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数日続いた水無月の雨は、夕べの遅い時間に止んでいたようだ。
寝不足の目に、瑞々しく広がる初夏の蒼天は沁みるほどに眩く輝いている。
弧呂丸は片手を目の上に翳して重々しげに空を仰ぎ、次いでこの数日で幾度落としたのかもしれぬため息を吐いた。
数ヶ月前の春先、弧呂丸は双児の兄・燎に向けて最悪の刃を剥いた。弧呂丸にとりかけがえのない、世界に唯一無二の存在である燎に、弧呂丸は言葉の刃を向けてしまったのだ。
――私の前から姿を消せ。
「……燎」
小さな息を吐き出しながら、障子窓の向こうに広がる緑豊かな庭の景色に目を向ける。
春先を彩る桜も藤も全てが今や枯れ落ちている。紫陽花ももうじき見頃を終えるのだろう。やがて朝顔や向日葵が盛夏の太陽を誇らしげに仰ぐ季節を迎える。
梅雨明けは未だ宣言こそされてはいないものの、それでもこれほどまでに晴れ渡った空を見れば、それももはや夕べの内に過ぎてしまったのではないかという気持ちをさえ抱く。
この数ヶ月、弧呂丸は燎との一切の接触を持たずに過ごした。
これまで、これだけの時間を燎の顔を見ず、あるいはその声を聴かずにいた事があっただろうか。――おそらく、少なくとも弧呂丸の記憶に頼る限りでは、これだけの期間に横顔をすら見ずにいたのは初めての事であったはずだ。
開いた窓から流れ入る風に前髪を吹かれながら、弧呂丸は脇に置いた携帯電話に目を落とす。
発信履歴には燎の名前が表示される。が、着信履歴に燎の名前は確認できない。あったとしても、それは共に桜を見に行った日よりも以前のものであって、近日のものはひとつでさえ確認できないのだ。
燎がオーナーを務めていたNEXUSでアルバイトとして働いていた少年から電話がきたのは、燎との一方的な決裂をした日から数えて数日ほど経った日の事だった。
決裂をした後、数えて二日ほどは弧呂丸も機嫌を悪くしていたためか、燎の行方を案じたりするような事も特にはなかった。
もとより、燎が弧呂丸の前から姿を消し、行方をくらましてしまうなど、まるで想像だにしていない事でもあった。漠然とした不安はそれと抱きながらも、それでも心のどこかでは決してありえない事だと信じてもいた。
例えどんな展開を迎えたとしても、燎と自分は決して離れる事はないのだと。
しかし、それはその一本の電話をきっかけにして、確信から虚像へと変じてしまった。
◇
オーナーがどこに居るか知りませんか?
アルバイトの少年はひどく困惑した声でそう言った。
何の事かと訊き返した弧呂丸に、少年は迷った素振りを漂わせつつも口を言を継げた。
――オーナーが、つまりは燎が、ある日の夜、急に店を畳むと連絡をしてきた事。翌日には全ての従業員に過剰な給与が支払われ、それきりぱたりと連絡が取れなくなった事。
一連の流れは弧呂丸が燎に向けて言葉の刃を振るった、まさにその夜から翌日にかけての事であったようだ。
店の経営は安泰だったはずなのに、どうして。
少年は重たげな声でそう告げて、最後に弧呂丸に丁寧な挨拶を述べた後に電話を切った。
電話を切ったその直後、弧呂丸は弾かれたように走り出した。
まるで夢を見ているかのように、足がもつれ、板張りの廊下の上で無様に転げ膝をつく。同時に小さな痛みが膝から下を巡ったようにも思えたが、構わずに再び走った。
気がつけば弧呂丸はNEXUSの前にいて、ただぼうやりとそこに立っていた。
NEXUSがあったはずの場所にはがらんとした空間ばかりが広がっている。ドアには店舗募集の貼り紙がなされ、ビルの持ち主に確認しても、やはり急に店を畳む事にしたからという一方的な申し出を受けたという証言しか得られなかった。
店に来る途中で燎の部屋に立ち寄った弧呂丸を迎えたのは住人のいなくなった空き室で、ちょうど業者がハウスクリーニングのために訪れていたところだった。
大きな家具や電化製品のほとんどの処分を業者に委託し、必要なもののみを携えての、急な退室だったという。
念のためと特別に部屋の中に入れてもらったものの、そこにはやはりがらんと広がる空間ばかりがあり、つい先日まで寝起きしていたはずの燎に係わるものは何一つ――気配ですらも残されてはいなかった。
決して、
いなくなる事など、決してありはしない事だったはずだ。
燎の気配が喪失していた事を今さらにように知って、弧呂丸はゆっくりと、無意識に髪をかきむしる。
桜が散ったのはつい先頃の事。季節はまだ春と呼ぶに相応しく、街路樹の淡い緑がやわらかな陽光を浴びて揺れていた。
その後も、弧呂丸は何度も燎のアパートと店とを行き来した。燎が立ち寄りそうな店にも幾度となく足を運び、店員や常連客からの証言を聞き、当て所もなく燎の行方を追い続けた。
ゆうに一晩はそうしてさまよっただろうか。
夜の空気にあてられてか、弧呂丸はいつしか街中で倒れていたらしい。気がつけば病室のベッドの上で横たわり、目を開けて一番に飛び込んだのは顔も名前も知らない看護婦だった。
「……燎は」
思わず呟いた弧呂丸に、看護婦はゆったりとした笑みを浮かべつつも首をかしげた。
「あなたを見つけてくださった方なら、もうご自宅に戻られましたよ」
「燎が……!?」
「? いいえ。自宅の前に行き倒れた方がいらっしゃると、一人暮らしの年配の方がお報せくださって」
「……年配の」
「ええ。連絡先はお教えいただいておりますし、よろしければ後でお渡ししましょうか?」
言って笑った看護婦に、弧呂丸はやはり呆然としたままうなずいた。
――燎ではなかった
弧呂丸が倒れた時、真っ先に駆けつけてくれるのは燎の他にはいないだろうと信じていた。
どこかで、病院に運んでくれたのは燎なのではないかと、そう思った。いや、そう信じたかった。
だが、数分後に手渡された連絡先は、弧呂丸のあずかり知らぬ他人のものだった。
ベッドの上、名前も顔も知らないその相手の住所に目を落とした瞬間、全身を強い喪失感が巡った。
身体の半分をそのまま失くしたような、
発するべき声を喪失したような、
――帰すべき場所を喪失したような
ゆっくりと両腕を持ち上げて髪を大きくかきむしる。
爪が頭の皮膚を傷つけ、細かな血が飛び散った。
異変に気付いたのは同室のベッドに横たわっていた若い男で、彼は弧呂丸の行為に異常を感じてナースコールを押した。その後にすぐさま弧呂丸の腕を押さえ、直後に駆けつけた看護婦がきびすを返して助けを請いに走る。
指先に、衣服に、そうして真白なシーツに飛び散った鮮血が斑な模様を描いている。
腕を押さえる男の顔を仰ぎ、弧呂丸はわけも分からずに咆哮した。
「触るな、さわるな……! あ、あ、ああぁぁ!!」
◇
安定剤を投与されつつ一晩を病院で過ごし、迎えに来た親戚筋の老人に連れられて家に帰宅を果たしたものの、弧呂丸は呆然自失としたまま、数日を自室の中だけで過ごす事となった。
障子の向こうに広がる風景を眺め、日に日に季節が移り変わっていくのをぼうやりとした頭の片隅で知覚する。
身を横たえてもわずかにうつらうつらとするだけで、深い眠りの底に委ねる事も出来ない。
たまに深く眠りに陥ると、きまって悪い夢を見る。そうして全身に滝のような汗を滲ませて跳ね起きる事になるのだ。
夢を見れば、そのたびに改めて思い知る。――燎を喪失してしまった現実を。
そうして、気落ちしたままだった弧呂丸の事を果たしてどこで聞きつけたのか、ある日、燎との共通の友人でもある少年ふたりが見舞いと称し訪れた。
彼らはまるで対照的な物言いで励ましの言葉を口にし、燎を捜すのを手伝うと申し出た。
それが、藤ももう散り終わった頃の事だったか。少なくとも陽射しが春のそれから初夏のものへと変じ始めた季節の事だったはずだ。
彼らの助けを借り、式神を方々に向けて飛ばした。異能を用いた捜索をし、あらゆる情報網を行使して燎の行方を追う。
弧呂丸の燎への執着は、周囲からすればもはや半ば常軌を逸したものに見えたかもしれない。しかし周りの目など一向に構わずに、弧呂丸はただひたすらに燎の行方だけを求め続けたのだった。
季節は移り、雨の季節となり、それをも過ぎて夏を迎えた。
どれほどの手段を用いても、燎の行方はおろか、――生死に係わる情報ですら、なにひとつとして得られないままだった。
◇
「しかし、大丈夫なのか、弧呂丸は」
客間に通されるなり我が物顔でソファに腰を落としたのは、高峯家の近しい血縁である壮年の男だ。
弧呂丸が――高峯当主が家業として勤めている諸々の裏表を把握し、それのマネージメントと称しては何かにつけて口を挟み、次いでに金銭を持っていく。
男は向かい合った弧呂丸の顔を覗きこむようにして身を前に出し、出された手拭で首の汗を拭いながら品のない笑みをみせた。
「また痩せたんじゃないのか」
言いながら脂ぎった手で弧呂丸の細いあごを掴む。
弧呂丸は男の手を払いながら「少し」と応え、あとは大儀そうに顔を伏せた。
実際、燎を捜索しながら、一方で家業を怠るわけにもいかない身に、この数ヶ月で降り積もった疲労が何重にも重なり乗り上げている。まして睡眠を充分にとる事もできず、何よりも大切な半身を喪失してしまった、――そのきっかけを自らが作ってしまった、その事への深い後悔が胸を抉る。
男は弧呂丸の対応をせせら笑いながら冷茶を干した。
「いや、しかし良かったじゃないか」
言われ、弧呂丸はゆるゆると目を持ち上げる。
男は弧呂丸に気を配る事もせずに揚々と言を続けた。
「厄介者がようやくいなくなったじゃないか。――完全に消えたんだろう? 消息は杳として知れんというじゃないか」
「……厄介者」
「ああ、そうだ。おまえもこれで肩の荷がおりただろう。あいつは昔っから高峯に泥を塗っていたしな。それでも最後には潔く消えてくれたんだ、有終の美ってやつだな」
「有……終」
「生死も分からんのだろう? まあ生きていたにしろ、いずれどこぞで勝手に呪いに喰われて死んでくれるだろう」
からからと笑う男を見据え、弧呂丸は半ば呆然としたままで問い掛けた。
「それは、……燎の事ですか」
「それ以外に誰がいるっていうんだ。まったく、つくづくといい気味だな」
男は、今度は隠しもせずにからからと笑い、――そして次の瞬間、他ならぬ弧呂丸に喉を掴まれて息を詰まらせた。
何より、眼前にいる弧呂丸の面に浮かぶ表情に、男は顔面を蒼白とさせる。
研ぎ澄まされた刃の切先を思わせる、冷徹で、一片の感情すら篭らぬ眼光。
身じろぐだけで射殺されてしまいそうな、
――それはまさに、狂気を秘めたものだった。
「それ以上、その汚れた口で燎の名を口にするな」
低く落とす。
男は息も出来ず、そして弧呂丸の目から視線を逸らす事も出来ずにいる。
「これ以上、燎の事を愚弄すれば貴様の命はないと思え」
言い捨て、掴んでいた手を離す。
恐怖から解放された男は大きくむせながら、恐怖で満たした眼差しを弧呂丸に向けている。
弧呂丸は男を睨みつけるように一瞥し、そしてそのまま乱雑に客間を後にした。
→ continues
MR
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