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歪みの館
久しぶりに振った雨の日、大地は濡れに濡れていた。
人々はそれぞれの傘を持ち、天からの恵みで服が汚れぬようにと足早に道を急ぐ。晴れ渇きの日が続けば雨を乞い、こうして濡れる日が続けば早く太陽の顔が見たいと言う。わがままなものだ。
「――それは遠くて近い場所」
雑踏の中、デリクは目を閉じる。此処にあって此処にない、日常と非日常の境目に存在するあの館へと。
通り過ぎる人の気配を感じつつ、数秒。次に目を開けると、そこは歪みの館だった。
「これはこれはデリク様。いらっしゃいませ。またお会いできるとは……」
扉の前に現れた小さな執事は恭しく礼をし、嬉しそうにデリクを出迎えた。
「この館には縁があるヨウです。足の向くままニ招かれましタ」
ふふと笑い、定位置となったデリクの肩へひょいと乗る。
「誰もがこの館に足を踏み入れ、そして無事帰られるわけではございません。館が選び招かれた者だけを、正式な「お客様」として私がご案内するのです」
ならば招かれざるモノも中にはいるのかもしれない。そんな疑問を敢えて口には出さず、デリクは軋む扉を開けた。
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「人はパンのみで生きるのではない。出来た言葉ですな。しかし人はパンなしに生きられない。……今度は我が屋敷の調理場へご案内致しましょう」
玄関から右側の通路を進んで行く。廊下の角には赤い花が飾られ、華やかな色を添えている。どこからかぽたりぽたりと微かな水音が聞こえた。耳を澄ませ音のする方に青い目を向けてみると、ちょうど花の真上。天井の裂け目から滴り落ちる赤い液体が、蕾に落ち花弁を濡らしている。
「ココには世界に二つと無い歪みがある。歪んだ真珠のように、とても魅惑的デス」
ちらと赤い花を一瞥、デリクが呟く。
「過去には歪んだ真珠、バロック音楽なるものが流行った時期も。歪んだ真珠の旋律とは、なかなか心地良い響きではありませんか」
廊下の角を曲がりしばらく進むと良い匂いが空気に乗り流れてきた。がちゃがちゃと食器の触れ合う音、ぐつぐつと何かを煮込む鍋。清潔そうな白い服に高いコック帽、忙しそうに何人かの調理人が行き来している。
「……、……」
ちらと見えたのは盛り付けられた料理の山。バターや牛乳をたっぷり使ったもので、美味には美味だろうが好みが別れるところだ。調理場全体がそんな匂いに包まれていた為、中に入るのは少々躊躇われた。
「お前たち、デリク様のご到着だ。愛を込めた挨拶を」
デリクに対しては常に丁寧で静かな物言いをするトランプだが、下のモノに言うには声色が違う。厳かで幾分低い声が命じると、嵐のような調理場で全員が振り向いた。
「何だって? 客用黒羊の竜角煮込みと人魚の刺身はさっき食っちまったよ。困ったね。ええと、……とりあえず今行くよ」
料理長らしい人物はそう言うと、隣の男のエプロンで手を拭き進み出た。燃えるような赤い髪に金色の眼。長い髪を邪魔そうに掻き揚げ、コック帽を脱ぎ深く腰を折り挨拶を口に乗せる。
「ようこそ異端の集う境界線へ。愛と希望と絶望をもって、我ら心より歓迎いたします。……と、こんなところでいいだろ。堅苦しいのは得意じゃなくてね」
顔を上げ調理長が言う。身体こそ普通の人間だが、違う部位がいくつか見えた。髪の間から飛び出した猫のような耳、豹のような長い尻尾。肉食獣のような笑みをにやりと浮かべ、赤く覗かせた舌で唇の端を舐めている。
「接客はトランプ、あたしは捕まえ捌いて食えるものに料理する。豚をベーコンにするのが仕事ってわけさ。……まぁ座りな。久々の客らしい客だ。あたしが直々に腕を揮ってやろうじゃないか」
勧められるままにデリクは席につく。場の空気に流されているような気がしないでもないが、害がない限りは良いだろうと内心判じた。
「ありがとうございマス。では……」
食べたいもの。こってりした濃い味付けよりあっさりしたもの、宮廷料理よりは家庭料理。何を頼もうかと思っていると、ぴっと比し指し指を立てられる。
「待った! 客からオーダーを取るなんてまさか、このあたしがすると思ってんのかい。そこらの四流と一緒にされちゃー困る。ん、んー……」
突然料理長がじっと顔を覗き込んでくる。金色の眼が獣じみた殺気を宿し、すっと細められる。この程度で怯えるデリクではなかったが、他人に間近で覗き込まれるのは良い気分がしない。肩に乗っていたトランプをテーブルの上に降ろし、仮面代わりの笑みを薄く浮かべ応じた。
「……どーも。すぐ持ってくるからね」
時間にしてほんの数秒だろう。やけに永く感じられた沈黙が終わり、密やかにデリクは息を吐き出す。
「大丈夫でしたか。申し訳ありません。あの娘、未だに悪癖が抜けぬようで」
「構いませんヨ。別に何もされませんでしたカラ」
「はーい。お待たせ」
時計の長い針が零から十五辺りに滑る頃、赤髪を揺らし料理長が皿を運んできた。
茄子やトマト、香草とベーコンを使った夏野菜胡麻味噌掛け。蟹豆腐と練り物の清汁。鮪、平目、貝三種の刺身に鱸昆布〆。南瓜と豚の煮物。秋刀魚の塩焼き檸檬添え。止椀替わりに冷たい梅蕎麦、高菜と鮭の焼きおにぎり。デザートには果物と寒天と和えた水菓子で、細く黒蜜が掛けられていた。どれも取れたての素材を使っており、程よい薄味で素材の味を引き出している。
「デリク様はこういう感じよりも、贅沢で飾りに飾った料理がお好きかと思っておりました」
「意外デスか?」
トランプがスペードのスートを浮かべながら、はいと素直に頷く。
次々に運ばれてくる料理たち。一つ一つが少量だが品数はあるので、気がついた時には空腹はどこへやら。心と身体が満たされた様に、ほうと息をつく。
「少しは気に入ってくれるたかい。いつもは客の眼見るだけでメニューが思い浮かぶんだけど、あんたはガードが厳しくて……咄嗟にあれだけ精神防御張った奴は初めてだよ。……ってなわけで、ちょいと自信なかったのさ」
はは、と肩を竦める調理長に礼を述べ、簡単に紙ナプキンで唇を拭うと席を立った。
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「しかし、宜しいのですか」
屋敷を出て、次に向かったのは温室だ。以前一度訪れたことがあり、道案内は不要と思ったが、いざ来てみると以前の場所には空き地が広がるだけだった。屋敷を中心に温室辺りの空間が気紛れに移動しているのだろうとトランプから聞き、十分ほど余計に歩きまわり目的の場所に辿り付いた。
「影サンにお返しを、と思いましテ。贈り物をもらったら、お返しをしなければネ?」
「そう仰るのでしたら、影を呼びましょう」
温室の扉を開けると、外より少し暖かな空気が肌に触れる。緑色の植物の合間、人影が見えた。トランプが呼ぶと影も気付き、デリクを見ると酷く驚いた様子で駆け寄ってくる。前に見た時と同じ、顔のない「影」だ。ぺこりと頭を下げ、両手をぱたぱたと振って再会の喜びを表している。
「リコリスという花の球根デス。よろしけれバ育ててみてくだサイ」
頭の上にはてなマークを浮かべつつ、影は小さな包みを大事そうに受け取った。
「彼岸花でございますね。あの世とこの世を繋ぐ赤い花。……ありがとうございます、デリク様。影もそう礼を申しております。大切に育てる、と」
見れば、影は身振り手振りで何かを伝えようとしている。口と言葉を持たぬ為、感情を表すにはこうするしかない。
「私も時々足を運んで、様子を見にこようと思いマス。ここの水と土デ、少し違った花を咲かせるカモしれません」
花を育てるのは水と土。少し違ったどころか、此処で咲いたなら喋ったり動きまわる花になってしまうかもしれない。影も口元辺りにに手を立てて笑う。
「私ももらった種を大事にしマスね」
硝子玉のような種を思い出し、そっと胸に手を当てる。深く何度も頷く影にリコリスの球根を手渡し、柔らかな笑みを浮かべた。
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「もしこの世に楽園というものが存在するのなら、あのような花が咲いているのかもしれませんね」
屋敷の玄関辺りでトン、と肩から降りたトランプがどこか懐かしむ声で言う。
「それでは。また命とご縁があるならば、いつの日かまたお会い致しましょう」
現実と幻想の間。訪れるのも帰るのも、意識一つでどうにでもなる。デリクが何もない空間に掌を翳すと、淡い光と共に空間の裂け目が創られる。此処を潜ればまた雨の中に戻れるだろう。
(――ありがとう、デリク。大好きだよ。……元気でね)
一度だけ館を振り返り、ひらりと片手を振って中へ飛び込む。
曖昧に混濁する意識の中、幼い子供の声が遠く聞こえた気がした。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【3422/デリク・オーロフ/男/31歳】
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■ ライター通信 ■
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ご参加ありがとうございました。
リコリス。昔は忌み嫌われた花のようですが、私はとても美しいと思います。
暑い季節になって参りました。どうぞご自愛くださいませ。
それでは、失礼致します。
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