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Beautiful dreamer
夢の中、私は決まって私と向き合っている。
それは装飾のない、とてもシンプルな造りのなされた鏡で、けれども澄んだ水面を覗き込んだ時のような、――とても不思議な心地になるのだ。
私と私は、当然の事ながら、わずかほどにも違わない見目をもっている。同じ髪、同じ色の目、同じ肌、同じ顔。鏡に向けて指を伸ばせば、もうひとりのわたしもまた同じに指を伸べてくる。
水鏡越しに、けれど、決して触れる事のない私たち。
――いつからだろう。
あの夢が、何故かとても怖ろしいものであるように思え始めたのは。
指を伸ばすのに、躊躇いを感じるようになったのは。
――――ああ、そうだ。たぶん、私は見てしまったのだ、どこか、視界の端で。
私たちが持つ、決定的な相違。
私がこちらに向けて伸ばした、あの指の数を。
◇
ドアを開ける音がして、シュラインは小さく肩を震わせた。
勢い、顔を持ち上げる。向けた視線の先には驚いたようにこちらを見ている武彦がいて、抱え持っていた紙袋をテーブルへ降ろしている。
「なんだ、昼寝か」
珍しい事もあるもんだなと続けて小さく笑んだ武彦に、シュラインは未だぼうやりとする頭を軽く小突きながら立ち上がった。
「ええ……知らないうちに寝ちゃったみたい」
応えながら椅子を立ち、カップを並べてコーヒーを仕掛ける。ほどなくして芳香が部屋の空気をゆったりと満たし始め、怪奇探偵の異名を持つ武彦がソファにどかりと腰を落とした、
「それよりも、武彦さん。……パチンコ?」
紙袋に視線を向けつつ訊ね、シュラインはコーヒーを注ぎ入れたカップを武彦の前に置いた。
武彦はバツの悪そうな顔をちらりと浮かべてシュラインの顔を仰ぎ、曖昧にうなずく。
「依頼の電話があってな。ここじゃなんだから、出来れば喫茶店かどこかで話したいって言って、時間と場所だけを一方的に指定してきて、それで切れたんだ」
「あら。私や零ちゃんにも聞かれたくない話だったのかしら。――それで?」
怪奇の類の他には滅多に依頼の舞い込む事のない、まさに閑古鳥にとり憑かれているのだとしか思えないような草間武彦に依頼を持ちかけてきた人間。
毎月毎月赤ペンばかりを使う帳簿との激しい睨み合いを繰り広げているシュラインにとり、依頼を持ちかけてくれるような相手はとても貴重な存在だ。
しかし、武彦は顔をしかめてかぶりを振る。
「三時間ばかり待ってみたが、それらしいのは来なかった」
「悪戯だったっていう事?」
「そうかもしれん。まあ、珍しい事でもないしな。腹いせに寄って来たらご覧の通り勝ち越しだったし、良しとするさ」
「ふぅん。まあ、そうね」
小さくうなずいて、青色の双眸をゆらりと細める。
紙袋の中のものの大半はタバコだったが、それに紛れ、ぽつぽつと菓子類も見受けられた。
シュラインはその中から板チョコを抜き出して包装を剥ぎ取りながら、視線をぼうやりと窓の向こうに放りやる。
「ねえ、武彦さん。……依頼だって言って電話をかけてきたのって、どういう人?」
「どういうって、……女だったな。声だけで判断するんなら、たぶんおまえぐらいの年頃の……でも女ってのは分からんもんだしな。もしかしたら結構な年だったのかもしれん」
景品として持ち帰ったタバコの包装を乱雑に破りつつ、武彦はやんわりと首を傾げて応えた。
シュラインは、やはり視線を窓の向こうに向けたまま、「そう」と小さく返したきり、そのままひっそりと黙した。
ガラス窓の向こう、陽はもうとうに落ちている。
夜に沈みゆく街。けれどそれを払拭しようと足掻く灯は夜の帳が総てを埋め尽くすのを許す事なく煌々と光っている。
ガラスに映る自分の姿を目に留めて、シュラインは武彦に悟られない程度に小さく息を吐いた。
――浮かぶのはもうひとりの自分。
同じ顔、同じ髪、同じ色の双眸。声帯は体格や骨格に深く影響されるのだという。ならばおそらく、もうひとりのシュラインの声音もまた、わずかほどの差異も無く同じものであるのかもしれない。
否、けれど、そこには確かに明確な相違がある。夢の中の自分、その指の数。あるいはその微笑。あるいは纏う空気にも相違があるかもしれない。
ガラスに映る自分の顔を見据え、シュラインは唇を軽く噛み締めた。
◇
そう、あれは私。間違うはずもない。――あれは私だ。
それと知らず触れた水鏡に映る私たち。手を伸べれば指先が触れ合い、指先から伝わるぼうやりとした熱が互いに生を抱く者同士であるのを知らしめている。
でも、私はなぜか怖ろしい気持ちになるのだ。
鏡の向こうにあるはずの指。それがいつかじわりと動き、私の腕を絡め取ってしまうのではないかと。そしてそのまま鏡の中へと引き込んで、入れ替わり、夢の中の私がこちら側へ身を乗り出してくるのではないのだろうかと。
◇
電話が電子音を高く唄ったのに気がついて、シュラインはふと目を瞬いた。
眠っていたわけではないが、しかし、随分とぼうやりしてしまっていたようだ。
武彦がシュラインを気遣ってか、受話器に手を伸べかけている。シュラインはそれを制して小走りに電話に向かい、八度目のコール音の後に受話器を耳に押し当てた。
◇
――ザザアアアァ
「もしもし?」
――――ザザァァ……アアァァ――
「もしもし?」
――ァァアアァ
「……」
砂嵐のような、……あるいは伸びた草を風が薙いでいくような音だった。
電話が混線しているのかもしれないと思いつつ、でも、私はなぜか受話器を戻す事が出来ずにいた。
目を閉じて、受話器の向こうの音を聴く。
「シュライン?」
武彦さんが怪訝そうに私を呼んだけれど、私はそれをも制して静寂を欲した。
――――アアァァァアア……アアアアァアア
不意に、それは誰かが歌っているものだと気がついた。誰かが沙流の音を、草の間を走る風の声を、自身の声帯をもって模しているのだと気がついたのだ。その刹那、私は堪らなく怖ろしくなって、叩きつけるようにして受話器を置いた。
「シュライン?」
武彦さんの手が肩を掴む。その重みと温もりとを覚えた瞬間、私は咄嗟に振り向いて武彦さんの腕に身を隠した。
「どうした、シュライン」
武彦さんは私を案じ、私の名前を呼ぶ。
私はその声が私を呼ぶのに安堵を覚え、深い息を吐き出しながらかぶりを振った。
「……なんでもないわ、武彦さん。……ただの悪戯電話だったみたい」
そう返して、私はゆっくりとその腕を離れる。
けれど、背にあるガラス窓には顔を向けない。――なぜかそれを確めるのがとても怖ろしい。
そこに映るのは、紛れもなく私自身であるはずだ。でも、それはきっと私とは逸した私だ。
夢の中の私。鏡を境にして向き合う私たち。そこにある確かな相違点。
私は知ってしまったのだ。
私の他に、誰が沙流や風の音を摸写出来るというのだろう。あれは確かに人の声帯によるものだった。私以外に、果たしてそんな真似の出来る人間がどれほどいるというのだろうか。
――あれは私だ。紛れもなく、もうひとりの私なのだ。私はこれまで夢の中だけで私に接触を持ち掛けてきていたけれど、たぶんきっともうすぐそこにまで来ているのだろう。
あの手は、やはり、私の腕を絡め取ろうとしている。そう確信を得るのは、たぶん、他ならぬ私自身によるものだからなのかもしれない。
私はゆっくりと目を閉じて、それから意を固めて肩越しに後ろを振り向いた。
◇
夜の闇に沈む街。いかに多くの灯が闇を払拭しようと足掻いたところで、その侵攻を逃れ得るはずもない。
暗色に塗られた外界と部屋の中とを分かつガラス窓に、シュラインの姿が映されている。毅然とした面持ちの、凛とした女。その目が外界を睨み据えるようにして、鋭利な眼光を閃かせている。
ガラス越しに向かい合ったふたりのシュラインは、やはり誰が見てもまるで相違点のない、総てを等しく写し合った姿をしていた。
否、あるいは、その刹那、その場にいた武彦ならば気がついたのかもしれない。
――ガラスの向こうに立つシュラインの面に、薄い笑みが張り付いていたのを。
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
2007 May 23
MR
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