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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>



驟雨に煙る




 長く利用していなかったものとはいえ、しかし、高峯が所有する土地の中にある家屋。定期的な手入れのなされていないはずもない。
 都心を車で数時間ばかり向かった山間近くに広がる私有地にある桜を見に行こう、と。そう言って弧呂丸を誘ったのは、他ならぬ、弧呂丸の双児の兄である燎だった。
ふたりがまだ頑是無い年頃であった時分には間々訪れていた、そこはいわば別荘と称して良いであろう場所だった。
 都心の喧騒を外れ、半ば隠れ里といった景観をもった、山草と山花の世界。そこには四季折々に鮮やかな花が誇らしげに咲き乱れる場所だった。冬に訪れれば寒椿の紅が双児を歓待してくれていたし、初夏を間近に控えた頃にはハナミズキが安寧の陽射しを眩しく反射する。下生えの草は柔らかく、山裾の斜面は子供の足にはそれなりに急ではあったけれど、それを兄弟で手に手を引き合って登り進むのも楽しかった。
 何より好きだったのは穏やかな陽射しに包まれる春、花見月の頃の訪問だった。薄墨の桜が惜し気もなく咲き揃うのを大きく仰ぎ、その下で弁当や菓子を広げるのがとても楽しかった。その桜の見える林の中に小さな秘密基地を造り、その中にふたりで身を潜めて両親の危惧を楽しんだりもした。
 その懐かしい場所に足を寄せたのは、たぶん少なくとも十年以上ぶりの事になるだろう。燎が誘わなければ、あるいはもっと長い歳月、記憶の片隅にしまいこんだままにしていたかもしれない。ともかくも、到着したのは午後を迎えてからで、桜の変わらぬ美しさに心を和ませたり、懐かしい秘密基地跡を探索したりしている間に、陽光も随分と傾いた。それと同時に、日中は穏やかに晴れ渡っていた碧空に色濃い灰色の雲が広がり始め、携帯の時計が夕方の時刻を表記する頃には、碧天の名残は一片も残す事無く消失していた。

「燎、雨だ!」
 言いながら弧呂丸が玄関口を潜り入るよりもほんの数瞬ほど前、碧空を覆った重々しい雨雲が大粒の雫を降らし始めた。
 それは見る間に地表に雨染みを広げていき、ほどなくして辺りは一面雨に煙りだした。
 先んじて家の中に上がった弧呂丸が肩越しに後ろを振り向いて燎を呼ぶ。
 共に秘密基地を後にして走ってきたはずの燎は確かに玄関口に立っている。が、なぜかそこから先を進もうとはせずに、今や叩きつけるほどの勢いをもった雨の中に身を曝したままだ。
「燎、風邪ひくだろ。早く入ったらどうだ」
 声をかけながら板張りの廊下を進む。
 常から和装を好み身につけている弧呂丸だが、今日は燎の店の手伝いに赴いた、その帰路に着いた途中だった。服装も和装ではなくシンプルな洋装だ。思いもかけずに東京を後にして山間に向かう事態を迎えた事や、その山中で急な雨に降られる事態を迎えた事。いずれにせよ、身につけていたのが洋服であったのは幸いだった。弧呂丸が纏う袖はいずれも上等な代物。雨に濡れたのでは、せっかくの織が台無しになってしまったかもしれない。
 弧呂丸はひとまず箪笥の置かれている和室へと向かい、そこからタオルを数枚取り出してから再び玄関口へと戻った。燎はやはりその場に立ち尽くしたままでいた。
「風邪をひくだろ? それに雨が入り込む」
 弧呂丸は小さな息を吐きながら双児の兄の傍に下り、取り出してきたタオルで燎の身体を包んだ。
 確かに、けして身丈の高いわけではない弧呂丸だが、しかし、燎の体躯はそれでも充分すぎるほどに大きい。広い肩幅と、屈強な体つきをしている。弧呂丸の細い腕ではタオルを兄の肩にかけてやるのも難儀を要するほどだ。
「莫迦だな、随分と濡れてしまったじゃないか。どうしてさっさと玄関を閉めないんだ」
 大仰なため息を落としながら玄関を閉め、先導するようにして再び廊下に上る。
「私は風呂の用意をするから、おまえは上着を脱いでそのタオルで身体を拭いておくんだ」
 言って兄の顔を見る。
 ――おそらく、今の弧呂丸の言に、燎は小さく喉を鳴らすだろう。そうして命令口調はやめろだとか、あるいはわざとらしいほどに従順な態度を見せて悪戯めいた笑みを浮かべるのだ。そう考えながら、弧呂丸は小さく身構える。どんな言を返されても、わずかほどにも怯む事なく言い返してやれるように。なんのかんので、小さな頃から喧嘩で兄に勝てた例は一度もないような気がする。腕っ節での勝敗はおそらく絶望的なのだろうが、それでも、口喧嘩ですら負かした記憶がないのには我ながら呆れかえるほどだ。
 廊下を進みながら、返ってくるであろう言葉に耳を向ける。だが、それはどれだけ待っても降ってくる事はなかった。
 肩越しに小さく振り向く。
 燎は、やはり同じ場所に佇んだままだった。
 小さな笑みを頬に浮かべ、物言いたげに弟の背中を見つめている。

 風呂には数泊出来る程度の設備が整えられていた。さすがにこまめな手入れが届いているといった状態ではなかったが、それでも充分と言えるだけの手入れは施されていて、弧呂丸は管理を任せている者の仕事ぶりに感謝の意をもった。
 そうしながら風呂に湯を張り、着替えの一式を探して揃え置く。それから再び踵を返して兄の許へと戻った弧呂丸は、思わず驚嘆の声をあげた。
「まだそこにいたのか!」
 燎は未だ玄関から進み入る事をせず、まして濡れた上着を脱ごうともせずに突っ立っている。
「どうしたんだ? どこか痛むのか?」
言って数歩を進めた弧呂丸の目に映りこんだのは、蒼白しきった燎の顔だった。
燎は、それでもその面に笑みを浮かべている。銀に光る眼差しは常と変わらず穏やかに優しく、真っ直ぐに弧呂丸を見つめているのだ。
「どこか痛むのか?」
 再び同じ言葉をかけながら小走りに寄り、足の汚れるのも構わずに素足のままで玄関に下りる。
 思えば、燎は最初から体調が悪そうだった。店を早仕舞いしたのも、あるいはそのせいなのではないかと危惧した。
   
弧呂丸の言に、燎は小さくかぶりを振る。
「いや、――大丈夫だ」
「大丈夫なわけがないだろう!?」
 咄嗟に、怒鳴りつけるように言い返す。その声音に自分自身ですらも驚きを覚えたが、しかし、次いで弧呂丸は兄の上着に手をかけた。
「……ひとまず、このままでは本当に風邪をひいてしまう。……着替えも全部用意したから、まずは風呂で温まってきたらどうだ」
「いや、本当に大丈夫だから、手を離せ、コロ助」
 燎の声はひどく穏やかだった。――穏やかすぎるほどに、わずかほどの揺るぎもなく。
 燎の手が弧呂丸を制し、ポケットからタバコを抜き出す。
「このままでいい、大丈夫だ」
「このままでいいわけがないだろう? おまえが風邪をひくのは勝手だが、それを口実に、店の経営をまた放置されても困るだろう」
「ガキじゃねえんだ、ひとりで着替えぐらい出来る。だから手を離せ」
 言って弧呂丸の手を払い除けようとした時、それはおそらくとても些細な偶然であったのだろうが、燎の着ていた上着が捲れあがり、頑強な身体が刹那顕わになった。
 その瞬間、燎はその表情を一変させた。咄嗟に上着を正して身体を隠し、次いで弟の視線を検める。
 弧呂丸は言を飲み込み、その面をひどく強張らせていた。それを見て、燎もまた同じく面を強張らせた。
 ――弧呂丸に知られてしまった。
 燎はひそりと目を伏せる。

 高峯の長子に生まれついたがための呪い。それは幼い時分より徐々に身を侵し、ついには赤黒い染みのような痣をもって左半身を飲み込んだ。
 痣は、あるいは壊疽のようにも見えるかもしれない。いずれにしても醜い痣であるのには違いのないそれは、燎の身が朽ちていく、その兆候だ。それは必定、死をいう結末を思わせる。誰の目にも絶望的であるように見えるであろうその疵を、まして高峯の開祖の名を継ぐに至った弟がそれと悟らぬはずもない。
 ――だからこそ、これまで燎の目には触れる事のないように努めてきたものを。
 燎は小さな息を吐き、伏せていた睫毛を持ち上げて眼前に立ち尽くす弧呂丸の頬を軽く叩く。
「だから大丈夫だと言っただろう。――せっかくだ、風呂でも浴びてくるかな」
 肩を竦め、わざとらしいほどにおどけてみせる。そうして弧呂丸の横をすり抜けようとした燎を、弟の低い声音が呼び止めた。
「……おまえが今日私をここに誘ったのは、」
 声は小さく震えている。
「……その疵が関係しているのか」
 言って、虚ろな視線を持ち上げる。
 絶望を思わせる暗色を浮かべた眼光が、それでも真っ直ぐに兄の顔を仰いだ。
 返す言葉に詰まり思わず視線を逸らそうとした燎の腕をすかさず掴み、弧呂丸は悲痛を顕わにした声を震わせる。
「それは呪いだろう!? 高峯の長子、それが必ず身に受けるという呪いなんだろう!?」
 言いながら握る手に力をこめる。
 思いもかけず力強いものに感じる弧呂丸の手に一瞥を向けて、燎は小さく笑った。
「コロ助のくせに、握力も強くなったな」
「私は……!」
 茶化すような口ぶりを打ち消すようにかぶりを振って、弧呂丸は燎に縋る。
「なぜ、そんな身体になっても私に弱さを見せようとはしない? それほどの疵……耐えられない程に苦しんでいる筈はずなのに!」
「コロ助、」
「私はそんなに頼りないか!? 燎は私の前で弱さを一度たりとも見せたことはない。それは私が頼りなく映っているからか!? 思え…ばおまえは今までただの一度たりとも甘えることも頼ることも縋ることもしなかった。……燎にとって弟である私はその程度の存在なのか」
 声は、終わりに近付くほどに小さく掠れたものへと変わっていく。
縋りつくように仰ぎ見る弟を、燎はもはや目を逸らす事も出来ずに見つめる。
 弧呂丸は、今しも泣き出しそうな顔をしている。
 弱ったように微笑んで、燎は片手をゆっくりと持ち上げて弟の頬を小さく撫でた。
「弧呂丸、俺にとっておまえは唯一の存在だ。――それは分かるか」
 なるべく優しく、弧呂丸の心をわずかにでも慰めることの出来るように。
 しかし、燎が見せる気遣いは、逆に弟の心を傷つけるばかりだった。
 
 高峯という家に双児として生まれ落ちたのは、たぶんまぎれもなく宿命的なもののゆえであったはずだ。呪いが長子に降りかかるのだとするのが『母胎を出た順序』によるものであると単純に考えるのならば、あるいはそれを享けていたのは弧呂丸であったのかもしれないのだ。
 否、それを怖ろしく思うわけではない。――けして怖ろしく思わないわけではないのだけれど、それでも、燎がそれを享けて終わらぬ苦痛を味わうのならば、いっそそれを自分の身に移した方が、その方がどれほどにましだろう。

 弧呂丸にとり、燎は幼い頃から――あるいは、それこそ母胎にいる頃からだったのかもしれないが、他の誰に抱くものよりも強烈な、様々が混在した感情を向ける対象だった。
 それは深い憧れであり、根深い劣等感でもあった。
 高峯に携わるすべての者達の期待が自分の身に寄せられている事は、言われるまでもなく充分に理解していた。呪禁を行使する異能者として、それは時に息の詰まりそうなほどに大きな重圧となって覆い被さってもきていた。しかしそれから逃れる術をももたず、あるいはそうしようと試みるだけの性分をも持ち得てはいなかった。
他の目を盗み人知れず努力を重ね、期待を裏切る事のないようにと心掛け続けた。
いつからか高峯を後にした燎の強さを羨ましく思うこともあった。それを妬ましく思ったことも、確かにあった。なによりも、燎が持つ異能の強力さを、弧呂丸こそが誰よりも一番解してもいた。
憧れ、劣等、――あらゆるものが混在した、強く深く大きな思慕。それを向けることの出来る、ただひとりきりの存在。
 
「……おまえは、私がどれほどにおまえを求めても、いつも私から離れていってしまう」
 独白のように言葉を落とし、それきり、弧呂丸は顔を伏せて口を閉ざした。
 燎は、一息に思いのたけを吐き出し続けた後に一転、押し黙ってしまった弟の肩が小さく震えているのを見つめていた。
 小さな息を吐き、なんとはなしに持て余してしまった手を宙に泳がせて、燎はふいに弟から目を逸らす。
 弧呂丸が存外に頑なな性格であるのはいやというほどに理解している。良くも悪くも頑なで自分を曲げず、ゆえに無用な傷を重ねていくのだ。そうして、その弟は今、全身をもって燎の言葉を拒絶している。――それほどに、燎が負っていた呪いの有り様が衝撃だったのだろう。否、それはたぶん仕方の無い結果だっただろう。生きながらに腐敗していく人間、それも一番近い位置にいた、血を分けた唯一の兄弟の身に生じているのだ。これまで燎が懸命に隠し続けてきた苦汁も、おそらくは瞬時にして悟ってしまっただろう。
 弧呂丸は良くも悪くも聡い人間だから。

「コロ助」
 燎は再度、出来うる限りに優しい声を口にする。
 弧呂丸はそれを耳に留めて大きく心を跳ね上げさせた。
「……燎、おまえが私に現状を明かさずにいたこと、それは私に対する侮辱だ」
 顔を持ち上げる事もせずに口を開く。ついて出た声音は、自分でも驚愕するほどに落ち着き払ったものだった。なによりも、静かな怒気がこめられている。
 次いでゆるゆると顔を持ち上げ、真っ直ぐに燎を仰ぎ見て言葉を継げた。
「おまえはいつだって自由きままにあるのを望んでいた。……もう私から離れてどこへなりと好きなところへ行くといい」
 告げられたその言葉には、揺らぎなど微塵も感じられない。
「弧呂丸、俺は」
「好きなようにするがいい。そして好きなように最期を迎えたらいい」
 兄の言葉を遮るように述べた弧呂丸の言に、燎は刹那目を見開いた。しかしそれもほんの瞬きの間の事。
「――そうだな、……そうさせてもらう」
 返した燎の顔には、曇りのひとつもない穏やかな微笑みだけがあった。
 
 閉じた玄関を開く音がして、それに次いで篠つく雨の激しい怒号が響いた。が、それもまた瞬時の事。再び玄関が閉ざされた後には、棟の中にはひっそりとした静寂ばかりが残された。
 ほどなくしてエンジン音が聴こえ、弧呂丸はようやく我にかえって声をあげた。
「燎!」
 叫びながら玄関を開き、走り出す。
 履物を忘れ素足のまま外界へと転がり出て、激しく降る雨の中に身を投じる。
「燎!」
 再び兄の名を呼んでみたが、しかし、応えはもとより、車の影でさえもが雨煙の中に消え失せてしまっていた。
「私は、どうしたら……!」
 見る間に全身を濡らした雨の中、弧呂丸はひとり言葉を飲む。
 応えはない。
 篠つく雨が全身を射るように叩きつけるばかりだった。
 





Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.

2007 May 31
MR