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<東京怪談ノベル(シングル)>


紅を広げる

 本日が晴れであったか、曇りであったか。時々そんな事がどうでも良くなる事がある。
(あー、なんか寒いし、曇り? 違うな)
 目の前が天井では薄く、狭くなる天井の歪んだ赤しか見えぬ己には思い出せない事となって奇妙な空間の中、その朱色よりも更に紅に染まった瞳を揺らせ、深紅月・暁(みくづき・あき)は薄く笑った。

 簡単な異空間と言った方が良いだろうか。暁は燈色の、いやその殆どが朱色に染まりつつあるピアノの鍵盤の両端に腕を奪われていた。噛まれる場所から抜けていく血が思考回路を汚染する。
 お陰でここに至るまでを長々と思い出す気にはなれないが、唯一つ今暁が遭遇している『燈色だった』ピアノは自分の敵である事。ただし、自分はそもそもこのピアノに敵意は持たず、ただそれの良いようにと血を吸わせているだけだ。
「ねぇ、ちょっと吸うの静かにしてくんない? なんか冷たいってゆーかさぁ…」
 渇いた唇でぼつぼつと言葉を紡ぐ暁の声色は淡々としている。
「君とお揃いなんだよー? この髪。 ねぇ、聞いてる?」
 この吸血ピアノがまだ血を吸う前の燈色と同じ、自分の髪色。
 それは暁が事前にこのピアノが燈色だと知り、ちょっとしたお遊びで同じ色に染めたものだ。もっとも、どんどんと自分の血液を吸収しその色になっているピアノには最早関係無い事であろうが。
「返事が無いなんて寂しいなァ…」
 頭の中にぽっかりと穴が開いていくのが分かる。これが血を抜かれた者の正常な状態なのだから。このまま吸われ続けていれば自分も確かに生命の危機に陥るだろう。それも理解した上でそれだけを何度か子供が駄々をこねるように続けた後、暁の反撃は始まった。

 血を吸われる事によってピアノ椅子の上で弓なりにしなる背中を猫背にしたかと思うと自分の手と、そこから血を吸い上げている鍵盤にゆっくりと『暁の刃』を入れていく。
 吸血行為。簡単に言えばそうだ。
 暁はピアノが味わうように吸うのに対して一気に自らの血を取り戻していく。
(嗚呼、なんていうか…自分の血って嫌かも…)
 口内に広がる味は人それぞれ違う、当然暁の血も自分の味くらいは判別できた。それが、いつどこで判別できるようになったかまでは意識上あまり考えない事にしてはいる。
 同族と思えば反論したい所だが、このピアノに吸われていた自分の血はお世辞ではないが口に合わなかった。
(あー…。 っははは、なんでかなぁ、こんな大人しい子が怖いなんて、皆も結構怖がりだよね)
 唇一杯に吸われた血を取り戻しながら暁は口の端だけに笑みを浮かべ、また吸うという行為に没頭する。

 それは、長い循環の行為だ。雨が降り、畑を濡らし作物に吸われてまた、天からの日を浴び上空へ戻る。
 暁の身体を回っていた血が一度ピアノに吸われ、それがまた戻っていくような。静かな共有なのだ。
 まだ、生きている暁自身とピアノの意識もそうして共有されていく。自分の記憶がピアノに持っていかれぬように出来るだけの蓋をして、相手の記憶だけを引っ張り出しては最後の一滴に至るまでを吸い上げる。多分、その行為が終わってしまえばこの現象は収まる事だろう。

 吸血行為のせいだろうか、ピアノの意識と共に見えない筈の蝶が一羽、飛んだ。



 見慣れない空間がそこにはある。ただ意識だけが飛ぶという空間の事だ。そこには何があると言えば何も無く、ただ一つ断末魔のような映像が映画となって上映されるのみ。
 白黒のモノトーンが映し出す映像は、まさにピアノの記憶そのものであって数人の男女、全員が既に着古した制服を身に纏って映像の中に居た。
「コンサートも近いわね…、でも今の二年生や一年生の実力じゃ…」
 女子生徒らしい、髪の長い少女がこの場を仕切る一人らしい。或いは、全員。
「この後に及んで連弾が弾けねぇじゃ話にもならねえよ…!」
 握り拳を強くもう一度握り返して、男子生徒が後に続く。髪型は様々、制服の着こなしも様々ではあったが彼らに共通するものは唯一つ。
「ここでピアニストになる夢、諦められないもんね!」
 ぐ、と一番小さな背丈の少女がピアノの前に自らの手を差し出した。頷いて数人の生徒が彼女へと向き直る。物騒な光は色の無い世界でも分かる、ナイフを手にした少女に。
「な、なぁ…やっぱ噂じゃないか? もし深く切っちまったらどうすんだよ…」
 不安を混じらせる声も。
「じゃあ諦める? 実力不足なのよ、今年の新人は! アンタだけ抜けて優勝出来なかったら許さないから!」
「あ、諦める…なんて、言ってないだろ…」
 最初に口を開いた女子生徒に男子生徒はすくみ上がった。鬼気迫る彼女の声と自分達の夢、それに置かれた危機。全てが弱気な彼をも丸め込んでしまう材料になったのだ。
「分かったよ、俺から切ってくれ。 なんか、お前達から血、流させるの嫌だし…。 このピアノ、本当に血を吸ったら夢叶えてくれる…って、信じてみるよ」
 歪んだ決意は彼の手の甲に朱色で線を描かせる。小さいが自らの手を刃物で切るという慣れない行為に呻きが景色上、広がっていきぽたりと流れ落ちる一滴となって鍵盤に落ちる。

 暁がもし、この場に居たら笑い飛ばしてしまう話。確かに今ピアノの意識を覗く事でこの場の見学はしているものの、介入出来ない場所で彼ら生徒達は儀式めいた事をしていたのだ。
 この当時の生徒達がいつの時代の人間であるかは不明だ、見ただけで言えば学校という機能と制服という制度、話からすればコンサートもある時代であるとは察する事が出来る。ただ、矢張り笑い飛ばしてしまう事実が一つある。

 ――ね、そのピアノ。普通のピアノだよ?

 現在という時にあるピアノと対峙しているから分かる。燈色の肌は多分この頃はきっと美しかったのだろうがゆっくりと、確実に鮮血に侵食されていく姿で変わった。人の執念、気持ちというのは一つの物体を獣と変える程重いのだ。
 この景色の風景だけが全てではなかったのかもしれない。一人一人の生徒がゆっくり時間をかけてピアノという物を弾く道具として認識し、一つ礎を作っては次の生徒がそこから紡がれる旋律に夢を乗せる。

 それが続き、これが決定打。

 苦痛の呻きと奇妙な期待感が包む空間。集まった生徒一人一人の手の甲に朱色の線と歪んだ希望を染めて、モノトーンの鍵盤に痛々しくも禍々しい色で斑模様となったそれを見て。
「ね、ねぇ…。 本当にこれで…」
 何かが変わるのかな。今まで支持していた意見を覆すかのような恐ろしい静けさ、血を多少なりとも流した腕を押さえ彼女らはたった一つの結論に視線を向けようとしている。
 ――血を流せばそれに見合った実力を与えてくれると信じていたピアノは自分達の敵である。と。
 実際がどうなのか、それはこの一瞬までピアノだった獣の感情には刻み込まれていなかった。次の瞬間に訪れる異常な渇きと苦痛、それに駆られて動く無数の鍵盤達に悲鳴を上げる事無く飲み込まれていく生徒達。

 凄惨な光景。まさにその一言でこの怪異は始まったが、ここで一つ区切りを迎えようとしていた。



 渇き…。うん、まぁそれもあったな。どっち道俺の血、全部吸ったんじゃん。返してよ。もっと深い所にある美味しい物もさ、全部。ついでだから頂いていっちゃってイイ?
 そそ、昔だかなんだか知らないけどさ、溜め込んでるんでしょ。音楽科生の…ね?
 今更何かなんて聞かないでよ。いや、聞けないか。元々口は飲む専用みたいだし。弱ってるみたいだし…あーあ、希望で集めた化け物かぁ…俺が捕っちゃったら悪いかな。
 木のざらついた感じがそろそろやんなってきたけど、気持ちの問題だよね、こんなのに食らわせておくよりやっぱ、もらってく。

「夢が現実になるって事もさ、たまに体験してみるといいよ」
 喉が熱いな。これが夢希望に溢れた…ってやつ?
 いやいや、単に古くなってやばくなってるだけでしょ、ね。



 本日はとても良い日差しに恵まれ、一日中真夏の温度に見舞われるでしょう。外に出る方は紫外線に気をつけて。
 目を見開いた暁が最初に思った事は単純にそれだけだった。
「あ、あの…み、深紅月くん?」
 ピアノの燈は荒んでいて、暁の眼下でその古さをただ古いだけの物として静かに横たわっている。横には見慣れたようで見慣れない、何秒かかかってようやく思い出せる音楽科の先生の顔に視線をまた彷徨わせれば同じ音楽科の生徒達のざわめき。
「深紅月、ちよっと保健室行った方がいいんじゃね? ピアノ弾いてる途端に倒れちまうなんてよ、暑さにやられた…とか?」
 す、と立ち上がった男子生徒は自分が担いでいこうか。と教師の方に立ち上がる、頷く声と見える視界内にだんだんと近づいてくる制服。ああ、今日は気が遠くなるような暑さだったのだろうか。そんな事を思って暁はされるがままに彼の背中に腕を回す。
「わっりー、多分ちょっとしたら治ると思うからさ」
「はは、いいって。 気にすんな、今年は結構優勝近いんだからさ」
 お前のお陰で、と彼は言う。
「こら、深紅月くんばかりに頼ってばかりじゃ駄目でしょう。 皆一人一人で頑張って優勝目指すんだから! さ、あなたは十分休んでいて頂戴。 転校してきたばかりで疲れたでしょう?」
 なかなかに強い音楽教師だ。暁が倒れた事で驚愕の表情を見せていたものの、音楽生の自分を頼りきりな態度にすぐ怒ってみせる。
「はーい、はいはい。 センセが怒るから俺もさっさと戻ってくるよ」
「えー、ちょっとは遊んでいこうよ!」
 途端、飛んでくる軽い拳に暁は笑った。
 完全に回復はしていないものの、回復力は人間の比ではないから担がれている間にも十分な力となって出てくる声とじゃれるようないつもの調子で。
「んまぁ、無理か。 それじゃあコンクールの前にいっちょ、保健室まで頑張ってくださいねー!」
 音楽室のドアが開く。音楽生の練習の音と共に。

「おい、ちょ…! 重くないようで重っ…! いや軽い? つか、体重かけんな深紅月ィ!!」
 男子生徒の背中に全体重をかけ、暁はただ笑っていた。
 怪奇事件と名の付く方面で調査をしていたピアノの事件、数名の音楽生が昏睡状態だと聞きつけ転校した先で起こった出来事はピアノの血が全て抜けきった事で終わりを告げる事だろう。
 付け加えるならば、何度もその音楽生の昏睡状態になるという事件が解決した今、惜しい所で逃していた優勝という二文字もきっと、今年のこの学校は紡ぎ取るに違いない。決して諦めずに何年も続けた練習が今ようやく、花開く時なのだ。

(うんうん、やっぱ夢ってこうじゃなきゃねー! って、俺が言うとなんか軽いかなぁ)

 廊下には蛍光灯無くとも美しい日差しが暑い程に学校中を覗き込んでいる。
 ピアノを弾く事により、獣となったそれと対峙していたあの異空間では決して見られなかった青空がどこまでも続く明日を約束しているようだ。眩しい、暁の紅玉が朱色の線となって空を見た。
「お、蝶も出てくる季節なんだなー」
 言う男子生徒に一瞬、どこだと聞こうとして暁はやめた。その蝶はきっと白いだろうから。

 白くて矢張り、自分には見えないだろうから。