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<東京怪談ウェブゲーム 神聖都学園>


夜毎の夢を越えて




 ああ、
 ああ、
 ――なぜなんだろう。
 なぜ、あの子はぼくのことを忘れてしまったんだろう。
 ぼくがどれだけあの子を呼んでも、泣いても怒っても、あの子はぼくのところにもどってきてくれない。
 きっとかえってきてくれるって言ったのに。ぼくとずっといっしょにいてくれるんだって言ったのに。
 でも、
 でもぼくはずっとがまんしてきた。あの子のことをしんじていたし、いまだってしんじてるから。
 でも、
 でもそれも、このあいだまでのおはなし。
 ぼくにはあの子がどこにいるのかがわかる。ぽっかりとひかる小さなたんぽぽみたいな、あったかいあの子のけはいをかんじるから。
 でも、それがこのあいだとつぜん消えたんだ。とつぜん、ろうそくの火がとつぜん消えてしまうみたいに。
 ぼくはそれからずっとあの子をさがしている。
 あの子とおなじかみ、おなじめ、おなじとし。そんな子を、かたっぱしからさがしていけば、もしかしたらあの子がみつかるかもしれない。
 あの子のけはいはなくなったけど、でも、きっとどこかにいるはずなんだ。あの子がぼくにいじわるをしてるだけ。
 きっと、
 きっとみつけるから、まってて。



 人気の失せた校舎、ひんやりと冷えた廊下は、喧騒に包まれた日中とはまるで違う、完璧なまでの静寂で塗り固められている。
 足元にぼうやりとした灯を落とすのは、窓を透いて射し込む月の輝きばかりだ。広い校庭によって外界から隔絶された夜の校内には、明かりを落とす街灯などといったものもあるはずがない。
 神聖都学園。その夜の校内を、しかし、ひとりの少年が躊躇すら見せずに歩き進んでいく。
 短めに揃えられた茶色の髪、その下で暗い光を宿す双眸は赤に染まっている。学園内を歩いているというのにも係わらず、少年が身につけているのは学園の制服とは異なり、ごく一般的な私服だ。ゆえに彼が学園の生徒であるのかどうか、それは定かではない。 
 少年は学園内を突き進み、やがてその歩みをとある教室の前で止めた。
 ――図書室
 そう書かれたプレートを横目に検めた後、少年はやはり迷いもせずにドアに手を差し伸べた。
 夜間、教室は施錠がなされているはずだ。が、図書室のドアは少年の手によって難なく開かれ、少年は吸い込まれるようにその奥に歩みを進める。

 
 学園の生徒の間に都市伝説的な噂話の絶える事はない。学園の七不思議などと称される怪異譚はどの年においても大概存在するものだ。
 ゆえに、少年が耳にしたその噂もまたそういったもののひとつに過ぎないのかもしれない。何ら信憑性のない、あるいは誰かが創りあげただけの産物に過ぎないのかもしれないのだ。
 しかし、その怪異譚は無責任な噂話では終わらなかったのだ。
『図書室の書架に置かれている本のどれかを開くと、その中に隠れている怪物が開いたひとをさらっていくらしい』
 その噂に順じたものかはさておき、学園内では確かに不可思議としか言いようのない失踪事件が連発していた。
 夕暮れ時、図書室の中の本の一冊を開いた生徒の姿が、まさに煙のように消失しているのだ。否、事実本を開いたのかどうかも定かではない。正確に言うならば、図書室の中にいた生徒が室内で行方不明に――神隠しにあっているのだ。
 

 少年――黒崎潤は闇の内にあって仄かな赤みを色濃く変じさせる双眸をゆるりと細め、並ぶ書架の内、古びた一冊の本に目を止める。
 何処からか贈呈されたものであるらしい、ひどく古びた洋書。なぜそんなものが書架に紛れていたのか、あるいはなぜそれが多くの生徒の目に触れないのか。
 思いながら、潤はゆっくりと手を伸べる。

 
 本の中にあるものが、――噂が真実のものであるならば、その中にある異界は封鎖せねばならない。
 潤は小さく息を吐きだした。


 ◇


 守崎啓斗は着慣れない神聖都学園の制服に違和感を覚えながら、あるいは同じように校門をくぐる数知れぬ生徒達の視線を気にしながら、居心地の悪さを感じて目を泳がせる。
 神聖都学園の制服を調達する。その事自体はさほど難しいものでもなかった。そもそも『自己の個性を重んじる』ための改造が許可されている校風だ。多少の差異は想定していた程には問題ではなかったようだ。
 しかも幼稚園から大学までの一貫された舎が広大な土地の中に点在している。必定、その中を歩く生徒の数も尋常ではない。
「大丈夫だって、啓斗。誰も俺らの事なんか気にもしてねえって。さっき校門んとこで会ったオッサン、あれってセンセイだろ? まるで気にもしてなかったじゃん。フツーに『やあ、おはよう』だって、スゲー」
 いつもに増して顔をしかめ慎重に足を進めている啓斗の半歩分後ろ、啓斗の双子の弟である北斗が安穏とした笑みを浮かべながらついてくる。
 啓斗はむすりと表情を曇らせて、対照的な弟の笑みを睨みすえた。
「……おまえまで来る必要は無かったのに」
「あーあー、ひどい言われようだなー。ふたりっきりの兄弟を心配してやってんのになあ」
 北斗は啓斗の言をやんわりと受け流し、舎に向かう生徒の中から特に目を引く女生徒を見つけて嬉しそうに朝の挨拶などを掛けている。
 啓斗は横目に弟を見据えながらため息を落とし、歩む足を心持ち速めて高等部の校舎へと向かった。

 神聖都学園内、それも高等部に限った現象であるようなのだが、このしばらく、生徒が校舎内で忽然と姿を消すという案件が続いているという。
 言ってしまえば、その内容そのものにはさほどに強く惹かれるものを感じない。確かに怪事ではあるのだし、それが果たして噂に過ぎない虚偽であるのか、それとも真実生じているものであるのかは気になるところだ。
 が、啓斗が耳にしたのは、その案件の影に見え隠れするひとりの青年に係わる情報だった。
 事件の根源を追う少年。
 ――名を、黒崎潤というのだそうだ。

「……黒崎」
 呟き、啓斗は苦渋を呑み込むように下唇を噛んだ。
 
 可愛らしい女生徒との挨拶を交わした後、北斗はやはりのんびりとした調子で歩み進む。
 横目に、辛辣な面持ちで唇を噛んでいる兄の顔を見ながら。


 ◇


「さぁて、と」
 
 言いながら軽く首を鳴らし、書目志信は無意識に胸ポケットに収めているタバコの箱に指をあてた。
「あっと、タバコはマズいかな、さすがに」
 独りごちて手の動きを止め、タバコを抜き出しかけていた自分を小さな笑みをもって諌める。
 志信は今、学校図書の配達を兼ねて、神聖都学園の敷地内にいる。広大な敷地の中をのんびりと渡り歩いて幼稚園から中学までの分を卸し終えてきた。残るは高等部。
 始業のチャイムはとうに鳴り、校舎の内外には学園生活を充分に満喫しているのであろう、生徒達の生活風景が確認できるようになった。
 教室内で授業を受けている生徒達、校庭で体育にいそしむ面々、中にはふらふらと抜け出してサボっている顔も見受けられる。
 いずれにせよ、志信にとってはもう随分と懐かしい光景だ。
 志信は、しばしその風景を目を細め見つめていたが、やがて思い出したように足を進め校内に立ち入った。
 頑強な腕に抱え持つ本の束。重量を感じさせる見目ながら、志信は易々とそれを持ち上げ進む。
 ――この学園の中、図書室で、異変が頻発しているという。さらに付言すれば、それにはどうも一冊の書物が係わっているのだともいう。
「開けば人を攫う本。……惹かれるよなぁ」
 独り言を落とし、志信は小さく口角をあげた。


 ◇


 学内で連続して生じている失踪事件。生徒間では神隠しと囁かれているその現象は、しかし、警察による見解は事件性のない、言ってしまえば十代半ばの子供にありがちな家出という結果に落ち着いた。
 藤田あやこは学園の制服を身につけ、両腕を組んでしばし深く思案した。
 ――確かに家出という線は捨てがたい。
 だが、独自に調べてみた結果、失踪した生徒たちには家出をするだけの理由も環境もなく、また、そういった痕跡の一切も残されてはいなかった。
 改めて腕を組み替えて壁に背をもたれかけ、あやこは眼光をわずかに細める。
 あやこは今、失踪事件の現場となった図書室の中にいる。まっすぐに寄せた視線の先には亜矢坂9・すばるがいて、さらにその奥には肩で息をしながら書架の中の本を一冊一冊検分している少年の姿があった。
 図書室内の床には書架から落ちた本が雑然と散らばり、中には隣あった書架に倒れかかっているものもある。
 あやこが目を眇め見据えていると、ふいにすばるが肩越しにあやこを振り向いて数度目をしばたいた。
 すばるは昨夜の遅くからこの教室にいるのだという。
 その時にはもう既に少年の姿はその場所にあったらしい。
 もっとも昨夜の時点ではまだ室内はこれほどまでの惨状となってはいなかったらしいのだが、少なくともあやこがドアを開けた早朝には、もう既にこのような有り様となっていた。
「ねえ、黒崎君。それで、捜し物は見つかった?」
 小さな息を吐きながら訊ねる。が、それに対する応えはない。
 あやこは幾度目のものともしれないため息を落とした。
「黒崎が求めているものは、もう彼の手の中にあるようです」
 代わりにすばるが低く返す。
 あやこは身丈の差のあるすばるの顔を見下ろして、長い黒髪を軽めにわしわしとかき混ぜた。
「それって、あの本の事よね」
 言ったあやこにうなずきを返し、すばるは再び視線を少年――黒崎潤のもとへと戻す。
「この図書室内の中の一冊を開いた者は、その本の中にさらわれていく。……それが事実なら、黒崎はもう既に本の中に取り込まれているはずなのだけど……」
 
 すばるが図書室を訪れたとき、潤はひとり、図書室の一番奥にある書架の前に立っていた。
 深夜と言って過言ではない時分だった。
 誰もいないであろうと踏んで図書室を訪れたすばるにとり、潤がそこにいたのには少しばかり驚かされたが、決してそれを意外な事だとは思わなかった。

「あやこさんも今回の件、調査を?」
 横目にあやこを見上げ、すばるはわずかに首を傾げる。
 あやこもまた横目にすばるを見やり、すばるの問いかけに応じるように首を竦めた。
「警察は事件性のない案件だと確定を下したの。調査の権限はこちらに譲渡されたわ」
「単なる家出なのだから、放っておいてもいずれふらりと帰ってくるだろう、と」
「そういうコトね」
 うなずいたあやこに、すばるはふと目を細める。

「……どうして」
 ふと、潤が小さな呟きを落とした。
「なぜ開かないんだ」


 ◇


 啓斗と北斗が図書室の前で足を止めたとき、その場には頑強な体躯の壮年がいた。
「やあ」
 壮年は軽い調子でふたりに笑みをよこし、次いで困ったように肩を竦める。
「君たちもここに用事かい?」
 言いながらアゴを動かし、図書室と書かれたプレートを示す。
 啓斗はわずかに眉をしかめた。そこには警戒の色が滲み浮かんでいる。
「まあね。――おっさんも?」
「俺は本の配達にね」
 応え、携えてきた本の束を北斗に示した。
 北斗はそれを検めて「ふぅん」とうなずき、壮年に向けて警戒を顕わにしている兄を片手で制しながら歩みを進めた。
「配達っていうわりには、付き添いの先生とか不在なんだね。それともよっぽどの常連? 今どき、外部の人間がひとりで自由に校舎を歩き回るとかって、あんまりないでしょ」
 笑った北斗に、壮年もまたやんわりと笑みを返す。
「――そういう君たちも、授業をサボっておいて、わざわざ図書室なんざに用事かい?」
 言って軽く笑い合う。
 と、それに割って入った啓斗がドアの引き戸に手をかけた。
「ああ、残念ながら内側から鍵がかけられてるみたいでね。開かないんだよ」
 壮年が言う。
「北斗」
 壮年の言を無視し、啓斗は北斗の名を呼んだ。
「はいはい」
 言って歩みを進め、北斗はドアが確かに施錠されているのを確める。
 ドアの向こうからは何者かの気配が窺える。
 ちらりと啓斗に視線を向けた。啓斗は北斗の視線に気付く様子もなく、ただひたすらにドアの向こうに気を馳せている。
 北斗は小さなため息をひとつ漏らしながらドアの鍵穴に指を伸べ、その中に小さな発火物を仕掛けた。
「でも、こういうのってナントカ破損っていうんじゃねえの?」
 言いながら啓斗に笑みを向けてみる。それと同時に鍵穴が小さな音を立てて壊れ、ドアはからりと音をたてて開いた。

 
「……黒崎っ!」
 図書室に立ち入るなり口を開けた啓斗は、そのまま前のめりに走って潤の傍らへと向かう。
「黒崎、おまえ……っ」
 言って潤の片腕を掴むと、潤のうろんな視線が啓斗の顔に向けられた。
「……守崎……」
「!」
 返された声に、啓斗がびくりと身を震わせる。
「おまえ、……俺の事覚えてたのか」
 咄嗟に口をついて出た言葉は、しかし、潤が再び目を伏せた事により行き場のないものとなった。

「あなたたちも事件の調査?」
 あやこが口を開く。
 志信は手にしていた本を机の上に置いて、床に広がる惨状を眺め目を眇めた。
「本は大切にしなくっちゃなあ」
 ため息と共にそう言って、一冊一冊、吟味するような所作で拾い集めていく。
「それで、件の本っていうのは?」
 返したそれがあやこへの返答だった。
 あやこは視線を移し、潤の近く、長テーブルの上に置かれた一冊の洋書を示す。
「私も、そのすばるって子も試しに開いてみたんだけど、なんてことないみたい」
 名を呼ばれ、すばるは啓斗と潤に向けていた視線をちろりと志信に寄せた。
「黒崎にも何ら変化はないようです」
 言って小さくうなずくと、すばるは件の洋書を手にするため、散らばった本を避けつつ歩き進めていった。
「俺も、ここに来るまでにいろいろ話を集めてきたんだけどさ。……にしても懐かしいよな。黒崎潤だろ? まさかまたあいつの名前を聞く事になるなんてなぁ」
 北斗が間延びした調子に言って、志信と共に散乱した本を拾い集める。
「でもさー、黒崎。本ってのは大事にしなくちゃダメなんだぜー? 破いたりとかさ、スゲー怒られるじゃん」
 さも当たり前の事のように告げた北斗だが、しかし、志信とあやこの視線を寄せるには充分たる発言でもあった。
「君はあの少年を知っているのかい?」
 拾い集めた本をテーブルの上に置きながら志信が問う。
 北斗はなんという事もなくうなずいて、やはり同じように本をテーブルに置いた。
「どんぐらい前だったかな。アスガルドっていう異界とこっちが繋がっちまってさ。そん時に、知り合ったっつうか、まあ、そんな感じ」
 言いながら再び本を拾い集め始めた北斗にかわり、件の本を持ってきたすばるが言を続けた。
「黒崎潤。邪竜の前に立ちふさがり、終にはそれと融合するに至ってしまった暗黒騎士。……まさかこちらに戻ってきているとは」
 視線を潤へと向ける。

 啓斗は潤の腕をとり、ひとしきり潤の名を呼んだ。が、潤は初めに啓斗の名を口にしたきり、ぶつぶつと何事かを呟くばかりで要領を得なくなってしまった。
 潤が落とす呟きから、辛うじてそれが件の本に向けたものであるのを知った啓斗は、すばるが持っていった本の行方を目で追いかける。
「どうして……なぜ開かない」
 幾度となく呟き、時に苛立たしげに頭をかきむしる潤の両腕を掴む。
「北斗」
「わーってるって」
 兄の声に軽く片手をあげてうなずくと、北斗はすばるから本を受け取り、そうして躊躇なくその表紙を繰った。
 記されてあるのは洋書のものらしい横文字。そのまま直にペン書きされたもののようなそれは、明らかに幼い、年端のゆかぬ子供が書いたもののように思えた。
「『ああ、ああ、――なぜなんだろう。』」
 横から顔を挟みいれた志信がその文字を読む。
 それは表紙を繰り、初めの頁に記されたものだった。
「『なぜ、あの子はぼくのことを忘れてしまったんだろう。
 ぼくがどれだけあの子を呼んでも、泣いても怒っても、あの子はぼくのところにもどってきてくれない。
 きっとかえってきてくれるって言ったのに。ぼくとずっといっしょにいてくれるんだって言ったのに。』――なんだろう、まるで日記かなにかのようだね」
 志信がアゴを撫でる。
「最初の日記が『あの子』が『ぼく』のところに訪れてきてくれた、その記録。次が『あの子』の再訪。よほど嬉しかったんだろうね。挨拶程度を交わしたなんて事も書かれてある」
「ドイツ語?」
 すばるが訊ね、志信が書面からちらりと目を持ち上げて視線だけでうなずいた、
 と、同時。潤が弾かれたように顔を持ち上げた。次いで転げるように足を進める。一歩、二歩。
 皆の視線が潤に注がれた刹那、本の頁がひとりでにめくれ、同時に小さな灯のような、ぼうやりとした明かりが室内にたちこめる。
「守崎!」
 潤が叫ぶ。
 その指が宙を泳ぎ、なす術もなく転げていく。
 咄嗟に手を伸ばし北斗の腕を掴んだのはあやこだった。
 淡い光が北斗を、次いであやこを包み込んで大きく弾ける。
「北斗!?」
 啓斗が弟を呼ぶが、しかしその時にはもう北斗とあやこの姿は図書室の中のどこにもいなくなっていた。
 ただ、持ち手を失った本だけが、かさりと乾いた音と共に床の上に落ちていく。


 ◇


 気がつくとそこは背丈の高い草に覆われた平原の上だった。
 上空には円く青い空が広がり、端の方には紫がかった闇の名残りが窺える。夜明けか、あるいは夕方か。
「ねえ、ここって『本の中』ってやつだと思う?」
 あやこが髪をかきあげながらため息を落とす。
 頬を撫でていく風は初夏のものを思わせる。どこからかカエルや虫の鳴く声が聴こえてきていた。
「少なくとも図書室の中じゃないみたいだけど」
 返し、北斗はしばし周囲の景色を検めてみた。
 さほどに離れていない場所に年輪を重ねていそうな大樹が見える。それを囲うように広がる草の海、高く青い空。
「夢見てるってわけでもないんでしょうしね」
 言いながら数歩を歩み、あやこはふと遠目に小さな家があるのを見つけた。
「ねえ、あなた。――ええと、」
「守崎北斗。北斗でいいよ」
「そう、じゃあ北斗。あれ、誰か住んでる家だと思う?」
 指で示した方角には丸太小屋が一軒建っている。北斗はあやこが示したそれを見つめ、肩を竦めながら応えた。
「どうなんだかね。行ってみる? ここが本の中だってんなら、今までいなくなった連中はぜんぶここにいるって事なんだろうしさ」
「それ以外にどうしようもないもんね」
 深々としたため息と共にそう告げて、あやこは北斗に先んじて足を進める。
「ところであんたは?」
「私? ああ、そっか、名乗ってなかったんだっけ。私は藤田あやこ。絶賛彼氏募集中だから、よろしくね」
 小さく笑ってそう言うと、あやこは迷う素振りもなく丸太小屋へと足を向けた。
「それにはあんまり答えらんないかもしれないなあ、俺」
「あら、残念」
 笑みを交わし、草の海を歩き進む。
 

 ◇


「待ってくれ、今、先を読んでみる」
 図書室の中、志信が神妙な面持ちで頁を繰る。
 たった今、眼前で消失したふたり。まるでなにかの冗談のように、あるいは白昼夢のような。
「どうなんだ?」
 すばるが問う。が、志信はそれを制し、懸命に頁を繰っていく。
 古い、陽に焼けて黄ばんだ紙は、ともすれば容易に破けてしまいそうだ。
 筆者の名前も、むろん出版元も記されていない。まったくもって、なぜこんな洋書が一介の高校の図書室に紛れこんでいたのか、見当もつかない。
 頁は、繰っても繰っても記されているのは何れも同じ。どれも他愛のない、ごく日常的な記録に過ぎないのだ。
「やはり、これは日記だ」
 呟き、眉根を寄せる。
「書いたのはたぶん男――男の子といった方がいいのかな。……それにしても、少しばかり奇妙なんだが」
「奇妙?」
「日記を書いた当人の視点が、どうも一箇所に固定されたまま動いていないように思えるんだ」
 すばるの顔を見返し、志信は目を細ませた。

「黒崎、おまえは何か知っているんじゃないのか、あの本の事を」
 転げたままの潤を支えて立ち上がらせながら、啓斗は潤に向けて訊ねかける。
 潤は啓斗の顔を見やり、次いで視線を移ろわせてから応えを口にした。
「異界への入り口が、その中にある」
「異界だと?」
 眉をしかめた啓斗にうなずきを返し、潤は間近の椅子に腰を落とす。
「守崎。……僕はアスガルドからこちらに戻って来れた」
 言いながら頭を抱えこむように俯く。
 啓斗は小さくうなずいて、それからすばると志信とを仰ぎ見た。
「アスガルドにいた時には、……こっちへ戻ってきたくてたまらなかった。今思えば、あれはもう妄執のようなものだったのかもしれない。……その一念で、僕はきっとどこかが狂っていたんだ」
「よくは分からないが、ともかく戻ってこれたんだろう?」
 志信が問う。潤は頭を抱え込んだままでうなずいた。
「でも、こちらへ戻ってきた僕は、こちら側の人間にとってはもう既に異邦の者となっていたんだ。長い間向こうに滞在したままの僕は、こっちの人間からすればそれこそ神隠しにでも遭っていたかのような存在だったんだろう」
「黒崎」
 すばるが潤を呼ぶ。それに応えるように、潤がふいに顔を持ち上げた。
「こっちの世界は、僕の住む場所ではなくなっていた。誰もかれも僕を化け物を見るような目で見るんだ。確かに僕は、……僕の内には邪竜がいる。今もここに、確かにあるんだ。……でも!」
 縋るような顔でそう言い放つと、潤は再び頭を抱え込み顔を伏せた。
「……僕のような人間がもう二度と現れないよう、僕は異界への出入り口を封鎖している。……その本も」
「なるほど、それで君はこの本に用事があったんだね」
 志信がうなずく。
「しかし、まだ封鎖されていないようだが」
 すばるが口を挟む。返すように、潤がゆっくりと顔をあげた。
「……僕はアスガルドに戻りたい」
「黒崎」
「ここはもう僕の居場所ではないんだ、守崎」
 応えたそれは悲痛な吐露だった。
 潤はまっすぐに啓斗を見据え、固い決意を結んだ眼光をもって言葉を続ける。
「その本の中の異界が万が一アスガルドへ繋がっているのなら、僕はそれを行使する」
「しかし、君はその中に招かれはしなかった」
 志信が静かに息を吐く。
「どのような理由があるにしろ、君はその本の中に招かれはしなかったんだ。万が一に君の言うアスガルドという世界に通じる道があるにしろ、いや、それがあるのなら余計に。……君はもう戻る事は出来ないんじゃないのかな」

 終業のベルが鳴る。
 校舎の隅々にまで、放課後を迎えた子供たちの活気が広がりだした。


 ◇


 ガラスの張られていない、吹き抜けの窓から覗き見た丸太小屋の中には、数人の生徒たちの姿があった。彼らは何れもが意識のない状態となっていて、北斗が声をかけても一向に目を醒ましそうにない。
「ねえ、北斗くん」
 あやこが手招きして北斗を近づける。
「みんな、手に枝を持ってるけど、あれって学園で流行ってるのかな? 私、学園に潜入して結構経つんだけど、一度も聞いたことないんだけど」
「手に枝持って寝るって、それどんな流行だよ。――ってか、寝てるだけだよな」
「確めてみる?」
 あやこが訊ねたのに小さくうなずいて、北斗が先に扉を開けた。
 中は一部屋、特に目立った家具類はない。
 奥に小さな暖炉があるが、それも今は暖を取れる状態にはなっていなかった。もっとも暖を取る必要のなさそうな陽気だ。あるいは冬場には使用途が生じてくるということなのかもしれないが。
 その部屋の中で意識を手放しているのは、どれもが神聖都学園の高等部に在すると思しき生徒たちだった。
「眠ってるだけみたい」
 念のため、全員の喉に指をあてて脈拍を確認し、あやこが北斗に目配せをする。
 北斗は彼らが手にしている枝を確認していたが、ふと振り向いて小屋の外に踏み出す。
「あの樹の枝だ」
「え?」
 言って、小屋からわずかに離れた場所にある大樹のもとへと歩み進めた北斗を追う。
「あの樹って」
「このデカい樹だよ」
 あやこに一瞥を向けてから、北斗は改めて大樹を仰いだ。
 丸太小屋のすぐ傍にまで枝葉を伸ばした大きな樹。その幹の太さは、北斗ぐらいの年齢ならば数人が集まって囲まなくてはおよそ追いつきそうにもないほどだ。
「……これ?」
 あやこは唖然とした面持ちで大樹を見上げる。
 涼しげな木蔭を落とす濃い枝がいくつも重なり合い、天を貫くほどに高く伸びている。
 北斗はあやこの言に応えを述べようとはせずに、そのまま黙して目を閉じた。そのまま幹に両手をついて顔を寄せる。
「なあ、……おまえか? 俺らをここに呼んだの」
 囁くように訊ねかけながら、静かに大樹に耳を寄せた。
 あやこもまたそれに倣って幹に耳をあて、そっと静かに目を伏せた。

 風が草の海を薙いでゆく音、
 虫やカエルが唄う声、
 大樹が吸い上げる水の流れ、その音。

「……そっか、おまえ、ひとりで寂しかったんだな」
 言いながら、北斗はそっと大樹に両腕をまわす。
「バカね、あなた」
 閉じていた瞼を持ち上げて、あやこはそっと大樹に笑みを向けた。
「……あなたが捜す相手は、たぶんもう生きててもよぼよぼになってると思うわ。……話し相手が欲しいなら、もっと別の手段を選べば良かったのに」


 ◇


「すばるなら、おそらく、本の中の異界に通じる道を拓く事が出来る」
 静まり返った空気を一蹴するように、すばるがぽつりと口を開けた。
「本当か!?」
 食いついたのは啓斗だった。
 すばるは表情を変じさせる事もなく、ただ静かにうなずく。
「ただし、すばるが『いい』と言うまで、今から全員目を閉じていてほしい」
「?」
 訝しげに首を傾げる啓斗に一瞥し、すばるは気まずげに視線を移ろわせる。
「他人に観測されると、ちょっと、……少しだけ問題がある」
「なんだっていい。繋いでくれ!」
 潤が縋った。
 すばるは潤を見やって小さくうなずいた後、啓斗と志信とに視線を移して確認を得た。
「分かった、目を閉じよう」
 志信が答えたのに続き、啓斗と潤とが目を伏せる。
 すばるはしばしの間を空けて小さな安堵を吐いてから、小さな、誰にも気取られることのない声で呟いた。
「……メビウスクライン」


 ◇


 夕暮れとも夜明けともつかない、仄明るい世界。
 草の海の流れる音と、その向こうに立つ一本の大樹。
「北斗!」
 大樹の傍に弟の姿を見つけ、啓斗は思わず駆け出していた。
「おまえ、怪我はないか!?」
「おお、兄貴。え、なに、心配してくれたん?」
「ばッ……! 誰がおまえの心配なんか……! 世話を焼かすなと言いたかったんだ!」
 覗き見るような北斗の視線から慌てて目を逸らし、啓斗は言い捨てるようにしてそっぽを向く。
 北斗は啓斗をしばしにやにやと笑みながら眺めていたが、ふとその目を外して潤を見た。
「そういえば黒崎、おまえさ、結局なにをどうしたくて図書室にいたんだ? 俺とあやこがこっちに来てから、その辺の話はあったわけ?」
「そうよね。私も北斗くんもその辺知らないし、興味はあるかな」
 続けてそう訊ねかける北斗とあやこの言葉は潤に向けて述べられたものだった。
 が、潤はふたりの言葉を耳にとめてはいなかった。忙しなく辺りを見渡して、それから消沈気味に肩を落とす。
「黒崎はアスガルドへの帰還を望んでいる」
 代わりに応えたのはすばるだった。
「は?」
「アスガルドから帰還した現代は、黒崎にとり、もう既に居場所を喪失した異界と変じていたのだそうだ」
「なにを言って……」
「付言するならば、黒崎くんは自分のような者を今後もう生み出さないためにと、あらゆる異界への出入り口を封鎖しているそうだよ」
 志信が言及する。
 北斗は呆れたような目で潤を見つめ、一瞬何事かを言いたげに口を開いて躊躇をみせた。
「それって……でも、おまえのエゴってやつじゃねえの?」
「北斗」
 言い出した北斗を制そうとした啓斗だが、北斗は逆にそれを制してまっすぐに潤を見据える。
「現代に帰りたいってのがおまえの願いだったんじゃねえの? それがあんだけの騒ぎを起こして、どんだけの人数が傷作ったりしたんだと思う?」
「北斗、やめろ」
「啓斗もなあ、ずっとおまえを気にかけてたんだよ。今日図書室に行こうっつったのもな、おまえの名前を聞いたからなんだよ。それが、てめ」
「北斗君」
 志信の手が北斗を留めた。
 北斗は志信を仰ぎ見て小さな舌打ちをし、続く言葉を渋々飲み込む。

 風が吹き、大樹の枝葉を大きく揺らして流れていく。
 幹に背をもたれかけながら話の流れを黙して聞いていたあやこが、その間をみて言葉を挟みいれた。
「私はアスガルドってとこも黒崎くんの事も知らないから、しょうじきどうでもいいっていうか。ただ、この樹の声を大切にしたいとは思うのよ」
「樹の声」
 すばるがあやこに目を向ける。
 あやこはゆったりとうなずいてから大樹を仰ぎ、やわらかな笑みを満面に浮かべた。
「ずっと昔、この子がまだちっちゃな枝だった頃ね。たぶん偶然だったんだろうけど、男の子がひとり、この場所に紛れ込んだのよ」

 その子供は、おそらく、とてもとても寂しい子供だったのだろう。友達もなく、小さな若い枝に水をやってそれが日毎大きくなっていく事だけを楽しみとしているような。
 それが転じたのか、それともその子供がもともと備え持っていた異能であったのかは定かではないが、ともかくも、子供は枝と心を通わせる術を身につけていた。
 ずっとずっと一緒だと、子供と枝は幼い約束を交わしていたのだ。

「でも子供はもうとっくに死んでるわ。たぶんね。だってもうずっと前の事なんだし」
 言いながら大樹から視線を落とし、まっすぐに潤の顔を見る。
「居場所なんかどこにでもあるし、どこにもないもんだと思うわ。自分で作っていくもんだって思うし。でもあなたがそれをどうしてもって言うんなら、あなたがこの場所に留まればいいじゃない」
「……僕、が?」
 それは思いもかけない言葉だったのだろう。潤の目が驚嘆の色を滲ませた。
「この子は友達が欲しい。あなたは居場所が欲しい。目的は合致してると思うけど?」
 言って微笑むあやこに、潤はわずかに目をしばたいた。
「黒崎」
 啓斗が小さく潤を呼ぶ。
 潤はぼうやりと大樹を仰ぎ見ていたが、やがてその表情をゆるやかなものへと変じさせ、
「……そうだな。……そうしてみるよ」
 そう応えて穏やかに笑った。


 ◇


 潤がそれを受け入れたためなのか、刹那訪れた眩い光の後、そこは再び元の図書室の中だった。
 散乱したままの書物、遠く近く聴こえる活気に溢れた喧騒。
 教室内のそこここに倒れ、あるいは座りこんだまま眠っている、これまで行方不明となっていた生徒たち。
「……これは」
 周りを見渡し、目を軽くこすりながら、志信が呟くように言葉を落とす。
 生徒たちの手にはそれぞれ小さな枝が握られたままだった。
 件の本は啓斗の手の中に。
 そうして、黒崎潤の姿だけがその場に見つからないままだった。


 ◇


 大きな樹の下、かつては邪竜と呼ばれた黒い竜が安らかな寝息をたてている。
 聴こえるのは草と風の音、水の流れる静かな唄、カエルや虫たちの声。
 空は夜明けとも夕暮れともつかない色を浮かべ、雲がゆったりと過ぎていく。
 寝息を乱さぬよう、枝葉がさわりと小さく揺れた。


 ◇


 突然の失踪、そして突然の帰還。
 神隠しに遭っていた生徒たちは、誰ひとりとしてその間の記憶を有してはいなかった。気がつくと図書室の中で眠っていて、それを発見したと駆け込んできた生徒が報せたことで無事に保護されるに至ったのだ。
 ただ、彼らは全員がなぜか一本づつの枝を持っていて、それはその後学園の庭の隅に植樹されることとなった。
 いくつもの小さな枝はしっかりと根付き、今や学園の生徒たちが身を休めるための恰好の場所として愛用されている。
   
 

 
 

   

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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【0554 / 守崎・啓斗 / 男性 / 17歳 / 高校生(忍)】
【0568 / 守崎・北斗 / 男性 / 17歳 / 高校生(忍)】
【2748 / 亜矢坂9・すばる / 女性 / 1歳 / 日本国文武火学省特務機関特命生徒】
【7019 / 書目・志信 / 男性 / 45歳 / 古書買付け】
【7061 / 藤田・あやこ / 女性 / 24歳 / 女子大生】


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          ライター通信          
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このたびは当シナリオへのご参加、まことにありがとうございます。

まず初めに深くお詫びを申し上げます。
お届けが大幅に遅れてしまいましたこと、大変に失礼をいたしました。
当方の様々な管理がなっていないための不手際となってしまい、本当に申し訳なく思うばかりです。
このシナリオがわたしの最後の依頼シナリオとなるわけなのですが、最後の最後にこのような結果を出してしまい、情けなく思います。

また、うっかり長さも伸びてしまいました。実に原稿用紙50枚近い枚数になっております。
お暇なときにでも読んでいただければ幸いです。

黒崎くんの設定に関しましては、すべてわたしのオリジナルによるものです。あわわ……。多方面にごめんなさい。
ただ、どうしても書きたかった場面があって、それを描写したく思っていたのが強いです。
どの場面がそうかは、ご想像にお任せします。

プレイングも、すべてを活かしきることが出来ず、申し訳ありません。
あらゆる面でごめんなさいなノベルとなってしまいましたが、せめて、少しでもお楽しみいただけていればと思います。


それでは、これまでのご愛顧、まことにありがとうございました。
またどこかでお会いする機会がありましたら、よろしくお声がけくださいませ。