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Untouchable
触れてはいけない。
その奥底にあるものには、絶対。
でも、他の誰かにも触れてほしくない。
いや、触らせない。
あれは自分だけが触れていいもの。
あれは自分だけが触れられないもの。
独占心。
占有心。
保護心。
どれともつかないような、そんな二律背反。
そんなものがあるから、ハリネズミはさらに自分の体を傷つけていく。
今、震える体を触れてくれる人は傍にいない。
いや、自分から離れたのだ。
だって、もっと傷つけてしまうから。
自分が傷つく以上に傷つけてしまうから。
そう、自分が傷つくよりも。
ただ、あの人が傷つくことが怖かった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……」
空に、都会には珍しく綺麗な星が輝いている。
決して消えない光に包まれたそこで、星が見えることも中々ないのだ。
ただ、そんな珍しいことも今の彼女にとっては何処吹く風。
「…なんでこんなことで悩んでるのかしら」
一つ、溜息混じりに呟きが漏れた。
「大体いきなり来なくなるからこっちの調子が狂っちゃうのよ、全く…」
呟きは遂に呟きを超えて、本人の意に反して強くなっていく。
ぐちぐち。ぶちぶち。ぎゃーぎゃー。
本来クールなはずの彼女とは程遠い様子である。しかし、そんな彼女に向けられる目がないのは夜だったおかげだろうか。
「ホント何なのよ一体…」
そしてまた溜息が漏れる。なんとも忙しい。
「あいつ、どうしちゃったのかしら…」
愚痴なのか心配なのか。幾分か落ちたトーンで一人火宮翔子は考える。呟きはただ静かに空へと消えた。
一人で歩く夜道が、これほど静かだと思ったのは一体何時振りだろうか。
『翔子さぁん♪』
そんな風に抱きついてくるはずのものが、今は傍にいない。
数日前からだった。急に彼女が余所余所しくなり始めたのは。
何時もなら必要以上に傍に寄ってくるはずの彼女が、そのときばかりは何かに怯えたように離れていったのをよく覚えている。
そしてそれから数日。完全に彼女の姿は消えた。
一体何があったのだろうか。もしかして自分が何かしたのだろうか?
分からない、何一つとして。ただ一つだけはっきりとしているのは、彼女が傍にいないということ。それが、妙に引っかかって仕方がない。
「…って、なんであたしが暗くなってるのよ」
そして、それを妙に意識している自分の気持ちが分からなくなる。
とはいえ、連絡手段もない。あちらから来る気配も一切ない。
つまり、どうしようもないのである。こればかりはどうにもならない。
「はぁ〜…しょうがない」
久しぶりに一人分で済みそうな夕食の材料を抱えつつ、翔子は深い溜息をまたつくのだった。
だがまぁものは考え様というものだ。今ならば、あいつに邪魔されずに思う存分に動くことも出来る。
正直な話、彼女が傍にいるとうるさすぎてまともに買い物などできないのだ。
というわけで、
「どうせだから他のものも…いいわよね?」
誰に聞いているのか分からないことを呟いて、翔子の足はまた動き始める。
「……」
ふと。足が止まる。
さっと周りを見渡すが、特に何か変わった様子もない。
しかし見逃すはずもない、その違和感。
「…何なのよ一体。折角のオフなのに…」
心底うんざりしたような呟き。折角あいつのことが収まったと思ったら次はこれか。とことんは自分は不運だな、そんな風に翔子は思う。
「……」
仕方なく、歩む足を別方向へと向ける。自分が向かおうと思っていた方向とは全く逆方向へ。
なぜなら。その感覚は最悪に近かった。ここにいれば、絶対に関係のない血を見ることになる。そんな予感だったから。
「…で。何の用なのかしら?」
夜の公園には、例え都会であろうと誰もいない。金に困った若いカップルなどなら話は別だが、人気のない不気味な場所には誰だって好き好んで寄りたがらないものだ。
だから都合がよかった。ここならば何があろうと被害も広がらないし、自分のことも見られることはない。
『……』
翔子の声に呼応するかのように、闇の中から影が一つ、二つ…どんどん湧き出してくる。
「…あんまり友好的な雰囲気、ってわけでもないのね…」
正直なところ、自分が思っていたよりもはるかに数は多い。恐らく大半は気配を完全に消しきっていたのだろう。要するに翔子は誘き出したように見えてここに誘き出された、と言ったほうがいいのだろう。
とはいえ、目的はまだ分からない。だから、
「少しくらい話してくれてもいいと思うんだけど」
真意を見抜こうとして…それは在る意味で、成功した。
「冗談でしょ…!?」
闇から飛来するナイフ。それを寸でのところでかわす。するとまたそこを狙ったように何かが飛来する。
殺気は感じられない。ただ、確実にそれは自分を狙っている。目的は間違いなく自分であるようだ。
「…って、なんであたしなのよ…!」
見たところ、こんな連中には一切心当たりがない。おかげで何故狙われているかすらもさっぱりだ。
半ば混乱しそうになる心を静めつつ、翔子は何処からくるかも分からない攻撃を避けるのだった。
だが、そんな状況が何時までも続くわけもない。
幾ら翔子が優れた退魔士であろうと、多勢に無勢もいいところなのだ。
「ちっ…!」
文字通り全周囲から放たれる攻撃は確実に翔子の動きと逃げ場を狭め、そして遂には捕らえる。
抵抗しようとしたが無駄だった。当然だ、それを許してくれるほど甘い相手でもない。
自慢の符も放てぬまま、翔子の体は謎の集団によって縛られていた。
「…で。人様をこんな風にしてどういうつもり?」
非難がましい声に、男の一人が口を開く。
「餌だ」
ただ、その一言だった。
「餌?」
「そうだ」
何の、とは聞ける雰囲気でもなかった。
そのとき、
「きたぞ」
そんな声とともに、見慣れた顔が闇の中から浮かぶ。
「……」
はぁはぁと、荒く弾む息だけが聞こえる。
それは翔子が見たこともない表情。どうしようもなく怒り狂う、声を上げることすら忘れた。
「ブラッディ…」
見慣れたはずの顔が、まるで別人のように思える。
そう。ブラッディ・ドッグはどうしようもないほどに怒り狂っていた。
「離せぇぇぇ!!」
ほとんど絶叫に近かった。その瞬間、声とともにブラッディがやってくるような感覚に襲われる。
一瞬でかき消えた姿が、翔子とそれを捕らえる男の前に現れる。
まるで瞬間移動をしたようなそれに、しかし、
「止まれ。どうなるか分かっているだろう?」
男の声はきわめて冷静だった。
男の手が動く。まるで翔子を盾にするように、そして手にはいつの間にか握られている大振りのナイフ。それが翔子の首筋へと当たる。
冷たい感触が、翔子の肌をざわめかせる。そして、それはブラッディも同じことだった。
大きく振りかぶったその腕は、恐らくは一瞬で男を引き裂くことができるだろう。だがしかし、それは同時に翔子の死も意味する。
言葉はなかった。振り下ろす瞬間までいったその腕が、力なくおりていく。
その時になってようやく理解する。餌の意味、そして今男たちから溢れているものの正体。
それは純然たる殺意。そしてそれが向けられているのは目の前で立ち尽くすブラッディだ。
ならば、そこから出てくる答えは、
「ブラッディ、逃げなさい!」
それしかない。
「だぁいじょうぶだぁよ」
しかし。ブラッディは動かない。動くはずがない、なぜなら、そこには翔子が捕らえられているのだから。
ただにっこりと何時ものように笑うブラッディに、銃声が響いた。
鈍い衝撃音。そして連続して響く発砲音。
幾ら公園であろうと街中であることには代わりない。しかし、男たちはそんなことも気にしないかの如く大口径の銃を撃ち放つ。
一発、二発…数えるのも嫌になるほどの銃弾が、その細身へと吸い込まれていく。幾ら機械がその体を補っているとはいえ、限界がある。鉛の塊は鉄を拉げさせ、遠慮なくその体を穿っていく。
「……」
声はない。痛みはあるはずだ、しかし声を上げることはない。
それは偏に目の前の翔子を心配させたくはないから。彼女の悲しむところだけは、何故か見たくはなかった。
だから、
「ブラッディ!」
その人の声を聞くと、何故か不思議と笑みが毀れるのだ。
まるでスローモーション。出来の悪いドラマのように、ブラッディの体がゆっくりと地面へと倒れていく。
それが全て自分のせいだと知って、そしてその男たちの卑怯さを知って。その瞬間翔子の中で何かが弾けた。
怒りに任せたその動きは、まさに電光石火。自身を覆っていたワイヤーを隠し持った暗器が切り裂く。同時に自由となった体は風となって男の腕をすり抜ける。そしてその腕には、何時の間に握られていたのか大量の符。
「っ!!」
気合とともに放たれたそれは、まるで意思を持つ蛇の如き炎となって男を包み込む。
「何だこれは…!」
怯んだ一瞬、その隙を見逃すほど訓練の出来ていない女ではない。その一瞬をもって、翔子はブラッディの元へと駆け寄っていた。
「よかった、生きてる…」
弱くはなっているが、確かに息はしている。その体のおかげか、あれだけ撃たれてもまだ致命傷とはなっていなかった。
普段は嫌になるその頑丈さに、この時ばかりは感謝する。気が抜けたのか、翔子はその細い体を思いっきり抱きしめていた。
それは、どうしようもない隙でもあった。この戦いの場でそれは死を意味する。
間髪いれず鳴り響く複数の銃声。だがしかし、幸運なことに翔子はプロだった。だから、自然と体が動き、それをそらすことに成功する。
まだ目が覚める様子のないブラッディの体を抱えたまま翔子は横へと転がる。そして、転がりながらもその手からは幾多の戦場を潜り抜けてきた符が放たれていた。
その炎を自由に操る能力は、時として威力以上の恩恵を齎してくれる。先ほどと同じように意思を持つかの如く動く炎は、確実に男たちの気をそちらへと向かせていた。
「翔子さぁん…」
そして、何時の間に気付いていたのか。ブラッディが目を覚ましていた。
「ブラッディ、大丈夫?」
「うん、ありがぁとぉ…大丈夫、だから」
ふらふらなまま、またブラッディはにっこりと笑う。多分、翔子に気遣わせたくないがための無意識の笑みなのだろう。
「ちゃんと、責任とるかぁら…」
不意に、その頼りない腕に力がこもり。そして、次の瞬間何かが煌いていた。
ただ一振り。それだけで、気がそれていた男たちは避けることも叶わず、断末魔の叫びをあげる間もなく切裂かれ絶命していた。
そして、同時にまたブラッディの意識もブラックアウトしていった――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夢の中で見たのは、ただ大切に思うあの人の顔。
それはとても悲しそうだった。
何で?
何でそんな顔をするの?
そうか、思い出した。
それは自分のせいだった。
その人は、そっけない癖にどこか優しくもあって。
嫌といいながら、それでも自分を避けないでいてくれる。
だから、そんな顔はしてほしくない。
たとえ自分が傷ついても、あの人にだけはそんな顔してほしくない。
心配してくれるのは嬉しいけど。それ以上に、悲しいから。
自分が傷ついても平気だけど、あの人が傷つくことは我慢できない。
だから。守りたいと思うんだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
少し考えれば、ブラッディが何故最近自分を避けていたのかは理解できた。
あれからブラッディが目を覚ますことはなく、仕方なく翔子は彼女を部屋へと連れ帰ることにした。
男たちは…まぁ因果応報だからしょうがないだろう。何より自分だって被害者だ、同情するつもりは更々ない。
ただしかし、
「…まぁこれはこれでちょっとね」
これだけの死体は放っておくわけにもいかない。こんなものが見つかってしまっては、また何か別件で色々なところが動くだろう。その当事者にだけはなりたくはない。
「成仏しなさいよ」
投げつけられた符は炎となりて数多の物言わぬ骸を包み込み、その骨すらも焼き尽くしていった。
部屋についてもブラッディが目を覚ますことはなかった。普段ならただそれだけで大興奮しているだろうに、そういう風に思うと少し寂しくもある。
服を脱がせ、傷を確認する。見た目には酷いが、内部の機械のおかげもあって命に別状はないと言える。
手当てに意味があるのかどうかも分からないまま処置を済ませ、また服を着せてやる。それは、ブラッディのものではなく自分のもの。
「……」
静かに時間が過ぎていく。聞こえるのは、小さな小さな寝息だけ。
「…あんた、あたしに被害が及ばないようにしてくれていたのね」
前髪をそっと掬ってやると、ブラッディは擽ったそうに身をよじらせる。
「ホント、不器用なんだから…」
まるで子供のような彼女に、少しだけ苦笑が漏れた。
「あたしだってそういう経験は沢山してるんだから、言えばいいのに」
聞こえるはずはないけど。言わなくては少し気がすまなかった。
呟いて気が晴れたのか、翔子はまた前髪を掬ってやる。
「…まぁ、助かったのは確かだしね。しょうがないかぁ…」
そう、しょうがない。だから、今度目を覚ましたら思いっきり甘えさせてやろう。多分、こいつにはそれが一番のご褒美だろうから。
「…………必要以上に喜びすぎて傷が開かなきゃいいけど」
そんな変な心配もして。自身も疲れに身を任せ、ベッドに体を預けて眠りへと落ちていく。
「翔子さぁん…俺が、守るから…」
そんな寝言は、眠る翔子に聞こえることはなかったが。
安らかに眠る翔子とブラッディは、いつの間にかその手を握り合っていた。
<END>
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