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Hameln
チャペルに隠れるように奏でられる蠱惑的な笛の音。
誰もその笛の音に気がつかない。
誰もその笛の音を気にしない。
気がついてしまった君は、気がついてしまった僕は、気がついてしまった私は、気がついてしまった俺は、差し伸べられた手を取るのみ。
微笑むのだ。どこまでも無邪気で、どこまでも美しい顔で。
残酷な天使は星の上で踊る。
彼の名は―――ハーメルン。
笛の音に誘われるまま行こう。
その先にはきっと楽園が待っているから。
「行かなくちゃ……」
少女はビルの屋上に立つ。
「呼んでる」
一歩踏み出せば間違いなく死が訪れる。
少女はゆっくりと首を振った。
大丈夫! 私の背には翼がある―――!!
少女は、飛び降りた。
叶えられる事のない約束。
ああ、涙が空へ昇って消える。
―――さあ、一緒に行こう。
人に翼などあるはずがない。
けれど、飛び降りたはずの少女の姿はどこにもない。
白い羽が餞のように舞い降りる。
少女は翼を手に入れたのだろうか。
それさえもただ、笛の音の彼方に沈むのみ。
「あれ? 金本は?」
「誰だよそれ。そんな奴このクラスには居ないって」
「おっかしーなぁ」
振り返る。
無邪気な笑顔が手を差し伸べた。
―――さあ、今度は君の番?
一人の青年が草間興信所の扉を乱暴に開け放った。
「助けてくれ!」
「警察へどうぞ」
草間興信所と分かっていて「助けて」と転がり込む人間は、大概が不可思議な出来事に遭遇している人物。
極力そういった現象から遠ざかりたい草間武彦は、依頼人の青年――藤堂雅哉を一瞥して手にしていた新聞に視線を戻した。
「俺は死ぬ! ……いや、殺される!!」
「はぁ?」
死ぬと宣言しておいて、どうして殺されるに繋がるのか。
草間はわけが分からずに思わず言葉を返す。
それを機に、妹の草間零は、雅哉をソファに促し、お茶を出した。
雅哉は話す。事の発端を。
それは数日前、とある少女と約束を交わしたのだという。
けれど、彼女はその約束を果たすことなく消えてしまった。
文字通り、本当に消えてしまったのだ。
当時、彼女がビルから飛び降りる様を偶然目撃されていたが、彼女の死体は見つからず、目撃者が幻影を見たという事で結論づけられた。
その後、彼女は確かにいたはずなのに、誰も彼女の事を知らないと言いはじめる。
そして、彼は、彼女が消えてしまったと気がついた。
それは一人の少年が自分を見ていると気がついたときに。
笛の音を聞いたときに。
「ただの偶然と被害妄想だろう?」
年端もいかない少年がいつも自分を見つめているなんて。
だが、少年は言ったのだ。
―――彼女との約束は、もう永遠に叶わないね
と。
「で、どういう意味があるんだ?」
草間はやる気なさげに眉根をよせ、何時もの安い煙草をふかす。
「約束だよ約束!」
雅哉はどんっと机を叩いた。
「俺と約束してくれ!!」
絶対に、ハーメルンから自分を守ると―――。
自分にも草間にも日々の情報収集は欠かせない。と、シュライン・エマは最後に書き足された煙草のみ無視して、数冊の週刊誌を抱え興信所の扉を開けようとした瞬間、内側から開け放たれたことに、瞳をぱちくりとさせた。
目の前には、見たことが無い青年。
一瞬沈黙が流れる。
「そんな草間さん! あんただけが頼りなんだ!」
「知るかっ! それは警察の仕事だろ」
ぎゅうぎゅうと草間が青年の背を押して、興信所から追い出そうとしている様に、シュラインは助け舟を出す。
「待って待って武彦さん! そんな無碍にしなくてもいいじゃない」
シュラインに宥められ、草間はむすっと眉間にしわを寄せながらも、青年―――雅哉を興信所内へ戻ることを許した。
しかし、自分は関与したくないとばかりに応接机には完全に背を向けてしまい、シュラインははぁっとため息を着く。
「ごめんなさいね。どんなご依頼だったのかしら?」
草間がここまで拒否をしたという事は、彼の依頼は怪奇系だったのだろう。しょうがないと思いつつも、追い返すには忍びない。だが、シュラインが話を聞く体勢になったとたん、雅哉は水を得た魚のように、草間に話したであろう依頼内容をシュラインに話し始めた。
「約束…ね」
消えてしまった少女。楽園へと誘う少年。楽園は、裏を返せば死者の国だ。
どうしても死神や、何故かタナトス神を連想してしまう。
「約束をすることは構わないわ」
「シュライン!」
動揺の色を浮かべ名を呼ぶ草間と、感動の笑みを浮かべる雅哉。シュラインは、そんな対照的な二人に向けて、最後まで話を聞くように促す。
「でも、その前に約束内容を検討したいの」
その上で、約束できる内容と、できない内容を吟味する。シュラインだって、唯の人だ。何でもかんでも可能なわけじゃない。どうしたって叶えられない約束だってある。
「その、ハーメルンって名前なんだけど」
どうしてその名を雅哉が知っているのか。俗説であるならば、存在を忘れてしまうのに、なぜその名だけ残っているのか。
「どうして…でしょう。ただ、彼を見た時に、ハーメルンだって思ったんです」
シュラインは紙と机に広げ、ペンを片手に考える。
「その子の姿を見ただけで、ハーメルンだって思ったのね」
「はい」
笛の音を聞いたと言っていたが、その音に乗って名前がインプットされたわけではないらしい。その姿を見たものだけに、存在を受け付ける呪かなにかだろうか。
「えっと、彼女…金本智恵さん、だったかしら。智恵さんに、生前叶わない約束があった風に見えなかった?」
シュラインの言葉に、雅哉はしばし考える。
「約束が叶わなかったかどうかは分からないですけど、確かに消える数日前は、凄く空元気だった気がします。でも、どうしてですか?」
雅哉が約束に拘っているのだから、彼女がどうだったかと聞くのは至極自然だ。
「何だかね、ハーメルンの言葉を考えると、約束が叶わなかったら、悔いが残る内容っぽいじゃない」
「そう…ですね。俺も、悔いと言われれば、この叶わなかった約束は悔いです。何でもっと早く言わなかったんだろうって」
雅哉は淋しそうに微笑む姿を見て、どこかツキンと心臓が痛む。シュラインは、無意識に自分が買ってきた週刊誌に目を落とす草間を、そっと見ていた。
「今は笛の音って聞こえるの?」
「いえ、今は聞こえません」
「うーん…」
笛の音に人を操る力があるのなら、その悔いの部分を取っ掛かりにして発動しているのだろう。けれど、現時点で誘われる力を感じないのなら、約束をした時点で発動するのかもしれない。
「そうね。約束の内容は」
命あるものに、ハーメルンの笛の音を聞こえる様にすること。
約束が叶えられるなら何でも良い雅哉は、そのシュラインが提案した内容に二つ返事で頷いた。
「あのう…シュラインさん?」
「ごめんなさいね。少しだけ我慢して」
シュラインとの約束はまだ反故にされてはいないが、智恵と雅哉の間で交わされた約束は叶えられていない。
現状、雅哉がハーメルンに狙われたままであるのは変わらないのだ。だから、雅哉をハーメルンに連れて行かせないため、シュラインは雅哉を柱に縛り付けた。
「零ちゃん。ちょっと強引だけど、彼が連れて行かれそうだったら、怨霊で捕縛、お願いね」
「分かりました。任せてください」
怨霊で捕縛という言葉を聞いて、雅哉はぶるっと震え上がったが、それがずっとではないと知ると、何故かほっと胸をなでおろした。
(どんな魅惑的な音なのか…心惹かれるわ)
音に対して多大な興味を抱いているシュラインには、そのハーメルンの笛がどれだけ素晴らしいのか興味があった。そして、この約束が叶わなかったら、シュラインにも悔いが残るのは確か―――
雅哉が言っていたハーメルンの外見は、宗教画からそのまま出てきたかのような、愛らしいふわふわの金髪の少年。
見様によっては天使のような姿。
雅哉が突然ばっと顔を上げた。
笛の音が、響く。
「行か、なくちゃ…」
雅哉の口から小さく言葉が漏れる。
「呼ばれてる。行かなくちゃ……」
雅哉は自分を柱へと縛りつけるロープに手をかける。
「俺も…楽園へ……」
笛の音が、強まる。
「これが……、ハーメルンの笛の音」
耳に手を当てて、シュラインは辺りを見回す。
ハーメルンの姿を探して。
「駄目です雅哉さん!」
零の背後からぶわっと怨霊が立ち上り、無理矢理ロープをちぎって自由を取り戻した雅哉を柱へ逆戻りさせる。
「シュライン、何か聞こえてるのか!?」
草間は雅哉の変貌と、どこか遠くを見つめている(耳に全身系を集中させていた)シュラインに、やっと重い腰を上げた。
「え?」
草間の叫びに、シュラインは我を取り戻したように草間に振り返る。
―――彼は、行きたがってる
「!!?」
草間の背後に浮かぶ、愛らしいふわふわの金髪の少年。
あまりの驚きにシュラインは口元に手を当てた。
「ん?」
驚愕に立ち尽くすシュラインの姿に気がついたのか、草間も自分の後ろを振り返る。
「そんな顔してどうしたんだ? シュライン」
「見えないの…?」
ハーメルンは草間をすり抜け、シュラインの前に降り立つ。
怪訝そうな草間を尻目に、シュラインの視線は草間から外れ、ハーメルンへと向けられる。
―――約束。叶ったね
叶ったのなら、僕はもう、行くね。
ハーメルンは、瞳を軽く閉じ、その手に持った素朴な横笛をそっと口元に当てる。
死の音とは違う。ハーメルンが奏でる音楽が変わる。
雅哉は力をなくしたようにガクッと頭を垂れた。
「ま、待って! 行かないで! 聞きたいことがあるの!」
シュラインはその様を視て、消えゆくハーメルンを引き止める。笛の音が止まり、ハーメルンはその閉じていた瞳をゆっくりと開け、シュラインを見上げた。
「彼の約束が何だったのか、訊いてもいいかしら?」
シュラインの問いかけに、ハーメルンはくすっと無邪気な笑顔を浮かべる
―――それは、本人に聞くべきだよ
確かにその通りだ。けれど、雅哉は自分が彼女と交わした約束の内容を口にしようとはしなかった。
きっと、簡単に他人に言えるような内容ではなかったのだろう。
「なら、質問を変えるわ」
シュラインはハーメルンの視線にあわせて身をかがめる。
「あなたは、望みとかあるの?」
ハーメルンの瞳がきょとんと瞬かれる。
―――僕の望みはいつも1つさ
―――約束が叶えられること。それだけ
ハーメルンは語りだす。それは、約束を叶えて尚引き止めた、シュラインに対する興味からだろうか。
この世に叶えられることなく終わった約束が、どれだけあるだろうか。
必ず生きて帰ると誓った戦場。
必ず添い遂げると誓った木の根元。
必ず成功してみせると誓った若者。
必ず、必ず―――
その幾つが叶えられただろう。そして、その幾つが叶えられずに散っただろう。
悔いと、無念と、絶望と……
それはいつしか形となった。
けれど、叶えられぬ終わりは、せめて光の下へ。
それは誰の温情か。
いつしか時は流れ、ハーメルンは約束に宿り、悔い持つ者を楽園へと誘うようになった。
もし、その約束に悔いが無かったら―――?
雅哉はゆっくりとソファから起き上がり、両手を目の前にかかげ、呆けたような口調でボソリと口を開いた。
「あ、俺生きてる……」
起き上がった雅哉を確認し、シュラインはソファの向かいに腰掛ける。
「雅哉くん。あなたと智恵さんが交わした約束、聞いても良いかしら」
裏を返せば命の恩人たるシュラインの言葉に、雅哉は最初はもごもごと口を動かし、瞳を泳がせたが、観念したように口を開いた。
あの日、あの場所で待ち合わせて、そして―――
「……告白、しようと思ってたんです」
確かに、この約束には悔いが残る。
だが、シュラインと雅哉が交わした約束は叶えられた。だから、ハーメルンは2人の前から姿を消した。
けれど、この先も悔いが残るような約束がある限り、彼はまた姿を現すだろう。
雅哉の姿を見送り、シュラインは自分の椅子に腰を下す。
「人はどうして約束するのかしら」
叶わないこともあると知っていながら、それでも尚、約束を求めるのは何故。
「安心するためだろ」
「じゃぁ、武彦さんも約束…してくれる?」
突然声音を変えたシュラインに、草間はどぎまぎと週刊誌から顔を上げて問う。
「な…何をだ?」
「私もね、安心したいから」
だから、いつか―――
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
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■ ライター通信 ■
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Hamelnにご参加くださりありがとうございます。ライターの紺藤 碧です。
約束を交わせば雅哉はとりあえず安心しますので、約束の内容自体を変えてしまうというのはなかなかいい着眼点だったと思います。
約束が叶えられる結果となりましたので、雅哉含めハーメルンの呪縛から解き放たれました。ありがとうございました。
それではまた、シュライン様に出会えることを祈って……
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