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END of KARMA ―silence & shot―
深夜過ぎ――。
経営に行き詰まったのか、潰れ、廃墟と化してしまった病院。五階建てのそれは月に照らされて、ただ佇んでいた。
静かだ。誰もいないのだから、静かなのは当たり前だろう。
活気のあった頃は、患者や看護師たちの声や活動の音で溢れていたはずだ。とはいえ、夜は就寝しているので、同じように静かではあるだろうが。
いつもと同じ夜なら、静かなはずだ。けれど、『今日』は違った。
微かな物音がしていた。それは、三階の……。
……二人の男が居た。
一人は赤い髪をうなじのところで軽く結っている男。
彼の名は観凪皇。
だが彼は、怪訝そうに顔をしかめた。
なぜ自分がここに居るのか、皇は知らない。知らないはずなのだ。
ここにどうやって来たのか、目の前の男が誰なのか、皇は一切合財何もかも……わからないのだから。
(なんだ……?)
自身に問い掛ける皇は、それでも相手と距離をとる。距離をとることがいいことなのか、自身もわからない。
(何が、起こったんだ!?)
誰も応えてくれないのに、皇は思う。
皇が見据える相手は青い外套に身を包んでいた。柔らかそうな髪をした男。彼は真っ直ぐこちらを、冷たい瞳で見ている。
(わからない……)
どうして。
(どうして、何故俺は……血塗れてるんだ……?)
負傷はしていないはずなのに、皇は血まみれだった。顔も、衣服も、べったりと血がついている。血液独特の異臭が自身を包んでいて、気持ち悪い。
皇はもう一度、しっかりと相手の男を見る。
(この男は誰だ……?)
誰?
見たことは……ないはずだ。どこかで会った……? だが、記憶にはない。
落ち着け。落ちつくんだ、皇。
深く、呼吸をする。胸が緩やかに上下した。
(あれ……そういえば眼鏡がないや)
いつもつけている、個性を消すためのビン底眼鏡がない。どこにやったのだろう? ああでも、ないほうがいいって彼女に言われたような気がする……ぼんやりとだけど。
まあいい。そんなことを考えている場合ではないことは、わかる。
無防備に立つ男。だが、無防備に見えているだけだ。皇はゆっくりと距離を詰める。じり、とつま先から音がした。
状況をはっきりと認識しなければならない。今がどういう状況で、自分がどうなっているかはわからないけれども……それでも、この男は自分を敵視している。攻撃を受けているのだ、自分は。まさに今。
皇がいるのは廊下だ。右側には病室があるのだろう。ドアが並んでいる。とはいえ、そのドアも半壊状態のものが多い。
左側はガラスがほとんどない窓。そこから夜風と、月の光が差し込んでくる。
(もっと明るければいいのに、って思うのは……ダメかな)
皇は距離をもう一度測る。何歩で相手まで届くか、と頭の中で想像する。
(早く帰らないと……)
帰らないと。
焦る皇だった。こんな夜中に外で何をしているのだ。帰って、眠らないと。こんな場所で戦っている場合じゃない。
明日は、だって、そう、たしか。
皇はぐっ、とつま先に力を込めて駆けた。廊下は一直線。隠れるところも、障害物もない。壊れた窓から入ってきたらしい枯れ葉を、皇は踏みつけ、粉々にする。
一気に男との距離を縮める。攻撃が届く!
(どけろ――!)
そこを、どけろ。
距離を詰めた途端に皇は攻撃に入った。すぐさま右足に力を込め、左足で男に蹴りを放つ!
見事な回し蹴りだった。全体重を乗せた、相手の首をへし折る蹴りだ。
だが。
相手の男は、相変わらずの冷ややかな目で皇の動きを追い、それからそれを『受け流した』。
(ッ!)
皇は避けられたことよりも、相手の、こちらの動きを見ての行動に驚く。すぐさま後方に跳躍し、再び距離をとった。
今のは……。
(柔術……? 型は柔術に似ているけど……)
似ているように『思う』だけだ。皇はじっと相手を凝視し、それから再びだらんと腕をおろした。
(……力押しで勝てる相手じゃない。何より……いや、もう一度、だ)
確かめよう。一度では、確信できるほどではない。
皇はふっ、と息を吐き出す。蹴りがダメなら拳だ。
廊下が直線なのは困る。こんな時、深陰ほどの速度があればと切に思う。とはいえ、彼女の速度は瞬間的なものなのだが、それでも便利だ。
(相手から動きが丸見え。近距離戦闘だもんな、観凪無手流は)
もう一度ぐっ、と足に力を入れる。余計な力は加えない。できるだけ自然に。
できるだけ――。
*
皇は記憶を遡る。とはいえ、はっきりと憶えているところからスタートだ。
記憶が抜け落ちることは今までも度々あったが、皇自身はそれをたいしたことではないと認識している。
憶えていることで強烈なのは、皇の現在の恋人のことだ。
彼女の苦悩や、今までの経緯を考えると皇は辛い。幸せにしてあげたいといつも思う。辛くて苦しかった分、自分にできる限りのことをしてあげたい。350年という長さに対して、自分という存在などちっぽけなものだろうが……350年を穴埋めできるほどの力などないだろうが、それでも頑張りたい。
彼女と奇跡の再会を果たしたのが数日前のことだ。感動的な再会だった。
再会後、皇はそれでも、思い出せる限り思い出すが……目の前の『敵』である、この男の記憶はない。
名も、わからない。顔も、憶えていない。
この男に恨みを買うようなことでも、自分はしたのだろうか? だとすれば、謝るべきだ。でも、謝るのもワケがわからない。この男に、謝るほどのことをしたとは、思えないのだ。
――わからない。
皇の回想はここで終わる。
*
皇は対峙していた。二度目の攻撃を終え、距離をとっている。
「………………」
静かだ。
こうしていても埒があかない。
(やっぱり……。殴っても、手応えが『ない』。この謎を解かなければ、勝機はない……)
あれほどの間近で、皇の破壊力をそもそも『簡単に』受け流せるはずがないのだ。何かあるだろうなという、皇の予測は当たった。
結界? だろうか。
だったら、術者? とはいえ、なんだか妙だ。
そういえば……と、皇は気づく。
相手の男は一歩こちらに近づいて来た。皇は退がらない。
落ち着け。観察だ。何か手がかりがあるはずだ。
青い外套。柔らかそうな茶色の髪。黒い瞳。名前は知らない。歳は自分と同じくらい。
(あ)
不自然な部分を皇は見つけた。
男は腰に銃を下げている。あれはなんだ? 装飾銃? まずい。あまり銃に視線を集中するな。こちらが観察しているとバレる。
(一度も抜いてない……。銃なら、遠距離に使うはずだ。これだけの距離でも、タイミングがあえば俺を殺せる)
そう、この男は……自分を殺そうとしている……。
じゃあ。
(あの銃は、飾り……? 飾りをこんなところにわざわざ持ってくるか?)
持ってこない。自分は基本的に素手での戦闘だから、武器を持つ者の気持ちはわからない。けれども、敵を簡単に傷つけることができるのが『武器』だ。それを使わないのなら、何か別の意味があるはず。
(……もしかして、あれが?)
あれが、防御結界の役目をしている?
そう思うと、しっくりした。きっとそうだ。間違いない。宝具なのだ、おそらく。
(何度も射撃する機会はあったが撃たなかった……つまり、射撃はない。なら簡単だ)
眼鏡がなくなっていて、良かった。皇はそう思う。
瞳に力を込めた。
(『緋眼』で破砕点を見出して、破壊してやる)
銃を壊せばこちらに勝機がある。
皇の視界が赤く染まった。赤いフィルター越しに世界を見ているようだ。
ありとあらゆるものに『点』が出現した。横の壁。床。天井。窓枠。『破壊すべき一点』が、皇に知覚できるようになる。
(――みえる)
男の結界が。いいや、正確には、男の周囲に出現した『点』によって、結界の形が浮き彫りにされたのだ。
ああ、これで帰れる。
皇は安堵した。まだ勝ってもいないのに。
だが完全に勝利をみた。これは確信だ。
近距離ならば、こちらの破壊力が上回る。勝てる!
赤い世界の中を皇は疾駆した。上体を屈め、さらに速度をあげる。
(『破砕』――っ!)
視界に浮かぶ、結界の破壊点目掛けて、皇は拳を強く握る。息を吸うほどの短い時間。いいや、吸おうとしただけの刹那の時。
皇の拳は結界を破壊していた。懐に入れば勝てる! ああそうとも、絶対に勝て――。
耳に重い音が届いた。届いた時には遅い。
(……あれ?)
皇は前のめりになっていた。なにこれ。
痛い、と脳にその情報が届く。そうだ、痛い。
(っ……!)
激痛だ。焼けるような痛みが腹部に在る!
「あ……?」
目の前に床が迫る。勢いが強すぎた。なんで床? あの男はどこだ。目の前にいたはずだ。いつの間にか一歩分退がってる!?
皇は無様に床に転び、慌てて両腕をついて起き上がろうとした。
(なに? 俺のほうが?)
何に攻撃されたのか皇は理解した。皇が結界を破壊した瞬間、いや、その直前に男は腰の銃を抜いたのだ。そして躊躇なくこちらを撃った。
なんてことだ……。男は、最初から銃が使えたのだ。使えたくせに、使用しなかった。それは、つまり……確実に皇を仕留めるためだろう。それにまんまとハマってしまった皇は、まだ完全に起き上がれない。
ずきずきと腹部が痛みを訴える。
(判断を、誤った……)
うそだ。
だって、おかしいじゃないか。なにこれ。夢?
だいたいさ、どうして俺はここにいるの? この男はだれ? なんで俺は血まみれなの? どうやってここまで来たの?
(意味わかんないよ……)
薄れていく意識の中、皇は拳を握る。殴るためではなく、握りしめて意識をはっきりさせるためだ。
だが意識は覚醒しない。爪が食い込んでいるが、はっきりしない。腹部の痛みが強烈すぎる。
あ、と思った時。
顔をあげた時。
皇の目前には、銃口があった。
一瞬、ソレがなんなのか理解できなかった。意識が朦朧としているため、認識できなかったのだ。
男は目を細める。そして、口を開いた。
「『生者』に用はない」
短い一言を終え、白けた音が廃病院内に響いた。先ほどより、もっと軽く、乾いた音が。
その音が鳴る直前、皇の脳裏に浮かんだのは愛しい少女・深陰の顔だった。
あぁ、そうだ。深陰さんと明日会う約そ――――――く―――…………。
深夜過ぎ――その廃病院は完全に静寂に包まれた。
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