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『約束』
もう二度と会いにいく事もないだろう。そう心にかたく決めていた。けれど心は自分で思っているよりもずっと脆く、そしてひどく呆気なく表情を変えるものだ。
燎は薄暮れていく西の空の朱を仰ぎ、そうして心を捉えて離す事のない顔を思い浮かべる。
――コロ助。おまえは今なにをしている
ぼんやりと思いながら視線を眇めた燎の目が映すのは夕暮れの色ではなく、物憂う弟の……弧呂丸の顔。眼前にはない、もう数ヶ月も顔を見ていない、この世に無二の、魂の半身の顔だ。
そう。燎と弧呂丸はいずれどんな業を得て生まれ落ちたにしろ、互いに唯一無二の、他に代わるもののない、言わば魂の半身とも言うべき――双児なのだ。それゆえにか、あるいはそもそもにふたりを結ぶものが他のそれよりも強力なものなのかもしれないが、ともかくもどれほどに遠く離れても、弧呂丸の現状が、まるで手にとるように容易に知れるのだ。
眇めていた眼差しをゆったりと閉じて風を受ける。青い髪が風に梳かれて小さく舞った。
◇
「なあ、ニイチャン。あんた、どこから来たね」
汚れたタオルを首にひっかけた、作業着姿の男が一升瓶を片手に燎の横に腰を落とした。
燎は端の欠けた碗に注ぎ足された安酒を口に運びながら笑う。
「俺か? 俺ぁ東京からだ、おっさん」
「はあ、東京か。そりゃあまた遠くから流れてきたなあ」
男は燎の言葉にうなずいて、おそらくは数日剃っていないであろうあごひげを不精に掻きまわした。
「おっさんは?」
「俺か。俺は東京よりももっと向こうよ。冬にゃ雪が降ってなあ、俺らみてえな現場の人間にゃ仕事まわってこなくなるのよ」
「じゃあ出稼ぎってやつか。大変だな、おっさん」
「っへ、昔の話よ。いまじゃあただのルンペンだ」
どこか気恥ずかしげに笑う男にかぶりを振り、男が手にしているワンカップの空き瓶に酒を注ぎいれる。
「おっさんさ、どんだけ田舎に帰ってねえの」
ついでに自分の碗にも酒を注いで口に運びつつ、燎は上目に男の顔に視線を向けた。
男は燎の言葉に軽く笑みをこぼし、ふと視線を当て所もなく移ろわせた後に困ったように頬を緩ませた。
「この公園にたむろしてる連中は、みんな、田舎にはもう帰るに帰れねえ連中ばかりだよ」
言いながら、男は笑みを浮かべたままで眼前に広がる景色――遊具のろくに無い、日頃は人の気配すら皆無だと言ってもいいような閑散とした公園内に目を走らせる。
男たちはこの公園や、あるいは似たような公園や川辺にビニールテントを張って生活している。俗に言うホームレス集団で、今日は皆で集まり酒を酌み交わしているのだ。
燎はその酒席の中に席を置かせてもらい、さして味に深みのない安酒をもらい、彼らと共に言葉を交わしている。彼らは金こそ持たないものの、その分、語る話には広がりがあり、深みがある。あるいは、並の人間よりも遥かにあらゆるものを目にして来た彼らであればこそ、時に強く感銘を受ける事もあり、あるいは強く励まされる事もあるのだ。
この数ヶ月――つまりは弧呂丸との決別を迎えた春以降、燎は当て所もなく色々な土地に車を走らせて来た。地図を持たず、地名にはさほどに関心を向けず。ハンドルの赴くまま、文字通り気ままにあらゆる土地に立ち寄り続けて来たのだ。
それはたぶん、そうする事で自分が末期を迎えるに具合の良い場所を捜していたのかもしれない。だが、あるいは逆に末期を逃れるための術を探り続けていたのかもしれない。
もしかすると、これまで未踏の地であった場所にこそ呪を解くに至る何某かがあるかもしれない。今回こうして結果として流浪するに至ったが、これはそれを捜すための機会を得たという事にはなりえないだろうか。
――むろん、それらが淡い願望に過ぎないであろう事も知っている。だが、それでも、例えわずかな希望であったとしても。
そうまで考えて、そのたびに温い笑みを洩らして来た。
結局のところ、自分は末期を迎えられるだけの覚悟を決めきれてはいないのだと。――そう痛感させられる。
「あんたはどうなんだ、ニイチャン。待ってるコレとかいるんじゃねえのか」
思索に耽りだした燎を、不意に男が呼び戻す。
「ああ?」
間延びした声で応え顔を持ち上げる。眼前の男はニヤニヤと笑みながら意味ありげに小指を立てていた。
燎は思わず噴き出して笑う。
「ンなのいねえよ」
「ニイチャンみてえな男じゃあ女が放っておかねえだろう」
「まあな」
「ほらみろ。いるんだろ? いいコレがよ」
「それとこれとは話も違うだろ、おっさん」
茶化すように笑う男に笑みを返し、燎はふと目を碗に落とす。
次いで、間を開けず、男の声が降ってきた。
「人に帰る場所があるかどうかを訊く奴にゃあ大概帰りてえと思う場所があんのよ。ニイチャンもそうなんだろ」
問われ、燎は顔を持ち上げずに軽く頭を掻きむしる。
「……かもな」
「そう思ってんなら帰ってやんなよ。あんたが一番寂しいんだろう。だからこんなトコに身を寄せんのさ」
「……かもしれねえな」
小さく笑いながら顔をあげる。
男は酒を一息に干しながら横目に燎を見ていた。
「誰かひとりでも心配してるのがいてくれるんならよ、帰ってやらねえとな」
そう言い残してふらりと立ち上がった男の背に、燎は弱ったように笑みを浮かべる。
「……そうかもな」
言って、燎もまた碗を一口の飲み干した。
男はそのまま酒に酔った足取りで他の仲間たちの方に歩いて行った。
碗をベンチに置いて空を仰ぐ。
暮れかけた空に薄い紫色が滲んでいる。
蝙蝠がゆらゆらと所在なさげに羽を広げて飛んでいた。遠く近く、蝉が寂しげに鳴いている。
淡く薄い紫は、どこか、弟の姿を――弧呂丸の顔を彷彿とさせる。
もしもこのまま己を騙し続け弧呂丸を離れたままでいたなら
何処とも知れぬ場所でひとり襤褸(ぼろ)のような屍を晒す事になるであろう自分
怖ろしいのはそんな無様な死であるのか
否、死などよりも余程に怖ろしいものがある
遺していく弟が負う事になるであろう絶望
孤独
闇に蝕まれてゆく自分
闇に沈む弟
何よりも
――弧呂丸の絶望は、歳月により慰められ、何れは薄らいでいくだろう。そうして燎にまつわる記憶は次第に薄らいでいき、やがては遠い過去の記憶にされてしまうのかもしれない。
やがては忘れられていき、今のように思い出し心を乱す事もなくなるのだろう。
それこそが何よりも怖ろしい。
それが燎の身勝手なエゴであるにしても。
風に揺らぐ雲を見上げる燎の目がほんのわずかに揺らいだのを、ふと飛び去っていったトンボだけが見ていた。
◇
高峯では、一族の大半が揃って”厄介者”という烙印を押した長子――燎が自ら高峯を出て行ったのを手放しで喜んでいた。
そもそも素行も思わしくなく、何かにつけては問題を引き起こすばかりであった燎は、あまつさえその身に一族代々が引きずり続けてきた呪をも負っている。
呪は筆舌にし難いほどに凄惨な末期を呼び寄せる。否、付き纏っていると言ったほうが正しいのだろうか。
見る者の心をも蝕むほどに壮絶な死。死した者が以降安寧とした眠りを得られるのかどうかすらも定かではない、存えても死しても逃れる事の叶わぬ絶望。それを一族の目の当たりにせずにひっそりと身を潜めたのは、言わば一族にとっても歓迎すべき心遣いであった。厄介払いが出来た、最期に唯一まともな事をしていったと。――そう交わして無理矢理にでも笑いを作れば、いくぶん心も安堵の息を吐けるというものだ。
――だが、それは遺された弧呂丸……すなわち当主の精神を思いの外病ませてしまう結果をも生んだ。
弧呂丸にとり、燎という存在は己が軸と言っても過言ではないであろうほどの要であったのだ。
要を失った弧呂丸の心は既に大きく傾きつつある。――それは最近の弧呂丸の言動が如実に示してもいる。
燎の名を口汚く嗤う者、
燎の存在を軽んじる者、
あるいは露骨に燎の死を望み口にする者。
それらはことごとくに弧呂丸の手によって殴打され、罵られ、中には一族より追放を言い渡されそうになった者までいた。
これまでの柔らかく穏やかな弧呂丸をのみ知覚していた彼らにとり、それはあまりにも衝撃的な変貌だったのだ。
中には燎を捜し連れ戻すべきなのではと主張する者も現れ始めたのだが――その行方は杳として知れないままだった。
◇
弧呂丸は自室の窓近く、窓を開け放したままぼんやりと夕暮れていく空を見つめていた。
否、その目には空も庭の美しい風景も、一切のものを映してはいない。ただ無感動にぼんやりと虚ろな視線を投げているに過ぎない。
弧呂丸にとり、燎という存在は文字通り他の何にも代え難い絶対だ。それを貶される事は耐え難い。
ただ、
ただ時折――それはまるで昼に見る夢のように曖昧なものであるのだけれど、ひとり静かに目を伏せて心を密やかにする時、どうしてか、燎がすぐそこにいるかのような感覚を得られる事がある。
燎がいまどのような景色の中にいて、どのような事を思っているのか。
それは、あるいは混迷した心が見せている幻であるのかもしれない。妄執が生んだ幻想かもしれないのだ。そう思い目を開くと同時に幻想は終わりを迎える。
けれど、いまの弧呂丸にとってはその幻想こそが――夢幻こそが己を支える唯一の柱となっていた。
窓から見える庭木の枝でトンボが羽を休めている。
あれはどこから飛んできたのだろうかと考えながら、その時、弧呂丸は弾かれたように目を持ち上げた。
「……燎……?」
口をついて出た名前に扇動されたように、次のときには弧呂丸の足は自室を後にして廊下を走り抜けていた。
◇
燎は数ヶ月ぶりに見る高峯の家の門前で車を停め、懐かしく目を細めながら門の奥を覗き込む。
暮れかけていた日はもう随分と沈んでいる。辺りには薄くひっそりとした夜の空気が満ち始めていた。
――相変わらずきちんと手入れの届いている庭。門の中には格式高い空気が広がっていて、外界とは一種異なる雰囲気が満ち溢れている。
他界して久しい両親の気配が未だに遺されているようにも思えるその景色に、燎は心持ち小さく、視線だけで礼をした。
「……悪ぃ、親父、お袋」
懺悔のように呟く。
「やっぱ、俺には無理だ」
笑って続けた。
やがては忘れられてしまうであろう恐怖を抱えたまま、弧呂丸を離れ、いつ訪れるとも知れない末期を迎えるのも。
弧呂丸は誰が思うよりも余程に芯の強い人間だ。燎などよりも余程強く、この先もきっと歩み続けていけるだろう。
忘れられるのが怖い。
誰が忘れても、弧呂丸だけには忘れないでいて欲しい。いつまでも弧呂丸の心を占領し続けていたい。そのエゴだけは、どうしても拭い捨てられない。
「結局は、俺があいつを必要としているんだな」
独りごちて自嘲する。
その視線に、慌しく玄関を飛び出して来るいくつかの人影が映りこんだ。
「燎!」
悲痛なまでに叫び、半ば転げそうになりながら飛び出してきたのは他ならぬ弧呂丸だった。その後ろに親族たちの顔が並ぶ。
「よお」
燎は事もなさげに笑いながら片手をあげ、燎のシャツの襟首を掴み今にも泣きそうな目で仰ぎ見てくる弧呂丸に頬を緩めた。
「元気そうじゃねえか、コロ助」
言ったのと同時、燎の頬は力任せに殴られていた。
「おまえという奴は……! わ、私がどれほど……っ」
弧呂丸の声はかすれて言葉にならなかった。燎は殴られた頬を撫でながら小さなため息を落とし「いきなり殴んなよ」と笑いつつ、ちらりと弧呂丸の後ろに目を向ける。
親族たちは突如現れた燎に驚嘆の声をあげていた。――もうとうに死んだものと思っていた燎が眼前に現れたのだ、驚愕するのも無理からぬ事だろう。
だが燎は彼らのさざめきには微塵も関心を寄せずに弧呂丸の手を掴んで車内に呼び招いた。
「まあまあ、ひとまず話聞くから、車乗れよ。――後ろのジジイ共の声がうるせえんで、おまえの声が聴こえ辛いんだよ」
わざとらしいほどに眉根をしかめる燎に収まらぬ怒りを露骨に浮かべながらも、弧呂丸は「分かった」とうなずき助手席にまわる。
親族たちが弧呂丸の動きを察して引きとめようとしているが、燎は彼らに対しいっそ穏やかな笑みを満面に浮かべてうなずいた。
「悪ぃ」
告げた言葉には感情の一片すらこめられてはおらず、燎は弧呂丸が助手席に乗り込みドアを閉めたのと同時にアクセルを踏み込んだ。
急速に流れていく景色。
弧呂丸が隣で目を丸くしているのが、見なくとも伝わってくる。
「……燎、おまっ、どういうつもりだ……!」
「まあまあ、落ち着けよコロ助」
燎は安穏とした笑みで弧呂丸の怒声をかわした。
「聞けるわけないだろう!」
言って、弧呂丸はハンドルを握ったままの燎の横っ面を再び殴りつける。
「第一、なんでおまえこんなに臭いんだ!? 風呂にははいっているのか!?」
「風呂か、そういやあしばらく入ってねえなあ」
「しばらく入ってないじゃないだろ!! おまえ……どういう生活をしてたんだ!!」
怒涛のように怒り猛る弧呂丸に笑みをこぼし、燎はようやくスピードを緩めてタバコに火を点ける。
「縋ったり甘えたりしてもいいんだよな?」
煙を吐き出しながら横目に弟の顔を見る。
弧呂丸は驚きに目を見張り、唖然とした面持ちで燎を見ていた。
「おまえ、言ったじゃねえか。俺に、縋ったりしてもいいんだって。だからそれをしに戻って来たんだがな」
「は……」
二の句を告げずに口をぱくぱくさせているばかりの弧呂丸に頬を緩め、燎はさらに口を開けた。
「俺にはおまえが必要なんだよ、弧呂丸。――この先、いつ俺が死ぬかは知らねえ。どこで、どんな風にして死ぬのかも知らねえよ。ってかそもそも本当に死ぬのかどうかも分からねえ」
「燎」
「でもな、少なくとも、おまえよりは先に死ぬ。おまえは俺より先に死なせねえし、ンな事は俺が許さねえ」
「ふざけた事、」
「黙って聞けよ。もうこれから二度と言わねえからよ」
口を挟みいれようとした弧呂丸を視線で制し、燎は窓の外に流れていく煙を見送った。
「俺の最期はおまえに看取らせてやる。――だからそれまでは俺と一緒にいろ」
対向車が引いていく赤い光が長い尾を作る。
燎がハンドルを握る車はやがて高速道路に乗った。
弧呂丸はしばし唖然としたまま燎の横顔を見ていたが、やがて思い出したように目をしばたかせて「ふざけるな!」叫んだ。
「いいか、そもそもおまえはいつもそうだ。私の都合などお構いなしに、なにからなにまで勝手に決める。何様のつもりなんだ、」
間を開けずに始まった弧呂丸の説教にも、燎は楽しげに頬を緩める。
弧呂丸の顔が赤らんでいたのは、行き交うテールランプの赤が打ち消してくれた。
◇
その日がいつ来るのかは解らない。
ただ、それまではふたりで一緒にいよう。
俺がおまえをまもるから、
おまえが俺をまもってくれ
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MR
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