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<東京怪談ノベル(シングル)>


Over the Blue sky.

 どこまでも続くスカイブルーに、混ざる白は欠片ほどもない。
 束の間の永遠を切り取ったような鮮やかな青色が、見渡す限りの一面に広がっていた。

「んー、いいお天気!」
 文句なしの晴れとは、まさにこういう日のことを言うのだろう。
 梅雨の雨雲を掻き分けるどころか吹き飛ばしてしまったらしい青空の下で、樋口真帆は両腕を広げた。
「今日は……お洗濯日和、かな」
 太陽の光が全身に降り注ぎ、何とも情熱的な挨拶を投げかけてくる。
 絶好の『洗濯日和』が休日と重なってくれたのは、何よりも幸運だった。
 このところずっと姿を見せてくれなかった太陽の姿は、ただ見上げているだけでは勿体無いというもの。
 ならば──と、真帆は部屋の中に引き返した。どたばたと賑やかな音を響かせた後、籠一杯に洗濯物を詰め込んで、再び庭へと出てくる。
 庭はさほど広くはないが、芝生が植えられ、庭木も生えている、ちょっとした作業で汗を流すにはちょうど良い空間だ。
 昔の『おかあさん』達の気持ちが少しはわかるだろうか。
 真帆は何とはなしにそんなことを考えながら、籠を芝生の一角に置き、今度は盥を持ち出してきた。
 蛇口を捻り、ホースを手繰り寄せ、水を注いでいく。一杯になった所で、真帆はよし、と頷いた。
「さて……がんばりますか」
 水を張った大きな盥に水と粉石鹸を入れ、山になった洗濯物をその中にまとめて──もちろん、色物は別にして──放り込んだ。
 いつもなら、洗濯機に任せておけばあっと言う間に終わってしまうもの。けれど、今日は違う。
 靴を脱いで裸足になり、スカートの裾をたくし上げながら盥へと足を踏み入れる。
 たまにはこういうのも悪くないだろう。
 足元から全身へ、駆け抜ける冷たさはほんの一瞬。透明な水が真帆の足を包み込んだ。
「気持ちいいー……」
 ぎゅっぎゅっと音を立てながら踏みしめると、水は石鹸によって淡い乳白色に染め上げられて行く。
 一歩、踏みしめる度に、足元に白い泡が生まれる。小さな小さな泡玉が弾けて消える。
 その様子が面白くて、さらに一歩、また一歩と、自然に足が動いてしまう。
 その様子を後ろで見ていた二匹の──黒と白のウサギのぬいぐるみが、つられるようにぴょんぴょんとジャンプをしながら近づいてきた。
「すふれ、ここあ! ……ふたりとも、手伝ってくれるの?」
 真帆は目を輝かせて使い魔の二匹を振り返ると、盥から足を退けた。それを待っていたかのように、二匹は一際高くジャンプをすると、空中でくるりと一回転──盥の中に勢い良く飛び込んできた。
 そのまま、真帆の足踏みを真似しているのだろう、軽快なジャンプを繰り返す、すふれとここあ。
「ふふっ、ありがとう!」
 ぴしゃんという水音、跳ねる小さな飛沫。一生懸命な二匹の姿に、自然と、笑みがこぼれてくる。何とものどかで微笑ましい光景。
 ──だが、それも長くは続かなかった。
「……すふれ、ここあ!」
 わあ、と、真帆が声を上げる。いくら使い魔と言えども体はぬいぐるみだ。
 石鹸を含んだ水の上で飛び跳ねていれば洗濯物と同じように──もとい、無事で済むはずがない。
 水を吸った体は次第に重さを増し、軽快だったジャンプが鈍くなり、続かなくなり、しまいには揃って洗濯物の山の上に倒れ込んでしまった。くたくたである。
「だ……大丈夫? じゃ、なさそうだね、ふたりとも……」
 見事なまでに洗濯物の一部と化したすふれとここあに、真帆は込み上げてくるおかしさを堪えることが出来なかった。
 つぶらな瞳が縋るように、あるいは何か文句のひとつでも言いたげにくすくすと笑う真帆を見る。
 二匹にしてみればこの状況は、まったく笑う所ではないらしい。
「……すふれ、ここあ。せっかくだから、ふたりも綺麗になろう。ね?」
 真帆は少し考えてから名案と言わんばかりにそう呼びかけると、その場にしゃがみ込み、横たわるぬいぐるみへとそっと手を伸ばした。
「大丈夫、痛くないよ」
 石鹸水の中につけて、丁寧に揉み洗いをする。優しく声をかけながら、ゆっくりと。
 最初はここあ。次にすふれ。洗われている間は、二匹とも観念したように大人しく──否、どこか気持ち良さそうにじっとしている。
 そうして盥に入れるには膨大な量の洗濯物を洗い終わる頃には、太陽は空の一番高い所にまで昇っていた。





 芝生の上にホースを使って水を撒く。爽やかな風を招くアーチの中に、生まれる七色の虹がある。
 空にかかる大きなものではない、ひとの手でつくり出すことの出来る小さな虹。
 それが不思議でたまらないらしく、すふれとここあの目がきらきらと輝いているように見えた。
「すふれ、ここあ、気持ちいいね」
 縁側代わりのウッドデッキに腰を下ろし、真帆は二匹の使い魔に呼びかける。
 洗濯物と一緒にハンガーで干されるということもなく、二匹は時折ぷるぷると体を震わせながら、纏わりつく水気を払っていた。
 真帆と同じように、彼女の両側にそれぞれ座り込む二匹。耳もリボンもだいぶ草臥れているが、この陽気ならばすぐに乾くだろう。
「早く、夏が来るといいね」
 真っ白な洗濯物が、風になびいて翻る。きらきらと光を瞬かせる太陽に、真帆は眩しげに目を細めた。
 夏になれば、こんな光景があちらこちらで見られるようになるのだろう。それを思うと、とても待ち遠しい。
 お日様の光を浴びて綺麗に乾いた洋服は、それだけで力を与えてくれるから。

 夏と言えば大きな太陽、風になびく真っ白な洗濯物……それだけではない。
 海、お祭り、浴衣、花火、かき氷、西瓜、蝉の声、蛍の光、朝顔、向日葵……思いつくものはたくさんある。
 来るまでが待ち遠しく、来たらあっと言う間に去ってしまう季節。
 数え切れないほどの思い出を生み出し、刻みつけて、慌しく過ぎていく日々の欠片。
 振り返って取り戻すことが出来ないとわかっているからこそ、いとおしくなる。
 ──夏に限らないと、言ってしまったらそれまでなのだけれども。

 梅雨が明けるまではもう少し。天気予報では明日からまたしばらく雨だと言っていたから、次に太陽を見ることが出来るのは、当分先の話かもしれない。
 ただ一日でも、もたらした光はとても大きくて。それは大袈裟かもしれないが、明日を生きるための確かな活力になっているのだということを、きっとたくさんの人が知っているはずだ。

 穏やかな風が吹き抜けて行く。頬をくすぐる彼、あるいは彼女達の腕に身を委ねるように、三人は転がって目を閉じる。
 心地良い疲労感とあたたかな日差しに包まれ、束の間の微睡みは、すぐに夢の扉へと繋がった。



Fin.