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Cominciando
孔子が編纂したものと伝わる歴史書の一、春秋左氏傳。通称を左伝を云う彼の書に曰く、四凶とは即ち渾沌、饕餮、窮奇、檮こつの四柱を示す。何れも大陸に伝わる神話に描かれる怪物であり、旧い存在であるとされる。
◇
本来であれば決して有り得るはずのない事態が生じた。
初めにそれと勘付いたのは赤羽根の本家、その最奥に隠居していた先々代の当主だった。そうして現当主である円が次いでそれに気付き、これを滅するために夜の闇に跳ねたのだ。
どれほどまでに文明が栄え、どれほどまでに闇を退けたように見えようとも、闇に息吹く魔の輩は決してその勢力を衰えさせようとはしない。むしろヒトがそうしようと足掻けば足掻くだけ、魔を悦ばせてしまうばかりだ。
東京という街の守護の一郭を担う円の耳にはかれらの息吹く漣が明瞭たる音として聴こえる。
かれらはしかとそこに居る。ビルとビルの隙間、高いビルが落とす影の中、汚臭を放つ川の水際、つまりは街の端々で、魔は押し殺した笑みと共に獲物が自ずと網に足を寄せるのを待ち構えているのだ。
――けれど、
一際高いビルの頂上に降り立って背に伸ばしていた焔の両翼を宙に溶かす。
けれど、今、東京の夜を揺るがしているのは、これまでには感じたことのない、得体の知れない余所者の咆哮だ。
余所者という言い方は、果たして正しいものであるのかどうかも分からない。が、おそらくは決して間違ってもいないだろう。
大陸に旧くから息衝き続けてきたとされる四凶、つまりは四つの怪物が、どうしてかこの日本に渡ってきているらしい。そして東京の端々で、云わば同胞とも言えるであろう魔の輩を喰らい、その力を取り込んで、さらに強靭な力を蓄え続けているのだという。
「でも……どうして」
呟き、眼下に見える紅い一点に眉根を寄せる。
禍に属するものが発する特有の気配。それがいま、円の居る位置からさほどに離れていない場所に確認できた。
円は、常人であれば一瞬で気を失うであろう高層から身を夜の中に身を躍らせる。瞬時にして現れた聖なる焔、朱雀の炎が円の身を包み込んで大きな両翼を形作る。
セーラー服のスカートを風になびかせながら、円は視線の先に捉えた何ものかの気配を毅然と睨みつけた。
――なんであれ、円がなすべきは人々の安寧を揺るがすであろう魔の眷属を退かせること。その一点より他に考える必要はないはずだ。
両翼を翻す円を地上に立つ者が見れば、あるいは畏怖を覚える何がしかに見えたのかもしれない。
が、東京を闊歩する人間達は、そもそも頭上に広がっている風景を気に留めたりなどしないものだ。仮に百鬼夜行が頭上を練り歩いていたとしても、かれらはそれと気がつかずに平穏を過ごすのだろう。
大陸にあるべきはずの禍がなぜ海を越えたこの地に息衝いているのか。目的は何であるのか。否、少なからず、それがなにがしかの害悪をもたらさんとしているのは確かだろう。
人の気配のまるで感じられない裏路地に降り立って羽を消し、注意深く周囲を探ってから走り出す。
大概の人間ならばもうとうに寝静まり夢の中にあるであろう時間。円の出で立ちはどう見ても今この場には似つかわしくはないだろう。
が、それすらも見て咎めるような者はいない。街は静寂に包まれている。――おそらく通りをいくつか抜ければ今なおかしましい喧騒で満ちているのだろうが、円が走る裏通りはむしろ耳が痛くなるような静寂のみが満ちているのだ。
闇が満ちている。万全たる深遠だ。
通りを一息に走りぬけたところではたりと足を止め、眼前に広がる深遠をねめつけた。
湿り気を帯びた、否、それはむしろ肌に纏わりつく不快な空気として感じられた。わずかに臭気までもが鼻をつく。
円は眉根をしかめて唇をかたく結び、片手をふるりと振るわせる。指先に刹那光は爆ぜ、次の瞬間には大きくうねる炎へと変じていた。
――対峙する闇がさらなる闇を吐き出している。向かい合わせたそれは四凶の内の一は果たしてどのような力を揮うものなのか、それすらも未知数だ。戦闘は実力の効果はむろんの事ながら、相性というものもまた重要な要素として関わりを持つ。
眼前の深遠と睨み合う事数瞬、程なくして闇の中より姿を現したのは下卑た嘲笑を満面に滲ませた人間の顔であり、続き、その下で羊のものに似た四肢が砂利を掴んだ。
「饕餮」
呟き、円は饕餮の動きに合わせて自身の歩みを半歩分ほど退かせる。
怪物の口許には虎の牙が覗き、牙は未だ新しいそれと知れる赤黒い肉塊を食んでいた。
四凶の内の一、饕餮は、食欲と性欲の象徴であるとされている。その食欲でいかなるものをも喰らい、終には西方に追放されたとされているものだ。
笑みをはらんだ眼光は人のそれを模してこそいるが、そこに宿る光彩は明らかに人のものとは異なる獣のそれを映している。
――おそらく、どこかで何者かを捕え食してきたのだろう。
歯噛みする円の目の前で、饕餮はさもそれを見せつけてでもいるかのようにのんびりと咀嚼して胃の腑の底へと呑み込んだ。
「……貴様」
肉塊が飲み下されたのを見て、円は全身の血が沸騰しているかのような感覚を得た。何より、対峙した得体の知れないそれに怖れを覚えて退いてしまった自分自身が腹立たしく思える。
手に爆ぜる炎を一振りの薙刀に変じさせて強く握り、持ち替えて切先を饕餮の顔に向けた。
饕餮は円の手にある薙刀をぎょとりと見つめ、臓腑よりも赤黒い口蓋をかぱりと開けて、おそらくは笑ったのだろう――生臭い息を吐き出しながら咆哮する。
「散れ!」
叫び、地を強く蹴り上げる。
闇が地鳴りのような轟きを唄っていた。
勇輔は遠くに低く唸る風の声を聴いたような気がして顔を上げた。
圧し掛かるような闇黒、僅かに鼻をつく臭気。
この数日、夜な夜な誰かが行方をくらましているらしいという噂は耳にしていた。が、失踪などという現象は決して珍しいものではない。まして、勇輔ほどの年齢であれば、家出や失踪をはかるといったことはむしろありがちなものであり、中には裏社会に足を踏み入れすぎてさらわれるといった者もいたりもするが、いずれにせよ、それらはさほど勇輔たちの気を留めるような要因にはなり得ないのだ。
が、この数日の失踪に関しては、なぜか、強い違和感のようなものを覚えていた。
それは言わば直感や虫の報せといったものであったのかもしれないが、ともかくもその違和感の実情を確かめようと試みて、勇輔は寝静まった夜の街中を当て所もなくさまよい歩いている。
歩き慣れた街中も、角をひとつ折れるごとにみるみる様相を変えていく。まして照らす光源の無い、おそらくは裏の人間ですら滅多に出入りする事もしないであろうような、街の最奥、陰に隠された場所だ。必然的に空気も重く歪み、ともすれば押し潰されてしまいそうな何かがひしめいているように感じられる。
その場所に足を踏み入れた勇輔は、次の時、ほんの刹那、目を見張った。
セーラー服の少女が今まさに吹き飛ばされて廃ビルの壁に激突し、大きく血痰を吐いている。
「円……!?」
考える間もなく、勇輔は少女――円に向けて走り寄っていた。
円は全身に深い傷を負い、呼吸も荒く、かろうじて勇輔の顔を見上げた視線はどこか虚ろな気配が滲んでいる。
「円」
円の肩を掴み大きく揺すりながら円の名前を呼ぶ。
背に、瘴気を撒きつつじりじりと蠢くものの気配を感じた。
「……お、まえは」
激しくむせ返りながらようやく口を開いた円に、勇輔はふと小さな安堵の息を吐く。
「前にいっぺん会ったよな。……円、」
名を口にしながら笑った勇輔の顔を見つめ、精彩を失いつつあった円の顔が一瞬にして生気を取り戻した。
「お、まえ……!」
触るなと続けて勇輔の手を振り払い、勢い、円はよろめき立って数歩分ふらつく。
勇輔は手ぶらになった両手をひらひらと動かしながら円に笑みを向け、次いで、振り向いて闇黒の獣を視線に捉えた。
人面に獣の体、浮かべている面持ちは癇に障るような嘲笑。その爪に目を落とす。
「円、大丈夫か」
獣の爪先には円のものなのか、それとも他の何者かのものなのかも知れない血痕が見うけられる。
「さっさと逃げろ」
応える円の声は呼気も荒く、その上やはり弱っているように聞こえた。当然だ、骨の数本は折れているのだろうから。
考えながら円が激突した壁に目を向ける。
老朽しているビルとはいえ、壁は大きく削がれ、崩れたコンクリートがぱらぱらと音を立てて崩れていた。
「逃げろ? おまえを置いてか?」
小さく頬を歪めて目を眇め、横目に円を検めながら勇輔はゆっくりと歩みを進める。
饕餮は、円の血の匂いに酔っているのだろうか。
恍惚とした風のある饕餮をまっすぐにねめつけながら、勇輔はふと歩み進めていた速度を急速に高め、そうしながら片腕を持ち上げて指先を鳴らす。
「莫迦、逃げろ、死ぬぞ!」
後ろで円が叫んでいるのが聞こえる。が、勇輔は悠然と頬を緩めるばかりで一向に立ち止まろうとしない。
振り上げた片腕が旋風を巻き起こし、それは瞬く間に勇輔の全身を甲冑のように包み込んだ。
饕餮の爪が振り上げられる。それは宙を掻くごとに剃刀のような風を生じさせ、対峙するものの身体を微塵に裂いてゆくための刃となるものだ。
が、勇輔が身にまとう風は饕餮の繰り出す撃などまるで意に介さずに受け流してゆく。
まるで頭垂れる柳か何かの枝葉をいなすかのような動きで饕餮の爪をかいくぐり、程なく、勇輔の腕は饕餮の喉に深々と突き立てられていた。
咆哮、
「円を怪我させやがって」
吐き捨てながら腕を抜き出し、まとわりついた穢れを一息に振り捨てる。
「円、大丈夫か」
再びそう訊ねながら円の顔を覗きこむ。
円は事態を飲み込めずにいるといった体で勇輔を仰ぎ見ていたが、勇輔は応えずにぼんやりと笑った。
「ひとまず病院行くか。――モグリだが腕は確かなのを知ってる」
「おまえ、その力は」
呆然とした面持ちの円がようやく言をひとつ吐く。
勇輔は苦笑いを浮かべながら首を竦め、
「前にいっぺん会っただろ、円。あの後、妙なジイサンに逢ってな」
「風を遣う……それは白虎の力だ」
「おまえのそれは朱雀ってんだってな。ジイサンから聞いた」
「おまえが……」
今見たものが把握しきれずにいるのか、それとも怪我の痛みに気を失ったのか。
円はふと意識を失い、そのまま勇輔の腕に倒れ落ちてきた。
「ついでに言えば、朱雀と白虎は交わっちゃいけねえんだってな」
呟き、意識を手放した円を軽々と抱き上げる。
――まあ、んな事は知ったこっちゃねえが
そう続けた声は耳の痛くなるような静寂に包まれた闇の中に飲まれていく。
四神の力を有する者は互いに交わってはならないとされている。
暗黒の中、行き止まり淀んだ風が小さな呻き声のような唄を奏でていた。
MR
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