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納涼祭
からん、ころん。
雑踏の中。
楽しげに鳴る小さな下駄の音に、気付いた者はいただろうか。
もしいたとしたら――そしてその音に目を向けたなら、梅雨時の蒸し暑さを一瞬でも忘れ、微笑ましいその光景に口元を綻ばせた事だろう。
夕暮れが近づく黄昏時。
その中を泳ぐように動き回る、その少女の満面の笑みにつり込まれて。
*****
「詠子ちゃんだ〜♪」
「わっ」
がしっ、と腕に絡み付いて来た重さに思わず声を上げ、その直前にかけられた声の主に思い当たったか、学校帰りなのだろう、制服姿の月神詠子が右腕にぶら下がるようにしている黒髪の少女、千影を見た。
「やあ、チカ…ちゃん。――その、格好は?」
ぱちくりと軽い瞬きをしたのも無理は無い。千影の格好はといえば、淡い紫とピンクで染められた金魚がゆったりと泳ぎ回る、黒地の浴衣姿だったからだ。
「ふふっ」
それを指摘されたのが嬉しいのだろう。にっこりと笑うと、その場でくるりと一回転してみせる。
細めの帯できちんと形作られたなでしこ結び――詠子は後で千影から説明されるまでその名を知らなかったが――に、いつものリボンではなく、緑の糸を編みこんだ紺の飾り紐で結わえた髪から、紐の先に付いたガラス細工のとんぼ玉が鈴のように揺れる。
「今日はね、お祭りなの! チカね、狐さんの御家に御呼ばれしてるのよ♪」
ああ、それで――と詠子が納得したように、こっくりと頷いた。
夏の風物詩とも言える祭りに浴衣。それはとても心躍る風景だったからだ。
「これから行くんだね?」
「うんっ」
お揃いの柄の巾着を手に、エメラルドのような輝きを持つ瞳を細めて大きく頷く千影。そして、そんな少女を羨ましいと思う前に、
「詠子ちゃんも一緒にいこう?」
そんな甘い声が、詠子の耳を打っていた。
「いいのかな。ボクが行っても――およばれ、してるんだろ?」
手を引かれるがままに付いていきながらも、詠子が少し躊躇う様子を見せる。
祭りと聞いて、目を輝かせたのは詠子もなのに、そんな彼女を振り返ってにこっとまた笑みを浮かべると、
「ほんとはね、ニンゲンはだめなの」
でもね、と詠子が何か言う前に千影が言葉を続け、
「ニンゲンはだめだけど、詠子ちゃんはチカのお友達だから」
ね? と詠子の目を覗き込むようにしながら、来てくれる事をまるで疑っていない、そんな目で見詰める千影。
「ん――そんなに、言うなら」
ちょっと照れつつも、こくりと頷く詠子。ぱっと見反応が薄そうに見えるものの、何度も付き合いのある千影には良く分かっていた。そうやって誘ってもらえるのが嬉しくてたまらないのだと言う事を。
黄昏時の雑踏の中を、すいすいと動き回る二人。
小さな下駄の音がすぐかき消されてしまうように、
二人の姿も、いつの間にか雑踏に溶けた。
*****
――ひとが訪れる事はあるのだろうか。
そんな事を感じさせる、寂れた石段と、その奥に見える赤い鳥居。
けれど、細い道路から続いている石段にも、その周辺にもちりひとつ無い様子を見れば、誰かがきちんと手入れをしている事が分かるだろう。
都会の中の、ほんの小さな、丘にしか見えないような小山にしか過ぎなくても、それはその場所を守りつづけたからこそ残っているのだと――分かる筈だ。
「ここよ」
手を繋いだ二人が、どちらともなく見上げる。
鳥居の向こうに見えるのは、闇。そこには黄昏の入り込む隙間は無いように思える。
「さ、行きましょ。皆が待ってるわ」
こくっと小さく頷いた詠子と一緒に、石段を一歩一歩上がる千影。
ひとつ足を進めるたびに、鳥居に覆い被さるような小さな森が、黄昏に溶けた闇を落としてくる。
そんな中を、躊躇うことなく進む二人が、朱色の鳥居をくぐり抜ける。と、闇と思っていたばかりのそこは、やや日が傾いた頃の明るさになり、火の入っていないちょうちんがいくつもぶら下げられ、がやがやと騒がしい雰囲気に包まれた祭り会場へと変わっていた。
あれほど上から覆い被さるように繁っていた木々はずっと上に枝葉を広げ、奥行きも元からあった広さよりもよほど広く感じられる。そんな中広げられている店は、くるくると回るかざぐるまに、所狭しと飾られて涼しげな音を立てる風鈴、客の注文に応じて様々な形を器用に作り上げる飴細工など、詠子には目新しいものばかりだった。
「ね? お祭りでしょ?」
ちょっと胸を張った千影が、入ってすぐのところで座っている狐面を被った男に笑いかける。そしてややあって、手にふたつの狐面を持って詠子のところへ戻って来た。
「はい、これ詠子ちゃんの分。ちゃんと被らないとだめよ?」
それが一種の通行証のようなものなのだろう。張子の面に筆を滑らせた、どこか懐かしい匂いのするそれを被ると、二人は再び手を繋いで祭り会場の中へと歩いて行った。
「あ、湯島のお兄ちゃん達だーこんばんは!」
知り合いがいたのだろう。詠子の手を握ったまま駆け出すと、お揃いの浴衣を着た大柄な二人に千影が飛びついた。
「こんばんは、チカ」
「こんばんは、来ていたんだね」
「うんっ。チカね、御呼ばれしたのよ?」
狐の面で顔は見えないものの、低い声の柔らかさに親しみが見え隠れしていて、詠子までつり込まれて面の中で笑顔を作る。
「こんばんは」
「こんばんは!」
行き交うものたちは皆狐の面で顔を隠していたが、千影にはそれが誰か分かるらしく、次々と飛びついたり親しげに言葉を交わしたりして、満足そうな笑顔を詠子に向ける。
「皆お友達なの」
「そうみたいだね。……ちょっと羨ましい」
「詠子ちゃんも、チカの大事なお友達だよ?」
「あ、いや、そういう意味じゃないんだけど」
人と言葉を交わしたり、友達を作ったりと言ったことが苦手な詠子が、微苦笑を浮かべながらふるふると首を振る。
「チカちゃんがそうやって友達をたくさん作れるのが、少し羨ましいと思ったんだよ」
「そうかな?」
かくん、と首を傾げながら、千影が不思議そうな声を出す。
「チカのお友達は、詠子ちゃんにもお友達なのに」
「ボクの?」
「うん」
「……そっか」
真面目にこっくりと大きく頷いた千影に、面の中からくすっと小さく笑い声を上げて、詠子がさっきよりもやや強めに千影の手をきゅっと握り締めた。
*****
「あーん、食べにくーい」
射的、金魚すくい、リンゴ飴にあんず飴、そういった良く見かける屋台の中から、わたあめを買って半分こした千影が、お面をずらしながら文句を言う。
不思議な事に、この祭りでは全ての品が穴開き銭ひとつで手に入るのだった。千影曰く、「ここのお金はこれなの」との事だったが、それも見れば古銭から5円玉まで年代もばらばらで、人間の世界の金銭的な価値とはまるで違うのを感じさせる。
不思議なものは店で売られている品にもあった。
かご――それも、鳥かごのような大きないれものの中で、逃げもせず淡い光を放っている蛍。これは、蛍の形を模した『思い出』を売っているのだと言う。
また、大小さまざまな時計をずらりと並べただけの店もある。それは誰かから、或いは何かから切り取った『時間』そのものらしい。
かと思えば、『ゑんむすびや』と書いた看板を掲げた辻占売りそっくりの格好をした者もいた。文字通り他者との縁を売る商売らしく、好奇心をくすぐるのだろう、見台の上にはたくさんの小銭が積まれていた。
「疲れた?」
小さな境内で収まるとはとても思えない店を見て回った後で、少し静かな場所で休憩を取りながら、千影が詠子に声をかける。
「ううん。とても楽しいよ。つれてきてもらって良かった」
「ホント? それならチカも嬉しいな♪」
食べにくいと言いながらも自分の分だけでなく、詠子にまた少し分けてもらったわたあめを食べ終えた千影が、そうだ、と何か思いついたように両手をぱちんと合わせ、
「今日の記念に、何かお土産買って帰ろ!」
そう言うと、目を輝かせて、詠子の手を引いてまた雑踏の中に駆け込んで行った。
*****
「あー、楽しかった」
「うん、面白かった。あんな祭りがあるなんて知らなかったよ」
からころと涼しげな下駄の音を響かせながら、帰り路に付く千影と詠子。
すっかり夜の色に染まった辺りから見えるのは、来た時よりも尚暗い、こんもりと繁った小さな森と、闇に紛れてその姿を隠してしまった鳥居の足ばかり。
「また来ようね、詠子ちゃん」
「うん。でもチカちゃんが一緒じゃないと、ボクひとりじゃ入れないんじゃないかな」
「ううん、大丈夫」
にっこりと笑いながら、手に握ったものを振ってみせる。それは、千影の手の中でころころ、と素朴な音を立てた。
「それ、お土産に買った鈴だね」
「うん。詠子ちゃんとお揃いの土鈴」
詠子も自分の鞄に吊り下げたそれを、指で弾いてみる。
それは、ちいさな、土で出来た鈴だった。白く塗られた丸い鈴には、悪戯っぽい顔をした仔狐が遊んでいる絵が描かれている。
地面に落としても、叩き付けても割れないと言われ、可愛い絵柄も気に入って二人で同じものを買ったのだ。
「これがあれば、詠子ちゃんだけでも入れるの。チカのお友達って認めてくれたから」
でも、行くならチカも誘ってね、とにっこり笑いかける少女に、詠子はもう一度指で鈴を突付いて鳴らし、
「もちろん。だってチカちゃんは――ボクの友達だからね」
不器用ながら、精一杯の笑顔を浮かべて、そう言ったのだった。
-終-
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