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<東京怪談ノベル(シングル)>


【Night Walker − deja vu de lune】

 昼間の熱を残すアスファルトの上を、小さな鈴の音と影が渡る。
 足音も立てず、軽やかに。
 両サイドで束ねた黒髪と、黒いリボンがふわりと広がり。
 アスファルトを蹴った少女は、ブロック塀へ音もなく降り立った。
 空を仰げば暗い雲が僅かに切れて、欠けた月が顔を出している。
「ナンだか、今夜は‥‥変な感じがするね。静夜ちゃん」
 特徴的な長い耳をだらんと垂らしたまま細い腕に抱かれる黒兎は、話しかけた主人へ問うように、くるりと黒目がちな目を動かした。
「ナンだろう? 何か‥‥ううん、誰かがチカの事を呼んでる気がするの。聞こえない?」
 主人の疑問に、ロップイヤーの兎は片耳を少し持ち上げるが、何も聞こえないと言わんばかりに再び耳が垂れる。
「もぅ‥‥」
 少女は少し頬を膨らませたものの、黒兎を胸に抱きしめる。
 彼女が着地したブロック塀の向こう側には、沢山の緑の木々に囲まれた、黒い大きな建物――私立神聖都学園の校舎がそびえていた。

   ○

 木々の間には、冷気と‥‥霊気が漂っている。
 七不思議が七倍の七倍はあるとも噂されるような場所なら、当然。
 だがためらう風もなく、鈴はちりんちりんと音を立てる。
 ほっそりとした体躯の少女はブロック塀の上を数メートル進み、土の上へ飛び降りると今度は木立を駆け抜けた。
 黒い校舎が、どんどん彼女に近づく。
 それを見上げながら走っていたスピードは、不意に少しずつ落ち。
 二歩、一歩と変わった歩みも、やがて止まった。
 黒兎が鼻をヒクヒク動かしながら主人を見上げれば、細められた翡翠の瞳は校舎の窓を映している。
 突然、白い背中から対の黒い小さな翼が現れて、細い身体が宙へ浮かんだ。
 黒いスカートのフリルを翻して一気に四階まで飛ぶと、彼女はそこで滞空し。
 片腕で黒兎を抱いたまま、もう片方の腕を振るった。
 ちりん。と、小さな鈴が鳴り。
 続いて、ガラスの擦れる嫌な音が一瞬響いた。
 直後、まるでホットケーキのように、ガラスは割れずに切り裂かれる。
 その向こうにいた人影へと、羽根をすぼめて少女は飛び掛り。
「ぅわ‥‥っ!」
「ぅにゃ!?」
 どんがらがっしゃん!
 椅子や机が音を立てて倒れ、短い悲鳴をかき消した。
「えっと‥‥だいじょうぶ?」
 巻き込まれないよう、更に身を捻って離れた机の上に着地した少女は、そっと飛び掛った相手を上から覗き込む。
 主人の腕の中から身を乗り出した黒兎は、暗い教室の床へひっくり返った相手の腕を鼻でつつき。
「ぷ‥‥あははははっ!」
 急に弾かれた様に笑い出した相手に、一人と一匹は思わず身を引いた。
「ああ、もう‥‥びっくりしたよ。窓から飛びつかれるなんて、初めて」
 学園の制服を着た相手は、突然の『ハプニング』に笑いながら身体を起こす。
「あの、ごめんね。こんな時間だから、つい間違えちゃった」
 謝る少女が何と間違えたかといえば、『食べていい相手』なのだが‥‥さすがにそれは言わないでおく。
「いいよ。キミの方は、ケガとかない?」
 スカートのひだを整えながら立ち上がる女生徒に、少女はこくんと頷く。それを見た女生徒は、切り揃えた黒髪を揺らし、勢いをつけて立ち上がる。
「だったら、いいや。こんな時間まで学校に残っていたら、ナニカと間違えられても文句言えないし」
 あっさりと答えて、倒れた机や椅子を元に戻し始めた。
 咎められなかった少女も、慌てて机から降りてそれを手伝う。
 後が面倒なので、穴の開いた窓と切断されたガラスはそのまま放っておき。
「また、新しい謎にされるかな」
 不自然な崩壊を遂げたガラスへ呟く女生徒に、少女はくすくすと笑う。
「‥‥ところで」
『一仕事』を終えて手を払うと、女生徒は踵を中心にくるりと回れ右で少女へ振り返った。
「ボクを呼んでたの‥‥もしかしてキミ?」
 じっと見つめる瞳を見返した少女は、また柔らかな黒い髪をふわりと左右に揺らす。
「そっか」
 吐息をつくように短く答えると、女生徒は背を向ける。
 そのまま大股で教室の扉へ歩み寄ると取っ手に手をかけ、それからもう一度、振り返った。
「こないの? 窓から行っちゃうなら、それでもいいけど」
「ううん、ついてくっ!」
 咄嗟に何故そんな返事が口から飛び出したのかは判らないが、慌てて少女は女生徒の後を追いかける。そして隣へ並ぶと、黒兎を抱いた少女はにっこり微笑んだ。
「あのね。あたし、チカ。千影よ。それからこの子は静夜ちゃん、チカの弟なの。あなたはだぁれ?」
 問いかける翡翠の瞳に、女性は扉を開きかけた手を止めて。
「ボクは‥‥月神詠子」
「詠子ちゃん、だね」
 短い返答に、少女の――千影の笑みが更に明るくなった。それとは逆に、詠子と名乗った女生徒は少しショックを受けたような表情を浮かべる。
「ちゃん‥‥」
「詠子ちゃんは、『詠子ちゃん』って呼ばれるの、イヤ?」
 見る間に無邪気な笑顔がしおれかけると、詠子は天井を仰いで思案を巡らせてから、千影の頭をぽんと撫でた。
「いいよ、『詠子ちゃん』でも」
「ホント?」
「うん」
 嘘じゃないと、表情を和らげた詠子が笑ってみせる。
 その暖かな金色の瞳が、どこか月に似ている‥‥と、何故か千影は思った。

   ○

 小さな鈴音と床を踏む靴音が、静かな廊下に響く。
 非常灯を残して全ての電灯は消えているが、月の光が差し込んで辺りは仄かに明るい。
 夜の校舎のそこここで澱んでいる気配も、今は影を潜めている。
 迷いなく階段を降り、出口へ向かう詠子の隣を歩きながら、千影は小さな疑問を口にした。
「詠子ちゃん、さっき‥‥ボクを呼んでたって、聞いたよね」
「うん。もしかすると、ボクの気のせいかもしれないし」
「あたしもね。ナンだか今日は、誰かに呼ばれた気がしてたの。不思議だよね」
「そうなんだ。でもこの学校じゃ、何が呼んでてもおかしくないけどね」
「だね」
 くすくす笑いながら階段を降りていた二人だが、不意に千影は足を止める。
 数段を先に下りた詠子が何事かと、ついてこない少女を見上げた。
「あの‥‥詠子ちゃん、ごめんね」
「どうしたの、急に」
「ううん。でも、ごめんね」
 ――初めて会ったばっかりな筈だけれど、初めてじゃない感じがして。どうしてか、どうしても謝りたい気持ちでいっぱいになって。
 理由を胸に飲み込む千影に、詠子は何を思ったのか。
「いいよ。チカは悪くないから、気にしないで」
 月明かりの下で、優しい笑顔を返した。
 それから、階上の彼女へ手招きをする。
 涼やかな音をちりちりと鳴らし、千影は詠子に駆け寄った。

 階段を降りると、廊下を横切って、玄関に到る。
 鍵を外して表へ出れば、厚い雲はすっかり姿を消しており、千影は月へ瞳を細めた。
「それじゃ、ボクはここでお別れ。キミも、気をつけて帰るんだよ」
 別れを告げる声が聞こえて、急いで相手に向き直る。
「今日は楽しかったね、また遊ぼうね詠子ちゃん♪」
 屈託ない千影の約束に、彼女は一つ頷いた。
「うん。静夜も、またね」
 人差し指で頭を撫でられた黒兎は、主人の腕の中で気持ちよさげに目を閉じる。
 その反応に面白そうな表情をしてから、「じゃあね」と詠子は手を振り。校門へと歩いていく後姿に、千影もぶんぶんと手を振り返す。
 何度か足を止めて振り返っていた姿が見えなくなると、千影は漸く手を降ろし。
 黒兎を両手で抱き直すと、明るい表情で彼女も家路を辿る。
 その足取りは、軽やかで。
 楽しげな鈴音と共に、時折スカートがくるりと丸く広がった。

 くるりくるり、くるくる、と。

 再び、物語を紡ぐ車輪は回る――。