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昏暮に藤の舞う。それに祈りて
滅多に車の通る事もない閑静な道に沿って続く、重々しげな瓦を戴いた白壁。歴史の重厚さをも漂わせているそれを右手なり左手なりに見ながら進めば、幾許かの後に大きな門を目に出来る。
日頃は閉ざされがちのその門の向こう、ちらちらとナナカマドの白く小さな花が揺れている。提げられている表札には高峯の二文字が彫られ、門の両端に飾られた提灯には高峯家の家紋が描かれていた。
高峯という血族、その本家。広大な土地と四季を美しく彩る、手入れの届いた庭木。白々と続く壁は目にも涼やかだ。
菫はその本家の正面口を前に歩みを止めて、細い首をわずかに傾いだ。
訪問を予告していた時間より随分と早くに着いてしまった。提げ持ってきたバッグから時計を取り出して時刻を確め、意識せずに短い息を吐く。
――どうしたものか。
予告していた時刻を過ぎてから到着するよりは、早く着くにこした事はない。が、検めてみる限り、刻限まであと数時間ほどの余裕がある。
馴染みの呉服店を覗き、夏に向けた小物の類を物色して、道すがら見つけた和菓子屋でちょっとのんびりとお茶を楽しんでみたりもしたのだが、それでも時間はさほどに経ってはいなかったのだろうか。
あるいは、家を出立したのが早すぎたのかもしれない。
のんびりとそう考えながらじりじりと足を進めた菫の背後に、じゃりを踏む足音が近付いたのは、そのすぐ後の事だった。
「菫?」
聴き慣れたやわらかく穏やかな声音に、菫は弾かれたように振り向いた。
「弧呂丸兄さま」
振り向くのと同時に大切なその名を口にして、菫はほんのりと頬に紅をさす。
そこにいたのは高峯の若き当主でもある弧呂丸だった。
弧呂丸は菫の弾んだ声に頬を緩め、眦を細めて言を返した。
「早かったね。もう少しゆっくりでも良かったのに」
「いえ、その、予定していたよりもとても早くに着いてしまいました」
言ってわずかに俯く。
弧呂丸は微笑ってかぶりを振った。
「菫、途中寄り道をしてきたのだろう」
「……え」
「私もさっき寄り道をしてきたところなんだよ。今日は高峯家の大切な宴の日なのだから、たまには顔を出したらどうだと言いにね。――まあ、返事はご覧の結果なのだけれど」
「あ、あの、わたくし、……出過ぎた真似をしてしまいました」
菫は弧呂丸の穏やかな笑みに頬を染めながらも、しょんぼりと肩を落として睫毛を伏せる。
「……その、わたくしもしばらくお会い出来ていなかったので、久し振りに皆でお茶菓子でもつつけたら、なんて思って……」
言いながら、道すがら立ち寄った和菓子屋の袋を後ろ手に隠した。
◇
五月。
桜の木が薄墨から新緑へと移り変わる頃、次いで咲き揃うのが藤の花。藤がその鮮やかな色をもって人々の心を慰める時分になると、高峯家では慣例となっている宴を催すのだ。
宴の趣旨は高峯の開祖の御霊と、祖に力を与え宝珠となり一族を加護し続ける藤姫を奉るもので、一族の人間が本家に集い、祖の像と宝珠を前に個々で腕を磨いた古典芸能などを藤の咲く季節に披露する事にある。
元来、その宴は高峯の内々だけでひっそりと執り行われ続けてきたものだったのだが、弧呂丸が高峯の当主となってからは、その格調の高さに変革がもたらされた。
つまりはその門戸が広く一般に向けて開かれるところとなり、古典芸能に関心をもつ者はむろんの事、近所に住まう年配者やその親族を招いての気安いものへと変じたのだ。
むろん、長年に亘り連綿と続いてきた伝統は、一朝一夕に変化を遂げるに至れるものではない。格式を重んじ続けるべきだと主張する親族たちを説き伏せるのは並大抵のものでもなかったし、弧呂丸が当主の座に就いてからそれを実現させるまでには、やはり相応の時間を要した。
が、敷居を低くしたばかりの年は、正直なところ、思っていたほどに大きな反応を得る事が出来ずに終わった。高峰の敷居は画然と高くあるものであり、垣根は取り払われたところで染み付いた印象は容易に拭い落とす事の出来ないものであったのだ。
それが口コミを手段としてぽつりぽつりと広がりだしたのは、母屋からわずかに離れた位置にある古い藤の花の見事さが理由のひとつでもある。
庭師が丹念に手入れを施した藤棚は、見れば十年寿命が延びるなどという謂れをもつに至った。それを信じた、あるいは門をくぐる理由にした年配者たちが宴に交じるようになり、その後に新たに加えられた口コミが、古典芸能に関心をもつ若年層の顔をも呼び込むものとなった。
◇
「ああ、土産をもってきてくれたんだね。ありがとう、菫。あとで一緒に食べよう」
言ってにこりと目を細める弧呂丸を上目に見上げ、菫はかくりと小さくうなずいた。
弧呂丸は妹同然の菫の頭を軽く叩くようにして撫でてやり、それから思い出したように目を瞬いてから踵を返す。
「ごめん、菫。私はこれから衣装合わせと稽古があるんだ。ゆっくり話も出来なくて申し訳ないのだけれど」
「はい、兄さま。わたくし、茶席の仕度をお手伝いしてまいります。その、ついでと言ってはなんなのですけれど、……稽古を覗いてもよろしいでしょうか」
「もちろん。むしろ観客がいてくれたほうが張り合いも出てくるというものだよ」
弧呂丸はそう残して微笑み、それから屋敷の奥から掛けられた呼び声に応じて返事をして、小走りに門の奥に向かっていった。
菫は弧呂丸の背を見送った後に、先ほど歩んで来た道の向こうに目を向けて小さく首を傾げる。
――本当は。
本当は、予定よりも随分と早くに出立したのは、買い物を楽しむためではなくて、もうひとり、兄と呼べる相手を宴の席に招けたらと思ったためだった。
けれど、菫の誘いはとてもあっさりと拒絶された。
そんなものは退屈で欠伸しか出てこないと、一笑されて終わったのだ。
三人で食べようと思い購入してきた和菓子の包みを、菫はしばし持て余し気味にぶらぶらと揺らす。
それから小さなため息を落とし、弧呂丸の後を追いかけ門をくぐる。
藤の甘い匂いが鼻先をかすめた。薄紫の花が見頃を迎えているのだ。――もっとも、菫が記憶している限り、宴の際に藤の花が見頃となっていなかった事など、ただの一度もないのだが。
ともかくも、菫は幼い時分より何度となく足を踏み入れた事のある屋敷の中に歩み入り、来客を迎えるための仕度を始めていた台所へと向かう。
表門より進めば内玄関へと続く。内玄関の扉は全開となっており、向こうに年代の古さを思わせる屏風が立て飾られていた。畳はきちんと手入れが届き、和室の中は清廉たる空気で充たされている。
菫はそれを横目に見ながら道を逸れ、使用人が出入りするための勝手口へと足を向けた。途中、高峯の当主が出入りするための大玄関が目に見えたが、菫はそれも横目に見ただけで素通りした。
屋敷とそれを囲う白壁の間には広々とした庭が続いている。
庭はそれに面した各部屋から見た時、それぞれに違った風情を楽しむ事が出来るようにとの配慮がなされている。必定、植わる木も折々で、松であったりもするし、あるいは梅であったりもした。果実を実らせる枝もあるし、そういった樹木は実りの季節には味覚をも満足させてくれる。
使用人たちは菫を見ると揃って慌てたように身なりを整え、菫が手伝う意思を申し出ると一様にそれを拒絶した。菫はそれをやんわりと笑んで流し、茶菓子の準備や室内の片付けに取り掛かる。
弧呂丸は、自分もまた迎えに行ったのだと言っていた。
微笑んではいたが、たぶんきっと内心傷心しているのに違いないのだ。
だからせめて、それが少しでも慰められるように、出来る限りの力を尽くす。それが自分に出来る唯一のことだと、菫はそう思っているのだ。
◇
夕暮れが近くなり、空を染める色がぼうやりとした濃紺に変じ始めた頃。
集まった観客たちを前に、藤の枝を手にした弧呂丸が楚々とした美しさを見せる。
演目は藤娘。
意のままにならぬ男の心を嘆く藤の花の精霊が、やがて酒気に酔い舞を踊る。――本来は五変化舞踊のひとつであったものが、近年藤娘として独立した、それを演目の題材として選んだのだ。
艶やかな着物に花笠をもち、黒地に大輪の藤を咲かせた帯の豪奢も華やかに、藤の精と化した弧呂丸はまさに人ならざる美を備えているかのようだ。
若むらさきに とかえりの 花をあらわす 松の藤浪
人目せき笠 塗笠しゃんと 振かかげたる 一枝は
朗々と紡がれ響く長唄に舞う弧呂丸の艶やかな美しさに見惚れる菫の横で、嬉々として顔を輝かせている年配の面々が嬉しげに声を弾ませている。
「高峯の藤を見れば十年寿命が延びると聞いたんじゃがのう」
「高峯の藤を見れば十年、さらにコロちゃんの舞を見れば追加で十年。二十年は延びるんじゃよ」
「ありがたや、ありがたや」
半ば拝むように手を合わせている老人たちに頬を緩め、菫は内心うなずいた。
確かに、こと、藤の花に関わる弧呂丸の美しさといったら、文字通りこの世のものとは思えないほどだ。真実寿命が延びるのかは別として、そういう彼らの言葉はまるきりの虚偽ではないだろう。
酒の酔いに任せて舞を踊り続けていた藤の精は、やがて遠く寺の鐘が鳴ったのを耳にして、慌てて夕暮れの中に姿を消す。
折りしも、高峯の屋敷を覆っていた空もまたすっかりと暮れていた。
藤娘は楚々とした名残りを残して袖へ身を隠し、そうして今年の演目も終わりを迎えたのだった。
それを追うように沸き立った賞賛の嵐が夕暮れた薄闇を大きく揺らす。
菫もまた惜しみのない拍手を送り、誰にともなしに落とすのだった。
「やっぱり弧呂丸兄さまの舞がいちばん素敵!」
◇
高峯の家で執り行われる宴はつつがなく終わり、観客たちは振る舞われた酒肴で機嫌をよくしたまま帰路に消えていった。
藤の精を離れた弧呂丸が深く短い息をひとつ吐いているのを目にして、菫は湯呑を運び、微笑みかける。
「とっても素敵でしたわ」
「ありがとう」
弧呂丸は菫を見上げて首を傾げ、受け取った湯呑を静かに口に運んだ。
「今年も皆様からの贈り物がたくさんですのね」
「私はまだ確認していないのだけど、……お礼をしなくちゃならないね」
「お饅頭とか、お漬物とか……。しばらくお茶請けには困りませんわね」
返した菫に小さく笑って、弧呂丸は小さな息を落とす。
菫は、弧呂丸の視線が夜の空を仰ぎ見ているのを倣い、自分も同じく空を仰いだ。
弧呂丸が落とした息の示す意味には、気付かないふりをして。
「兄さまはお年寄りのアイドルですわね」
言って目を細めた菫に、弧呂丸もまたやわらかな笑みを浮かべた。
「――いつもありがとう、菫」
返された言葉に、菫は刹那息を呑む。
たぶん、自分が懸命に隠したつもりでいた心を、弧呂丸はとっくに知っていた。知っていて、あえて気付かないふりを続けてきてくれたのだろう。
そうしてそれはそのまま、その上で、弧呂丸が自分の弱さを垣間覗かせてくれていたという事にもなる。
夜風にのって藤の花の気配が庭を充たす。
菫はわずかに目を伏せて頬を染め、「いいえ」と一言だけを応えて首を振った。
その後に続く願いは、しかし、言葉になす事をせずに腹の底に沈める。
いつかまた三人でこうしてのんびりとしたいですわね。
弧呂丸が小さく微笑んだ。
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
2007 June 28
MR
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