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ピッグ・ダイエット2 〜In the case of Minamo〜
──あたしは、豚なの。
幾つもの眼差しが、そうだ、お前は豚なのだと嘲嗤っている。
だって、あたしを連れている人もそう言うの。
短い腕をついて、許しを乞うように見上げるあたしを見て。
──地面を這う肉だるま。みなも、アンタは醜い豚なのよ。
でも、あたしはこの人に飼われているから。放って行かれたら、どうしたら良いのかわからなくなる。
だって、あたしは豚だもの。一人じゃこの世界で生きていけないの。
ご飯も、お散歩も。あたしは、人にコントロールされて生きている。
──哀しくなんて、ないよ。
●研究所
「まさか駅から連絡あるとは思わなかったわ。起き上がれないのが問題だったみたいね。再検討の余地あり、と‥‥」
駅の階段から落ちたあたし──海原・みなもを引き取ってくれたのは、このサウナスーツを考案した彼女だった。
ピンク色の丸い豚姿を家族にも友達にも見られたくなかったのか、住所と保護者名を聞かれた時彼女しか思い浮かばなかった。
「‥‥あの、茜さん」
「何? 私今忙しいのよ、後にして」
短い手足のあたしじゃ、彼女の急ぎ足について行けない。
途中何度も置いて行かれそうになって、あたしは何度も彼女の名前を呼んだ。‥‥振り向いては、もらえなかったけれど。
──彼女は、熱心な研究者だから。だから、今ちょっと話せないだけ。
みなもが依存するように彼女を見るのは、この姿で人の悪意に晒されたからかもしれない。
先生も、同級生も、全然知らない人にまで向けられた嗜虐心に満ちた眼差し。昨日まで知らなかった彼らの貌。
豚姿のままじゃ、彼らはあたしを好意的になんか見てはくれない。けど、だけど──彼女は、この豚スーツを着せた張本人なのだから。
研究所に入り、白衣を着た彼女はまだ背中を向けたまま。視線を合わせてもくれない‥‥。
「茜さん、あの、あたし、もうレポート書けます」
だから、だから、早く『これ』を脱がして、あたしを解放して──
服を返してもらって、豚の鼻も取ってもらって、スーツを脱いで下着を着て服を着て、あたしは人間に戻るのだ。
早く人に戻して──!
なのに。
振り返った茜は、今日一日で散々見慣れた目つきであたしを見た。
「は? 何言ってんの? あんた豚なのよ」
●檻の中
豚? あたし、豚なんだろうか? 本当の本当はあたしは豚で、人間だったあたしなんか居ないんだろうか?
「ほら、さっさと首を出しなさい! 全く、散歩に行ってあげるのにその態度。ほんっと可愛くないわね。飼ってあげてるんだから感謝しなさいよ」
研究所のお姉さん、というのもあたしが心の中で勝手に作り出した設定で。
セーラー服を着て学校に通っていたのも願望で。
あたしに向けられていた好意なんか、本当は一つもなくて。
「何よ、その目は! あんたの有り余ってる肉捌いて肉屋に売ってやりましょうか?」
ヒステリックに怒るこの女性は、ずっとこんな調子だっただろうか? ──そうだったかもしれない。
一人で脱げない、と思っていたのはあたし自身の肉だったから‥‥
飲み食い出来ない、と思っていたのはあたしが豚だったから‥‥
好意を向けてくれない、と思っていたのはあたしが醜い豚だったから‥‥
──全てはあたしの願望が生んだ、まやかしに過ぎなかったのだ。
「忙しい私は本当は散歩なんて嫌なのよ! 何なの、行く気ないんなら檻に戻りなさいよ!!」
違う、とあたしは去ろうとする彼女を追い駆ける。
檻の中でしか生きられないあたしに餌を与えてくれるのも、関心を向けてくれるのも、好意を持ってくれるのも、彼女しかいないのだから。
彼女に嫌われたら、生きていけない。
「は? 行きたいの? 面倒くさい子ねぇ、ホラ、鎖っ!」
鎖を首につけられて、ぐいと引っ張られる。ぐふ、と喉が圧迫されて喘いだが、鎖の先にある手が嬉しかった。
「普通ペットに飼うのは犬よ。アンタみたいな肉塊連れて歩くの、本当は恥ずかしいんだからね!」
──はい、ご主人様。ごめんなさい。醜いあたしを連れて歩かせて、ごめんなさい。
●衆人環視の中の豚
「うわあ、ママ豚だよ、お肉屋さんで見るのと同じ色〜☆」
白衣を着たご主人様に、あたしは鎖を繋がれたまま公園を歩く。赤ん坊のハイハイと同じに歩くあたしを見て、子供がはしゃいで指を差す。
「あら、本当ね珍しい。飼い豚なんて初めて見たわ。すみません、この子に触らせてもらえます?」
「もちろん構いませんよ。みなもは噛み付いたりしませんから」
そう、あたしは豚だから。こんな会話もおかしくない。あたしは豚だから、傷つく方がおかしいのだ。
「わ〜い☆ お肉ぶにぶにー!!」
ぶにぶに、と言った割に触るのは顔面だった。ううん、あたしは豚だから顔もぶにぶにで合ってるんだ。
「‥‥ちょっと、私にも触らせて」
──お母さんまで?
小さな子を連れていた母親が、ごくりと喉を鳴らしあたしに触れる。ほっぺたも、瞼も、髪も──
あ、違う、あたしは豚だから髪なんてなかっ
『痛いっ!』
ぎり、とマニキュアを塗った爪があたしの肉を掴んでいた。場所は、頬だ。
「豚のくせに痛そうにするのね。肉屋で解体したら、そんな風に鳴くのかしら?」
くっ、と嗤う女性に母性の欠片も見当たらない。子供は不思議そうに母親のもう一つの貌を見ている。
「ここも、ここも──私の太腿みたい!」
ぎゅり、と抓られ、あたしは痛い、と鳴く。
言葉は通じない。だってあたしは豚なんだもの。
「ふふ、この子を見ていたら何故かホッとするでしょう? だから私もこの子を手放せないの」
飽きたら肉屋に引き取ってもらおうと思ってるんだけど、と嗤うのは鎖を掴んだまま放さない飼い主。
──あ、れ?
頬に雨が落ちてきた。
変なの、ご主人様の白衣も濡れてなんかいないのに。子供も、乾いた地面を駆けて遊んでいるのに。
あたしにだけ、雨が降っているのは何でだろう?
地面を見ると、より一層激しく雨が降ってきた。あたしの顔にも沢山沢山流れて落ちている。
丸い濃い茶色の斑点。ぽつぽつ落ちているのに、ご主人様も公園にいる親子も、誰も気付かない。
気のせいか、視界も悪くなってきた。
見えていた斑点もぐちゃぐちゃになって、人の姿形も分からなくなって、あたしは、あたしは──‥‥
●深夜の豚
『あ、れっ?』
ぱち、と目を開けると何故かそこは室内で、あたしは駅で落ちた時みたいに仰向けになっていた。
きょろきょろと視線を動かすと、柔らかいベッドの上に寝かされているようだった。ご主人様が運んでくれたのかな、と思う。
同時にまたご主人様に迷惑をかけてしまった、と落ち込む。また嫌われてしまうかもしれない、という恐怖と焦りに。
『ご、ご主人様』
部屋は暗くて、よく見えない。ベッドから降りようと前脚を伸ばして、目測を誤ってそこから落ちた。
どすんっ。
今度はうつ伏せの格好。前脚をだらしなく折り、お尻と後ろ脚はベッドに乗ったまま。
暗闇に目が慣れてくるのを待って、前脚を見た。
──あ、れれ?
そこにいつもある筈の蹄がなく、ご主人様が持っているような綺麗な人の指があった。
醜い前脚が、人の手に変わっている。それは魔法をかけて人間の脚を得た人魚姫のようだ。
人間になる夢を見るほど人間になりたかった豚(あたし)。夢を見ているのだろうか──?
人間語をしゃべれないあたしは、呆然と、ただ呆然と──その細い指先を見つめていた。
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