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−君去りし後−
ある晴れた日。
あんまりいい天気だったから、ちょっと高いところに上って空を見ながら休憩でもしてみようと思った。いつも別段そんな気にもならないのに、よく晴れた日というものは不思議なものだ。なんだか心が軽くなってくる。
今なら空も飛べそうだ、と思って慌てて辺りを見回したのはここだけの話し。何故そんな笑えない考えが頭を過ぎったのかは我ながら謎だ。実にテンションが上がっている。
雑居ビルの屋上へはすんなりと入れた。最上階まではエレベータを使い、そこから普通に階段を上がって、屋上への扉は鍵がかかっていなかった。
ドアノブは薄汚れていて直接触れるのを少し躊躇ったが、我慢して開けるとギィィという錆びた音が立った。
屋上に出ると心地良い風と温かさが体全体を包む。
しかしそれに似つかわしくない大きな音もついでに包んでくれた。ヘリコプターだ。側面に民放テレビ局の名前が書いてあったから、ワイドショーとか、そういった番組でやる天気予報の背景にでも使うのかもしれない。そのせいが風か強くなったので、髪が少し鬱陶しくなった。
屋上は狭かったが、さすがに開放感はよく、眺めも良い。
誰も居ないと思ったから、眼鏡を外した。勿論普段はかけていない。けれど夜神・潤は人気アイドルだ。少しくらいこそこそとしないと、街を歩けば若い女の子が放っておかない。
変装なんて、周りに嘘をついているから好きではない。が、たまの休みくらいはのんびりしたいというのも本音だし、街中で騒ぎになれば他の人にも迷惑がかかる。
そのくらいの分別はあると自負している。眼鏡だけでは、いわゆる“芸能人オーラ”や、潤自身の雰囲気を隠し事はできない。すれ違う女の子の幾人かがチラチラと振り返っていたが、堂々としていたのが良かったのか、似てない?くらいの囁かれ具合で済んだ。
重たい荷物を降ろしたときのように、軽々とした気持ちになったので一伸びした時に、先客が居たのが目に入った。
後姿だから顔立ちは判らないが、スーツ姿の背の高い男性だという事だけは判った。
なんとなしにその先客を眺めていたら、ふいにその男が手摺を乗り越えようと、手と足をかけた。
「ちょ、ちょっと!!なにやってるんですか!!」
つい、うっかり、慌てて男に後ろから飛びついて屋上に引き戻す。
男も油断でもしていたのか、驚いてこちらを見て力が抜けたように手摺から手を離した。そして屋上の地面に落ちる。
「何で止めたんですか!!」
「当たり前でしょう!」
男はこちらを非難した後、前触れも無く泣き出した。それも号泣。
「死なせて下さい、もう生きていても何の張り合いも無いんです!意味だって無いんです!彼女の居ない世界に生きていたって、仕方ないんです・・・・・・」
最後まで言い切ると、嗚咽しながら床に突っ伏した。
ああどうしよう、と知らす知らずの内にため息をついていた。先程までの晴れやかな気分は台無しだ。
助けてしまった手前、ここで見捨てるわけにも行かないし、見捨てたらこの男、また飛び降りようとするだろう。それはかなり後味が悪い。
取りあえずどこかへ移ろう。
そう決めて、男の近くに行く。
青く澄んだきれいな空が、何故か今はとても憎らしかった。
まいったな。どうしよう。
頬をかきながら男を見る。潤の外見年齢よりは上に見える。二十代半ば過ぎだろう。実年齢で換算したら潤の方が年上なのだが。
まだ泣き止む気配の無い男を、不躾だが観察してみる。
今は座り込んでいるが、先程飛び降りを止めた時、背丈は然程変わりはなかった。体重は潤よりもありそうだが、自身が標準よりも細いので、男が太っているわけではなさそうだ。
着ているスーツは草臥れているものではなく、それなりの値段がしそうなものだ。サラリーマン風だが、安っぽい雰囲気はなく商社マンとか、一流会社に勤めている印象がある。
とりあえず、泣き止むのを待って、その後で食事にでも誘おうかな?
コンクリートの上に座り込んで、程よく光を降り注ぐ太陽を仰ぐ。潤は太陽の光など弱みとはしていない。眩しいと感じる事はあるが、それは人間が感じるそれと変わりはしない。
ずっと側で我慢強く男が泣き止むのを待っていた。明けない夜がないように、枯れない涙もないのだから、待つのはそれほど苦ではない。まさか今から丸一日も泣き続けている事はないだろう。
現に少しづつだが確実に男の涙は止まってきている。今は嗚咽の方が多い。
相手が女性であれば、抱きしめたりしてもおかしくはないだろうが、男が相手では慰めようと抱きしめても効果はなさそうだ。
時間的には10分ほど、感覚的には小一時間ほど待っていた頃。ようやく男が鼻を鳴らすだけになった。スーツのポケットからハンカチを出して顔を拭いているから、理性はちゃんとあるようだ。
「とりあえず、何か食べに行きませんか?」
男は驚いたように顔を上げた。潤の顔を見て何度か瞬きをしたが、アイドル、夜神・潤に気付いたわけではなさそうだ。似ている、くらいには思ったかもしれないが、他人の顔立ちに気を配るほどは落ち着いては居ないのかもしれない。
「何か食べたいものとかありますか?今特にないなら、俺、いいお店知ってますから。そこ行きませんか」
軽く微笑んでみる。少しぎこちなかったかもしれない。カメラの前で笑顔を作るのとは訳が違う。
しかしそのぎこちなさが、相手の警戒心を解く要因となったことも確かなようだ。きっと満面の笑みだったら、絶望に陥れるか怒りを買うかのどちらかだっただろう。
「じゃ、行きましょうか」
男が特に嫌がる様子も見せなかったので、潤は腕を取って立ち上がらせて、ゆっくりと歩かせた。男は大きなため息をついたが、それは潤の行動を嫌がってなのかどうか、それは判らなかった。
しかし抵抗しないのでいいだろう。
尤も−潤の腕を振り切ってまた飛び降りようとするものならば、人ならざる者の力を遣ってでも止めていただろうけれど。
再び街を歩いた潤は、やはり再び眼鏡をかけていた。前よりもあまり女の子が振り返らないのは、男と−松本というらしい−一緒で、しかも潤の方が話しを振っていた所為だろう。
ブラウン管の向こうの潤はおしゃべりなタイプではない。それにまさかアイドルが白昼堂々眼鏡だけの変装で出歩くなんて思っても居ないのだろう。
それでも通りすがりの女の子たちが、「今の人、かっこいいね!」と言い合う会話は耳に届く。
潤の知っている店は個室制で、和食のいわゆねダイニングキッチンだった。見た目は格調高く見えるのだが、店員はきさくだし、だが厚かましくない。料理の方も問題ないどころか素晴らしい出来だ。
馴染みの店員が出迎えてくれたので、潤は眼鏡を外して、松本の事は遠い親戚でちょっと相談事があるとだけ言っておいた。そうすれば料理を運んでくる時以外、個室に近付いてくる店員は居ない。
一番奥の個室に通され、よく冷えたほうじ茶も出された。潤は適当に注文をして、ほうじ茶に一口付けて人心地ついた。
松本もやはり暑かったようで、グラスの半分程度を一気に飲み干していた。
しばらくの沈黙が続いたが、控えめに声がかけられた。店員で、一品料理が運ばれてきた。店員が松本にお茶のお変わりを進めて、それを受諾し、そしてまた店員が去っていった。
「話し、聞いても良いですか?」
柔らかく話しかけた潤に、松本はまだ暗い表情のまま。
けれど、話し始めた。断続的にだが、ポツポツと。
恋人の名前は、藤本・さゆり。享年二十七歳。死因はクモ膜下出血。
趣味は料理、しかし全然上達はしなかった。
紅茶が大好きで、ティーパックや葉にこだわりはなかった。
仕事は某有名会社の総務部勤めだったが、松本との結婚のために退職予定だった。
と、おおむねそのような事を、なかなかの時間をかけて語った。
「そっか。なんか、可愛い感じの方だったんですね」
素直な気持ちを言うと、松本は曖昧にそして寂しそうに笑った。さゆりの生前は、そんな事を人から言われたらどのようにして返したのだろう。
きっと自慢していたのではないか。一種の極限状態だからかもしれないが、松本は自分の気持ちを隠すようなタイプには見えなかったから。
「あの、俺の思った事なんで、気を悪くしないで欲しいんですけど」
前ふりをしておいてから、潤は松本の目をまっすぐに見て、躊躇わずに言った。
「さゆりさんが生きていらした頃に、沢山影響受けたと思うんです。良い思い出も、沢山あると思います。そういうのって、絶対に無くならないと思うんです」
クールに見える潤が、こういうことを言うのが意外だったのか、それとも別の意味でもあるのか。松本は驚いたように彼を見た。
それを見て、ようやく顔を上げた、と潤は内心人心地ついた。
「ちゃんと今までの事、きっと松本さんの心の中で生き続けています。でも、貴方が亡くなってしまえば、その時点で全て無くなってしまうと思うんです」
僅かに喉に乾きを覚えたので、ほうじ茶を一口飲む。心地良い冷たさが喉を駆けていく。
「勿論俺は松本さんの今後の人生に責任とか持てるわけじゃないから、偉そうな事は言える立場じゃないんですけど。でも、そんなの、悲しいと思います」
真剣に。とてもまっすぐな目で。
松本は、眼の前に居る未だ少年然とした青年を見た。
しばらくの静寂の後、口を開いたのはやはり潤だった。
「とりあえず、明日まで生きてみませんか?それで、それでもまだ死にたい気持ちが無くならなかったら、俺に連絡下さい。どこかに出かけたり、誰かに会ったりしましょう。死にたくなくなるまで俺の所に来て下さい。俺が出来るのなんて、多分、そのくらいだから」
畳み掛けるように一気に話した後、何となく悔しそうな、そして寂しそうな顔をして、潤は俯いた。
「・・・・・・どうして」
長い間声を出していなかった所為だろう、擦れた声の松本が、潤を責める様な目で問いかける。
「どうして君は、赤の他人の俺にそんな事を言うんだ?」
「それは、さっきも言いましたけど、死ぬなんて悲しいと思います。貴方が死んだら、俺は悲しいです。一度でも言葉を交わしたり、一回だけ会った人でも、もう二度と会えないのは悲しいです」
泣きそうな表情ではない。それでも、潤の悲哀が一目で見て取れる。
「死ぬなんて言わないで下さい」
シンプルな言葉。
だからこそ、とてもするりと人の心に入り込んで、傷口をほんの少しだけでも癒してくれる。
松本は今度は、声も出さずにただ涙に暮れた。
おおよそ一ヶ月程経つ。別れ際に携帯電話の番号とメールアドレスを手渡したが、かかって来る事はなかった。毎日、恋人からの着信を待つかの様に携帯電話を開いて、ずっと待っていたが、文字通り音沙汰もなかった。
今日はラジオの公開収録日で、ゲストとして呼ばれている。2、3ヶ月前から雑誌やインターネットで宣伝をしていて、スタッフから聞いた話しでは、ブースの前はかなりの人数が集まっているらしい。
これから仕事なのだから、沈んだ顔はしていられない。
時計を確認し、スタジオへと向かう。通りすがるスタッフに挨拶をして、DJとブースの中で言葉を交わす。このDJとはラジオとは関係なく何度か顔を合わせた事がある。
収録は順調に進み、よくあるというか王道というか、ラジオには欠かせないリスナーの葉書を読むコーナー。
「えー、続いてのお葉書。ラジオネーム、N・Mさんから」
軽快な調子で話し続けるDJが、少しペースを落として読み始めた。
夜神さん、こんにちは。この葉書が読まれる事はないとは思いますが、送ってみました。先日は大変お世話になりました。あの日からしばらくはやはり辛くてどうしようもなかったのですが、ふと目に入った雑誌に貴方が映っていました。まさかとは思っていましたが、紛れもない貴方でした。夜神さんの様な芸能人が、本当に真剣に通りかがっただけの私の事を考えていてくれたのかと思うと、何ともいえない気持ちになりました。決して悪い意味ではありません。
今でも辛い事が多いです。けれど確かに思い返すと楽しかった事も嬉しかった事も多いです。それは失われていないのですね。その事を教えて下さって、本当にありがとうございます。
ご連絡もしないで申し訳ございません。
私はそれなりに、そして健康に過ごしております。
本当に、ありがとうございました。
ああ、あの人だ。
確信した潤は破顔した。DJの質問や観客のざわめきも何とか交わしつつ、ふと青い空を見上げる。
あの日と同じ様に、もしくはそれ以上に晴れた青い空が広がっていた。
それなりに、健康で過ごしているなら何よりではないか。
あの日と同じ様に、もしくはそれ以上に潤の心は軽くなった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【7038 / 夜神・潤 / 男性 / 200歳 / 禁忌の子】
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■ ライター通信 ■
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はじめまして、八雲 志信と申します。
優しく、そして力強いプレイングを、どうもありがとうございました。
夜神様の格好良さと優しさがちゃんと表されていれば良いのですが!
この度はご参加誠にありがとうございました。
これからのご活躍を心からお祈り申し上げます。
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