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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


六月の誓い


 じき夜が明ける。廃教会には朝の気配が忍び込んでいた。
 落ち着かない気分で忙しなく歩き回りながら、アドニス・キャロルは愛しい人の到来を今か今かと待ち侘びている。
 彼の足音。教会の床にそっと伸びる影。恋人は優しく微笑んでこう言うだろう――あなたのほうから呼び出すなんて、珍しいですね。
 そう、珍しいのだった。だから待つのは慣れていない。
 呼び出すのは大抵、恋人のモーリス・ラジアルのほうだ。彼はいつも、王侯貴族を迎えるような優雅な微笑と物腰とで自分を招き入れてくれるけれども、心中はいったいどんな様子なのだろう。彼も今の俺のように、そわそわした気分でいたんだろうか……。
 アドニスは足を止め、窓枠に手をついた。自分の足音が止むと、教会内は随分静かだった。
 不意に自分が滑稽に思えてきた。こうして歩き回っていても仕方がない。少し落ち着こう。
 彼は手近にあった椅子を引き寄せて、窓の前に腰を降ろした。煙草を吸おうかと思ったが、やめた。手持ち無沙汰に、窓の外の白み始めた空を眺める。
 アドニス自身は夜の住人であるとはいえ、闇が朝の光にじわじわと侵食されていく様を眺めるのが彼は嫌いではなかった。
 夜が朝にゆっくり推移していくこの時間、世界は俄かに違った色彩を帯びる。印象派の絵画のように淡くて美しい。とりわけ、朝日が地平線を染めるあの金色。まるで恋人の美しい髪のようだ。
 ……まったく、俺はなんでも恋人に喩えてしまうんだから。
 美しい自然の色彩すべてを備える恋人は、殊によったら世界中の何よりも美しいんじゃないか? いや、俺にとってはそんなものは明白の事実だ。
 一体何がどうなって、ここまで惚れ込んでしまったのかな。アドニスは窓ガラスに映る自分の顔を見て、苦笑を浮かべた。
 窓を少しだけ開く。耳を澄ませていると、「朝の音」が聴こえる。
 小鳥の囀り始める声、風に乗って遠くこだまする始発列車の音。陽が完全に登れば、学校へ向かう子供達の明るい声も聴こえてくるだろう。
 人々が生活を始め、街が動き出す。しかしアドニスが塒にしているこの廃教会には、それらの雑多な音もヴェールを纏ったようにぼんやりと響き渡るのであった。
 柱時計が午前四時を打った。アドニスはまどろみから醒めたように、はっと顔を上げた。恋人を電話で呼び出してから、十五分ほど経っていた。
 そろそろ来るはずだ。きっと、日の出と同じくらいの時刻に。
 それにしても、なんだか今日はやけに夜明けが遅く感じられる。これも恋人を待ち侘びているせいか。時間の流れが緩慢だ。
 空にはほとんど真っ白になった、僅かばかりの一等星が輝いていた。
 アドニスの左手には銀色の指輪が輝いている。彼は薬指からそっと指輪を外すと、内側に埋め込まれた碧色の宝石を見つめた。このエメラルドの存在を知るのは、贈り主と自分だけ。外側から見る分にはごくシンプルなシルバーリングだ。
 ポケットの中には、これと同じデザインの、エメラルドの代わりに青い石を嵌めた指輪がアドニスと同じように恋人の来訪を待ち侘びている。
 これを渡すだけ。渡すだけなのだ。それなのに、携帯電話のボタンを押すのにどれほど長い時間を要したか。まるで思春期の小娘のようだ。
 以前恋人がプレゼントしてくれた指輪と同じデザインのものをアンティークショップに注文して、受け取りがその三日後。その間にどうやって指輪を渡すか考えるつもりだったが、結局気の利いたアイディアは思い浮かばなかった。当日――つまり今日の深夜に、恋人を呼び出してから彼が到着するまでの時間に何か考えつくだろうと思ったが、やはりどうしていいかわからない。いっそこのまま彼が来なければいいのだが、などと思ってしまう。もちろん恋人には会いたいが、同時に会うのが怖い。相反した感情が彼の胸のうちでせめぎあっていた。
 もうどうにでもなれ、本人を前にすれば自然と言葉も浮かぶだろう――そう諦めをつけたときに、さっと教会の入り口の扉が開いて、白い光が射し込んだ。待ち侘びた恋人の到着だった。
 予想通り、日の出とほぼ同時刻だった。
「モーリス。こんな時間に呼び出してすまない」
「いいえ」
 恋人ことモーリス・ラジアルは、穏やかに微笑んだ。彼の金色の髪は、降りかかった朝日の粉を払い切れていないとでもいうように美しく輝いていた。教会の窓、ステンドグラス、その一つ一つから射し込む朝日が彼の髪に反射しているのだ。
 神々しい、とさえ思った。
 こんな古めかしい教会の建物の中だから、尚更。
「あなたのほうから呼び出すなんて、珍しいですね」
 モーリスは今しがたアドニスが考えたのとそっくり同じ台詞を口にする。
「ああ……その、話があって……」
 間が持たずに、アドニスは恋人に背中を向けて祭壇の近くまで歩いていった。もともとそこにあったものかどうかはわからないが、腕の欠けたマリア像が、聖母の微笑を湛えてこちらを見ていた。
 打ち捨てられた教会には、静謐とした空気が漂っていた。夜明けという時間帯のせいか、それとも恋人が同じ空間にいるせいか。とうに廃墟となって久しいのに、未だ神の加護を受けているような……そう、神聖な空間なのだ。
「キャロル?」
 背後にモーリスの気配。
 振り返ると、すぐ傍にモーリスがいた。アドニスは柄にもなく驚いて飛び上がりそうになった。アドニスのそんな様子を見て、モーリスは優しく微笑んだ。
「今日は良い天気ですよ、キャロル。それほど暑くもならないようです。ここへ向かう途中の朝の空気の清々しさといったら……」
 アドニスは、てっきりモーリスが用件を訊いてくるものと思っていたため、拍子抜けした。
 ふとモーリスの左手が目が入った。いつも手に装飾品はつけていないはずだが、今日は薬指に指輪を嵌めていた。
「ああ、これですか?」
 アドニスの視線に気づいたのが、モーリスは左手を目の前にかざした。朝の光を受けて指輪がきらりと閃く。
「深い意味はないのですよ。恋人がいるというさり気ない主張とでも言えばいいでしょうか……」モーリスはアドニスを見上げて、目を細める。「私はあなたの所有物である、という目印です。キャロルの前では外していたのですけれどね」
「なるほど……」アドニスは他になんと返答して良いかわからず、明後日の方向を向く。「――そういうことなら」
 出し抜けに、アドニスはポケットから指輪の入った小箱を取り出した。いきなり決心がついたのだ。
 そういうものだ。相手に面と向かって何かを言うとき、それまで考えていた台詞など綺麗さっぱり霧散してしまう。結局、アドリブになってしまうのだ。
「君に、これを渡そうと思っていた」
 モーリスはちょっと驚いた顔になった。緑色の宝石のような目を見開き、アドニスから指輪の箱を受け取る。蓋を開けて中の指輪を見、モーリスはほう、と溜息をついた。
 言葉は必要ない。アドニスは何か気の利いたことを言おうなどという考えは捨てて、恋人の、男性のわりにはほっそりした手を取った。無言で、モーリスがしていた指輪を外す。代わりに青い石を嵌めたプロミスリングを、そっと、壊れ物でも扱うように、恋人の薬指に通した。
 朝日が射し込み、まだ薄暗かった教会内は俄かに明るくなった。腕の欠けたマリア像も、空っぽの信徒席と聖歌隊席も、古ぼけた説教台も、すべてが等しく朝日の中に照らし出された。
 二人の姿も。
「……同じですね」
 モーリスは愛しそうに自分の薬指に嵌められた指輪を見た。
「揃いのデザインのほうがいいかと……」
「あなたが今嵌めているその指輪も」とモーリスはアドニスの左手を取った。「プロミスリングだったのですよ、キャロル」
 アドニスは照れくさくなって、そうか、と低い声でつぶやく。「そうならそうと、言ってくれれば……」
「言わなくとも、知っていたでしょう?」
「……そうだな」
 誓い――二人がこれからずっと共にいるという、誓いの指輪だ。
「敢えて六月まで待って下さったのですか?」
「え?」
「ジューンブライドという言葉はご存知でしょう?」
「ああ……」
 アドニスはそういえば、と思った。正直、意識していたわけではなかったのだ。
「六月の花嫁は幸せになるのでしたっけ? どちらが花嫁ということもないと思いますが……」モーリスは自身の指輪に軽く口付ける。「どちらにしろ、私はこれ以上ないというくらい幸せですけれどね。時々、怖くなるくらいですよ。この幸せには上限というものがない。いつか頂点に達することがあるのかどうかも疑わしい……。普通なら結婚の儀式は幸せの頂点となるのでしょうが……」
「俺達には、まだたくさん時間があるよ、モーリス」
「ええ、本当に。まるで無限といってもいいくらいの時間が……」
 あてもなく生きつづけるだけの時間なら、あるいは苦痛に感じられたかもしれない。しかし隣りに愛する人がいるのなら、その時間は長ければ長いほど良い。
 けれどもこの幸せがつづくとは限らないのだ、そう思ったら急に怖くなり、アドニスはモーリスを抱き寄せていた。
「キャロル?」
「俺も怖いよ、モーリス」
「…………」
「途方もない幸せに浸ると、失うのが怖くなるんだ。何か愛しいものがあると臆病になるんだな……」
「ええ。まったくです」
 二人はしばらく硬く抱き合っていたが、やがてどちらともなく離れると、触れるだけのキスをした。二人とも無言だったが、それが誓いのキスであることは、暗黙のうちに了解していた。
 廃教会に二人きり。
 列席者もなければ、誓いの儀を執り行う神父もいない。結婚行進曲もなければ祝福の鐘の音も。
 けれどもそれは、神聖な儀式に違いなかった。
 二人を見守っていたのは、壊れたマリア像のみだ。
 聖母マリアは口元に永遠の微笑を浮かべ、誓いを交わした恋人達をじっと見守っている。
 病めるときも健やかなるときも、死の影が降りかかろうとも、この先二人の幸せを阻もうとする何かがあっても。
 決してこの絆が失われることはない。
 二人の左手に光る指輪は、朝の陽の光を受けて輝きを放っていた。
 さながら彼らの未来を祝福するかのように。



Fin.