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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


春色幻想 〜子供の庭〜


 子供がなぜ蟻の行列や野の花にあれほど魅入られるのか、今ならわかる気がする。
 地面が近いのだ。そして空は遠い。
 どうやらこの世界は、大人達が設計し築き上げたものらしく、ドアノブの位置も高ければ椅子の足も長い。勢いをつけて床を蹴らなければ、ベッドにも上れない。
 なるほど。成長して背が伸びて、大人のために設計された世界に馴染んでしまうと、子供の心も忘れてしまうものなのか。
 人ごみで大人達の足ばかり眺めなければならない窮屈さも、繋いだ手がふとした拍子に離れてしまうのではないかという不安も、とっくの昔に忘れてしまった。
 それを今になって思い出す羽目になったのは、もちろん、モーリス・ラジアルのお茶目な悪戯のせいだ。いや、本人的にはお茶目かもしれないが、俺にとってはちっとも、だ。
 アドニス・キャロルは唇をへの字に曲げて、ガラス窓に映った少年と睨めっこする。
 悪戯。つまり、モーリスの不可思議な力で、子供の姿に逆戻りしてしまった。
 いつものアドニスであればちょっとシニカルで不機嫌そうな表情になるところが、今の容姿――つまり子供の姿だと、『膨れっ面』になってしまう。しかし容姿が子供でも中身は大人、内面は外面に滲み出るもの。ふてぶてしい子供、というのがぴったり来る。
「おやおや、可愛らしい顔が台無しですよ、キャロル」
 声のしたほうを顧みると(単に振り返るだけでなく、見上げなければならなかった)、悪戯を仕掛けた張本人がいた。さっきまでモーリス自身も『可愛らしい』子供の姿をしていたというのに、飽きたのかなんなのか、本人は勝手に元の姿に戻っていた。
「モーリス! 君だけ勝手に元に戻って……」
 自分の声がやけに甲高く聴こえる。アドニスは顔をしかめた。
「いかがですか、いつも見下ろしている相手に見下ろされるというのは?」
「いかがと言われてもね」確かに自分のほうがモーリスより長身だが、大人と子供の身長差ではわけが違う。「首が痛くなるほど見上げないと、君の顔すら視界に入らないよ、モーリス」
 そして下から見上げても美しい造形なのだった。我が恋人ながら、ルネサンス時代の彫刻のように完璧な立ち姿だ。
「それは申し訳御座いません、私のお姫様」モーリスはにこにこしながら、アドニスの前に片膝をついて目線を彼に合わせた。ふざけているつもりなのか、小さなふっくらしたアドニスの手を取り、そっと口付ける。あたかも小さな女の子に対してするように。「それにしても、なんて可愛らしい。まるで女の子のようですね。良く間違われませんでしたか?」
「さあ、覚えてないな」
 もちろん、良く間違われた。だが癪に障るので言わないでおく。
「フリルのついたドレスでも買ってきましょうかね」
「結構だ」
「きっと似合いますよ。髪飾りをして、小さな赤い靴を履いて……」
 モーリスなら実行しかねないな、とアドニスは思った。
 本人の不安をよそに、モーリスはアドニスの髪を愛しげに撫でる。
「君の髪の色は今より少し薄かったのですね……まるで透き通るようだ。それに肌も」
 モーリスの長い指が、アドニスの銀色の髪を絡め取り、するりと頬を滑っていった。今のアドニスにとってはモーリスの手は大きく、彼の朱が差した頬をすっかり包み込んでしまう。その愛撫の仕方はいつもと同じ、慈しみながらも、官能を刺激するものだったが――何かの拍子に彼の理性の箍が外れてしまったらしい。
「……ああ、まったく! なんて可愛らしい!」
 いつもクールなモーリスらしくもなく、いきなり叫んだかと思うと、アドニスの髪をぐしゃぐしゃ撫で回し、馬鹿みたいに彼を抱き締めて、おまけに頬にキスの嵐を見舞う。
「モ、モーリス、何をする――」
 文字通り『もみくちゃにに』されて、アドニスは短い腕をばたばたさせた。ほっそりしたモーリスの背中に両腕を回すことすらできなかった。
「そんな仕種もまた可愛らしい! このまま子供の姿のままでいていただいても良いくらいですね!」
「冗談に聞こえないからやめてくれ!」
「ああ、けれども大人のあなたと子供のあなたをいっぺんに独占できれば、それが一番最高なのですが――」
「モーリス、苦しい、離せ――」
「しかしそういうわけにもいきませんしね。ここは一つ、あなたの可愛らしい姿を写真におさめておこうではありませんか!」
「いるか、そんなもの!」
 モーリスはまったく聞いていない。子供になっているのはこちらのほうだが、ある意味モーリスのほうが子供返りしているとも言える。こんな風にはしゃぐ恋人の姿も新鮮ではあったが、しかし……。
 モーリスは束の間アドニスを解放し、ポケットから携帯電話を取り出した。早速アドニスの姿を写しにかかる。
「待て、そんなもの撮らなくていいと――」
 アドニスは慌てて両腕で顔を覆ったが、
 パシャ。
 それよりも早く乾いたシャッター音がし、アドニスの不機嫌そうな姿がモーリスの携帯に収められてしまった。
「駄目ですよ、キャロル。もっと楽しそうにしていただかなければ」
「…………」
 そういうモーリス自身が楽しそうだ。
「キャロル、ほら、桜の木の下で写真を撮りましょう?」
 もう何を言っても無駄な気がしてきたので、アドニスは仏頂面でモーリスに手を引かれていった。
 随分背が高く感じられる桜の木の下に立って、アドニスはちょっと視線を上げる。花びらが際限もなく落ちてくる……まるで雨のように。
 そこでまたシャッター音が鳴る。しまった。油断した。
「これはなかなか……。子供にできる表情ではありませんね。幼い少年の、憂えるような横顔。絵画の題材になりそうな……」モーリスは携帯の画面を覗き込んでしげしげと言った。見てみたいような、そうでもないような、複雑な心境だった。「ほら、次は可愛らしく笑って下さい――違います、そんなシニカルな笑い方ではなく、もっと無邪気に……」
 妙な注文をつけられ、さんざん写真を撮られた後、今度はツーショットだといってモーリスはアドニスを抱き締めるのだった。
 不本意ではあるが、恋人の腕に包まれるのは、なかなか心地の良いものだった。
「写真、必要でしたら送りますが?」
 モーリスの申し出は、もちろん断ったが。

  *
 
 携帯電話のメモリーがアドニス・チャイルドで溢れ返ってしまうくらい写真を撮ると、さすがに彼も満足したのか、ようやく携帯を仕舞ってくれた。しかし、まだアドニスを元の姿に戻してやる気はないようだ。
「たまにはこういうのも楽しいですね」
 どこがだ、と仏頂面で答えてやろうかと思ったが、こうして抱き上げられるのは、実際、悪くない。
 モーリスは桜の木が見える庭のベンチに腰を降ろし、アドニスを自分の膝の上に載せた。人の膝の上に座るのは、なんだかくすぐったような、変な気分だった。
 そういえば……いつもは自分がモーリスを抱いていたんだな、とアドニスは思う。
 愛しい人を抱き締めるのは、独占しているようで心地良いが、抱きかかえられるのはこんな気持ちなのか……。
 女性が男性に対して抱く気持ちと、似ているだろうか?
 自分より強く、逞しい存在に、自分のすべてを預ける。大きな手が守ってくれる、という安心感。けれど子供が両親に抱く気持ちとは少し違う。
 やわらかな風が吹き、桜の花びらが散った。陽射しは暖かく、知らず、アドニスはモーリスの腕の中でまどろんでしまう。モーリスの腕の温かさは、春の太陽のようだ。
「身体が子供になると、睡眠が余分に必要になるのでしょうかね?」
 モーリスのからかうような声が聞こえたが、アドニスはまどろむに任せて恋人に小さな身体を預けた。頭を撫でるモーリスの手の感触が、遠い記憶を呼び起こす。
 幸せだ。確かに、たまにはこういうのも悪くない。
 人ごみで大人達の足ばかり眺めなければならない窮屈さも、繋いだ手がふとした拍子に離れてしまうのではないかという不安も、それから抱き上げられたときの嬉しさ、視点が高くなることで一気に開ける世界への興奮も、久しく忘れてしまっていた。そしてこの温もりも。
「モーリス」アドニスは子供のあどけない声で、恋人の名を呼ぶ。
「なんですか?」
「今度は、モーリスが子供の姿でいるといい」
「子供の姿も、気に入りましたか?」
 アドニスはそれには答えず、ただ微笑した。

  *

 実際問題、いつまでも子供の姿でいるわけにもいかないので、その日の夕方には元に戻してもらった。再び、アドニスがモーリスを見下ろす形となった。
「まったく、君という人は、どこから見ても美しい」
 頭の少し上を見下ろして、アドニスは大真面目につぶやく。
「なんのお話ですか?」
「こっちの話だよ」
 陽も落ちたことだし、さて街に出かけようかということになったが、
「お出かけをする前に、スキンシップしますか?」
 スキンシップは十分すぎるほどしたのに、それでもまだ飽き足らない様子で、モーリスはアドニスの唇にそっと触れた。誘うようなその仕種に、アドニスも満更ではない。
「そろそろ、『今の』俺が恋しくなってきたところだったんだろう?」
「ええ、そうですね」モーリスは素直に認めた。目を細めて、愛しそうにアドニスを見る。「あなたのその声が、恋しくなってきたところだったのですよ」
「俺の声ねぇ?」
 アドニスはモーリスの耳元に顔を近づけ、愛を囁いた。モーリスはくすぐったそうに身を捩った。アドニスは素早くモーリスの腕をつかんで、彼の耳に音を立ててキスをする。
「起きてからあなたのキスがないのもなんだか物足りないと思うのは、どうしてだと思います……?」
 モーリスはアドニスに囁き返す。
「さあな。夢の中でも俺を求めているんじゃないか?」
「そういうあなたは、どうなんですか、キャロル」
「俺はいつだって君を求めてるさ、モーリス……」
 そう、夢の中ですら。


 穏やかな春の風、宵闇に沈む桜の木の陰。
 春の幻想に酔い痴れながら、二人は、何度目になるかわからない愛を囁き合う。
 来年の春も――と、アドニスはモーリスの耳元で囁いた。
 きっと、この桜が俺達に春色の幻想を見せてくれるんだろうな。
 ええ、きっと、とモーリスは答えた。



Fin.