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ドリーム・ドリーム・ラプソディ
――まるで、魔法の道具みたい。
それが、そんな大それたものじゃないことぐらい、まれかだって分かっていたけれど。
その日はなんとなく、どうしてもそれに触れてみたかった。
「えっとぉ……」
紗名が普段やっていることを思い出しながら、部屋の隅で、手にしたアコースティックギターを一度ポロンと鳴らす。
バイトで主のいない1Kの部屋に独特の優しい音が広がって、思わずまれかは顔を綻ばせた。窓から見える桜の木に、季節はずれの花がひとつ、ぽつん、と咲いた。
楽しくなって、もう一度ポロンと鳴らしてみる。
桜に、花が、もう一つ。
花の子であるまれかだからこそ起こる、その現象。感情に連動するように、木々が優しい音を立てて風に揺れる。
「よぉし……!」
いよいよ本格的に、見よう見まねで弾いてみよう、と気を引き締めた瞬間だった
「まれか!」
手元のギターに夢中になっていて――この狭い部屋で普段ならありえないことなのだが――玄関の扉が開いたことに気付かなかったまれかは、ほとんど怒声に近い紗名の声が聴こえてきたところで、びくん、と肩を震わせた。
持っていたギターを取り落としそうになって、慌てて手に力を入れる。
「え、あ、サ、サナ? あ、あの、おかえりなさ……」
普段自分の行動に怒るのとはまったく別の雰囲気に、どうしても表情は引きつる。
バタン、と乱暴に閉められたドアに、再びまれかの肩が揺れた。
「返せ」
「あ……!」
眉を寄せたまま近寄ってきた彼が、まれかの持っていたギターを奪い取る。
まれかは一瞬その手を追いかけようとしたが、端的にしか言葉を発しない紗名は機嫌がいつになく悪いのだとすぐにわかって、立ち上がろうとしたのをぐっと堪えた。
こういうときは、謝るのが勝ちだ。
多分、謝れば許してくれる。
どうして、怒っているのかは、分からないけれど。
「ご、ごめんなさい、サナぁ……まれかね、あのねぇ、サナがいつもやってるから……」
「だから勝手に触ったのか」
いつもなら、謝った辺りで「しょうがねぇな!」と呆れたように口にするはずの、紗名の口調は変わらない。
あれ? と不思議に思って、まれかは上目で彼を伺った。
自分を見つめる視線が冷たいものだと気がつくと、まれかの鼻の奥がツンと痛くなった。目が熱くなった。
誤魔化すように「でもぉ!」と声を上げる。
「でも、サナだって、毎日それで楽しそうに……」
「これは遊ぶものじゃないんだ!!」
その場を何とか乗り切ろうとしたまれかの言葉は、出会って数週間、今迄で一番大きな怒声に阻まれた。
「……」
堪えようとしていた涙が、ぽろ、と零れる。
「大体な! お前なんで俺が怒ってるかも分からずに適当に謝って――」
紗名の声に小さく肩が震える。
「……ふ……」
「おい、聞いてんのか!?」
「……ふぇ……」
「……まれか?」
「……ふぇええぇえぇぇぇえん!!!」
「うおおぉおおおぉおおぉぉお!!?」
次の瞬間、まれかの号泣は勢い良く紗名の鼓膜を刺激していたが、紗名が叫んだのは、まれかが泣き出したからではなかった。
否。
それも原因の一つではあったが、むしろまれかの背後で急速に枯れていく桜が目に入ったからだった。
「ななな泣き止め、泣き止めまれか!!」
「うえええええ……!!!」
「わかった、悪かった、悪かったから、ちゃんと話すから泣き止んでくれ……ッ!!」
◇
今日はとにかく疲労困憊だった。
バイト先では無茶を言い出す客に、体調不良で休んだ人間のおかげで人数不足。
少ない人数でなんとかその場をまわし、ふらふらしながら、それでも弁当だけはきっちり手にして帰ってきてみると、まれかが自分の愛用するアコギを触っている始末。
――散々だ。
――いい加減にしてくれ。
そんな気持ちが紗名に混ざっていなかったかといえば、それは嘘になる。
いやまぁ、正直怒鳴るのはやりすぎたかもしれない。
あの剣幕で怒鳴りつけたなら、まれかが泣き出すのも仕方がない。
しかし。
しかし、だ。
なぜこんな話をするハメになっているのだろう。
自分の夢を、こんな、子供に話すことになるなんて。
すっかり泣き止んで落ち着きを取り戻したまれかと向かい合い、紗名はギターを愛しげに一度撫でてから、視線を少女へと向けた。
ゆっくりと口を開く。
学生時代から、ずっと、その夢を追っているのだと。
「俺さ、歌いたいんだ。
一人のシンガーとして、歌を歌っていきたいんだよ。
……ギターは、そういう俺にとって、大事なものなんだ」
紗名は、夢を追うためにこの『貧乏』な生活をしている。
歌が好きだという気持ちだけは、どうやったって捨てられなかった。
ギターと、その気持ちだけが、今の生活を根底から支えているものだ。
――けれど。
どうせ、この少女も馬鹿にするのだろう。
こんなことを真面目に話す自分を、あの、別れた彼女のように。
『夢ばっかり追って、ついていけない!』と、そう言ってこの部屋を出て行くのだろう。
嫁気取りの少女には、いい薬になるに違いない。
そうさ、出て行ってくれれば、せいせいするんだ。
「……」
「……まれか?」
ふと、どこかに飛んでいきそうになった思考が戻ったのは、そういえば少女の返答がないな、と思ったからだった。
返事のないまれかに、やはり呆れられでもしたのだろうかと、紗名は僅かに眉を寄せる。
押しかけられて迷惑だと思っているのに、自分に呆れて出て行けばいいと思ったくせに、こうして反応がないとなると僅かに寂しい気もするのは、結局のところ、俺も毒されているのかもしれない――と。
思い当たって、慌てて首を振った。
いや、だから、俺はそんな趣味ねぇって!!
断じてロリコンなどではない。
などではないのだ。
過ぎった考えに小さく首を振っていると、ついさっきまで黙り込んでいたまれかが紗名のシャツをガッシと掴む。
「な、なんだ!?」
「歌って!」
「はぁ!?」
「まれかぁ、サナの歌、ちゃぁんと聴きたいっ!
いつも、ところどころしか聴いてないもん。全部、ちゃんと聴きたいのぉ!」
「き、聴きたいって……」
予想外の反応に、紗名は戸惑ったように少女を見つめた。
普段からなんだかんだと興味を示す少女ではあったが、今は違う。その目に、きらきらと何かが宿っているような気さえする。
本気で聴きたい、と。
そう願っているのがわかって、紗名はほんの少しだけ体温を上げた。
「そ、そんな急に言われても、準備ってもんが……!」
「じゃあ、待つ! 準備が出来るまで、待つ! だからぁ、サナ……まれかに聴かせて?」
お願い、と目に星を湛えたまま言われては、紗名ももう無視は出来なかった。
数度ぱくぱくと唇を動かして、それから、ううん、と唸って。
よし分かった、と膝を打つまで約一分。
やがて、バラードがギターの優しい音色に乗って響きだすまで、ほんの少し。
◇
「サナぁ、大好きーーー!!」
「なんでそうなぐはぁああっっ!!!?」
どふぅっ! と。音にするならまさに『ドフゥゥッ!』と。
頭突きにも似た勢いで紗名の腹部にまれかが突っ込んでくる。
「お、おま、おまえは、あたまからしか、つっこむ、ことが、できんの、か……!」
げふっ、と腹部を押さえながら、紗名はコテンと横に倒れこんだ。
ふと出会った瞬間を思い出して――あの日も酷いタックルを食らったものだ――もしかしたらコレが走馬灯というものなのかもしれない、と。
なんとかギターだけは死守しながらぼんやりと遠くを見つめてしまう。
歌が終わった。
終わったのはいいが、目の前でパカーンと阿呆みたいに口を開いていたまれかが、やがてフルフルと震えだして。星を湛えていたはずの目は、どこか感激したように涙ぐんで。
自分の声にも歌にも、そこまで感激させるようなものがあったのだろうかと、どうしたんだと訝しげに眉を寄せた瞬間、あのタックルだ。
時々、この娘は俺を殺しに来た刺客なんじゃないかと思えるほど、俺のノーミソは平和だともさ。
「嬉しいっ! サナの歌、すっごく素敵なのぉ!」
きゃあきゃあと全身からハートでも飛ばしていそうな勢いで、まれかが倒れこんだ紗名に抱きついてくる。
まれかの後ろに見える外の桜が、なぜか季節はずれに満開になっているのは、頭突きを腹に食らったせいで未だに脳が酷く揺れているのだと、紗名は無理やりに思い込むことにした。
っていうか、思い込みたい。希望。
本当は、いい加減、ちょっぴりオマエのせいだろ、とまれかに言ってやりたい気もしたが、この際無視。
草木が枯れたり、挙句満開になってみたり、幼女一人家に抱えてるってだけでも疲れるのに、それ以外のことに頭を使いたくなかった。
――それでも。
「サナぁ、まれかねっ、まれかがサナの一番のファンになるの!
絶対だからっ! まれかが、一番なんだから! だからぁ、サナ、頑張って!」
そんな風に満面の笑みで嬉しそうに言われてしまうと、嫌な気分になるわけもなく。
「……お、おうよ」
うっかりそう答えてしまう紗名であった――。
◇
数分後。
「よぉし、サナに頑張ってもらうために、こうなったらまれかも一緒に働く!」
「いや待て働くな!? これ以上俺に変な噂を厚塗りするな!!?」
「え、う……じゃ、じゃあ、帰ってきたサナに元気になってもらうために、まれかぁ、アレ! やっちゃうんだからぁっ」
「アレ?」
「えへへぇ、『あなたぁ、ご飯にする? お風呂にする? それともぉ、ま・れ・か?』」
「だから俺はロリコンじゃねえええーーーー!!!!!」
どうやら彼垣さんちは、今日も一日、平和に終わろうとしているようだった。
- 了 -
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