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<東京怪談ノベル(シングル)>


始まりの鈴の音



1.
 ──此処は何処だろう。
 まず初めに少女が思ったことはそれだった。
 目の前に広がる繁華街。時刻は夜だというのに派手なネオンの看板などの所為で、周囲で何が起こっているかなど容易に見渡せる。
 しかし、少女は何故自分が此処にいるのかわからない。
 見覚えのない建物たち、見慣れぬ人々、勝手に騒ぎ合う声。
 どれひとつとして少女には覚えのないものばかりで、連れもいないたったひとりでこの場にいるのはひどくそぐわない。
 どうしてこんなところにいるのだろう。早く家に帰らなければ──
 そう考えたとき、少女は僅かに目を見開かせた。
 いったい、自分は何処へ帰れば良いのだろう。
 変えるべき場所、家と呼ばれるもの、それがまったく思い出せない。
 私の家、家は、私は──
 そこまで考え、更に少女は愕然とする。
(私は……誰?)
 自分のもののはずである名前が頭に浮かんでこない。いくら必死に頭の中を探っても『自分の名前』という、あって当然のはずのものが少女には思い出せなかった。
 慌てて身に付けているものを探る。何でも良いから手がかりになりそうなものが欲しかった。
 しかし、鞄もなく、着ているものといえばTシャツにズボンというシンプルなものだけで、それも何処にでも売られているようなもので特徴はない。
 携帯などというものも勿論持ってなどいない。
 これではまるで、自分というものを証明するものすべてを捨て去ってきたようではないか。
 いったい、何があったというのだろう。身元を隠さなければいけないような何かが自分に起こっただろうか。
 そう考え、更に少女は衝撃を受けた。
 何も、覚えていない。
 名前を思い出せないショックで気付かなかったが、この街に、正確にはさきほどの疑問と共に目の前に広がる喧騒を認識するより以前の記憶が少女には一切なかった。
 いまの自分には、何も──過去も、記憶も、そして名前すらもない。
 そんな『現実』をいきなり突きつけられた。
(どうして……?)
 いったい何があって、過去の『自分』がそれらを捨てようと決めたのか、もしくは誰かの手によって失うことになったのかはいまの少女にはわからないが、少女はそんなことをした『自分』や『誰か』を恨み、また尋ねたかった。
 どうして私は何も覚えてないの? どうして名前までも忘れてしまったの?
 私は誰。誰か、知っている人はいないの?
 誰でも良いから手当たり次第に問いかけたくなる衝動を抑えながら、少女はまず落ち着こうと思った。
 落ち着いて、冷静にならなければ。
 いまは突然のことに対するショックで頭が混乱しているだけなのかもしれない。落ち着けば、何か思い出せるかもしれない。
 そう自分に言い聞かせながら、少女はゆっくりと深く呼吸を繰り返した。
(落ち着いて、落ち着いて……)
 だが、そんな少女の気持ちなど周囲に伝わるわけもなく、そして少女には無縁であることが目の前で突然始まった。
 ふたりの酔っ払いが少女の視界の端でなにかくだらない話をしていたらしい。それは少女にも見えていた。
 だが、いったい何が原因なのか酔った勢いもあってかお互いの口調が徐々に剣呑なものへと変わっていく。
 不穏な空気が少女に伝わる。
 途端、少女は身体が小刻みに震えだすのを感じた。
 やめて、と叫びそうになったが、それすらもできないほど身体が震え、怯えを感じた。
 ふたりの男に見覚えなどない。なのに、いま目の前で起こっている揉め事が、争いが、少女にはたまらなく恐ろしかった。
 カタカタと歯の根が合わない音が少女には聞こえた。震えを止めようと必死に身体を押さえつけた。
 そんな少女になど誰も気付かず、ふたりは尚も言い争いを続ける。
 そして、ひとりが片方の胸倉を掴んだ光景が少女の視界に入った瞬間だった。
「───っ!!」
 声にもならない悲鳴が少女の口から溢れ出た。
 途端、周囲の目が少女のほうへと向く。
 奇妙なものでも見るような目に、しかし少女は気付かない。
 そんな余裕もないほど、いま目の前で起ころうとしていた諍いへの恐怖が少女の心を占めていた。
 がたがたと身体が震える。立っていられないと思うほど眩暈を覚える。
 何よりも、此処にこれ以上いられない、いたくない。
 そう感じた瞬間、少女はその場を逃げ出し、そんな少女を呼び止めるものなど無論、誰もいなかった。


2.
 はぁっ、はぁっ、という荒い息遣いが聞こえる。
 それが自分のものだということにさえ、最初少女は気付かなかった。
 いったいどのくらい走ったのだろう、周囲の様子は先程までとは一変し、人気もほとんどない。
 ぺたん、とその場に座り込む。それを咎めるものもいない。
 まだ身体は微かに震えている。息も荒い。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 記憶をなくしたことも、他人の争いにあれほど恐怖を感じることも、いま自分の身に起こっている何もかもが少女には理不尽な出来事にしか思えなかった。
 泣く気力さえも少女には残っていなかった。ただ、呆然とその場に座り込み、虚ろな目を宙に向けていた。
 これから、自分はどうしたら良いのだろう。
 帰るべき場所もわからず、身を寄せる相手もわからず、自分が誰か──名前すらもわからず。
 そんな状況だというのに、少女は泣くことも忘れたように虚ろな目を何もない宙に向けたままだった。
 泣く余裕などなかった、というほうが正しいのかもしれない。
 どうしたら良いのだろう。
 徐々に、そんな疑問自体を他人事のように感じだす。
 これから先のことも何も考える気力が沸かない。
 ただ、ぼんやりと少女は地面に座り込んだまま動かなかった。
 そんな状態がどのくらい続いていたのか、少女にもわからない。
 ──ふぁさ。
 そんな音がしっくりくるような音が聞こえた気がする前に、少女は自分の肩に温かい何かがかけられたことに気付いた。
 何が起こったのかわからず、ゆっくり顔を上げる。
 見覚えのない男がひとり、そこにはいた。
「……寒いのか?」
 困惑している様に気付いているのかいないのかわからない口調で男はそう声をかけ、そのときようやく自分にかけられたものがなんなのか少女は気付いた。
 おそらく、いままで目の前にいるものが着ていたのであろうジーンズ地のジャケットだった。
 ──温かい。
 何故かわからないが、少女はそのことが無性に嬉しかった。
 その気持ちが伝わったのだろうか、男はぽんと少女の肩を軽く叩く。
「良かったら、やるよ」
「……え?」
「あんな震えてたんだ、風邪でもひいてるんじゃないか? それに、女の子がこんな時間そんな格好でうろついてちゃ物騒だぞ」
 まったく見当違いの部分もあるその言葉に、けれど少女は小さく曖昧に頷き、そして、男はそんな様子を見て、もう一度今度は頭を軽くぽんと撫でた。
「早く帰れよ、家出少女」
 家出じゃないです。そう言いたかったが、男は少女のほうはもう向いておらずその場を立ち去るところだった。
 男が立ち去るのを、少女はぼんやりと見ていた。
『早く帰れよ』
 何処へ帰れば良いのかもわからない自分にかけるものとして、こんなにおかしな台詞はないなと少女は初めてくす、と笑った。
 それを待っていたように、少女の耳に涼やかな音が聞こえた。
 ──ちりん。
 小さな音。だが、確かに聞こえたそれが何処からのものなのか最初少女はわからなかったが、すぐにかけられていたジャケットのポケットを探った。
 出てきたのは、小さな何処にでもあるような赤紐で結ばれた鈴。
 さっき着ていた男が持っていたとしたら随分と似合わないものだが、まるで少女に持たせるように入っていたそれを見て、少女はまた小さく笑った。
 ちりん、とまた鈴が鳴った。その音を聞いているだけで何故か心が落ち着く。
 何処にでもある、けれど少女には初めてできた『思い出』の鈴。
 そう感じたとき、少女は決めた。
(今日から……いまから私の名前は『鈴』だ)
 ぎゅっとかけられたジャケットで身体を抱き締めながら『鈴』はまた微笑み、それに応えるように、また鈴の音が涼やかに響いた。