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<東京怪談ノベル(シングル)>


ふぎょうなるまえ
 ――生まれてきたのは、奇蹟ではない。

 例えば理由が、例えば由縁が、例えばコンテキストが等しく揃った状態で発生した事象が故に、それは奇蹟とは呼べるシロモノではなかった。例えば、「石」から「手を放」したら「落下」するのは、どう考えても逃れられない事実であり決して奇蹟とは呼べないのだが、そのような事実に置いても「石」が「落下」しないのは、トリックがある場合を考慮に入れなければ奇蹟と考えられるだろう。
 そして「ソレ」の誕生は、少なくとも前者によるものであった。
 生まれるべくして生まれ、在るべくして在った。それ以上でもそれ以下でもない。

 仮に「ソレ」の誕生を奇蹟と呼ぶのならば、この世界は神のサイコロを振った戯れであると言われても、疑うことは出来ないだろう。



 一部の市街地において地表が幾らか綺麗に整備されていき、海の向こう側の国々と同じように電柱が地上で見られなくなっている近年。しかしてそれらは目に見える部分だけの整備に留まり、地下には私利私欲の入り混じった思惑が入り乱れていることが多い。その顕著な一つが、都内某所にある地下下水の水質管理や汚水浄化を行っている私設下水だった。表立った目的はさて置き、実質は環境基準値の数十倍を行く汚染水を一箇所に纏め、廃棄する為の違法施設である。淀んだ、既に水とも呼び難い液体は大人の腰ほどの位置まであり、ゆっくりとした流れを伴っていた。意図的なのかは判然としないがどの壁も同じ色をしており、現在地がどこなのか、進行方向がどちらであるかは余程の熟練者か文明の利器に頼るかでもしないと分からないであろう。事実、この地下水路に足を踏み入れ、迷い込んだ末にレスキュー隊によって救助されたという話もある。クレームは来ているのだろうとは予想出来るが、まだ私設下水が活動していることから察しても、適当に握り潰されているのだろう。

 その中に、「ソレ」はいた。
 葉緑素を持たず、アメーバのような特徴もなく核も持っていない。
 「ソレ」は周囲一帯の生態系では最下層ではないにしろ、それに近い場所に位置していた。否、或いは位置しているとも、存在しているとも見なされていないと言った方が正しいのかもしれない。

 最初は、生きるためだけに生きていた。
 触手を伸ばし、微生物を取り込む。
 ぼんやりとした視覚が明確な意思を持った視力になったのは、それからしばらくしてからのことだった。
 感覚が薄ぼんやりとした視覚を認識するのではなく、カタチを捉え、そのカタチを定義する。
 何が「ソレ」に確かな変化をもたらしたのかは、結果的にはっきりとはされていない。しかし、知性を手に入れるには、あまりにも環境の変化は急激だった。

 某月某日、私設下水の現地調査と銘打った某研究機関によって、数人の人間が「ソレ」の存在する付近へとやってきた。防護服に全身を包み、どのような目的で使うのかすら判然としない機器が彼らの近くにある。
 「ソレ」は意識の傍らで彼らを視認し、そして鳴るはずもない腹の音の示す本能に従って平時と同じく触手を伸ばそうとし――だが初めて体感する流れ、上下左右が全て引っ繰り返るような動きと、そして即座に上昇するような浮遊感に、その動きを止めた。ようやく収まった後に、「ソレ」は近くの微生物を取り込むことを再開しようとして、周囲の環境の変化に初めて思考を開始した。
 気付いた時には視界が高い位置にあり、密閉された空間に隔離されたことを知った。
 水質調査のために採取された汚水の入った硝子瓶の中には、人間らが視認出来ぬ微生物と、僅かではあるが知性を持ち始めた「ソレ」が一緒くたに入っていたが、互いが互いを理解することは出来なかった。
 そして、初めて暗い下水の世界から出たことに「ソレ」は唐突に気付いた。想像していたよりも、陽の光は白く眩しかったと、漏らすように思った。



 それはまだ、不形アヤネが不形アヤネたる存在として確立する前の、長い長い時の一部分の話。





【END】