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<東京怪談ノベル(シングル)>


 声明散華 
〜ショウミョウサンゲ〜



 ねぇ漣さん。あなたは私を優しいというけれど、
 こんな夢をあなたに見せても、それでもあなたは私を優しいと思うだろうか。


*


 私の幼い頃の記憶は、ある時を境に断片的にしか残されていない。
 どう抗っても拭い去れない深い闇が私の中に根付き、内側から喰い破られていくような苦痛と、恐怖。自分が自分で無いような、足元から自分の存在が突き崩されていくような感覚が、常にまとわりついて離れてはくれなかった。
 暗闇の中に一筋の光さえも届かず、救いを求めて伸ばした手は虚空を掠め、足掻けば足掻くほど闇に足元を絡め取られて深淵へと沈んでいく。
 一体自分の身に何が起こったのかさえ解らず、いっそ死ねば楽になれるのかと……そんな事ばかり考えていたように思う。

 蝉の声が夏を告げる。
 煌く太陽の陽射しが、障子の向こうから畳の敷き詰められた広い部屋へと入り込んでくる。
 この世に生を受けてから、夢の世界に生き続ける存在となるまで過ごした榊の家はどこか陰鬱としていて、決して居心地の良い場所とは言えなかった。それでも、連子窓から入り込む柔らかな陽光や、庭先に巡り来る四季の美しさに心を癒された日々は確かに存在していたのに……。
 あの夏の日以来、この世界の全てが自分とは一線を隔した別の何かのように思えて、もう二度と、自分は現実の世界に足を踏み入れる事が出来ないような気がしていた。

「紗耶に憑いた妖魔を祓えない?」
 誰かがそう話しているのを、私は混濁する意識の中で聞いた。その言葉で初めて、己の中に巣喰う闇が妖魔である事を知った。
 私の枕辺で誰かがすすり泣いている。頭上から幾重にも降り注ぐ、哀れみと謝罪の言葉。
 何故皆泣いているのだろう。
 何故私に謝るのだろう。
 私に妖魔が憑いたのは、きっと誰の所為でもなのに。誰も悪くはないのに。
「…………」
 誰も悪くないと、そう言いたいのに声が出せなかった。せめてこの気持ちだけでも誰かに知って貰いたくて手を伸ばしたら、私の手を握り締めてくれる人が居た。それは私と同じ、小さな手。
 心配しないでと心の中で呟いた言葉が伝わったのか。私の手を握りしめてくれた人が、何度も何度も謝りながら嗚咽を零した。
 蝉の声が聞こえた。
 自分の命の終わりを知っているから、蝉はあれ程までに忙しなく鳴き続けるのだろうか。
 思い、無意識に自分の頬を涙が伝った。



 暗闇の中で苦しむ私に、誰かが「海へ行こう」と告げた。大きな手に抱き上げられたような気がして瞳を開くと、懐かしい顔が視界に映った。
 父だった。
 あの時の私には、何故父が突然そんな事を言い出したのかすぐには解らなかったけれど。「海へ行こう」と言った父の声音がとても穏やかだったのを、今でも覚えている。
 抱かれたまま一艘の舟に乗り込むと、波を受けた船体が大きく揺れ動いた。さほど大きくない舟内には他に誰も居ないようで、無機質なエンジンの音だけが周囲に響き渡っていた。
 闇と現実の狭間を彷徨いながらデッキに腰を下ろしていると、やがてエンジンの音に紛れて鴎の声が耳に届いた。次いで聞こえてきたのは、ゆったりとした潮騒の音。
 いつの間に漕ぎ出していたのだろう。うっすらと瞳を開くと、私の眼前には果てしなく続く海が広がっていた。
 夏の日差しを受けた水面が宝石を散りばめたかのように輝いている。青空を数多の鴎が飛び交い、楽しそうな鳴き声を奏でていた。その音色に耳を傾けながら海風に身を任せていると、私を苛み続けている苦痛が取り除かれていくように思えて、少しだけ穏やかな気分になる。
 海へ連れてきてくれた父へ感謝したくなり、私は傍らに立っていた父へ視線を向けた。けれど、父は真剣に何かを考えているようで、私の視線に気づくこともなくただひたすらに海を見つめていた。父のその顔に、晴れやかな笑顔はない。
 どうしたのだろうかと私の心に疑問が過ぎったとき、父が重い口を開いてある言葉を紡いだ。
 ……潮騒の音が、一際大きく響き渡った。

 たった一言だけ。
「一緒に死のうか」と父は私に告げたのだ。
「いっそ、この身一つを引き換えにお前と死ぬのも悪くない」と。
 幼い頃の私は『死』という言葉の本当の意味を、まだ正確に理解していなかったようにも思う。だからかもしれない。その言葉が私には酷く甘美なもののように感じられた。
 死ねば楽になれる?
 そう思った。
 祓えないと言った誰かの言葉がぐるぐると頭の中を木霊している。
 この闇を祓えないのならば、この苦しみから逃れられないのならば、死を選ぶのも悪くはないかもしれない。父さんが一緒なら、怖くないかもしれない。
 死ねば楽になれる? 父さん。
 言葉にならない問いかけを心の中で繰り返しながら私は父を見上げた。父は視線を海から外して私を見つめ、束の間の沈黙の後で穏やかに微笑んだ。
 それと同時に、船は方向を変えながら少しづつ加速してゆく。崖へ向けて――。
 一瞬だけ、私が死ねば自分の手を握り締めてくれた人の苦しみが増すかもしれないと……そんな罪悪感が脳裏を掠めたが、それはすぐに闇の中に溶けて消えて行った。
 父は甲板に座ると私を膝の上に乗せ、大きな手で私の頭を撫でてくれた。不思議と涙は出なかった。父に対する信頼と、やっと楽になれるのだという安堵が私の心に静寂をもたらし、いつの間にか鴎の声も潮騒の音色も、私の中から消え去っていた。
 子守唄のように「怖くないよ」と繰り返し父が囁く声を聞きながら、安らぎに満ちた気持ちを抱いて私は瞳を閉じる。
 そして、極限まで加速した船が崖へぶつかる瞬間、父は私に最期の言葉を残した。
「愛しているよ、紗耶……愛している」
 妖魔を祓う事が出来ず、苦しみに足掻き続けるだけの生を余儀なくされた娘の為に、父として出来る精一杯の事が『共に死ぬ』という行為なのだと知った瞬間でもあった。
 崖に激突した船は勢いよく炎上し、轟音を響かせながら原型を留めないほど粉々に砕け散った。
 薄れてゆく意識の中で、ようやく苦しみから解き放たれると、そう思っていたのに――……


 気がづいたとき、私はまだ闇の中に居た。
 傍らに父の姿はなく、先程まで自分を包んでいた風も、海も、太陽さえ、私の視界から姿を消していた。
 死後の世界とはこんなにも暗く寂しいものなのだろうかと、最初に沸きあがった感情は恐怖。一緒に死んだはずの父を必死に探したけれど、どんなに闇の中を走っても、声が張り裂けそうになるほど大声を上げてみても、父が私の前へ姿を現すことはなかった。

 自分がまだ生きていて、深い眠りの淵に堕ちただけなのだと知ったのは、それから少し経った頃の事だ。
 私の意思とは無関係に流れていく夢の中の景色が、それを教えてくれた。
 あの時、崖に激突して死んだのは父だけだったのだ。
 それを知った瞬間の感情をどう表現したら良いのか、今でも解らない。
 暗闇の中にただ一人取り残され、随分と長い事泣き叫んでいたような気がする。
 共に逝けず、誰とも共に居られない。絶望の淵を彷徨い、一体何を信じればいいとさえ思っていた。
 けれど――……
 今は見慣れた闇の中で、私はゆっくりと立ち上がった。
 立ち上がると同時に、私の傍らを夢が通り過ぎていった。幼い頃の自分でも、私を愛していると言ってくれた人の姿でもない。それは雪のように舞い散る桜の中で、自分を抱きしめてくれた人の笑顔。

 ねぇ漣さん。こんな私でも、あなたは優しいというだろうか。
 肉親を死へ追いやり、自分の半身を苦しめている自分。それでも、今はこの深い夢の中から目覚めたいと思う。この腕で掴みたいものがあるから。
 望みを叶えず、起きようとする私。もしかすると物凄いエゴの塊かもしれない。
 ただ、触れたい。それだけなのに――


*


 明け方近く、浅い眠りから綜月漣は目を覚ました。
 再び瞳を閉じる事もなく、漣は横たえていた体をゆっくりと起こして立ち上がる。その表情に、普段のようなのほほんとした笑顔は窺えなかった。
 雨戸を開けると、早朝のひんやりとした空気が窓越しから入り込んでくる。太陽がまだ完全に昇りきっていないのか、夏も近いというのに陽射しは弱々しく、中庭は淡い藍色に包まれていた。
 そんな中、漣は先程まで見ていた夢を思い出して、姿の見えない相手へと言葉を紡ぐ。
「……何故、僕に見せようと思ったんです? 紗耶さん」
 漣はゆっくりと縁側から降りて庭先へと歩き出す。朝露に濡れた草木の合間を縫って進み、やがて真白い小さな花の前で立ち止まると、漣は微かに溜息を零した。
「僕は普通の人間とは少し違いますから、正直なところ貴女の夢をみても、何の感慨も沸かないのですよ」
 哀れみも同情も含まれていない言葉。だが、突き放すような口調ではなかった。
 軽はずみな慰めの言葉は、時に人を傷つける凶器にもなり得る。漣は紗耶の夢(過去)に対してそれ以上何も告げず、目の前に咲く一輪の白い花へと手を伸ばした。
「聖人君子などこの世には存在しません。己を聖人だと自負している人間が居るのだとすれば、その考えこそエゴに等しい」
 言いながら、漣は花を手折った。その反動で花弁に置かれた露が飛び散り、漣の手を濡らす。
「エゴであれなんであれ、貴女が心から欲しいと望むものがあるのならば、それを貫くべきだと……僕は思いますが?」
 初夏の風が流れる。
 漣が手にしていた花を落とすと、それは風に揺らぎなが束の間宙を彷徨い、やがて地面へ落ちる直前にふわりとその姿を消した。
 今は亡き紗耶の父への献花か。それとも、言葉のかわりに紗耶へ捧げた花なのかは解らない。
 漣は静かにその場に立ち尽くし、花の消えた虚空をいつまでも見つめ続けた。




<了>