝を伸ばし、男は雨を含み重くなった前髪を片手でかきあげた。
「分かったらさっさと車動かせ。ジジイを運ぶぞ」
 言い捨てるように告げた男に怯えを覚えつつ、女は、しかし、機械的に従った。
 
 後部席に放りやった死骸が無造作にポケットに詰めていたもの――それは歴史を思わせる、古びた一冊の和書だった。
 男も女も、その和書にはわずかほどにも気を遣る事なく、文字通りその場を逃げ去るようにしてアクセルを一杯に踏み込んだ。


 ◇


 重々しく広がる雨雲の下を、一羽の大鴉が悠々と飛んでいく。
 夜の闇よりもなお暗く沈んだ闇の色で染まった両翼は、降り止む事のない雨に煙る深夜の闇黒の中にあっても一際艶やかに、禍々しい気配を放っていた。
 鴉は眼下を走る一台の車を見とめ、唯一黄金に閃く眼光を三日月の形に歪め、留める。
 鴉は退屈していた。
 害悪の種子はどのような場所にも眠っている。それを増幅させ、煽り、更なる暗礁へと沈めてから喰らうのはかれにとり至極の悦びではあるが、しかし、その質の良し悪しは確として在るものだ。
 言い喩えるならば、かれは空腹であったのかもしれない。故に、今、眼下を往く混沌としたものの気を捉えたのかもしれない。
 骸の臭い。もはや朽ちるばかりのそれは、しかし、かれの空腹を満たすためのものではない。かれは屍肉を糧として満たされるわけではないのだ。
 今まさにヒトを殺め、それゆえに心を紅潮させて昂っている男。死骸を嬲り、それに興奮をすら覚え、けれども未だ己の罪科を社会から隠し通す事を忘れ得ぬ男。
 男が、もしも己が自身の心を思う様解き放ち、思うように暗色の内に身を沈めてゆく事が出来たならば――。
 鴉は暗天の下、不意にその身をひとりの青年のものへと変じた。
 闇を映したマントに、闇を削いで編んだハット。全身を包む闇黒色の装束に、反して白々と艶めく細い体躯。
 口許に妖美な笑みを薄く張り付かせた青年は、そのままゆっくりと地に向かい降り立った。
 かれが降り立ったそこは、都心を外れた深い山間の麓。
 手入れもろくになされていない、多様な樹林が雑然と伸びる、――そこは深い樹海の入り口だった。


 ◇

 
 男が死骸を樹海の土中に埋めて隠し、そして街中からひとりの老人が姿を消してから、早くも一月が流れた。
 男は頻繁に樹海に足を寄せるようになり、そして数箇所に分けて作った盛り土の具合をひとつひとつ丹念に調べてまわるようになっていた。
 初めの内こそ恐々としながらも行動を共にしていた女の姿も、二週目を過ぎた頃からぱたりと姿を消してしまった。
 男は、決まって深夜に森の中に現れる。車を止めて後部席からスコップを持ち出し、――時には新しい死骸を引き摺り下ろして、嬉々とした面持ちで湿り、不快な臭いを発する土を掘り起こすのだ。
 
 樹海の木々が夜風を受けてざあざあと唄う様は、まるで真夏の海が唄うそれのようで、実に爽快なものに聴こえる。
 流行の曲を流しながら快適に仕事をこなしていく、それは男にとり、実に心地の良い作業だった。
 森は唄う。男を優しく包むように。
 そして、夜の闇もまた男を包むのだ。その耳元で甘い言葉を囁き、男の心を惑わしながら。

 「――いいえ、そうではありません。
     私はただ、そう、少ぅしばかり、かれの心の底を掬ってみせただけですよ」

 闇は男の心の底でわだかまり、目覚めの機会を窺っていたのだ。
 少なくとも、暗色の鴉はそう言って低く嗤った。


 ◇


 老人が姿を消してから二月。
 都心を中心に起きていた連続失踪事件の全貌が明らかになった。
 失踪者たちは一転、狂気に堕ちた殺人鬼の毒牙にかかり殺された、哀れな被害者へと変じたのだ。
 殺人鬼は若年の男。かれは一件目の被害者を「偶然の事故」によるものだと主張したが、以降に続く七件もの殺人に関しては、喜色をあらわに証言してみせた。
 
「埋めたジジイの事が気になったんだ。下手して見つかってたりしたらなんだし。掘った穴が浅すぎだったらまた掘りなおししなくちゃならねえだろ」
「だから確めに行ったんだよ。――ジジイを埋めてから三日後だったかな。四日か? もう忘れたな。ジジイはもう腐りかけてて、虫が這ってて、ありゃあ虫が喰ってたんだよな。俺の女ぁ、それ見てゲロっちゃってさ」
「でも俺ぁ、すげえ面白いモン見たって思ってさ。たった今まで生きてた人間が、ちょっとすれば虫のエサだぜ」
「女があんまりギャアギャア騒ぐから、うるさくってさ」
「ジジイの隣に埋めたんだ。虫どもの喰い付きは良かったなあ。やっぱり年寄りよりも若い女のほうがイイのかね、ヘヘ」
「で、なんか年代別っての? そういうの試してみたくなってさ。ほら、統計っての? そういうのって大事じゃん」

 中には生きたまま埋められた被害者もいたとされるが、実質、それは報道されるには至っていない。
 いずれにせよ、男の罪科がどのような結果を得るのか。それは誰の目にも明らかなものだった。

 
 ◇


 自分の死体はそのままあの樹海に埋めてくれ。
 そう主張し続ける男を、双眸を黄金に閃かせる鴉は静かに笑んだままで見据える。
 屍に憑かれてしまった男。
「そのお気持ち、解りますよ」
 小さく落とした言は闇に吸い込まれて消えていった。
「私もまた、魅了されてしまうのですよ。――あなたの深淵にね。……さぞかし甘露で、さぞひとときなりともこの私を満たしてくれる事でしょう」
 言って、漆黒のマントを翻す。

 不吉な紅月を思わせる口蓋が歪み、食んだ。


 ◇


 翌日のメディアでは、件の男が変死した旨を報道し、社会はひとときその案件で賑わった。
 が、時の移ろうのは実に速い。二日も経てば新たなニュースがメディアを賑わせ、男の事件など記憶の彼方へと追いやっていく。

 男の死骸はびっしりと蟲で覆い尽くされ、ひどく腐敗していた。およそ一晩、それもほんの刹那の内に迎え得るような惨状ではない。ゆえに、それを知る人々はまことしやかに呪いの実在を囁きあった。
 かれが殺め続けてきた被害者たちの怨嗟がかれを惨状に至らしめたのだ、と。
 然り。あるいはそれもまた真実であるのかもしれない。が、その真たる結末は、闇に舞う禍のものしか知り得ないものであろう。


 鴉は月の光明ひとつない闇黒の空へと去っていく。
 樹海の笑いさざめく唄が鴉の行方を追いかけるように流れて街を覆い、過ぎていった。
 





Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.

2007 May 18

MR