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その日の黒猫亭
1.
「……何処だ、ここ」
また妙な路地に入りこんだみたいだなと思いながら慎霰はその通りをしばらくうろうろしてみることにした。
深夜に近くてはこの辺りも流石に店を閉めているところが多いのか目に入る明かりは少ない。というよりも店自体があまり見当たらないというほうが正しいのかもしれない。
「なんか、変な場所だな」
そう思いながら尚も歩を進めていた慎霰だが、目ぼしい店も見つからずいい加減飽きてきた。
ここはひとつ空でも飛んでさっさと帰ってしまおうかと思ったとき、それを引き止めるようにひとつの明かりが慎霰の視界に入った。
(あんなところに、さっき店なんてあったか?)
そうは思ったものの、好奇心もあり近付いてみると随分と古びた店だった。
いったいいつから此処に存在しているのか外見を見てもまったく慎霰にはわからない。とりあえず妙に古い店だということだけがわかる。
店の名前を見ようと覗いてみると『黒猫亭』となんとか読める達者すぎる字が目に入った。
そうっと入り口の扉を押してみるが閉店中なのか開く気配はない。
ちぇ、と舌打ちをしそうになったとき、ふと思いついて裏口のほうへと回ってみる。
入り口が閉じてあったとしても、店の中に明かりが入っていたということは、いま店主は用があって外出しているだけなのだろう。
店主がいれば、そこには食べるものがあるはずだ。
と、思った途端慎霰は腹の虫が鳴った音を聞いた気がした。
裏口らしい入り口が目に止まれ、今度は店内に誰か残っているかもしれないので(しかし扉が閉じていたのだからおそらくは店主ひとりのはずだ)中の者にばれないよう慎重に扉を開……こうとしたそれは意外にもあっさりと開いてしまい、慎霰には少々拍子抜けだった。
しかし、誰にもばれず入れたのだから良しとしておかなければならないだろう。
どうやら、此処は店の食料などと置いておく倉庫のようだが、見た限り酒の瓶や樽はいくらでも目につくが食べものらしいものが見当たらない。
酒では腹は膨れないと落胆しそうになったとき、良い匂いが慎霰の鼻を掠めた。
どうやらこの薄い扉を隔てたすぐ先にその匂いの元があるようだ。
そっと部屋の様子を窺うが、人の気配はない。どうやら店主が出かけていて留守のようだ。
「お邪魔しますよー……っと」
からかい混じりにそんなことを言いながら店内に入り、匂いの元を探そうとした慎霰だが、それもあっさりと見つかった。
匂いの元は店の隅にあるテーブル席のひとつ。
置いてあったのは昔の洋食屋で見かけるようなハンバーグステーキやレトロなバターケーキ、飲み物は生憎見つからなかったが、慎霰の食欲を刺激するには十分だった。
見つかる前に逃げれば良いかと慎霰はまず始めにハンバーグに手を付けた。
「うめぇっ」
つい、そんな声を出してしまってから慌てて周囲を見渡すが、店主が戻ってくる様子はない。
それだけその料理がお気に召したということなのだが、盗み食いのつもりだったはずがいつの間にかしっかりその料理を平らげてしまっていた。
バターケーキもしつこさがなく男の慎霰でも問題なく食べられるもので、そちらもやはりうまいうまいと言いながら綺麗に皿の上に置かれたものを片付けた。
「あー、うまかったー」
すっかり入り込んだことも盗み食いをしていたということも失念してしまっている慎霰は十分満たされた腹に満足そうにそう言ってから、でもなぁと言葉を続けた。
「やっぱり甘いもん食べた後はなんか飲みてぇな」
「……それならこれは如何かな?」
すっと横から差し出されたカップにつられて、つい「あ、どうも」と受け取ってから慎霰は何かに気付いたように差し出されたほうにおそるおそる目を向けた。
黒尽くめの服を着た意地の悪そうな笑みを浮かべた男がそこにはひとりいた。
2.
「飲まないのかい?」
言われたことが最初何のことかわからなかったが、先程差し出されたカップのことだと気付き、ややむっとしながらもその中身を飲み干した。
「なんだ、これ? 紅茶か?」
「ケーキにはぴったりだろう?」
からかっているような口調でそう言った男にかちんときたらしい慎霰は乱暴にカップをテーブルに置いた。
「おまえ、誰だ」
「それは本来なら僕がする質問だね。表の扉は閉じていたのに入ってきてそこにあったものを勝手に食べるというのは盗み食いと言われるんじゃないかな?」
くつりと男は笑った。やはりあまり好感の持てるタイプの笑みではない。
しかし勝手に入ってきたことと何より盗み食いは事実なので反論の余地などなく、慎霰はふて腐れたように男のほうを見た。
「警察に突き出すのか?」
「そんなことはしないよ。キミは店にあったものを食べただけだ。それ以外のものを盗んだというのなら問題だが、此処は食べたいものが食べるものしか置いていない店でね。あれだってキミのために用意されていたんだぜ」
男の言葉に慎霰は「はぁ?」ときょとんとした顔のまま聞き返してしまったが、男はそれ以上その件に関して説明する気はないらしく、くつりとまた笑った。
「しかし、盗み食いは褒められる行為ではないことは確かだからね。そのまま放っておいたとなると僕がマスターに叱られてしまう」
「え? あんたが店主なんじゃないのか?」
てっきり男が店主なのかと思っていた慎霰はその言葉にまた呆気に取られるが、男はにやにや笑いながらその様子を眺めて楽しんでいる。
どうも気に食わない男だと思いながら慎霰は軽く睨みつけて男に聞いた。
「おまえ、俺に何をしろっていうんだよ」
「何、簡単だ。使ったものは元の場所へ。キミが使った食器なんだからキミがきちんと洗って元の場所へ片付けたまえ」
つまり、目の前にある皿やカップをきちんと洗って片付けろということかと了解した慎霰はそれくらいで許してもらえるならと首を縦に動かした。
しかし──
「ついでに、このこれら洗ってもらえると助かるんだがね」
「げっ! なんだよこの数!」
慎霰が思わずそう怒鳴ったのも無理はなく、いつの間にか洗い場にはおびただしいグラスが山と積まれている。
しかもいまの言い方ではこの男がどうやら使ったグラスのようだが、それにしても量が多すぎる。
「おまえ、店主がいないからっていつもこうして置きっぱなしにしてるのか」
「まさか。そんなことは普段はしないよ。片付けも店がきちんとしているさ。だから、これはキミの盗み食いをしたことに対する簡単なお咎めだよ」
頑張って終わらせることだねと笑いながら男が出ていくのを睨みつけた後、慎霰は少ない皿などの食器とそれ以上に多いグラスの山を見ながら大きく息を吐いてからそれらに挑むように睨み付けた。
「よぉーし、やってやろうじゃねぇか!」
そう言いながら半ば自棄のように、しかし店のものだからとできるだけ丁寧に洗いものを片付けていった。
3.
「お、終わった……」
自分が使った食器よりも男が残しておいたらしいグラスの数に参ってしまい、全てを洗い終えたときには慎霰はへとへとの状態で最初に食事を取ったテーブル席に座り込んだ。
「やぁ、お疲れ様。お陰で随分と綺麗になったよ」
そんな慎霰に男は相変わらずからかうような口調で話しかけ、しかもその手には新しいグラスが持たれている。
とことん人を馬鹿にした態度に、慎霰はしかし洗い疲れでいつものように怒鳴りつける気力もない。
と、いつの間にか慎霰の目の前にひとつの皿が置かれていた。何かと思えば先程慎霰が食べたものとは違うデザート、今度はきちんと紅茶も添えてある。
「こいつは?」
「きちんと洗ってもらったお礼さ。今度は洗わなくていいから遠慮せずに食べてやってくれないかな」
やはりからかい口調の男には少々気分の良いものではなかったが今度のムース状のデザートを口にした途端、慎霰はそんなことも忘れてしまった。
「うめぇ」
紅茶のほうもムースにぴったりのものを選んでもらえており、疲れもあったため慎霰は無言でムースと紅茶を口の中へと入れていった。
「うまかったぁ」
「それは何より」
あっという間にデザートを食べつくした慎霰の様子に、男は愉快そうにくつくつと笑った。
「今度来るときはきちんと入り口から入って食べ物も注文したほうが良いよ」
「おまえ、いちいち腹が立つ奴だな」
馬鹿にしたような口調に慎霰はそう言いながらテーブル席を立ち出口に向かった。
「おまえのことはともかく、この店の飯はうまかったからまた来てやってもいいぜ」
「店にとってはそれで十分さ。では、また縁があったときはよろしく。ああ、グラスも任せて悪かったね」
悪かったと思うならあんなに溜めるはずがないだろうと反論してもどうせまた腹が立つ返し方をされるだけだと口を噤み、今度はきちんとした扉から店を出た。
4.
出た途端、慎霰はそこに広がる光景に目を見開いた。
入る前は夜とはいえ、店の明かりなどほとんど見当たらないような路地にいたはずなのに、目の前には喧騒に満ちた繁華街が広がっている。
「どうなってるんだ……って、え?」
思わず後ろを振り返った慎霰は再び驚いた顔をしてそちらを眺めた。
いま、出てきたはずの店、黒猫亭の姿は掻き消えたようにそこにはなかった。
「……化かされたのか?」
そうであってもおかしくはない店だったが、それではしかたないと思おうとした慎霰の口の中にあの店で食べた料理や後者の味が蘇ってきた。
「ちきしょう、またあの飯が食いたいときはどうすりゃいいんだよ」
そう呼びかける相手もいないことをぼやいたとき、くしゃという感触が手の中にあるのに気付いた。
さっきまでは間違いなく持っていなかったはずのメモ用紙だ。持っていればすぐ気付くに決まっているし、仮に誰かが持たせたにしてもわからないはずがない。
じっと見たメモには、簡単にこう記されていた。
『訪れたいと思ったときに店の名前をどうぞ。あまり人目に付かないところのほうがよろしいかと』
そして、もう一筆だけ書き添えてあった言葉に慎霰はつい笑ってしまった。
『黒川様の無礼はお許しください。グラスの件、ありがとうございました』
どうやらこのメモを渡してきたのはあの黒尽くめの男(どうやら黒川というらしい)ではないらしい。
「まっ、これに免じてまた行ってやらぁ」
くしゃとメモを懐に入れ、慎霰はねぐらへと帰っていった。
了
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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1928 / 天波・慎霰 / 15歳 / 男性 / 天狗・高校生
NPC / 黒川夢人
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■ ライター通信 ■
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天波・慎霰様
この度は、当依頼にご参加いただき誠にありがとうございます。
黒猫亭へ忍び込んでの盗み食い、そして店の者に見つかってということでしたのでこのような形にさせていただきました。
警察に突き出すはおろかまともに説教をするような者もほとんどいない黒猫亭ですので、黒川にからかい半分で洗い物を押し付けられというものにさせていただきましたがお気に召していただけましたでしょうか。
補足としてひとつ、最後のメモを書いたのは店の主です。
またご縁がありましたときはよろしくお願いいたします。
蒼井敬 拝
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