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夢を見た
古民家と評していいであろうその棟に出入りを許されるようになったのは、未だ梅雨も明けきれてもいない、水無月の頭の頃だった。
大きな荷物を抱えふうふうと息を吐きながら坂道を上る老女を見かね、その荷運びに手を差し伸べたのをきっかけとした縁だった。
老女は齢八十を迎えようという年であり、緩慢に続く長い坂を上りきった場所に建つ平屋建ての家にひとりで住んでいるのだという。
行ってみれば、確かに古びてはいたものの、長い歳月を超えてあり続けてきた分の風情をもった、存外に大きな家だった。
焼夷弾を落としていった米軍の軍機の真下に位置していたがため、実に運良く戦火を逃れる事が出来たのだと、老女は小さく笑った。
彼女の亡夫は出兵したまま帰らず、残された多くの蔵書を始末する事も厭われ、たったひとりの息子にも早逝された後にはひとりきり細々と年を重ねてきたのだと言った。
それゆえか、老女は七重の訪問を心から喜び、実の子や孫に接するように甲斐甲斐しく世話を焼いた。
七重は七重で、老女の夫が残していったのだという蔵書を読み耽るのに心を奪われて、閑をみては彼女の家を訪れるようになっていった。
それから二月。
長雨はとうに終息し、景色は真夏のそれへと変じた。
仰ぎ見る空にはどこまでも高く続く藍が湛えられ、その中を泳ぐ雲はまさに沸き立つように浮かんでいる。
老女の夫はかなりの読書家であったのだろう。
あるいは知識に貪欲な人物であったのかもしれない。
蔵書の種類にはおよそ傾向といったものが見られず、洋書、和書、中には詩経などもある。
医学書もあれば文学もあり、昆虫や植物に係わるものもあった。文学ひとつ取ってもその種類は様々で、ミステリもあれば純文学もむろん並べられていた。
七重は飽きもせずにそれらを繰り、老女の話に熱心に耳を傾けて、気付けば、時にはそのまま宿を借りてしまうといった事も間々あった。
「昼餉に、お素麺でも茹でましょうね」
そういって微笑んだ老女に大きくうなずきを返し、嬉しそうに歩いて台所へと姿を消した背中を見送る。
縁側の軒下に簾が下がり、その横に青銅の風鈴が揺れていた。
手入れの届いた庭には心地良く陰を落とす小さな林が広がっている。
ホースの繋がれた水道の蛇口と、そのすぐ脇に伸びる朝顔の蔦。吹く風が涼やかなのは木蔭がもたらすものであるのか、あるいは老女が庭のそこここに打った水のためであるのかもしれない。
七重はその縁側に座ってひとしきり心地良い風景を見渡した後に、老女が用意してくれた銀盥の中に両足をつけた。
盥の中には水が張られており、降り注ぐ陽光を反射してゆらゆらと光彩を放っている。
両足を踝まで浸けると、夏の暑気を忘れてしまうほどの涼を得られるのだ。
蚊遣りのために置かれた蚊取り線香の煙が風を含んで辺り一面に広がっていく。
七重は一拍の呼気を落とした後に、新しく持ち出してきたばかりの和書を手にした。
水浅葱の表紙、和綴じのなされた本。
表紙に張られた題名には、『葉落月怪奇之譚』と記されていた。
怪奇、
開いてみれば、それは確かに怪談の類を寄せ集めたものであった。
怪異を蒐集し書物に編纂するといった事は決して珍しいものではない。
七重もそれらの全てを認識出来ているわけではなく、むろんの事ながら、それらの全てに目を通した事などあるはずもない。
ただし、それを蒐集した人物が何という者であるのかは気になる。
が、和書はどこにもそれらしい名前が見当たらず、七重はしばし首を捻った。
収められていたものの長短は様々で、その内容も実に様々だった。
思えば『怪奇』と表題してはいるものの、それらが総じて怪談である必要などないのだ。
どこそこで天狗が出たらしい、
イナゴが田畑を食い散らかしたようだ、
そういった、半ば民話のようなものが半分程を満たしていただろうか。
が、中には確かに怪談と呼ぶに相応しかろうというものも含まれていて、その中の一話に、七重は強く気を引かれた。
◇
むかし、生野ヶ原という地があった。
源平の刃の交えられた戦の煽りを受けてか、元々は蝦蟇の穂ばかりが伸びる湿地帯であった場所が、いつしか屍で埋め尽くされたのだという。
死者ばかりが転がった荒野であったがため、せめても地名はそれと思われぬようなものであれと、生を用いたのだとされる。
さて、その地の端に、幾許もなく一周出来る程度の小さな池があった。
深く苔生した緑色の水が湛えられ、その底はちらとも伺い見る事は出来ない。
蝦蟇と柳と、やけに身丈の大きな草花とが、その池を庇うように伸びている。
そもそも夜毎青白く魂魄が飛空しているとの事もあり、地元の者も避けて通るような不吉な土地。その上さらにそういったものが進む足を阻むので、池はいつしか在る事すらも失念されていった。
ある時、旅の坊主がその地の傍に差し掛かった折、坊主はひとりの老婆を目にとめる。
老婆は足腰に不自由があるようで、その上大きな薬箱のようなものを背負っている。今しも倒れそうな老婆を放っておく事も出来ずに、坊は老婆に手助けを名乗り出たのだった。
老婆は坊を自宅へと招き、礼にと食事を勧める。
坊主はこれを受け、老婆の心尽くしに、その一晩の宿と借りる事とした。
さて、夜も更けて、坊主は老婆に礼を述べた後に敷かれた寝床へと潜り込む。
それから幾時かの刻を過ぎ、坊はふと目を開けた。
行灯も消された闇の中、粗末な木戸が押し開かれる音を耳にした坊主は、よもや野党の類ではないかと思い、寝床を後にした。
音を立てぬようにと外を検めてみた坊主が目にしたのは野党などではなく、闇を舞う無数の魂魄だった。
蛍の如くに瞬きながら闇を染める青白いその中に、無念を浮かべた亡者共の顔がある。
老婆はその中に身を置いて魂魄をわし掴むと、その傍からくるりと丸めて口の中に放り込んでいた。
見れば、老婆のそれは額に角を生やした鬼の形相となっており、漂う魂魄を次々と食んでいる。
坊主はそのおぞましき様を目の当たりにして腰を抜かし、ただひたすらに念仏を唱えた。
老婆は般若の面で坊主に押し迫るが、懸命に読経を続ける坊主の一念に気圧されてか、手の届かぬぎりぎりの場所をぐるぐると徘徊し始める。
その後一晩坊主は読経を続けて老婆を追いやり、やがて空の明けるのと同時に老婆の姿はどこへともなしに失せていった。
◇
ありがちな怪談だ。
七重はふと息を吐いて顔をあげ、風に揺らぐ朝顔の青に目を向けた。
かつて戦地であった荒野に現れる鬼女という逸話は安達が原のそれが著名だ。旅人を襲いこれを喰らう、おぞましくも悲しい鬼婆の伝説。
そういったものが各地に散り、似たような逸話を産み落としていくのもまたありがちだ。
盥の中の両足をひたひたと動かして涼を得、七重ははたりと和書を閉じて空を仰ぐ。
安達が原の鬼は、知らずとは云え、己が実子と実孫を殺めてしまう。それゆえに狂気に陥り、以来人を喰らう化け物と化したのだ。
ならば、生野ヶ原の鬼もまた同様の理由をもつのかもしれない。
そも、生野ヶ原はかつて戦火に見舞われた災厄の土地であるという。ならばあるいはその戦火に大切な者を奪われた哀れな女であったかもしれないのだ。
しかし、いかなる理由があるとはいえ、人や魂魄を喰らうという時点で、彼女らは紛れもなく忌むべき鬼であるのもまた事実。
坊主は読経により身を助けた。
――否、助けたのだろう。
思い、七重は閉じた頁を再び繰ろうと指をさしかけた。
その時、
「昼餉が出来ましたよ」
老女の優しい声音に名を呼ばれ、七重は再び和書を閉ざす。
いつの間にか七重のすぐ後ろで膝を折り、満面にやわらかな笑みを浮かべた老女が七重を見据えていた。
「今、用意してきます」
うなずきを返して盥を出、老女に差し出された手拭いで足を拭く。
次いで蛇口から続くホースで手を洗って、それから急ぎ台所へと向かった。
老女は七重の背を見送ってやんわりと首を傾げ、その目をちろりと和書に向ける。
盥の水を庭に撒くために骨ばった手をひょろりと伸べて盥の縁を掴み、その内で揺れる緑色の水に目を眇めた。
深く苔生した、底の知れぬ水。
それからちろりと背に目をやって、何食わぬ顔で盥を返す。
朝顔が揺れて、木蔭が大きく揺らいだ。
素麺を啜りながら、七重はふと先ほどの怪異の続きを気にとめた。
坊主は果たして鬼の手を逃れられたのだろうか。
老女が出したキュウリをかじりながら、七重は縁側に目を向ける。
和書はそこに置かれたままになっていた。
食事を終えたら続きを読もう。
思いながら腹の底でうなずいた。
「そういえば」
麦茶を口にしながら老女を見つめ、七重はぽつりと落とすように目を瞬く。
「この辺って虫がいないんですね。蝉の声もしないし、コオロギの声も聴いてないような気がします」
その代わり、夜になればどこからともなくカジカの声が聴こえる。
老女は満面の笑みのまま、
「そういえばそうかもしれないねえ」
言って、それきりにこにこと微笑んだまま口をつぐんだ。
食事を終えて、七重は再び縁側へと向かう。
盥の中では新しく容れられた水が陽光を反射して輝いていた。
清らかな水の中に足を浸す。
涼やかな風が髪を梳いて流れる。
七重は再び和書を繰り、続きに目を通そうと試みた。
が、その時、それまで涼やかに吹いていた風が突然に勢いを強め、盥の中の水が大きく揺らいで飛沫をあげた。
燦々と照っていた太陽ははたりと翳り、辺りには見る間に濃い影が広がっていく。
和書が風に吹かれてどんどんと捲れていく。
と、風に紛れて読経の声に似たものを耳に掠め取り、七重はふと声のした方に顔を向けた。
それは足元の水の底から聴こえている。
あ、と思う暇もなく、水の中から伸び出た無数の白い手が七重の足を掴んで引いた。
「おばあさ、」
老女を呼ぼうと振り向いた七重の目に映りこんだのは、今まさに優しい老女の顔の皮を払い落とし、正体を現した鬼女の面だった。
足を浸けている水は、いつしか深い緑色のものへと変じていた。
読経の声が高くなる。
「――!」
叫ぼうとした刹那、七重の小さな身体は盥の中、緑色の水の中へと完全に引き込まれてしまったのだ。
気付けばそこは七重の自室の中だった。
全身に不快な汗が張り付き、まるで池の中から抜け出た時のようにべたべたとして気持ちが悪い。
――夢だったのだろう、
そう考えて身を起こす。
そうしてシャワーを浴びるために部屋を後にした七重の背後、――窓ガラスに、へばりつくような恰好で七重を凝視している老女の顔があった。
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
2007 June 19
MR
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