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<東京怪談ノベル(シングル)>


雨去ぬる夕映えの部屋にて待つ


 金色を崇める下界に、銀色の影がゆっくりと吸いこまれてゆく。
 灰色の嘴から落とされたそれは、ひときわ橙の色濃い穴を己が半身と定めたようだ。住昔の契りか。否々、生じたときには既に対としてあったのだと、そう吹聴するような躊躇のなさで穴を目指していった。
 鴉は飛びたつために持ち上げた両翼をもどかしげに振るう。些か計算違いの趨向に、だがそれもよしとして、獣の眼が逃れる先に従った。
 即ち闇へ。

 ***

 気づくとまた、手のなかで金属を鳴らしている。だめ、と呟いて、ポケットに戻す。癖になってしまったその行動に唇を噛んだ。
 枕もとに置いていた時計を蒲団のなかへ抛りこみ、ここ数日定位置となっている窓際の椅子に腰掛ける。脚先で乱暴に窓を開けた。外からはぬるい空気とともに、なにかよくないものが紛れこんだ気がする。
 ――目を閉じて息を吐き、わたしはやっと諦めることにした。
 近くを走る山手通りの車の流れは順調だ。ときおり届くブレーキやクラクションの間抜けな主張とざわつきは、密度に反して無味乾燥な普段の街の姿を伝えている。変哲もない五月の夕暮れだった。
 瞼を持ち上げてみれば、力尽きる寸前の太陽が投げやりに室内を覗いている。今日の夕陽はくすんだオレンジ色。床に落ちたひかりは金の粉を撒いたようで、屈んでてのひらで掬ってみたくなる。きっとなんの感触もないのだろう。
 それを確かめるのが嫌で、かわりにテーブルの上のリモコンを手に取った。突然信号を送られた古いテレビはどこかの回路が破断したような音を立てる。数秒後に映像が流れはじめると、チャンネルを回してニュース番組を探す。やっている。さらに数分待つと、お手本のような爽やかな笑顔を顔に貼りつけた若い女と中年男が、画面の両端で同時に頭を下げる場面に変わった。天気予報だ。
 ずっと、音声はない。
 明日の予想天気図を見つめながら、耳は未練たらしく窓の外に向いている。
 都会の雨の訪れは車の音で知る。車が水を撥ねる音が、部屋のなかでもっともよく聴こえるのだ。だからこの時間帯は外からのたいせつな情報を聞き逃すことのないよう、なるたけ音を消している。時計の秒針さえも邪魔だった。
 関東地方の拡大図には傘のマークが散っていた。東京は、雨のち晴れ。肩に力が入るのが自分でもわかった。雨。雨。明日は雨。握ったままのリモコンを操作してミュートから通常に戻す。気象予報士が語りだした。東京の雨は今日の深夜から明日の午後まで降り続くらしい。午後? 午後って何時のこと? 睨めつけたわたしの視線に怯んだ風もなく暖気な声が答える。――この雨は夕方には上がるでしょう――夕方? それは陽が沈むころにようやく止むってこと? それとも陽が傾く前?
 今度の疑問には画面のなかの中年男は答えてくれない。わたしはテレビを消すと、財布と携帯電話と鍵を持って部屋を出た。
 明日のために準備しなければならない。


 今の部屋に越してから、そろそろひと月になる。毎日天気予報をチェックして、夕方には窓際で空の様子を観察する。明日は予報のとおりなら、今まででもっとも条件に近い日になる。自然足取りも軽くなるというものだ。駅前のスーパーまでの七分の道のりが今日はとても短く感じる。
 買い物リストはできている。好物ばかりを並べた料理のレシピもある。洩れはないはずだ。服も髪型もちゃんと決めてある。そうだ、帰ったら忘れずにあの香水を出しておこう。普段は使わないからつい仕舞いこんでしまうのだ。それに実のところ、わたしはあの香りがあまり好きではない。
 スーパーで買い物をしていると携帯が震えた。誰からのメールかはわかっていたし、内容も知っていた。片手で取り出して、ろくに確認もせずに返信する。
『行かない。 >明日の講義には来る?』
 送信完了の数秒後に今度は電話。お友達というのも大変な仕事らしい。いつもなら無視するのだけれど、今日は受けてあげる。だって、すごく気分がいい。
「はい?」
『よかった、出たよー……』
 後半の台詞が遠い。きっと相手の周囲にはお友達がいっぱい顔を寄せ合っているに違いない。学校に来なくなった友人を心配してあげる優しい女の子たち。その子たちの名前と電話番号とメールアドレスは知っているけれど、顔のわかる子なんて、ほんの数人。
「なに?」
『なに、じゃなくてさ。……大丈夫?』
 なにが大丈夫なのかと尋ねているのだろう。身体の具合なら、問題ない。
「うん、平気」
『じゃあ、大学来れそう? 教授も単位のことなら相談に乗ってくれるっていってるし、あたしらもノートとか貸すしさ』
 お互いに頷きあう姿が目に浮かぶようだった。
「行きたくない」
『……ねえ、マジでやばいって。おばさんからもあたし頼まれてるし、』
 困るよ、と溜息が告げる。
 彼女は同じ高校の出身で、何度か家に来たこともある。上京後、大学まで一緒になったのが縁で、今のわたしにはいちばん近いお友達。でも、とくべつ仲がいいというわけでもない。そんなものだ。
「迎えに来てくれるんなら、行ってもいいよ」
『迎え? 駅まで?』
「ううん、家まで」
 僅かな沈黙。躊躇う息遣いまで聞こえたかもしれない。
『明日は……あたし午前中バイトあるしなあ。……ごめん。ちょっと、無理』
「そう。べつにいいよ。わたしも明日はもとから行く気なかったから」
 怒ったかもしれない。押し黙った気配を感じながら、なにもいわずに通話を切った。
 メモをもう一度見て、買い忘れがないことを確かめるとレジに並ぶ。新発売と書かれた炭酸飲料のペットボトルを追加した。
 友人たちはどうしてか、わたしの部屋には来たがらない。


 翌日は早朝に目が覚めた。昨日はなかなか寝つけなかったから、三時間ほどしか寝ていないのに、頭も身体も軽かった。外からは雨の音。胸の高鳴り。遠足の朝みたいだ。
「雨だったら遠足はないか」
 寝起きで掠れた声さえも、浮かれているのがわかる。
「……準備、しないと」
 ベッドから降りて洗面所へ向かう。窓をそっと開けた。太陽のない灰色の街。
 夕暮れが待ち遠しい。


 ピンク色のグロスを唇に刷いて、鏡を閉じる。ラメのせいで口唇だけでなく目許や頬にも人工的な輝きが散っていることだろう。明るいピンクもラメも苦手だけれど、今日は仕方がない。
 そうしてメイクを終えて、改めて自分の格好を見下ろしてみた。ロータスの刺繍入りチュニックにジーンズ。今日は少し肌寒いので上にボレロを羽織った。ほんとうはスカートの方がいいのはわかっている。でも、この服はわたしのなかで精一杯女の子らしいものだ。これくらいなら大丈夫だと思う。
 部屋をぐるりと見まわす。
 掃除は完璧。折りたたみ式のテーブルには、チェック柄のクロスが対になって広げられている。フォークと箸は既に据えられていた。料理はキッチンで待機中。あとは皿に盛ったり、少し温めたりするだけでいい。
 トイレにバス、廊下、玄関と見て、なにも問題ない、と頷いた。
 部屋に戻って電気を消し、窓を全開にする。ああ、やっぱり。雨はすっかり上がっている。黒ずんだ雲の姿さえ、もうどこにもない。片方の空の青は翳りを帯びていた。もうひとつの空から隠れるように。――逆だ。もうひとつの空を、覆い隠そうとしている。
「今日の夕焼けは、とても赤いね」
 けれどその空は、ずいぶんとしぶといのだ。あまりにも強く鋭いひかりで抗う。幾本ものナイフを四方へ擲ち叫びをあげて。研ぎ澄まされた刃先で自分の身さえも切り裂きながら。
 世界は血潮に染まり、やがて自らのつくりだした血溜まりに沈んでゆく。
「雨は止んだよ。夕陽がきれい。だからもうすぐ、帰ってくるよね……?」
 風がでてきた。前髪をかきあげて窓枠に凭れる。じわじわと侵蝕される朱色を眺めていると、先ほどまでの気分が嘘のようにしぼんでしまう。
 すぐに、不安で堪らなくなった。肌が粟立つ。手が震える。落ち着こうと深呼吸して、ぎゅっと目を閉じる。カチャカチャと手のなかで耳障りな音が響いた。
 ――まただ。また、やってしまった。
 音に気づくと、いつの間にか握りしめていたそれを、部屋のなかへ投げ入れた。音もなくベッドに落ちた金属は、布地を僅かに凹ませただけだ。
「だめだよ。この癖は大嫌いだっていってたのに……まだ直ってないのかって、殴られちゃうよ……」
 口に出してみると、さらなる恐怖に全身が震えだす。必要以上に怯えるのもだめだ。きっと、この震えは気のせい。そう、寒いからに違いない。窓を閉めて、カーテンを引いて、
「それから?」
 それから――
「ナイフを隠さない、と……」
 振り向いた窓には、宵を待ちきれず闇がひと足先に舞い降りていた。
 カーテンは、開けられたままだ。
 青く薄い帳のかわりに遮っていたのは、どこまでも黒い外套だった。はためいて、弱い朱のひかりをちらちらと届かせる。人影は、逆光で黒く、黒く、黒く――顔が、よく、見えない。
「……あ……ア、ア……ッ」
 叫びだしそうになったわたしの口許を、硬い布が覆った。
「ただの悲鳴なら、私は要らない。――私が与えた鍵は、あなたのなにを、開きましたか?」
 黒布より冷たい声が、至近距離で紡がれる。誰だろう。この声は、彼ではない。彼はもっとざらついた声で、
 ――『彼』って、誰のこと?
 わたしは大きな違和感に、今更になって気づいた。
 わたしは誰に殴られるの?
 香水もこの服も炭酸も嫌いなのに、なぜわたしは準備しているの?
 今日はなにがある日なの?
「おい、俺が帰ってきたってのに、挨拶もなしか、」
「ッ!」
 彼、だ。
 いつの間に帰ってきたんだろう。ごめんなさい。気づかなかったの。おかえりなさい。ご飯の用意はできているから。今日はあなたの大好きなメニューなの。だから。だから。
「あなたは、にんじんが、嫌い」
 でもあなたが肉じゃがが食べたいというから、毎日だって作る。わたしはあなたと一緒のご飯が嬉しくて、にんじんも噛まずに呑みこむ。
「あなたは、香水が、嫌い」
 でもあなたがこの甘い香りが好きだというから。柑橘系のすっきりした香りのお気に入りの香水は、すべて捨てたの。
「あなたは、スカートが、嫌い」
 わたしには動きやすいパンツ姿がいちばん似合うと思うのだけれど。あなたはかわいらしい女の子が好きだから。ラメのたっぷり入った化粧品も新しく買った。もしかして、今日の服は気に入らなかった?
「あなたは、炭酸が、嫌い」
 辛くて小さいころから飲めなかった。ビールもシャンパンもだめ。でもあなたがたまにわたしにも注いでくれるから。笑顔で飲みほす。
「あなたは、彼が、」
「好きよ。大好き」
 苦しい息のまま、わたしはうっとりと微笑んだ。
 あなたのためなら、なんだってする。
 だから。だから。だから。
 ねえ、お願い。
 わたしを殴らないで。
 わたしを、
「刺さないで?」
 今度は遮るものもなく、悲鳴が夕闇を裂く。


 景色が、翳む。
 わたしは震えながら、手のなかの金属を鳴らしていた。しばらくその癖を続けていたが、拳を開いて、すっかり温度を持ったそれをぼんやりと見つめた。キーホルダーと二本の鍵。一本はわたしの、もう一本はこの彼の部屋の鍵だった。週末は帰りが早いから飯を作っておけ。彼はそういって、他の日は絶対に来るなと念を押しながらわたしに合い鍵をくれた。
 わたしは彼のいいつけどおり、週末にだけご飯を作りに彼の家へ通った。
 そして、何度目かの週末。


 景色が、滲む。
「なぜ、泣くのですか?」
「……わからない、から」
「なにが、わからない?」
「彼は、どうしてしまったの?」


 景色が、歪む。
 雨上がりの、夕暮れだった。
 なにがいけなかったのだろう。
 料理の味が悪かった? わたしの態度が気に入らなかった? 仕事で嫌なことがあったの?
 彼はその日も、わたしを殴った。いつもより、強く、しつこく、何度も何度もわたしを殴って。やっと彼の気が治まったとき、わたしは立つことすらできない状態になっていた。気を失いかけていて、彼の言葉で気づいたのだけれど、床に落ちていた鍵をまた、指先で転がしていたらしい。薄れる意識のなかで、カチャリ、かちゃり。
 彼はなぜか、ひどく驚いていた。目を見開いて、ぽかんとしていた。珍しい表情を見ていると、やがて顔を赤くしてまたわたしに殴りかかってきた。
 ねえ、お願い。
 怒らないでよ。
 ただの癖なの。知っているでしょう?
 わたしは軽いスナップだけで、手のなかの鍵を彼へ抛った。


 景色が、暗む。
 夜の訪れ。
「ああ、そうだった」
「思いだしましたか?」
 わたしの前に立つ男は、笑ったようだった。顔も、姿さえも、もうわからない。誰だろう。この声は、彼ではない。でももう、どうでもよかった。
「わたしはなんで、あのとき彼へ向かって、投げたのかな……」
 それがなにかを、わたしは知っていたのだろうか。


 わたしが投げたのは鍵ではなかった。
 テーブルの下に落ちていた、彼のナイフ。
 わたしは軽く投げただけだから、彼を傷つけはしなかったのだけれど。
 彼はわたしを何度か刺して、


 わたしは自分のお腹を撫でた。お腹と脚と腕と……あとはどこを刺されたのか忘れてしまった。傷痕はくっきりと残っているはずだが、痛みはとうにない。はじめからなかった気がする。
「床は血だらけだった」
 あれは、血だったのか。夕陽だったのか。幻覚だったのか。ただ赤いイメージが、部屋を埋めつくす。
 彼はナイフを取り落とした。わたしの血で滑ったのかもしれない。ナイフはちょうど、わたしの手の上へ落ちてきて、
「あなたの癖なのでしょう? それは」
 わたしは手のなかに擦り合わせるように握りこみ、
 彼はわたしへ覆い被さって、
「……ああ、だめ。やっぱり、わからない」
 次の瞬間には、彼も血だらけで倒れていた。なぜ彼が血にまみれているのか、倒れているのか、わたしは肝心のシーンを憶えていなかった。
「鍵を、お渡ししましょうか?」
「鍵?」
「そう、最後の鍵だ。あなたが仕舞いこんでしまったその記憶を、開く鍵」
「遅いよ」
 だって、ここまで思いだせば、あとはだいたい、わかるでしょう?
 結末の予想なんて、簡単。思って、ここより明るい夜空に視線を投げる。男が身を離す気配に、わたしは無意識に彼を引きとめていた。なにか、愉しげに彼が問う。
「別の鍵を、ちょうだいよ」





 気づくとまた、手のなかで金属を鳴らしている。だめ、と呟いて、ポケットに戻す。癖になってしまったその行動に唇を噛んだ――





 ***

 獣の眼が、くるりと世界を映した。
「この街の夜は、昼より明るい。私の眼には少々応えます」
 だからこそ、闇が色濃いともいえますが。ささめく台詞は、東京の夜空に降る。眼下に広がる無数の光を満足げに一瞥して、鴉はひと声啼いた。
 女が所望したのは、『彼』に関する記憶すべてを封じる鍵だった。
 これから先、二度と彼女は『彼』を思いだすことはないのか。あるいは思いだして、またあの部屋で『彼』を待つことになるのか。
「後者でしょうか。しかし結末が同じだとは限りませんね」
 鴉は嘴の先に煌めく真新しい金属を揺らし、そうして、嘴を開く。滑り落ちる先は確かめなかった。
 されど。
 雨の上がったあと、赤く美しい夕陽の日にはまた、あの部屋を訪ねてみるのもいいかもしれない。
「なにせあれは、鍵なのですから」
 ひとつの鍵で開く扉は、ただひとつ。
 鍵が違えば、無論応じる扉も、異なるのだ。


 銀色は金色を見放して、闇に呑まれる。
 遠く落ちゆく音を聞いた。


 <了>