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月名残
仰ぎ見る上空には磨ったばかりの墨を撒き散らしたような暗色ばかりが広がっていた。
庭の隅、自生の竹林が夜風を含み大きく小さく蠢いているのが見える。
漆黒の天空には薄く瞬く仄明るい輝きが数知れず見受けられる。それらは青白く、あるいは白く瞬きながら、地上で見上げている神羅の視界の端々で小さな唄を口ずさんでいるかのようだ。
神羅は夜空をひとしきり愛でた後、横にたてかけてあった三味線を手にとり、ゆったりと目を閉じた。
撥が動くたびに紡がれる流麗で凛とした音色が辺りを満たしていく。同時、それが空気を充たしていくのを遮らぬようにとの配慮なのだろうか、夜風がひたりと凪いだ。
あれほどに蠢いていた竹林が落としていた葉擦れの音も、今や神羅が仮の居とする草庵から洩れ出るぼうやりとした明かりに、うっすらとした影を落とすばかりとなっている。
月は、今は薄い雲に遮られて隠れている。ゆえに、天を照らす光源は小さく瞬く星のものばかりとなっている。
蚊遣りの煙が一筋の線を描き闇の中に吸い寄せられていた。
暗色で塗られた天空にひらめいていた星の輝きは、――しかし、時折ふと思い出したようにゆらゆらと揺らめいているのだ。
青白く長い尾を引いて小さく揺れるその瞬きは、一見すれば蛍のものであるようにも見える。けれど明滅しないそれは、おそらくは蛍のものではないのだろう。
神羅が弾く音色に合わせ揺らいでいるようなそれは、ゆっくりとゆっくりと、長い尾が放つ残像で夜を彩りながら、西を目指し流れていた。中には空より降り来て神羅の周りを囲い、流れる音色にうっとりと聴き入っているかのように留まっている。
凪いだ風に代わり空気を震わせていた三味線の音が止むと、神羅は伏せていた瞼をゆったりと持ち上げた。
視界に映る、無数の青白い瞬き。それに眸を眇めて三味線を戻し、替わりに横手の盆に載せてあった朱塗りの盃を手にする。
盃の脇には徳利を置いてある。
盃を満たして口に運び、二口ほどでそれを干した後に神羅はふと小さな欠伸をひとつ吐いて身を横たえた。
車の往行はむろんの事、およそ人の息吹といったものの微塵も感じられぬ、閑寂とした山奥深く。
あらゆる樹林を侵食し、自らの根を広く根付かせ続けてきた竹林が周辺を囲う、小さな草庵を仮の居と構えたのは、さて、いつの事であっただろうか。そもそもそれを記憶に置いておくような柄でもなし、あるいはそのような事など他愛のないいきさつなのかもしれない。
ともかくも、部屋数こそ少ないものの、四季それぞれの趣を見事に表現してみせる庭を構えたこの庵に、神羅はひとり心静かに過ごすため時折ふらりと立ち寄っているのだ。
三味線の音が止んだのをようやく知ったのか、そこかしこから遠慮がちに鳴く虫の声が響きだした。
その虫たちの唄に呼ばれたものか、風もまた再び竹林を揺らす。
ひやりと冷えた板張りの縁側に身を横たえる神羅の身を、気遣うように優しく夜風がふわりと撫でて過ぎた。
「――心地良い夜じゃな」
独りごち、神羅は横たわったまま再び徳利の中身を盃へ注ぎ足す。
甘い、極上の蜜を思わせるような蠱惑的な香が神羅の鼻先をかすめ、次いで夜の風に乗って辺り一面に広がっていった。
神羅は盃を口に運びながら、ついと視線を頭の向こうへと寄せた。そこには火を点していない行灯が置いてある。神羅が視線を寄せてふと小さな息を送ると、行灯は小さな揺らぎを見せた後に青白い炎をぽつりと点した。
「これ、そなたたち」
盃を下ろし、神羅はふと闇に向けて声をかけた。
闇の中には空より降り来た青白く明滅する瞬きが数個ばかり飛んでいる。間近に見れば、やはりそれは蛍のそれに似ている。が、蛍に比べ握り拳ほどの大きさをもつそれは、やはり蛍とは逸したものなのだろう。
ひらひらと手を泳がせて、神羅は闇に染まらぬ赤い眼をするりと緩め笑みを浮かべた。
「そなたたち、あちらに行かずともよいのか? かような場で寄り道などしておったなら、いずこからか鬼が顔を出し、そなたらを喰らってしまうやもしれぬぞ」
おどけたようにそう言いながら、口角を歪めあげて喉を鳴らす。
神羅の言に気圧されたのか、青白く光るそれらはふるりと身を震わせた後、再び尾を引いて上空へと昇り、西を目指して流れていった。
見るともなく行方を追って空を仰げば、そこにはいつしか雲を脱した月が煌々とした輝きを放っているのが知れた。
目を細め、神羅は夜の空に青白い線を引く青白い瞬きを仰ぎ見る。
蛍のごとくにも見えるあれは、地の理を離れ、これより彼岸へと渉る人間たちの魂魄なのだ。
西の果てにあるのは此岸から彼岸へと渉るための境界。彼らは皆一様にそれを目指して永い旅路に着いている。
神羅が身を休める草庵は、現世と幽界との狭間に位置している。いわばそのどちらにも組しない、『存在し得ない』場所となるのだ。
だが、そこは確と存在している。少なくとも、神羅にとっては。
一風変わった天の川を仰ぎ見た後に、神羅は再び徳利に手を伸べた。
身に纏う絞りの浴衣が夜風に小さくはためく。
竹林が大きくざわめいて、夜露がはらりと地に注ぎ落とされた。庭に落ちた滴の幾つかが偶然にそれを成したのだろうか。音石が奏でる音色が夜風を伝い静寂を揺らす。
虫や蛙が描く唄と、不思議とそれらに合わせ鳴り響いているかのような音石の音色が、奇妙な、しかし喩え様のない流麗な旋律を紡いでいた。
神羅は愉しげに眦を細めて盃を干し、改めて徳利の中身を注ぎ足す。
行灯によってぼうやりと照らされた盃に揺れる美酒は、――あるいは美酒なのであろうはずのそれは、さらりとした赤黒い液体だった。
神羅はそれを満悦そうに微笑みながら一息に干す。間を置かずに徳利に手を伸べる。
行灯の内で瞬く青白い光が、盃から目を逸らすようにして明るさをわずかに暗く沈めた。
季節は盛夏を過ぎ、まさに丑三つ時と呼ぶに相応しかろうと思しき刻ともなれば、吹く風も耳に触れる唄も、もはや早秋のそれとなっている。
高く架かる月は未だ望月に足らず、触れればちくりと射抜きそうな切先を思わせた。
雫石が奏でる音色に目を伏せる。
それはまるで琵琶の音に似て、早秋の夜長を一層侘しく彩っていく。
伏せていた睫毛をゆっくりと持ち上げ、夜空を渉る魂魄たちの行方を追う。
魂魄たちが描く川は、じきに終息を迎えそうだった。最後尾を流れるそれが、他のものよりも一層淡い光を放っていた。
神羅はゆったりと口角を吊り上げて笑みを浮かべ、それから視線をふと眼前の徳利へと向ける。
徳利は、かつてとある知己より中身ごと譲り受けたもの。
見るからに年代物であると知れるそれは、朱塗りの盃に対し、ひどく華やかな装飾がなされてあった。
譲り受けたばかりの頃、徳利の華やかな見目を検めて、神羅はわずかばかり怪訝な面を浮かべたものだ。
よもや、華美な細工のなされたそれを他ならぬ自分自身が愛でる立場になろうとは、想像だにしていなかったのだ。
が、知己は神羅が見せた面に明朗な笑みを浮かべて告げたのだ。四の五の言わずに中身を検めてみよ、と。
かくして口に運んだそれは、いかなる美酒にも劣らぬ――否、いかなる美酒ですら足下にも及ばぬような、芳醇たる甘露だった。
琵琶の音に合わせ、虫たちが密やかに唄っている。
仰ぐ空には闇の一色きりが広がっていた。月は再び雲間に隠されてしまったようだ。
神羅は徳利の中身を盃に注ぎ、静かに身を起こして口に運んだ。
「久方振りの味、やはり美味じゃの」
ごち、唇を湿らせたそれを舌先で掬い取る。
刹那浮かべた鬼女としての本性を、夜風も虫も雫も行灯の火も、全てが気付かない振りで目を逸らして過ぎていった。
Thank you very much .
Let's meet you by somewhere again.
2007 7 17
MR
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