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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


enharmonic



 ――ママ、ママ、いかないで、ママ




 ◇


「あァ、すみません。私はアイスコーヒーを。それと、ええーっと、アナタはどうしまス?」
 訊ねられ、七重は視線を重たげに移ろわせた。
 都心部にある小さな喫茶店、その一番奥側のテーブル席に腰掛けているのは尾神七重とデリク・オーロフのふたり。
 七重はデリクの声に視線を持ち上げて、テーブルの前で待機していたウェイトレスを見据えて小さな瞬きをした。
「僕はアイスティーをお願いします」
 手持ち無沙汰気味に佇んでいた女性にそう告げて小さな会釈をする。ウェイトレスがオーダーを繰り返し確認して立ち去ったのを見送って、七重は再び視線を右隣に広がるガラス窓に向けた。
 季節は夏を迎えた。気付けば梅雨もとうに過ぎていて、街には盛夏の陽射しが降り注いでいる。
 アスファルトに照り返す容赦ない夏の太陽に眉をしかめながら道行く人の波を見つめていた七重を、やんわりとした声音でデリクが呼んだ。
「ここのところ、ずいぶんとお身体の調子が芳しくないと聞いていマスが」
 両手を組んでその上にアゴを乗せ、柔和な面持ちを満面に湛えてデリクが告げる。
 群青色の眸は小さなテーブルひとつ挟んだ向かい席に座る七重を真っ直ぐに捉えていた。
 七重はデリクの言に小さく肩を震わせて、けれども表情ひとつ歪める事なくうなずく。
 しかし、視線は未だにデリクを捉えずにいる。何をも映していない空虚な眼光の中、暑さにも負けず明朗と歩く人混みが影を落としていた。
「ここしばらく暑い日が続いていますから」
 独り言のようにそう呟いた七重に、デリクはわざとらしいほどの動きで首をすくめる。
「調子が悪いところお呼び立てしてしまって、申し訳ないデス」
「……いえ」
「本来ならば私が七重サンのお宅まで足を運ぶべきなのでしょうガ」
「今日はだいぶ調子いいですし、デリクさんにご心配いただくほどではありませんから」
 返してふつりと視線を窓からテーブルへと向けた。デリクは「そうデスか?」と微笑んだだけ。おりしもトレイを運び持ってきたウェイトレスに華やかな笑みを返し、軽い労いの声をかけていた。
「そうですカ?」
 アイスコーヒーにストローをさしいれながら低い笑みを落とし、デリクはふと身を前屈みにして声を潜めた。
「ところデ、本題に移らせていただいてもよろしいデスかネ?」
 深い、底の知れぬ水底を彷彿とさせる眸をゆらりと細め、デリクはつと七重の細い手首を掴む。
 弾かれたように顔をあげてデリクの目を覗き見た七重は、わずかに身を震わせた後に小さく息を呑んだ。
 眼前、すぐ間近な位置にあるデリクが不穏気味に微笑んでいる。それを覗き見てしまったが最後、おそらくはもう二度と視線を逸らす事など出来ないだろう。
「……どのようなご用件でしょう」
 せめても、わざとらしいほどに素っ気ない物言いで応える。
 デリクは満足そうにうなずいてから手を離し、再びアイスコーヒーの入ったグラスをいじりながら口を開けた。
「雑談をしようかト」
「ご冗談を」
 ため息がてら吐き出した七重の言は、七重という人物を知る者ならばひどく驚くであろう程に尖ったものとなった。
 突き放すようなその物言いに、しかしデリクは怯むどころかむしろ楽しげに口角を吊り上げる。ゆったりと、再び両手を組んでアゴを乗せた。
「ねえ、七重サン。アナタはもう知っているハズです」
「……」
 紡がれた言葉から気を逸らそうとするかのように、七重はふとグラスにストローを立ててかき回す。四角い氷がからからと心地良い音を響かせた。
「私もネ、随分と調べさせていただきましタ。もちろん、失礼なのは承知の上でス。――七重サン、アナタのお家……尾神の一族は”力”を得るため、あらゆる異種族婚を繰り返してキタ。――そうですよネ?」
 気を逸らそうとする七重を留めるため、デリクは間を置かずに続きを継げた。
 果たして、七重はデリクの言葉から意識を逸らす事が出来ず、しばし視線を所在なさげに移ろわせた後に再びデリクをねめつけた。
「……どこからお調べになられたのかは分かりませんが……」
「もちろん、それに関しては黙秘権を行使しマス」
 悪びれずに微笑むデリクに七重は唇を噛む。
「七重サン、悪い事は言わない。これは私からの善意によるアドバイスでス」
 言いながら両手をテーブルに落とし、デリクは柔らかく真っ直ぐな視線で七重を捉えた。
「このままだと、遠くないうちにアナタは短い一生を終えるコトになる。……けれど、もし。現実の境界を越えて闇の異界へ踏み出すならバ。……闇の住人になるコトを選べバ。今よりずぅっと、永く生きられるのですヨ。……尾神七重サン?」
 デリクがそう言い終えるのと同時に、七重はそれまでは辛うじて毅然と持ち上げていた眼光を突然に閉ざし、かたく睫毛を伏せて俯いた。
 ――本当ならば、耳をも塞ぎデリクの声が届かないようにしてしまいたい。
 けれど、七重は辛うじてそれだけはしないようにと努める。
 デリクは身を縮め、海底の貝のように身を縮めてしまった眼前の少年を見据え、心中だけで小さな息を吐く。
「尾神という家の業を調べれば調べるほどに謎と暗闇とに満ちていマス。……なぜアナタがヒトの姿を保っていられるのか。そちらの方が不思議に思えてくるほどニネ」
「僕は……!」
 弾かれたように顔をあげた七重に、デリクはただ淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「最近特にお身体の調子が悪いようですネ。……ご自分の事は、七重サン、アナタ自身が一番良く分かっているのでハ?」
「……」
 返す言葉に詰まり、七重はふいに視線をグラスに向けて目を細ませた。
「……あなたがそんな事を言うのは、決して善意からではありませんよね」
 ふつりと口を開けて応えた七重の声に、デリクは小さく片眉を跳ね上げて口を噤む。
 七重は睫毛を伏せたまま、消え入りそうな声音で言の先を続けた。
「あなたの狙いは……。あなたの望みは、僕が向こうに渡る事で得られるであろう力を利用する事にあるのでしょう? ……デリク・オーロフさん」
 言って、七重は不意に伏せていた眼をデリクの面に向けた。
 デリクの面は薄い笑みを滲ませたままとなっていたが、七重の言に、ほんのわずかな綻びが生じ始めてもいる。
「あなたは世界をひとつ揺るがせる程の……扉をひとつ開くほどの力を望んでいるだけ。……あなたは」
「七重サン」
 デリクの低い声が七重を呼ぶ。
 それは七重の言葉を先を禁ずる意味を持ったものだったのだが、七重は構わずに続きを告げた。
「あなたは扉の向こうへ消えた母親を追いかけたいんだ」
「七重サン!」
 椅子が派手な音と共に転がる。
 デリクは両手をテーブルに叩きつけるようにして立ち上がり、七重の顔を睨むように見つめた。
 グラスが倒れ、テーブルの上をかたかたと転がって落下した。大きな音を立てて床に叩きつけられたグラスが崩壊し、店内には水を打ったような静寂ばかりが広がる。
 七重は、ひどく落ち着き払った様子でデリクの顔を仰ぎ見ていた。
「……そうですよね、デリクさん」


 ◇


 思えばそれは、初めから仕組まれていた罠だったのだろう。
 闇の異界へと通じる忌々しいその門は、開かれたが最後、内側からしか――すなわち向こう側から閉じなくてはならない仕様となっていたのだ。
 バチカン――カトリックの総本山として知られる聖地で内々に行われた、とある忌むべき試み。
 その目的は、言わば単純身勝手と称しても過言ではないだろうもののために掲げられていた。
 魔術の強化や異界の力を統べるのを目的のひとつともしていたそれは、バチカンの上層部、ごく一部にのみ知られていたものだった。
 試みは、しかし、最悪の結果をのみ引き起こした。――異界のそれは、およそ人間などに統べる事の出来るようなものではなかったのだ。
 結果、生じたのは一方的な殺戮劇だった。バチカンの上層部はむろんの事、街中にも甚大な爪痕が残された。多くの人間達が理由の何たるかを知る事もなく命を落とし、遂にはそれを終わらせるための殉職者が選ばれるはこびとなったのだ。
 尊い殉職者として選ばれたのはデリクの母親だった。
 彫像の女神のように美しい見目を持ち、さらには強大な異能をも保持していた、気高く優しい母。その母親が体のいい贄として異界側に廻されるはこびとなった時、デリクはまだ稚い子供だった。
 母は凛とした姿勢で門の向こう側に立ち、幼い我が子にいつも通りの言葉をかけて、落涙する事もなく門を閉じたのだ。
 ――ママ、いかないで、ママ、ママ!
 デリクは母親を追いかけて門を潜りかけ、しかし周りの抑止を受けてそれも適わず、狂気の内に母の消えてゆくのを見送った。
 絶叫、抑制の怒声、母の穏やかな微笑み。
 デリクの小さな腕が母の袖を掴みかけ、眩い光彩の中に捲かれた。
 扉は閉ざされ、デリクの腕はその門の隙間に挟み込まれて大きく歪む。鮮血を噴き微塵に崩壊していく腕と、小さな身体をくまなく巡る激痛。
 それをも上回るほどの絶望。母親を眼前で喪失した事に対する、深い、深い、暗黒に閉ざされた心。
 喪失した腕は、門が光彩の内に失せていくのと同時、刹那の内に再構築された。そこには疵ひとつ、痛みひとつ残されていない状態の腕があった。
 ――いや、惨劇の痕跡は、しかとして残された。
 それは


 ◇


 両掌に刻まれた痣を重ね、デリクは冷静さを取り戻すようにして深く息を吐く。
 店員が新たに運んできたグラスを受け取って丁寧な礼を述べ、デリクは再び椅子に腰掛けて七重を見据えた。
 七重の暗紅色の眼光が感情の波ひとつ立てずにデリクを見ている。
「失礼しましタ」
「……いいえ」
 間を置かずに返された七重の声に苦笑して、デリクはアイスコーヒーを口にする。
「さて、どこからそんな話を聞いたのかハ、やはり教えてはくれませんよネ?」
「黙秘権を行使します」
「ハハハハ、そりゃそうですよネ」
 うっそりとした眼差しでデリクを見る七重に、デリクは柔らかな笑みを浮べつつ、眼光の奥にわずかな敵意をも剥き出しにして七重に対峙した。
「何を聞いたのか知りませんが、さてどうでしょウ。私は望んでもそのような力を得ることはできまセン」
「門を開く力ですか」
「エエ」

 どれほどに高位な術を行使出来る能力者であっても、門を開く事の出来る者は極めて少ない。それは空間を歪めるものであり、あらゆる理を外れた位置にある者にしか適わない行為だからだ。
 逆を言えば、それを閉じる事が出来るのもまた然りであったのかもしれない。それほどに強大な力を保有していたからこそ、デリクの母は異界へと追いやられてしまったのかもしれないのだ。
 ――しかし、いずれにせよ。

「私はまったく普通のニンゲンなのですヨ。両掌の合鍵を使って世界の狭間を覗くコトしかできない、アナタとは比べるべくもないほどにネ」
 言って皮肉めいた笑みを頬に浮かべたデリクに、七重はようやく視線を細めて表情を崩した。
「……うらやましいのですか、僕が」
 返した言葉は、七重にとり、精一杯の抵抗でもあった。
 
 デリクが何を言おうとしているのか。――それは言われるまでもなく、七重自身が誰よりもよく理解しているものだ。
 七重はふと目を伏せかけて、しかし懸命にそれを持ち上げてデリクの渋面を見つめた。
 デリクは七重の、どこか決意をこめたような眼光を覗き込みながら口角を歪める。
「……選択の時が近付いていマス」


 ◇


 いかないで、いかないで、お母さん


 夢の中、幾度となく繰り返した叫び。
 果てのない闇の中、七重と”母”との距離は一向に縮まる事はない。その顔ですらろくに覗き見る事の出来ないままに、どこまでもどこまでも追いかける。
 いかないで、僕と一緒にいてよ、お母さん……!


 ◇


 目を瞬かせ、その刹那の間にごく短い夢を見たような心地を覚えた。
 七重はデリクの顔を真っ直ぐに見つめ、デリクの言葉に対して言を告げる。

 異界に渡る。
 それが意味しているのは、つまりは尾神七重の死だ。この世から七重が失われ、代わりに強靭な力が生み出される。
 むろん、自分の命がほどなく尽きるであろう事も、自分自身が一番強く理解してもいる。
 
「その瞬間がきても、僕は……きっと後悔しない」
 吐き出したそれは力強い決意の表れだった。
 迷いなくデリクの目を見つめ返し、それきり七重は再び口を閉ざした。
「そうですカ」
 デリクは一言だけそう返し、グラスに立てたストローの先を弄びながら微笑む。

 店の中を、静かにピアノの音色が渡っていく。
 ガラス窓の向こうには盛夏に茹だる街の風景が広がっている。
 太陽は未だ空の高い位置にあった。

 



  
Much gratitude
May I can meet you by somewhere, if it can do



2007 7 30
MR