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鏡が繋ぐモノ
「そのファイル……どこにあったの?」
いつものように紫煙を燻らせる草間を横目に、シュラインが訊ねる。此処は草間興信所。放っておけば整理整頓という言葉から日々遠ざかっていく事務所を憂い、ほぼ日課となりつつある書類の整理をしていたところだった。
「そこの間。学校によくある類の噂……か」
骨ばった指でファイルの中身を捲り、眼鏡の奥の黒い瞳が文字を追う。
「水のある場に女の幽霊なんて、随分と古典的だな。ったく、こんな依頼ばかりじゃないか、最近」
細く長く吐き出された紫煙は空気に溶け、やがて消えていく。
「さすがは怪奇探偵」
「……、……シュライン」
これ以上ない程に眉を寄せ、勘弁してくれといわんばかりに草間は零した。
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「申し遅れました。雨宮です。調査にお付き合い頂いて感謝しますよ、シュラインさん」
「いいえ。私も気になる噂でしたから」
まずはデータが大事と、まずシュラインが始めたのは情報収集だった。文明の利器を存分に使いインターネットで病院について調べ、実際に病院がその機能を果たしていた頃の医師や看護婦にもコンタクトを取ろうと試みた。ネットに載せられていた情報元としては怪奇現象系のサイトが多く、大体はファイルに書かれていたものと大差ない。元医師や看護婦への聞き込み調査だが、此方は時間という流れが邪魔をして難航を極めた。何せ昔のことだ。新しい病院に移った者やそれを機に退いた者もいたようで、はっきりと行方を掴むことができたのはほんの数人であった。その誰もが口を揃えて言う。「あの鏡には近付かない方がいい」と。更に詳しい具体的な証言を得ようと聞き込みを続けたが、皆怯えたように言葉を濁し、お引取りをと繰り返すばかりだった。
現地調査当日になり、ファイルにあった依頼主八神・雅貴(やがみ・まさき)とこうして行動を共にし、目的地である女子トイレへと続く階段を上っている。既に昼間一度下見を済ませ、外から例のトイレまで聖水を垂らしてある。万が一の際に役に立つかもしれないとの判断からだ。
「昼に来た時に見たんだけど、人間の足跡なんかはなかったわ」
「勇気のある女性ですね。一日の内に二度も、こんな化け物屋敷のような場所に入るなんて」
一応試してみたが、電気は通っていないようだ。二人は懐中電灯を使い足元を照らす。頼りない事この上ないが、ないよりは幾らかマシだろう。
そんなとりとめもない話をしながら進んで行くと、問題の四階が見えてきた。
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「こっちも終わったわ、八神さん。特に変わったところはないようだけど……」
廃墟と化した建物の中、女子トイレも例外ではなかった。内部は荒れに荒れ、もう随分と長い間使われていないのがわかる。床は埃だらけで歩くとはっきり足跡が残る。ライトで調べてみると、自分たち以外の足跡はない。
「そのようですね。このあとはこの鏡ですか。……やってみましょうか、アレ」
八神がぴっと人差し指を立てて提案する。ライトで朧に照らされた顔は何か楽しんでいるようにも見えるが、まるで子供のようだ。シュラインは銜え煙草の似合うある男を思い出し、一瞬何ともいえぬ複雑な表情を浮かべる。変なところで子供っぽい。男という生き物は皆きっとそうなのだろう。そう勝手に解釈し、自分なりに整理をつけると思考を現実に切り替える。
「鏡を五回、だったわね。念の為にこれを用意してきたの。……でも、使う機会がないことを祈るわ」
シュラインが手にしたいるのは人形だ。細いテグスが括り付けられている。今は乾いてしまっているが、聖なる水に触れさせた品。もしもの時は役に立つかもしれない。
トン、……トン。
一回、二回。続けられる儀式。
トントン――、トン。
最後の一回までに少しだけ間があったように思われた。シュラインの中の何かが煩いくらいに警鐘を鳴らしていた。これまで怪奇に遭ったのは一度や二度ではない。元々備わっていた第六感が、事件という経験で研ぎ澄まされてきたのかもしれない。嫌な、予感がした。
沈黙、そして静寂。
「何も起こらないみたいね。あのファイルにあった噂も、やっぱり噂……」
「……?! 危ない、避けてッ!!」
「え?」
やはり何も無かったのだと、肩を竦めて鏡に背中を向ける。
と、ほぼ同時。普通の鏡を装っていたそれが闇の顔を見せた。
甲高い女の笑い声、子供の泣き叫ぶような悲鳴。
闇を宿した無数の手が、シュラインを捕えようと伸びてくる。
考えるより早く身体が動いた。体勢を崩しながらも、紙一重のところで黒い手を避ける。反射的にばっと後ろを振り返ると、逃がさないとばかりに腕が笑う。
「……っ」
「シュラインさん、こちらへ!」
強い力で腕を掴まれ抱き寄せられる。防御するように八神が掌を上向けると、二人分の身体をすっぽりと黒い膜が包み込む。影を具現化させ防護壁を作ったらしい。
「四と五、か。……捕まったら世界一周の旅に行けるかもしれませんよ。ただし、「死後の世界」への」
「冗談を言ってる場合じゃないでしょう。……そうだ。確かアレが」
横で冗談とも本気ともつかぬ発言をする八神を戒め、シュラインはごそごそとあるものを探す。何処へ置いただろう。確かこの辺りに。急げば急ぐ程、焦れば焦る程に思考が空回りする。冷静に、そう自分に言い聞かせ、深呼吸を一つ。大丈夫、大丈夫。
「残念だけど、旅行に行くのはこの子たちに任せましょう。……いつか辿りつくとしても、まだ……早いわ」
「貴方と旅をするのも悪くないかと思ったんですが……そうですね。僕も、まだこの世界に執着がありますから」
シュラインは微笑んで頷くと、手に持った人形を鏡へと大きく放る。蠢いていた手は突然の獲物に群がると、あっという間に鏡の向こう側へと引き込んでしまった。外に繋いでいたテグスもまるで細糸のようにぶつりと切れてしまう。
ほんの数秒の出来事。後に残ったのは、最初にいた二人。まるで何事もなかったかのように、怪奇の痕跡らしいものは何も無い。
「……と、失礼。痛くありませんでしたか」
掴まれた腕を離し、八神が言う。
「大丈夫よ。ありがとう」
「いやー、大変でしたね。もう少し遅かったら、どうなっていたことか。……面白い体験もできたことですし、それじゃ……帰りましょうか」
■
次の日。
今回の調査は深夜だった為、翌日シュラインは一日休みを貰っていた。今日は事務所に行く必要がない。紅茶を飲みながら自室でのんびりしていると、ふとカップを持つ自分の手に目が止まった。
あの手は一体何を求めていたのだろう。死んだ人間が亡霊となって留まり、寂しさの余り仲間を増やそうとでもしたのか。病院という場所柄、怪談など考えればきりがないし、怪奇の理由がわかったところで、どうすることもできない。一つ確かなのは、噂は本当だったということ。
「この世界への執着、か……」
ふと呟く。かちゃりと飲みかけのカップを置き、携帯電話を手元に引き寄せる。既に慣れた番号をアドレス帳から探し、ボタンを操作して呼び出す。
時計を見てみると昼を少し過ぎている。事務所ではちょうど食事を終えている頃だろうか。掃除中の零か、昼寝に忙しい自称ハードボイルド探偵か。出るのはどちらか。もし、自分の予想している人物が出たら、例の報告にとでも理由をつけて事務所に顔を出そうと思った。
三回、四回。……あと一回コールしたら電話を切ろうと決める。
気のせいだとわかっていても、呼び出し音が妙に長く感じてしまう。
そして、繋がる音。聞こえるのはさて、どちらの声だろう。
「はい。草間興信所……」
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26】
【NPC4462/八神雅貴/男/27】
【NPC/草間武彦/男/30】
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■ ライター通信 ■
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ご参加ありがとうございました。
少しでもお楽しみ頂ければ幸い。またのご縁を祈りつつ、失礼致します。
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